最上義光歴史館

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 美しい山々に囲まれ、四季折々の豊かな自然の中で育まれてきた私たちのふるさと山形。城下町や商業都市として、さらには県都として、その時々の人々の営みや思いを刻みながら、わがまちは、連綿と栄えてきました。
 この山形の礎(いしずえ)を築いた人が斯波兼頼です。今年は、兼頼が山形に国入りしてから、650年の記念の年に当ります。斯波兼頼とはいったいどんな人だったのでしょうか。その人物像に迫ります。


「絹本著色 斯波兼頼像」(山形市指定有形文化財) 光明寺蔵 

【南北朝の動乱と若大将斯波兼頼の登場】
 斯波兼頼は、源氏の名族足利氏の流れをくみ、八幡太郎の名で知られた源義家から11代目の子孫に当ります。「斯波」の姓は、先祖の足利家氏が現在の岩手県紫波町を根拠地としたことによるものです。
 元弘3年(1333)に鎌倉幕府が滅び、後醍醐天皇による古代の天皇政治が復活しました。世にいう「建武の新政」です。しかし、それもほんのつかの間のこと。足利尊氏が反旗をひるがえし、わが国は南北朝動乱の時代に突入していきます。
 建武3年(1336)ころに、まだ10代前半であった斯波兼頼が、北朝勢の一方大将として、奥州の太平洋側の戦場に姿を現わします。その後兼頼は、父家兼とともに伯父斯波高経のいる北陸方面に移り、越前(福井県)に逃れていた南朝勢の大将新田義貞の軍勢と対峙しました。
 やがて新田義貞は越前藤島で討死します。義貞の首級をあげたのは、斯波兼頼配下の氏家重国であったといいます。彼はこの時、義貞が佩(は)いていた鬼切・鬼丸という源平重代の太刀二本を、高経のもとへ差し出しています。そのうちの鬼切が、どういうわけか兼頼の手にわたり、以後最上家の家宝となったと伝えられています。


「太刀 銘 安綱 (号鬼切)」(重要文化財) 北野天満宮蔵 

【出羽北朝勢の総指揮官として山形へ入国】
 延文元年(1356)に、兼頼は奥州大崎(現在の古川市近辺)から出羽最上郡山形に入部しました。正式な役職名はハッキリしませんが、按察使(あぜち)将軍または羽州管領(探題)といわれています。当初は寒河江大江氏をはじめ、南朝勢力が根強く残っていたようです。
 では、山形あたりの様子はどうだったのでしょうか。当時の社会状況を物語る貴重な史料が、岩波の石行寺に伝えられています。その『大般若経』の奥書には、次のような記事があります。長引く戦乱による民衆の飢えと渇きや、諸国に疫病が流行し、身分の上下なく多くの人が死んでいる悲惨な状況などです。そこからは、世の乱れを嘆き、信仰にすがってひたすら平和を祈念する、私たちの祖先の姿をうかがい知ることができます。
 入部した翌年の延文2年、兼頼は山形城の築城を始めます。山形を政治の拠点とするためでした。その位置や規模については明らかではありませんが、現在の二の丸内あるいはその外の北東区域であろうと見られています。

【政治家として人間としての兼頼】
 将軍足利尊氏や、幕府の中枢にあった伯父斯波高経の権威を背景に、兼頼は南朝方の諸将や豪族をしだいに味方にしていきました。
 兼頼の事業で最も目立つのは寺社の復興です。立石寺根本中堂・宝幢寺・千手堂の吉祥院・六椹八幡神社・熊野神社をはじめとして、多くの寺社が兼頼によって修復再建されたと伝えられています。
 こうした宗教政策によって、民心の安定を図り、また縁組などをとおして、できるだけ武力を使わずに、北朝・室町幕府の勢力を拡大していきました。兼頼が山形・天童・寒河江など、いわゆる現在の村山地方の一部を支配下に治めるまで、実に15年あまりの年月がかかっています。
 晩年の兼頼は、高名な遊行上人他阿元愚(たあがんぐ)の布教に感動して、自ら時宗の僧となり、其阿(ごあ)の法名を受けました。家督を嫡子直家にゆずり、城中に道場を開いて念仏三昧の余生を送りました。この道場が後に光明寺となります。
 南北朝の戦乱と足利一族の抗争という、修羅の時代を生き抜いてきた兼頼。康暦元年(1379)、兼頼は一心に阿弥陀仏を念じて浄土に往生しました。山形在住23年、享年64歳でした。
 兼頼の子孫は、267年間13代にわたり山形を治め、11代最上義光の時に57万石の大大名になりました。彼は現在の山形市の基盤をつくりました。だが、元をたどれば、山形の街は斯波兼頼という名将・名君によって開かれたことを、未来の山形のためにも、私たちは忘れてはならないでしょう。

