最上義光歴史館

最上義光歴史館
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 武将兜のペーパークラフトで、お世話になっている木村社長。

         ヾ(@⌒-⌒@)ノ

 また、楽しい事を考えているご様子♪

 

 今は、試行錯誤の最中のようでしたが・・

 ナッツが、ちょっと⌒★だけお見せしましょう。

 

   あっ!(」°□°)」

 ちょとのつもりが・・・・・(笑)

 義光バージョンなので、指揮棒もありましたヨ。

 完成するのが楽しみです。(/⌒▽)/

 その時は、また皆さんにお伝えしますネ。☆⌒(*^-°)b


『歴史館だより No.17』

●最上家信奉納の神馬図 
執筆:宮島新一 (山形大学教授/日本絵画史)  

●昨年のボランティア活動をふりかえり、今後の活動におもうこと   
執筆:阿部久照 (最上義光歴史館サポーターの会「義光会」会長)

●参加者の声 こども講座  
執筆:武田真依/伊関光彬/谷口奈生

●研究余滴「義光文書と古語辞典」  
執筆:長谷勘三郎

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平成21年度事業 (一覧) /事業スナップ
平成22年度事業 (一覧)


※「歴史館だより」は無料で配布しております。ご希望の方はご来館のときに受付にお申し出ください。
※遠方でご希望の方は、郵便番号、住所、氏名、TELと「館だよりNo.17 (  )部希望」を明記のうえ希望部数にあわせた金額の切手を同封して最上義光歴史館までご送付ください。

【送料】
1〜2部  切手140円
3部    切手200円
4〜6部  切手240円
※7部以上の場合は電話にてご相談ください。

【送付先】
〒990-0046
山形市大手町1-53
最上義光歴史館

【お問合せ】
TEL 023-625-7101
FAX 023-625-7102


最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【志村光安 (7)】


 それでは、進藤・原達は最上家臣の中でいかなる立場にあったのであろうか。〈最上義光分限帳〉を参照してみよう。分限帳には、「高千五百石 原美濃」とあり、同様に進藤但馬は、〈最上家中分限帳〉に知行高八百七十六石と記載されているのが確認される。〈最上義光分限帳〉でも近藤但馬なる人物が同じく八百七十六石の知行高を受けており、進藤と近藤を混同したのであろうか、恐らく同一人物であると推定できる。進藤但馬は、上記の知行を最上氏から受けてはいたが、同時に進藤楯千五百石をも宛行われていたともされる(注28)が確証はない。これら家老達は、本城氏における家老原田大膳や、鮭延氏における庭月理右衛門ら陪臣城主層とは最上家から直接知行を受けているという点で性格を異にしており、城主指揮下にありながらも義光の直臣という側面を併せ持っていたことがわかる。これら進藤等の上司であった志村・新関の各城主達は、最上譜代の直臣層出身の城主であり、鮭延氏ら国人衆出身の城主に比べれば自らの家臣団はごくごく小規模であったと考えられる。これを考慮すれば、進藤らは庄内に移封され、地域支配を行うにあたっての人的資源補強という観点から、義光より与力として派遣された者等であったろうと推定できる。

 さて、これら家老的立場にいた者たちは、庄内を統治する上で如何なる範囲に影響を及ぼしていたのであろうか。まず目に付くのが、先に挙げた亀ヶ崎より「闕落申候弐人之者」に関わる書状群である。前記した原美濃書状を再び挙げる。

   追而、彼飛脚一人、人留無相違御通可有之候、猶々□有かせきの由、
   次右衛門殿申上候、尤各々へもさうたんいたし候 已上

   先日亀崎より走申候故、貴殿御念故、小俣村ニてとらへ申候、
   忝由貴殿へ但馬殿より書状御越候、又大嶋手柄被申候由、
   我等所へも被越候、又大嶋手柄被申候由、我等所へも被仰越候、
   将又村上長老□衆へ、御領分ニ而とらへ申候事、忝由飛脚御越候、
   小俣村へ御人留衆御馳走の由、我等も御年寄中へ申入候、
   其元より足軽衆一人、小俣まてさしそへ候て、
   其自分御馳走忝由可被仰候、又彼使越後不案内之由申候間、
   様子をも御おしへ可然存候、恐々謹言
            原 美濃
   卯月廿六日        頼秀(花押)
       有沢采女殿  
           参(注18)

