最上義光歴史館
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見学の裏ワザ
最上義光歴史館
〒990-0046
山形県山形市大手町1-53
tel 023-625-7101
fax 023-625-7102
(
山形市文化振興事業団
)
メモ
「最上義光の肖像画のことども」 布施幸一
最上義光の肖像画のことども
ここに一枚の肖像画がある。最上義光の画像といわれているもので、明治25年に出版された『山形県史談』なる書に掲載されている。その凡例には、「本書ニ載セタル書画ハ凡テ正確ナル画像及ビ木像ニヨリテ転写セルモノナリ」(傍点筆者)とあるから、何か元になる画像があったらしい。
小袖に小紋(何の模様かは不明)散らしの直垂を着て、烏帽子をかぶり、小刀(いわゆる腰刀)を指し、右手に扇子(末広)を持ち、高麗縁と見られる上畳に正座している。
その面貌は、やや面長、眉毛太く、一点を見つめているかのような目、鼻筋がとおり、口は小さく、頬・顎・口辺にひげをはやし、なかなかの男ぶりである。一見して気品が感じられる武将像である。
現今ややもすれば、これが義光の肖像として一人歩きしないわけでもない。しかしである。この図あるいは原図が粗雑であるかどうかという議論はさておいて、有職故実や風俗史等の専門的視点から考証を試みれば、本肖像画にはいくつかの問題点がある。
紙面の都合上、今ここで詳細に言及できないが、大まかには次の諸点が上げられよう。
先ず第一に、この時代に武将が威儀を正して座るには、正座でなく胡坐が基本であること。同時代の坂紀伊守像(最上義光の重臣/清源寺蔵)を初めとして、当時の武将の肖像画を見れば明らかである。ちなみに、坂像に見る上畳が高麗縁であり、義光像のそれには菱形の中の黒丸が省略されている。
山形県指定有形文化財 「紙本著色 坂紀伊守画像」 山形市・清源寺
第二は頭に被っている烏帽子である。侍従(従五位下)以上の料は直垂に風折烏帽子となるが、本図に見られるそれは立烏帽子に近い。風折にしては頂点が後方に折れて不自然である。左右どちらかに折れるのが風折である。本図に描かれた烏帽子は、兜着用の際の捼烏帽子(引立烏帽子)にも見えるが、絵巻や他の絵画資料には見られない異形のものである。
第三には直垂の紐である。袖先の紐、いわゆる露はやや太線で描き込まれているのは認められるものの、胸紐は短くしかも結目が粗雑である。直垂の胸紐は布の丸打ちで、一般的には“みぞおち”下辺まで伸びて二つ結びとなる。
第四には腰刀である。柄の部分を出鮫とし、縁と縁頭と目貫をいれたいわゆる式正の料であるが、鍔が付いているようにも見える。仮に、鍔が付いているとすれば、これは鍔のない合口拵とするのが正しいことになる。
以上のことから、本肖像画を最上義光時代のものと認めるには無理がある。もし『山形市史談』にいう原画を転写したとすれば、原画の昨期はどう見ても江戸後期を溯らないであろう。と同時に、武家故実をよく知らない絵師や依頼者像がひとりでに浮かび上がってきそうである。
しかしながら、面貌は名門の近世大名に相応しく見える。それを生かし、当時の時代考証を踏まえつつ「平成の義光肖像画」を復元することもあながち無駄ではない。かえって夢があって良いのではなかろうか、などとあれこれ思い巡らしている昨今である。
■執筆:布施幸一「歴史館だより�癸魁廚茲�
最上義光歴史館
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鉄砲の威力
◆◇◆鉄砲の威力◆◇◆
ヨーロッパ渡来の鉄砲が組織的集団的に使われた嚆矢は、織田信長の長篠の戦い(1575)とされているが、慶長五年(1600)の長谷堂合戦でも鉄砲はフルに活用された。
義光は、長谷堂への応援として「小筒足軽二百余人」を派遣したと『羽源記』にあるが、総数がどれくらいかははっきりしない。