■執筆:布施幸一氏 「広報やまがた 平成18年9月1日号」より転載


◆◇◆名刀「東禅寺正宗」流転◆◇◆            

 前号では、「最上家浪人作のベストセラー」と題して、寛永19年(1641)に発刊された『可笑記』なる仮名草子を紹介したが、この中の巻第五の二十段に、酒田生まれの著者斎藤親盛が、父親(筑後守広盛)から聞いた話しとして興味深い記事がある。
 それは、著者の母方の祖父東禅寺右馬頭勝正の武勇伝である。これによって親盛は、一時庄内方面を支配していた東禅寺氏の血脈であったことが分かる。だが、彼の略伝については他日に譲ることにし、今回は右馬頭の悲壮な最期とその時に佩いていた太刀の行方について紹介したい。
 天正16年(1588)八月、世に言う「十五里ヶ原の戦」が起こった。ここは現在の鶴岡と大山の中間、千安川東岸辺をいう。この合戦は、東禅寺氏の庄内勢を主力とする最上義光方に対して、上杉景勝の後援を受けた越後村上城主本庄繁長の庄内争奪戦であった。最上方の最前線で戦ったのが、東禅寺筑前守義長と右馬頭兄弟、それに義光から派遣された草苅虎之助たちである。
 圧倒的優勢を誇る本庄勢によって庄内勢はまたたく間に壊滅した。筑前守と草苅の二将は討死。残った右馬頭は単身繁長に迫り、真っ向から恨みの太刀を再三浴びせたものの果たせず、逆にずたずたに斬られて壮絶な最期を遂げる。『可笑記』は彼の享年を43歳としている。
 この時右馬頭の佩いていた太刀が、相州正宗によって鍛えぬかれた「二尺七寸大幅物、ぬけば玉散るばかり」の名刀である。繁長は「星甲のかたびん二寸ほど切り落とされ、わたがみ(肩上)へ打ち込まれた」が、事なきを得た。彼はその太刀を分捕り自分の愛刀にした。本来ならば、「東禅寺正宗」と呼ばれるはずであった名刀が後に名物「本庄正宗」となる、正に�爐修了�″であった。
 さらに『可笑記』は続ける。この正宗は、その後繁長から景勝へ、さらに秀吉を経て家康に渡った。その間に刃長二尺三寸ほどに摺上げられ(短くされ)、現在は紀州徳川家にあるようだと。また、出羽や越後の古老は、右馬頭の最期の働きを多分に見聞しているだろうから、これ以上は詳述しないと。この一節から、現在は浪人の身でも出自は高位の武家の血を引くという誇りと、惰弱に流れつつある当時の武家に対する彼一流の批判が見て取れよう。
 ともあれ、八代将軍吉宗の時代になって、この刀は名物「本庄正宗」として登場してくる。『享保名物牒』なる名物刀剣の台帳には、刃長が二尺一寸五分半、東禅寺右馬頭が本庄繁長の甲の鉢を割ったためか刃こぼれある、と記されている。また、『名物牒』は移動経路についてもかなり詳しく、『可笑記』との違いを見せている。
 『名物牒』などの記録によると、「本庄正宗」の流れはおおよそ次のようになる。この正宗は、右馬頭から繁長を経て一旦は景勝の手に渡った。ところが景勝から繁長へ戻され、今度は豊臣秀次へ。そして秀吉へと移り、島津義弘が拝領し、さらに島津家から家康へ献上、家康から駿河頼宣(後の紀州徳川家)に分与された。その後、紀州徳川家から四代将軍家綱へ献上されている。
 この正宗は、明治以降も徳川宗家にあって三種の神器のように大切に扱われ、昭和14年に旧国宝に指定されたほどの名刀であったが、同20年12月に進駐軍によって持ち去られたまま未だに行方知れずという(『武将とその愛刀』佐藤寒山著)。
 このような流転の名刀正宗を佩き、戦場に散った東禅寺右馬頭。彼が存命であったならば、おそらく最上家では屈指の人物として活躍したことであろう。また、『可笑記』の著者の胸中には、そうした人物を祖父に持つ家門の誇りを垣間見る思いがする。