 亀ヶ崎より逃散した者を越後村上の小俣村で捕らえたことを賞し、また村上の家老衆にその事を謝したこと、そして受け取りに足軽一人を派遣することを報じ、そして不案内であろう足軽の案内を要請したい、というのがこの書状の大意であろう。「小俣村へ御人留衆御馳走の由、我等も御年寄中へ申入候」とあり、原美濃と村上藩の家老レベルで折衝が持たれたようで、また同時に、原は「次右衛門殿申上候、尤各々へもさうたんいたし候」と下次右衛門をはじめ進藤但馬や新関因幡等と相談をしていたことが推測される。下対馬守の居した大山城は川南の要衝であり、下対馬守は配下を鼠ヶ関・小鍋・関川の三道の守衛として置いていたというから(注29)、越後への往還に関する案件は大山城の管轄であったのだろう。原美濃は、領内で起きた逃散を取り締まり、その事後処理を他藩の者と折衝する公的権力を下対馬守に代わって行使できる立場にあったとみてよい。

 また、進藤らが司ったのは領内の警察権のみではなく、民政にもその範囲は及んでいたようである。前掲した北館大学へ対する年貢覚は両名の連署であるし、慶長十三(1608)年十二月には進藤但馬が雑税の徴収を管轄している(注30)。ただし、城主が志村光惟に代わってからは、租税の徴収の管轄は酒田商人の永田勘十郎が行っているようである。また、慶長十九(1614)年には原美濃が加茂に新設された新岡町の諸役を三ヵ年免ずることを同町肝煎に通達している(注31)。
<続>

(注28) 『庄内人名辞典』(庄内人名事典刊行会 1986)
(注29) 『山形県史 巻1』(山形県 1973)
(注30) 「永田文書」進藤但馬請取状、ただし、城主が志村光惟に代わってからの租税の
徴収は酒田商人の永田勘十郎が行っているようである。
(注31) 「鶏肋編所収文書」原美濃書状(『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』)


志村光安(8)へ→

 6月30日(水)

 スワンヒル市からの短期交換留学生来形団が来館しました。

 理事長も流暢な英語で御挨拶♪

     やぁっ  ̄ー ̄)ノ"))))))))ブンブン

 

 歴史館サポーターが、英語で館内を御案内。

 

 皆さん、熱心に説明を聞いておりました。

      ((φ(..。) カキカキ

 

 刀や鎧に興味があるようなので、

 見学後、実際に甲冑などの着用体験をしてもらいました。

 

 

 だんだん武将らしくなってきましたネ。

 

 武将完成!(* ̄▽ ̄*)

 

 日本の文化にふれてもらいたいとの事で、

 今回は、現代の着物や浴衣なども用意してみましたヨ。

 

 背が高いので着付けも大変・・・

 

 足元がスニーカーなのは、

    まぁ・・

 現代の侍ということで・・(笑)

 青い目の侍達です⌒★

 

 とても似合っていますねぇ。


 こちらは、ナッツ母使用の打掛けで姫を♪

 

 最後に《はこせこ》を懐に挟んで、

 ただいま演技の指導中です。

 

 集合すると、こんな感じになりました。

 

 皆、背が高いから、迫力がありましたヨ。

 短い時間の中での体験なので、

 スタッフもフル回転です。C= (-。- ) フゥッ

 

 

 

 この格好で登場した時、

 留学生から、ダース○ーダーの登場曲が・・

    (* ̄m ̄) ププッ

 

 確かに、この甲冑だと見えるかも(笑)

 姫とのツーショット♪

 

 

 こちらは、最上義光VS直江兼続

 

 甲冑を着用して「重い、熱い」などの感想がありましたが、

 皆、とても楽しそう。★⌒(*^▽゜)

 外は雨でしたが、歴史館の中はとても晴れやかな一時でした。


  《平成22年度6月分の入館者アンケート集計結果》

 この集計結果は平成22年6月1日から同30日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。



      企画展示 (6/1〜6/30)


    開館日数 ・・・・・・・・・・26日間
    入館者数・・・・・・・・・1,894人
    回答者数 ・・・・・・・・・・・39人

 1.歴史館をどこで知りましたか

  (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・・27%
  (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・・0%
  (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・16%
  (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・・5%
  (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・・0%
  (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・14%
  (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・・・9%
  (8)観光案内所 (駅など) ・・・・・・・・・・・11%
  (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・・14%
  (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5%

 2.歴史館の入館は何回目ですか

  (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・・92%
  (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8%
  (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・0%

 3.ご覧になられた感想

  (1)内容はいかがでしたか

    �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・・56%
    �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・・38%
    ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5%
    �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・・0%

  (2)最上義光と最上家について

    �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・・59%
    �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・・36%
    ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・・0%
    �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%