伊達政宗が山形に派遣した援軍には「鉄砲四百五十四丁」が含まれていたと、水沢の留守家文書には書いてある。到着が遅れたといえども、この加勢が最上勢を元気づけたことはいうまでもあるまい。
直江兼続は、長谷堂城を攻めあぐみ、主君景勝に兵力増員を要請する。景勝は直属鉄砲隊500のうち、300を派遣したらしいと、これは9月26日付け伊達政宗の手紙に、敵方の捕虜から聞いた話として書かれている。
当たり前かもしれないが、この時代ともなれば、鉄砲こそ戦いを左右する最重要武器だった。
10月1日の上杉軍撤退の時は、上杉鉄砲隊が華やかに活躍する。
「種子島の中筒鉄砲」の達者な兵を50人ずつ4組に分けて山中にひそませ、追撃する最上兵に雨霰と撃ちかけたという。これに辟易してひるんだ隙に、上杉軍はさあっと引き退く。見事な戦法だったらしい。
陣頭に立った義光は、この時兜の真っ向を撃たれた。義光の側近、堀喜吽斎は、左肩先から右胸まで射ち抜かれて即死した。志村籐衛門も主君の身代わりのごとくになって、戦死した。
上杉方、前田慶次の、赤柄大身の槍を振るっての奮戦は有名だが、実際は鉄砲にはかなうまい。新影流の剣豪上泉泰綱といえども、部下が鉄砲で追い散らされて独りとなっては、腕の見せようもないだろう。
ところで、こんな言い伝えが長谷堂にはある。寄せ来る上杉の軍勢を山上から俯瞰射撃しようとすると、鉄砲にこめた弾丸がコロコロと抜け落ちてしまって、なかなかうまく射撃できなかったという話である。
これなどは旧式の鉄砲だったのであろうか。それとも、根も葉もない民衆の語りぐさにすぎないのだろうか。
■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより��10/研究余滴3」より
最上義光歴史館
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知識人たちの戦い
◆◇◆知識人たちの戦い◆◇◆
慶長5年(1600)秋の出羽合戦と言えば、「長谷堂合戦」として知られているが、このとき戦った最上・上杉両軍のなかには、すぐれた知識人たちが加わっていた。
最上義光は桃山文化華やかなりし京都において、古典に通暁(つうぎょう)した連歌作家として遇されていた。
畑谷城を死守して、300余りの城兵もろともに討ち死にした江口五兵衛光清、上杉鉄砲隊の乱射を浴びて、主君義光の馬前で壮烈な最期を遂げた堀喜吽。この二人は義光に扈従(こじゅう)して京都文化界のサロンにしばしば出入りし、公家や連歌師らとともに多くの連歌を巻いた。
一方、上杉軍2万を率いて侵攻した直江兼続もまた、妙心寺の南化和尚の賛辞にくまなく語られるごとく、世に知られた好学の士であった。文雅風流の席に臨んでも、和漢・漢和の連歌数巻に名を残している。
兼続に従って出征し、赤柄の槍をふるって奮闘したと伝えられる老武者、前田慶次郎も豊かな教養と繊細な感覚を持った文化人であった。『前田慶次道中日記』一巻は、その人柄を如実に物語るものだ。
ところで、在京時の義光参加連歌の連衆と兼続のそれとには、数名の共通メンバーが見られる。
里村紹巴、昌叱、友益。これら専門連歌師のみならず、五奉行の一人前田玄以、細川幽斎など、著名な文人政治家も共通参加者である。
義光と兼続が一座したことはないにしても、これらの人々を通して互いに文名を知り、尊敬しあっていた可能性も十分にある。
そういえば、いろんな文献資料をみても、敵対した両者が相手をけなした言辞を見出すことはできない。
長谷堂合戦の後、義光は、兼続の戦いぶりを絶賛した。
「直江すこしも臆せず心静かに陣払いし、勝ちに乗りたる味方を数多討ち取り……誠に景虎武勇の強み、今に残りたり」(最上記)
賞められた兼続、称賛を惜しまなかった義光、いずれも傑出した知識人だったのだ。
■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより��11/研究余滴4」より
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中野義時は実在したか?