■執筆:渋谷武士「歴史館だより��14/研究余滴7」掲載原稿(完全版)


宮本武蔵の養子・伊織は最上家浪人の子か

 剣聖宮本武蔵の養子の一人に有名な伊織がいる。彼は15歳の時に、播磨国明石城主小笠原忠真に近習として仕え、弱冠20歳で家老になったという。その後豊前小倉15万石小笠原家において禄高4000石という破格の出世を遂げている。もちろん、養父武蔵の後押しもあったろうが、それにしても、彼はよほど才能に恵まれていた人物と言える。
 さてこの伊織だが、吉川英治の原作『宮本武蔵』では三之助という名で登場する。そして「最上家の浪人」として祖父三沢伊織が出てくる。また、三之助は武蔵の恋人お通の弟という、いかにも面白い筋書きである。
 この小説の材料になったのは、主として武蔵の伝説で有名な『二天記』である。その中では、巌流佐々木小次郎に関する記載に次ぐほどの紙幅を費やし、武蔵と伊織(本書では無名の童)の出会いが語られる。
 物語は武蔵が出羽の正法寺原というところで、泥鰌取りの童に出会うところから始まる。紙面の都合で話の内容を紹介できないが、この話の終わりに興味深い付記があるので、その原文を上げておこう。
 
 伊織父は正法寺村の者と雖も、本羽州最上家の浪士にて、此処に住みて自然に  農夫となれりとも云へり、伊織武蔵養子と成、宮本を号す(下略)

 この一節が、伊織の出自を「最上家浪人の子」とする根拠になっていた。だが、現在はこの記述そのものが疑問視またはデタラメとされているのだ。
 そもそも『二天記』なる書はというと、肥後藩筆頭家老松井家の家臣豊田正剛の書留が原典。それに子の正脩が『五輪書』等の記実を加え、宝暦5年(1755)に『武公伝』としてまとめたものを、さらに正脩の子景英が安永七年(1778)に改めて一書にしたもの。武蔵没年(正保2年・1645)から百年余りが経っていたため、彼に関する伝承は紛然として、真偽のわからない風聞が飛び交い、過大評価やこじつけも多かった、と編者の景英もみずから奥書に記している。
 ところが、昭和40年代になって、伊織の出自を明らかにする史料が出てきた。それは彼が、郷里の氏神である泊神社(兵庫県加古川市)に奉納したとされる棟札である。某かに書かせたものであるが、記録によれば、伊織は村上源氏の流れを汲む赤松氏の末孫田原氏の出であるという。
 その棟札は、武蔵没後比較的早い時期の承応2年(1652)に成立した史料であり、且つ氏神の社殿造営に伴うものとして、やはり信頼のおけるものであるとする説が有力である。一方、棟札の冒頭に見る村上源氏云々の書き方は、個人顕彰の意味合いが強く、必ずしも事実を記したものとはいえない、と疑問視するむきもある。
 いずれにしても、伊織の子孫に伝わる『宮本家系図』等の史料に基づけば、彼は慶長17年(1612)播磨国印南郡米堕村(兵庫県高砂市米田町米田)の田原久光の次男として出生。武蔵は久光の実弟と言うから、伊織は歴とした武蔵の甥ということでほぼ定説化している。また、このことによって武蔵の生誕地は美作ではなく、播磨とする説が有力になってきている。ただ、棟札には、伊織が元和元年に小笠原家に仕えたとあり、生年が正しければ、彼は11、2歳の時となる。この点は冒頭の15歳と齟齬をきたす。
 それにしても、『二天記』の童(伊織)は、なぜ「最上家」浪人の子なのであろうか。また、これが全くの虚構ということになるのであろうか。筆者は『二天記』を何度か読み返し、且つ多くの関係書を渉猟したが、なお釈然としない。さらに些か私見もあるが、残念ながら紙数が尽きた。※『二天記(肥後文献叢書第二巻)歴史図書社 昭和46年』

