最上義光歴史館

最上義光歴史館
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 前々から、ペーパークラフトでお世話になっている

 木村社長⌒★(⌒▽⌒)ノ

 いろいろ人からの要望もあり・・・

 【おびどめ日記】��76 でお知らせした、

 あれ が   ワク p(^−^q=p^−^)q ワク

 完成しました〜!!    L(@^▽^@)」

 じゃ〜ん!!

 

 

 義光の兜に合わせて、鎧も作ってくれましたぁ。

 木村社長さん、毎回ありがとうございます。

 ☆★** v(o^▽^o)v**★☆

 どの方向から見ても、

 かなり細かい所まで再現されていますョ。

 もちろん、指揮棒もありま〜す。

 

 

 

 迫力があって、カッコイイ〜ですョ♪ ( ^^)b

 

 

 

 

 これは、木村社長からの挑戦状だぁ〜!(・ε・)ノ おっ〜!

 との事で、(= ̄+▽ ̄=) キラーン☆

 さっそく歴史館スタッフの1人が甲冑作りを始めました。

  が・・・(。 ̄_ ̄。)

 今回は、【鎧かけ】もペパクラ化されているようで・・・

 「かなり難しい!」 と言っておりました。(−_−;)ムゥ

 (鎧かけの部分を作るのに、約3時間位かかったとか・・・)


 ナッツも欲しいけど (・_・;∂)ポリポリ 
  
     ムリカモ (= ̄  ̄=) Zzzz・・・

 次第にナッツは諦めモードへ・・


 ぜひ作ってみたいという強者はこちらへ→ペパクラ挑戦状!



 ここだけの話し、あの傾奇者の甲冑も、

 作製中との事でしたヨ。(@ ̄▽ ̄@)b 楽しみですネ♪


 歴史館に、あの方が遊びに来てくれましたヨ。

     (@ ̄▽ ̄@)/  いらっしゃ〜い♪

 

 メモを取りながら真剣に見学中⌒★

     φ(。_。) カキカキ

 

 長谷堂合戦の事など、熱心に勉強しておりました。

 ○○さん! ( ̄▽ ̄)ノ

 一緒に頑張っていきましょうね♪

 お忍びの模様なので、正体は後日ということで・・・


  《平成22年度8月分の入館者アンケート集計結果》

 この集計結果は平成22年8月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。



       企画展示 (8/1〜8/31)