◆◇◆中野義時は実在したか?◆◇◆
史実を確定するためには、信ずべき史料に拠らねばならないことは当たり前の真ん中だが、最上家の歴史ではしばしばこの当たり前が忘れられる。
典型的な事例が兄・義光による「弟・義時討滅事件」である。
『山形市史』『山形県史』を参考に概略を述べれば、次のような事件だとされる。
二人の父・義守は、兄を嫌い弟を偏愛した。義守は家督をだれにするかで迷ったが、結局は兄を山形城主に、弟を中野城主とした。弟は不満で兄を調伏しようとした。これが暴露して義光の怒りを買い、その攻撃を受けて天正3年(1575)に滅亡した。
これを皮切りに、義光は「残忍とも言える態度で」つぎつぎに一族を攻め滅ぼし、領地拡大に突き進むこととなった……というのである。
ところが、この「はなし」には、史料がないのである。
『最上記』『奥羽永慶軍記』など、私が読んだ14種の軍記物のどれにも書かれていない。これら稗史類は面白く作る傾向があるもので、もし事件が風説としてでも存在したのなら、必ず取り上げられるだろう。14本全部が取り上げていないのは、風説さえなかったことの証拠だといってよいだろう。
また16世紀後期の史料として重視される伊達・上杉の文書や、『治家記録』のような編纂物にも「義時」の名は只の一回も出てこない。
参考に系図12本を点検したが、「義時」を掲げたのはわずかに菊池蛮岳旧蔵本だけ。
要するに、16世紀とそれ以降2世紀の文献資料によっては、「義時」の存在が確認できないのだ。その名が初めて現れるのは、仙台市青葉城資料展示館の大澤慶尋氏指摘のとおり、18世紀末に編纂された『稽補出羽国風土略記』らしい。
たった一つの、年代も遥かに離れた文書を拠り所に、義光による中野攻撃を確定的史実であるかのように公史が取り上げるのは、はたしていかがなものだろう。他県の歴史書までが「義時事件」を取り上げ、義光の人間性を云々している現況を見るにつけても、歴史研究の基本を忘れてはならないと自戒するところである。
■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより��12/研究余滴5」より
最上義光歴史館
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最上家浪人作のベストセラー
◆◇◆最上家浪人作のベストセラー◆◇◆
「へ」と申す物ハ、音ありて、手にもとられず、目にもみえず、色にもそまず、火にもやけず、水にもぬれず、きってもきられず、かくてハ、元来なき物かと思えば、腹中のときにより、いくつもある物にて候(そうろう)
初手から、屁(へ)の話とはいささか唐突で胡散(うさん)臭い。でも、これはさる人が、高僧との問答の結末に得心して出たことばなのだ。話しのいきさつはこうである。
この男、仏に具わる三つの徳を知りたいと高僧を訪う。そこで先ず、「金剛(こんごう)の正体というものを考え出してみよ」とその僧にいわれる。とりあえず彼は「藁(わら)」と答える。金剛というはき物(金剛草履)が藁でできているから、というわけだ。高僧はかすかな笑みを浮かべ、それを打ち消す。そして、上記の文脈のように「金剛の正体というハ、音ありて(中略)なき物かと思えば、元来、その時にしたがって、あるもの也」と教える。
男は「難しい問答だなあ・・」と思いながら、ひとまず高僧のもとを辞す。ところが、山門近くまで来て突然、男の脳裏に何かがひらめいた。そして、高僧の所へ急ぎ立ち返り、「ただいま教わった金剛の正体は、へであるに違いない」という。高僧は片腹痛く、可笑しさをこらえ、「その心は」と問う。そこで出た答えが、冒頭の一節である。
「へ〜っ」と、ついダジャレを飛ばしたくなるところだが、彼は落語に出てくる与太郎ではない。本文の作者の意図は、実はちぐはぐで分かりにくい禅問答を揶揄(やゆ)しているのだ。
これが最上家浪人のものした、『可笑記(かしょうき)』なる仮名草子の巻第四(11段)所載の一文である。ことほど左様に、全五巻の長短280段にわたる内容は、当世批判や風刺、それに教訓に満ちていて実に面白い。とりわけ、無能な主君や家老出頭人への痛烈で執拗な批判は、およそ120数段にも及んでいる。これら多くの部分に、現代のダメな組織体にも通じるものを見て取れる。