■執筆:布施幸一「歴史館だより��11」より

最上氏と山寺立石寺

一 立石寺の漆塗り和紙皿
 2002年12月2日(月)『図説山形市の歴史と文化』執筆のために山寺立石寺へ写真撮影に伺った。山形市社会教育課の方・山形美術館加藤千明氏・高野山の日野西真定氏など、総勢10人でおじゃました。
 予定通り写真は撮れたのであるが、その中で住職清原浄田さんが出してくれた寺宝のなかに、驚くべきものもあった。
 それは仏事の際に使用する皿である。素材は紙でできていて、その上に赤漆を塗り、内側には黒漆で蓮の花を形作った模様が描かれているもので、全部で50個あった。50個全部の底には次のように記されてあった。

「  惣社徳蔵寺寄進
   箕輪東光院貢献  五十枚之内
   天正九(巳辛)八月吉日       」
 
 天正9年(1581)に箕輪光院の弘賢が、惣社徳蔵寺に寄進したものであることがわかる。それがいつの時期かに出羽立石寺に運ばれてきたことになろう。しかも寄進された50個がそのまま残されているのである。
 惣社は上野国の惣社であり(群馬県前橋市元惣社町)、隣接して徳蔵寺(功叡山放光寺ともいう)がある。この寺は天台宗の寺院で、文明3年(1471)足利氏の祈願寺として建立された(中世一宮制研究会編『中世一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000年)。惣社の旧社地は現在地の北西500�辰砲△蝓�永禄9年(1566)武田氏の兵火にあい焼失したのを、元亀年間(1570〜73)現社地に再建したものである(『別冊歴史読本 日本神社名鑑諸国一宮』新人物往来社、2002年)。
 上野国の惣社とすぐわかったのは、立石寺住職69世清原浄田氏がこの皿の底に記された寺名を見てすぐ「この名前は群馬県にある」と指摘されたことによる(群馬県前橋市)。その眼力たるやさすが、常人の及ばざるところ、感服する次第である。寺社間における関東と出羽国との交渉については、慈恩寺(寒河江市)の例に見られるように頻繁であること既に周知の事実である。
 さて箕輪であるが、現在の群馬県箕輪町に位置する。榛名山の扇状地であり、西明屋北部の地形が蓑の形をしていることからくる地名である。同町西明屋にある箕輪城は長野氏が築城した山城である。その後武田氏と後北条氏が取り合いをした西上野の中心的な地位を占める重要な城となっていく。近世には井伊直政が城主となるが、慶長3年高崎城(高崎市)に移ると廃城となり、寺社もかなり共に移転したようである(『日本地名大辞典 群馬県』角川書店)。残念ながら東光寺については今のところよくわからない。
 いずれにしても中世の貴重な史料でありしかも漆芸の面からもとても貴重な物であることはまちがいない(加藤千明氏のご教示による)。山寺の寺宝は、まさしく宝の山というべきである。