  〜利用者の声〜

 ◎音声ガイドを使用して良かった。
 
 ◎音声ガイドの番号をもっと大きくした方が読みやすいと思う。

 ◎歴史の勉強をしてから、もう一度来館したい。

 ◎無料はありがたいが、有料でも良いと思う。

 ◎自分達だけだと裏話など分からない事も多いけれど、分かりやすく説明してもらえたので、すんなり理解できた。

 ◎今後もボランティア活動を続けてほしい。

 ◎家紋から屏風まで説明してもらって、楽しく学習できた。

 ◎もっと全国的にアピールしてもいいと思う。

 ◎音声ガイドの無料貸し出しがあって、説明が分かりやすかった。

 ◎内容も充実していて、とても良かった。

 ◎2回目の来館ですが、大変良かった。また説明が聞きたい。

 ◎ガイドの話しがとても分かりやすかった。

 ◎ボランティアの方の説明が楽しかった。

 ◎駒姫の短い生涯に心打たれた。

 ◎刀を見て美しいと思った。

 ◎恥ずかしながら今日まで、義光を「よしみつ」だと思っていた。

 ◎歴史は好きなので、また来館したい。


最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【志村光安 (5)】


 その後の庄内は、各々の城主がその支配地域を独立的に管理する状況ではなく、各城の家老レベルで連携を取り合い、その統治を進めていった形跡が見られる。例えば、志村氏の家老進藤但馬と大山城主下対馬守の家老原美濃守が連署し、年貢の覚書を狩川城主北舘大学へ通達している書状(注16)や、亀ヶ崎より欠落した輩を召捕った事を賞する内容の原美濃書状・進藤但馬書状(注17、18、19)がある。「忝由貴殿へ但馬殿より書状御越候」(注18)「濃州様より貴様へ被仰遣候ヘハ、」(注19)と、一つの懸案に関して連絡を取り合っていたようだ。だが、光安を始めとした大身の城主層が、行政を家老格に全面的に任せていたかというとそうでもないようだ。義光に命じられ、光安が飛島および沿岸諸村の雑税を徴収しているし(注20)、また藤島城主新関因幡が酒田商人永田勘十郎に米の売却を依頼したような内容の書状も見られる(注21)。これら家老格の家臣等と志村との関わりは次項にて若干の考察を試みたい。

 このように、庄内の城主達は、互いに連携を取り合い庄内の支配を行っていった。光安は、懸案によっては庄内の領主達に留まらず由利の本城氏とも連絡をとって対処しているようである。慶長十四(1609)年六月に発生した笹子山落事件(注22)においては、事件の発生を本城氏から通報された進藤但馬が、それを「即伊豆ニ申きかせ」ており、また山形へ問い合わせた結果、類似事件があった事、また事件への指示を本城(赤尾津)満茂に返答している(注23)。また事態が進展した八月には、光安が満茂に対し佐竹からの連絡があったこと、それを「殿様へそれかしより書状さし上」と山形へ伝達したことを報じている(注24)。笹子山落事件は庄内・由利・秋田を巻き込む大事件へと発展したのであり、佐竹・本城・山形の間に立ち、情報の即時伝達を仲立ちした光安の動静は、重要度の高いものであったと位置付ける事ができる。

 前述したように、この笹子山落事件から二年後の慶長十六年、光安は没しているようである。その後の亀ヶ崎城主には嫡子志村九郎兵衛光惟が就いたが、慶長十九(1614)年一栗兵部の手にかかって家老進藤但馬共々殺されており、志村の血は途絶えてしまったようで、その後亀ヶ崎は蔵入地となったようだ(注25)。

 以上、義光の腹心として早期から付き従った志村光安の動向を検討した。史料的限界もあり、制約が多い中での考証であった為、詳細な動向が見えなかったのは残念である。しかし、軍記物史料の記述や動向を示す数少ない書状史料にある程度の傾向は見えており、この考証を踏まえた上で次項の考察を進めたい。
<続>

(注16) 「狩川八幡神社文書」慶長十七年十一月二十七日付進藤但馬他連署書状
   (『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』)
(注17) 「鶏肋編 所収文書」四月二十二日付原美濃頼秀書状(『同上』)
(注18) 「鶏肋編 所収文書」四月二十六日付原美濃頼秀書状(『同上』)
(注19) 「鶏肋編 所収文書」四月二十六日付進藤但馬書状(『同上』)
(注20) 「永田文書」慶長八年十二月十三日付志村伊豆守光安請取状(『同上』)など
(注21) 「同上」十一月五日付新関因幡守久正書状(『同上』)
(注22) 「笹子山落事件」に関しては、長谷川誠一「慶長・元和期における出羽国の社会状況」
   (『「東北」の成立と展開―近世・近現代の地域形成と社会―』岩田書院 2002)に詳しい。
(注23) 「秋田藩家蔵文書」六月二十五日付進藤但馬書状
   (『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』)
(注24) 「同上」八月六日付志村伊豆守光安書状(『同上』)
(注25) 「伊達家文書」最上氏収封諸覚書(『同上』)


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