本書の著者は如儡子(にょらいし)、本名斎藤親盛(ちかもり)。慶長8年(1603)頃に酒田に生まれたという。彼は最上家親に側近く仕え、元服時には主君から一字拝領している。だが、元和8年(1623)に重臣たちの愚かな政争によって最上家が改易、不遇な浪人生活を余儀なくされる。上述のような批判は、作者自身のやり切れない憤りが心底にあっての表現と見られる。
各段のほとんどが「むかし去る人の云へるは」、またはこれに類する書き出しである。一見作者の意見でないように韜晦(とうかい)しているのが特徴。だが、和漢の故事を引用し、それらをよく自己のものとして文中に生かしている。また、儒仏論・仏法論・経世論、それに小咄・雑話・笑話の類も多く、作者の博学ぶりと筆力のほどをうかがわせる。
本書は寛永19年(1641)刊行されるや、たちまち評判になり、万治2年(1659)には絵入の本も出版された。また、浅井了意『可笑記評判』や井原西鶴『新可笑記』など、後続の作品に大きな影響を与えた。活字本としては、『仮名草子集成』第十四巻(1993年、東京堂出版)に所収されている。
■執筆:渋谷武士(二代長谷勘三郎改メ)「歴史館だより��13/研究余滴6」より
「笑可記 巻第五」最上義光歴史館蔵
最上義光歴史館
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「最上家伝来の宝刀『鬼切丸』の謎 !?」 布施幸一
重要文化財 太刀 銘 安綱 (号鬼切) 京都・北野天満宮蔵
最上家伝来の宝刀「鬼切丸」の謎
『太平記』に見る「鬼切」―その行方と最上家への経路
源氏重代の宝刀の一つ鬼切。その由緒については『太平記』の記すところであり、これが最上家伝来の「鬼切丸」に該当するものとされている。
同書によると、越前藤島城で自害した新田義貞(1301-38)。彼の首級と佩いていた鬼切・鬼丸の太刀二振りを、斯波尾張守高経(1305-67)へ献じたのは、越中住人氏家伊賀守重国であった。重国は当時、斯波兼頼(1316-79)の幕下として、越前戦線に参戦していたという(『山形市史』上巻)。
こうして得た鬼切は、斯波高経の手元に留め置かれたようだ。一方の鬼丸は、足利将軍家へ渡ったと推測される。前者がその後、どのような道筋を経て最上家の祖の兼頼に渡ったのか。この点については謎であるが、ここでは大まかに二つの経路を考えてみたい。
一つは伯父の高経から直接兼頼への道筋であり、もう一つは高経から父伊予守家兼(1308-56)をとおして、兼頼へという道筋が想定される。いずれにしても、これら二つの経路に、前に触れた氏家重国の働きが関与していたと見たいのである。そのことをとおして、兼頼に渡る蓋然性はあるだろう。
他には次のような理由も想定される。斯波高経のもとにあった鬼切は、斯波家兼が奥州管領(探題)として下向するに当たり、餞として高経から家兼に譲られた。先ずはそう仮定する。そして延文元年(1356)、家兼の死の直後、鬼切は嫡男の直持(大崎殿)には渡らずに、出羽大将として山形に赴く、次男の兼頼に与えられたのではあるまいか。
以上が、最上家への鬼切丸伝来のはじまりである。この移動経路についての確証は何も無いが、新田義貞が自害時に佩いていた鬼切と号する太刀は、いつの頃からか最上家重代の家宝として大切に守り伝えられてきた。この太刀は、江戸時代の若干の記録とともに現在に至っている。
「鬼切丸」と名物「童子切」「鬼丸」について
「安」の字が「国」の字に改竄された鬼切の銘 写真:茎(なかご)の部分
この鬼切丸の作者は、『太平記』の記載のとおり、作風上からも明らかに伯耆国(鳥取県)安綱と見なされる。彼は平安時代後期、すなわち後三年の役(1083-87)終了後あたりに鍛刀した刀工と推定されている。