二 最上氏と立石寺の関わり 
 この最上氏と立石寺は代々深い関係を有している。延文元(正平11、1356)斯波兼頼が羽州管領として入部すると、根本中堂を再建したことからはじまる。山寺のある位置が、山形城の鬼門鎮護の位置にあることに起因するとされる。
 さて表は両者の関係を現している。永正17年(1520)伊達稙宗が天童・高�戮鮃兇瓩討�たときに、山寺の衆徒らが伊達方に加担したことを恨んで、大永元年(1521)天童・成生両氏が山寺に攻撃をして灰燼に帰してしまう。「寺中家無一十余年、其間堂社破」の状況にあった山寺を最上氏らの援助などによって再興していく。天文3年に立石寺日枝神社が修造されるが、旦那の一人「山形殿」は最上義守である。同じく焼き討ちによって不滅の法燈が焼失してしまったため、天文12年(1543)立石寺の一相坊圓海は、4月に比叡山に登拝し、6月に根本中堂の燈火を分火してもらい、海上を輸送した後に立石寺に納火する。この時助成したのが義守の母であるが、義守は中野義清の次男とされるので義清夫人ということになる。日枝神社の修造もそうであるが、山寺の復興を最上宗家だけでなく一族の総力を挙げて成し遂げようとしている姿がうかがえる。この燈火は元亀2年(1571)に信長の焼き討ちにあって焼失した比叡山根本中堂に、今度は立石寺側が天正13年に登拝して納めることになる。
 永禄13年義光が願文を献じて、本懐を遂げたあかつきには、「他宗住居」を認めないことを誓っている。「本懐」については、従来から義光の家督相続のことを意味していると解釈されている。父義守との父子相克があって、家督相続に暗雲が立ちこめている状況下で願文が書かれたことになる。自分の将来を託すほどに山寺への崇敬が厚かったことになろう。それにしても山寺内部の対立抗争などについても、よく知っていたことには驚く。天正14年義光は常燈油田を寄進する。この時自らを「高楡小僧丸 義光」と称している。「高楡小僧丸」という呼称については、義光が高楡(天童)に居住していたからこう称したのだという解釈もあるが、どうであろう。高楡には、高楡城・石仏寺・専称寺(後に願行寺)などが存在して、確かに重要なところではある。しかしながら天正12年(1584)いわゆる天童合戦に勝利して、領地を現在の村山・最上両地域に拡大し、さらに庄内まで触手を伸ばしている段階で、高楡に居住することは考えられない。家督を相続する以前の段階であればあり得ないことではないが。それにしても何故「高楡小僧丸」と名乗ったのか。他にも天正17年2月20日、最上義光預置状(青木文書)で、義光は「谷地小僧丸」と名乗っている。いずれも今後の検討課題ではある。
 その後近世に入ってから、慶長4年義光は、立石寺納経堂を修造している。慶長13年には楯岡光直(義光の弟)が、義光の長寿を祈願して立石寺根本中堂に鰐口を寄進している。
 このように最上氏が山寺を崇敬し、保護するという関係は、最上氏が改易されるまで続いていった。

執筆:伊藤清郎(山形大学教育学部教授・文学博士)/「歴史館だより��10」より



◆◇◆義光連歌の語るもの◆◇◆

 最上義光は古典文学に関して深く豊かな教養をもち、すぐれた感覚で見事な連歌を物した。こうした義光を京洛の縉紳が高く評価したことは、同席連衆の顔ぶれからもあきらかである。
 ところで、われわれの歴史理解は、とかく日本人の書き残した史料に頼りがちだが、16C末〜17C初頭、すなわち義光の時代ともなれば、ヨーロッパ人による文献記録も大いに参考になる。
 たとえば古来日本人の理念とされてきた「文武二道」について、ジョアン・ロドリゲースは、「この両者はいずれも国家にとってきわめて必要なものであり、あたかも車が動くための両輪、鳥が飛ぶための両翼のようなものだと言われている」と、当時の日本人の価値観に敬意を込めて書き記した。(以下引用は、大航海時代叢書X『日本教会史・下』〈岩波書店・/1970刊〉による。)
 その「文事」の重要な部分をなす「連歌」についても、彼らの見方が参考になる。
 「(文事つまり芸と能のうち)能は学芸を意味し……高官、武家貴族および公家貴族によってそれ自体名誉とされ、重んじられ、行われている」とし、十種の能を挙げた。
 その第八が連歌である。
 「多くの人々が一緒に集まって、ある主題なりある詩句〔発句〕なりにもとづいて作るもので、各自は前の句に関連させて自身の句を作って続けてゆく。これは貴人の間ではよく行われることで、多大の理解力と判断力を要するものである。」と、「能」十種中最も高度なものと彼は見ていた。
 現在のわれわれは、当時の大名や貴族なら連歌など常識的な嗜みだったかのように思いがちだが、実際は誰も彼も堪能というわけにはいかなかったのである。清雅幽玄の連歌世界に遊ぶことは、天分に恵まれ、古典文学に通暁した者にのみ可能だったことを、ロドリゲースは示唆する。
 そして共通の教養を身に付けた人間同士……大名、公家、宗教人、豪商らは、連歌を媒介として独特な社交世界を形成していたらしいのだ。
 数多い最上義光連歌は彼の人間そのものの表現であるが、同時に桃山文化界の思いがけない一面を語りかけているような気がする。