     開館日数 ・・・・・・・・・・27日間
     入館者数・・・・・・・・・3,313人
     回答者数 ・・・・・・・・・・624人


 1.歴史館をどこで知りましたか
 
  (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・・24%

  (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・・3%
 
  (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・・9%

  (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・・1%

  (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・・1%

  (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・・5%

  (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・・19%

  (8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・・12%

  (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・・16%
  
  (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8%


 2.歴史館の入館は何回目ですか

  (1) はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・・86%

  (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・・9%

  (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5%


 3.ご覧になられた感想

  (1)内容はいかがでしたか

    �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・・38%

    �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・・52%

    ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・・10%

    �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・・0%

  (2)最上義光と最上家について

    �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・・35%

    �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・・60%

    ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・・1%

    �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%

 〜利用者の声〜

 ◎もう少し子供が見ても分かるようにしてほしい。

 ◎子供クイズのヒントを分かるように大きくしてほしい。
 
 ◎案内の方が丁寧の教えてくれて良かった。地元ながら初めて知った事もあり勉強になった。

 ◎最上義光の鎧がなくて少し残念だった。宮城県から来たので、伊達家とのつながりの展示があった方が良いと思った。

 ◎作者やそれぞれの見方、角度で歴史が違ってくるということを痛感した。「天地人」の放映を見ても、何度もそういう点に気がついた事を思いだした。

 ◎最上家の山形における功績、また上杉との関係を詳しく説明いただき感謝しているが、解説が難し過ぎて分からない事もあった。

 ◎コンパクトにまとまっていて大変わかりやすい。

 ◎外国人なので、いろいろと学ぶ事ができ良かった。

 ◎書状には、読み下し文を付けてほしい。

 ◎館内も落ち着きがあり、ゆっくり見学できた。

 ◎ガイドの方に案内してもらい、それぞれの資料の事がよく分かった。

 ◎フロアごとに、どのような物が展示されているか分かるようにしてもらえる
と、更に良くなると思う。

 ◎展示室すべてを撮影可能にしてもらいたい。来館の記念になるだけでなく、内容を理解するのに役立つと思う。

 ◎時代小説に出てくる最上義光を紹介してもらえると、最上氏を深く理解できると思った。

 ◎市の駐車場の割引(無料)利用券があった方が良い。

 ◎展示内容をホームページ等でも、もっとPRしたほうが良いと思う。山形に来た人皆に見てほしいと思った。

 ◎連歌に興味をもった。駒姫に涙した。

 ◎貴重な書物の現代語訳があると見やすいと思う。

 ◎子供の学習の為にも良い所だと思った。

 ◎詳しく説明してもらい、最上家や山形城などについてよく分かった。機会があれば、また立ち寄りたいと思う。

 ◎無料にしては立派な展示ばかりで、得した気分になった。

 ◎最上騒動の話しも入れてほしい。

 ◎伊達政宗の手紙などは貴重な物であり、興味深かった。詳細な訳をつけてほしい。

 ◎ボランティアの方の説明がとても良かった。

 ◎義光と伊達家の関わりや、他の大名との立場などを説明されると、もう少し義光像を感じられると思う。

 ◎無料で立派な施設を見る事ができ感心した。若い方や県外の方が多く訪れるよう宣伝したいと思う。

 ◎とてもきれいで見やすく、案内の方も丁寧に説明してくれて、とても良いと思った。駒姫の悲劇が、とても可哀そうに感じた。

 ◎最近の発見が展示されていたし、地図も見られて良かった。解説の人の説明も分かりやすかったが、欲を言えば、もっと義光公を広く世に知らせてほしい。

 ◎ボランティアさんが丁寧に話して下さって、楽しく見る事ができて良かった。

 ◎展示物がもう少しあれば良かった。

 ◎子供のクイズラリーで楽しめたので良かった。

 ◎少し入館料を取っても良いと思う。

 ◎衣装の展示もしてほしい。

 ◎ボランティアさんから詳しく説明してもらい良かった。「独眼竜政宗」の原田芳雄さんの名演技を懐かしく思った。義光公が大河ドラマに登場してほしい。

 ◎とても親切で分かりやすかった。中学生の娘が興味をもってくれて良かった。

 ◎ボランティアの方がとても丁寧に説明してくれて、よく理解できた。これからも頑張ってほしい。

 ◎最上義光にスポットを当てた大河ドラマを見てみたい。

 ◎他の人の声が館内に響き、じっくり見るには少しうるさく感じられた。

 ◎入場無料にしては、大変充実した内容だった。展示の構成がしっかりしているので分かりやすかった。

 ◎いろいろと説明してもらい大変嬉しかった。ますます歴史の面白さを知ることができて良かった。

 ◎ドラマ等では割と適役になりがちな最上義光が、山形にとってはとても大きな存在である事がよくわかった。

 ◎ボランティアの方の説明がとてもためになり、他の武将との関わりや歴史的流れから、最上義光や最上家の事を知ることができてとても良かった。最上義光の功績や武将としての人となりが、もっと世に知られればいいと思った。

 ◎ボランティアの方の説明が分かりやすく、山形の歴史や最上家の事について理解を深める事ができた。最上義光公が素晴らしい人物であったことを友人にも伝え、また来館したいと思う。