しかし、この太刀の銘をよく見ると「國綱」になっている。実は安綱の安の字が、意図的に国の字に改竄されているのだ。これは鬼切が何らかの理由により、安綱銘では不都合が最上家に生じたことを物語っている。では、いったいなぜ、そのようなことがなされたのであろうか。また、その時期はいつであろうか。これまた大きな謎である。
ズバリ結論的に言うと、その原因は源氏重代の宝刀鬼切・鬼丸の説話と、これから述べる童子切安綱(現国宝)や鬼丸国綱(現御物)の出現と、無関係ではないと思われる。すなわち、重代の名刀や名物の持つ重みと、それに該当する刀工を意識し過ぎた結果の所産であると見てほぼ間違いないであろう。
さらに付言すると、鬼切を江戸時代に至って鬼切丸と呼ぶようになったことさえも、単に自然発生的に元来の称号に接尾語として道具の愛称の「丸」を付したのではなく、鬼切と鬼丸の呼称を半ば意図的に組み合わせ、銘の改竄と関連させたと考えることは穿ち過ぎであろうか。
さてここで、鬼切の他に伯耆安綱の手による童子切という太刀の存在について触れることにする。これは筆者が経眼した数振りの安綱中では群を抜く名刀であり、日本刀の王者としての貫禄が十分である。
伝説によると、この太刀は源頼光が、大江山の酒顛童子を斬ったときに佩いていたもの。童子切の号はそのことによるという。斯界の通説では、この太刀は室町時代以来、鬼丸国綱とともに天下五剣の内に数えられ、足利将軍家に伝来し名高かったとなっている。だが、二振りとも管見の限り、桃山時代(1585-1600)を遡る史料を見ない。
一方現存する鬼丸についてはどうか。この太刀は、実は北条時頼(1227〜63)が、京の粟田口国綱を鎌倉に呼び寄せ、作刀させたものである。国綱の二字銘がしっかりと切ってある。ちなみに、国綱は建長(1249〜55)頃の刀工と伝えられている。
「鬼切丸」謎解きの私見
童子切と鬼丸が名刀として広く知れ渡るのは、やはり桃山時代からであると言っていいだろう。鬼丸についてはひとまず措くとして、童子切について考えてみよう。
憶測を逞しくすればこうである。秀吉が権力に任せ名刀を蒐集していく過程で、類いまれな安綱の太刀を入手した。それに、当時有力な鑑定家であった本阿弥光徳が関与し、童子切という新たな名物を誕生させたのでなかろうか。その伝説の基になったのは、『太平記』の鬼切伝説の刀工安綱であり、それに世上に流布していた大江山酒顛童子伝説などが加味されたのではあるまいか。
最上義光の時代は、すなわち太閤秀吉の時代である。その頃には少なくとも、名刀や名物刀剣の存在が、大名の間でしだいに知れ渡っていたと思われる。正宗や粟田口吉光を初めとして、名刀=著名工という概念が定着してくると、当然のことながら、大名や武将の多くは著名工の作刀を贈答品としてあるいは家宝として意識せざるを得なくなった。
このような状況下で、前代から選定のための一定の評価基準が成立していたことが、いくつかの史料によって知られる。それらの中には、先に挙げた正宗や吉光などとともに、国綱の名はあるが、安綱の名を見出すことができない。希少価値があり且つ優秀な作品の一つとして、国綱が選定されているのである。最上家では、先ずはこの辺りに敏感に反応したのではなかろうか。これが銘の改竄理由の一つである。
一方、これとは別に、童子切という大名物が、桃山期から江戸初期にかけて世に知られるようになる。穿った見方をすれば、最上家において鬼切安綱では気後れを感じ、ならば国綱名に改竄しようということになった。そして、この事件とほぼ時を同じくして、敢えて鬼切丸と呼称し、鬼丸国綱に紛れるような「鬼切丸国綱」を創出したのではなかろうか。
傍から見れば愚挙とも思える銘の改ざんの背景には、やはり童子切安綱や鬼丸国綱の存在が、影響したことは否定できないだろう。時代的には、有名刀工やその作品が広く顕在化し、また、徳川将軍家と各大名や大名間相互の贈刀が盛行する江戸時代初期頃のことと、さしあたり私見の仮説としてあげておきたい。
(執筆:布施幸一/「歴史館だよりNo13」より)
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