執筆:長谷勘三郎「歴史館だより�癸后晋Φ耆湘�2」より

山形藩主・最上家親の最期を正す 
 −ある一学僧の日記を検証して−

 慶長19年、(1614)正月、義光を病で失った後の駿河守家親の襲封は、必ずしも平穏な藩内情勢のもとで行われたものでは無かった。しかし、義光以来の徳川家との親密さに加え、家親自身も若年より家康に近侍しており、その友好な結び付きから家親の襲封には何らの支障もきたす事なく、もの年に起きた藩内抗争についても、幕府は疑惑の目を向けることは無かったのである。
 その年の夏は越後高田城普請手伝いを勤め、続いて大阪の陣では江戸城留守居役に任ぜられる程に、幕府の信任を得ていた。この家親の元和3年(1617)3月に至るまでの、三年余の藩主時代を評価するには、それを語る程のものも無く、家親と言えばその不可解な死因のみに凝縮され、喧伝されてきた感がある。
 曰く「鷹狩りの帰路、楯岡甲斐守邸で饗応の後、帰城すると苦しみ出し絶命した(諸家深秘録)」、また「能楽を楽しみ食後に腹痛をおこして死んだ(藩翰譜)」、さらには侍妾に寝室で刺殺されたとか、甚だしきは山野辺義忠が持参した饅頭を食べて悶絶、死骸は早々に灰にされたなどと、家親の人格を全く無視するような、惨めな評価を受けてきたのである。
 このような家親につきまとう数々の変事が、どのような経緯で形づくられてきたのか、ここで解明するのは困難である。しかし、ここに来てその従来の悪評を根底から否定し、家親の面目を晴らすことになった、家親と親交のあった一学僧の『日記』に巡り会えたのである。
 竜派禅珠(寒松と号す)は天文18年(1549)に生れ、寛永13年(1636)88歳で没した臨済宗に属した学僧である。埼玉県川口市(当時の芝郷)の長徳寺の住持で、慶長7年(1602)に徳川家康の命により、足利学校の庠主となり、両所の教育と寺務とを勤めた人物である。諸学問に精通し、将軍家や、幕府要人をはじめ諸大名とも交流を持ち、特に卜筮(占い)に通じていたから、一年間の展望を占う年筮を献ずるを常としていた。現在、寒松日記は欠年の箇所もあるが、和様漢文で簡潔に書かれており、所々に見える家親に関わる記事の中から、元和3年(1617)の江戸での家親と子の源五郎の動きから、特に死亡日とされる3月6日前後の記事を拾い、疑惑に満ちた死因を払拭し、家親の名誉を回復していきたい。

(イ)正月六日 「未だ暁けず、芝阜を出て江戸に入る」
 寒松は将軍たちへの年筮献上のため、新年早々芝村を出て江戸に入った。

(ロ)同月十日 「晴れ登城する、炉辺に至り年筮を献ず、城より帰る時、駿州(家親)の第(邸)に往く、昨夜、使者口上に齟齬(くいちがい)せし故、空しく帰る」
 寒松は登城して将軍秀忠に年筮を献じ、続いて家親を訪れる。しかし、何らかの手違いで会えずに帰った。この日、寒松は老中の青山忠俊・本多正純・土井利勝などにも会っていた。

(ハ)同月一三日 「駿州にて晨炊す」
 この日、寒松は早々と家親を訪ね朝食を共にした。恒例の年筮を献じてのことであったろう。家親が新年を江戸で迎えていたことが判る。そして、旧知との親交を重ねながら、一週間後に芝村に帰っていった。

(ニ)二月七日 「継いで道閑の所よりも贈り来る」
 道閑は寿庵とも称し、学問・医術に精通した人物で、度々登場している。義光死去の際の家親下向にも従うなど、家親親子に近侍していたことを示す書状もあり、この道閑の動向が家親の所在確認に、貴重な指針となっている。二日前、寒松はこの年の二度目の江戸入りを果たす。日記は例により各層の人物との接触を伝える。この道閑の贈物は最上家からの物ではなかったか。

(ホ)三月二日 「道閑、餅酒を贈り来る」
 家親の死を数日後に控え、道閑より再び贈物があった。この日に近臣の道閑が江戸にいたということは、それは家親の在府を示す、貴重な記録の一つであろう。この日、寒松は安藤重信・本多正純・土井利勝などの要人達と会っている。しかし、寒松が芝村に帰る12日までの間、家親の進退については一言も触れてはいない。ここに家親が病床に伏したことを裏付ける、将軍からの見舞状がある。
  同三巳(元和3年)
  病気之節
  賜御書
  所労之由無心許、能々養生肝要候、猶酒井備後守可申候也、
  三月 秀忠(黒印)
  最上駿河守とのへ
 この見舞状を見ても、将軍お膝元の江戸の真ん中で、藩主殺害などという途方もない出来事が行われたとは、とうてい考えられないのである。将軍から見舞状を受ける程に、秀忠からの信任は厚かったのである。

(ヘ)同月一二日 「最上の疾病を筮ひ、翌(日)侶庵を遣す」
 寒村はこの在府中に家親に会わずに帰路についた。途中、悪天候に悩まされながら蕨宿に着く。寒松は家親が既に病に倒れていたことを知っていたのだろう。それを気遣ってか占いをたて、親友で医師の侶庵を家親のもとに遣わした。おそらく、占いに悲観的な結果が出たからであろうか。家親の死去日(6日)が事実ならば、寒松が出立するこの日まで、未だ公にされず伏せられていたのか、それとも寒松には知らせがなかったのか。その後、江戸に入った侶庵から、最上家の内情についての報告は受けていたであろうが、3月中の日記は何も語ってはいない。秋田藩士梅津政景の3月18日の日記には、4日の晩に俄かに患い、6日の四ツ時に亡くなったと記している。

(ト)四月廿日 「甲寅 小月中駿州の訃」
 家親の死から四十数日の後、足利学校の寒松のもとに、その死が知らされたが、日記は簡潔に伝えるのみである。しかし、この時期にはじめて家親の死を知った訳ではなかろう。この日、はじめて最上家より正式な知らせがあったのではなかろうか。

(チ)五月一六日 「雨 最上源五郎より飛脚来る、寿庵(道閑)・侶庵の文相添える」
 5月3日に家督を継いだ源五郎義俊より、寿庵・侶庵の文を添えての飛脚が来た。義俊襲封の挨拶を兼ね、父同様の交誼を願ってのことであったろう。二人の文には家親死後の最上家の現状が述べられていたであろう。以後、寒松との関係は義俊の代まで持続したのである。
 
 最期に思うには、家親は春の一日を能楽で楽しんでいたが、春の陽気に食中りで倒れたのではなかろうか。江戸の真ん中で何か変事でも起こせば、隠し通すことは困難である。まして将軍の見舞状もあるように、家親変死説は受け入れられず、単に急死として扱うべき問題である。従来の不可解な説の一つでも事実であれば、その時点に於いて大名の地位を失っていたであろう。寒松日記は、従来の説を根底から覆す好材料として、姿を現してくれたのである。

(執筆:小野末三/「歴史館だより��11」より)