 ◎説明をもっと見やすくしてほしい。展示品の説明文をケースの外に出したり、説明の所だけ明るくするなど考えてほしい。パンフレットに展示物の説明を増やしてほしい。

 ◎初めて来たが、無料で見学できて大変嬉しかった。子供のクイズも親子で楽しく解くことができて良かった。

 ◎連歌関係をもっと詳しく展示してほしい。

 ◎最上義光以降の歴史(江戸時代)を展示してほしい。

 ◎案内の方が詳しく説明してくれたので、とてもよく分かった。伊達家との関係も分かり、勉強になった。

 ◎最上義光は、直江兼続や伊達政宗と比べるとマイナーな武将ですが、もっとメジャーになるように頑張ってほしい。

 ◎仙台・米沢と回って来たので、最上と伊達・上杉との関係が分かって良かった。

 ◎最上家が改易になった理由を明らかにしてほしい。

 ◎前に比べて子供にも分かりやすく、説明してくれる人もいて良かった。

 ◎家紋の図の説明書が小さくて見づらかった。

 ◎景品がもらえるクイズや、記念スタンプがあり、初めて来た人でも楽しめると思う。

 ◎もう少し明るくした方がいいと思う。静かな音楽を流した方がいいと思う。

 ◎時代順が分かりにくいし、山形の歴史が分からない。

 ◎駐車場が分かりにくい。

 ◎照明が暗いのは仕方ないが、字がよく読めない。スポットを当てるとかの改善策を考えてほしい。

 ◎館内の説明はとても分かりやすかった。接してくれた方の感じがとても良かった。順路がもう少し分かりやすいと良かったと思う。駐車場の確保に手間取った。

 ◎道路から離れていて分かりにくい。もう少し分かりやすい工夫が必要だと思う。

 ◎義光と同盟関係にあった伊達政宗の特集をしてほしい。

 ◎いつも同じではつまらないので、特別展を企画してほしい。

 ◎義光以降の最上家の歴史が知りたかった。

 ◎いつも山形に来ていたのに、初めて寄せてもらいとても良かった。ボランティアの方の活動には驚いた。

 ◎ボランティアの方に説明してもらい、義光公の教養・人柄が解り、本を読んでみようという気になった。

 ◎故郷の英雄に対する熱い思いが伝わってきた。山形城の本丸も復元できるように頑張ってほしい。

 ◎ボランティアさんからの説明で最上家の歴史を知ることができ、テレビ等で脚色されている人物像を鵜呑みにしてはいけない事を知った。

 ◎昨年出てきたという山形城下絵図がとても面白かった。また見に来たい。

 ◎説明しているガイドの方の声が大きくて、気になって見た気がしなかった。

 ◎ボランティアの話しは詳しく中身のあるもので、分かりやすく感心した。

 ◎留学生ですが、貴重な資料や館蔵品を無料で拝見できて良かった。

 ◎駐車場・駐輪場の案内がほしい。

 ◎歴史館の方に丁寧に解説してもらい理解が深まった。資料を一つ一つ拝見する際の大きな手助けとなり、山形についてより興味を持った。

 ◎歴史館に来たことが無く、今日初めて来館し感激した。山形市の教育の一つとして、子供の頃から来館してもよいと思った。書状や屏風画等が本当に素晴らしく、子供を連れてまた来館したいと思う。

 ◎案内のレベルが高く、非常に感謝している。益々の充実を期待したい。

 ◎休息スペースに自動販売機などがあればいいと思う。

 ◎解説の文字が小さく、読みにくい。

 ◎地域の小学生にたくさん教えてほしい。

 ◎人々の生活ぶりと最上家の政策についてもう少し説明がほしかった。

 ◎最上義光は、良いエピソードや性格の持ち主だと思う。そこを生かし山形県の観光にもっとつなげるべきだと思う。


◆◇◆義光文書と古語辞典◆◇◆

 日本語のある語がいつ発生したかという問題は、日本人の生活や思考・感情に関連する重大なことがらである。
 たとえば、今の日本でしょっちゅう使われる「がんばる」という単語などは、そう古い言葉ではないようだし、初めはそれほど頻繁には使われなかったらしい。ということは、古き日本人はそれほど「がんばる」必要がなかったからかもしれない。
 語彙や語法のできるだけ早期の用例を見つけ出すことは日本人の生活と心の変遷を明らかにすることにつながり、国語学者(辞書編纂者)にとっては大きな関心事なのだ。

       *

 何年か前にびっくりしたことがある。
 最上義光の手紙の中に「けりゃう」なる語を見つけ、手元にあった「岩波古語辞典」を引いてみたら、なんと当の義光の手紙そのものが用例として引かれていたのだ。

けりゃう【仮令】一[副]
 �,燭箸┐弌瞥冦磧瓠嵒�姿花伝」ほか)
 �△燭箸ぁ�かりに。よしんば。(用例=「正法眼蔵随聞記」ほか)
 ��かりそめにも。かりにも。「どなたにも理はひとみち々々有る事に候。 
  − 双方をくらべ理の少なきを非分なりと申すばかりに候」
 (伊達家文書一、最上義光書状)

 国語学者の博捜ぶりに舌を巻いたのだったが、義光の文章がこういうところで役立っていると知ったのは楽しかった。
 さて、義光の遺著『連歌新式注』山形市所蔵本の解読作業をしているうち、気になる言い回しを見つけた。

 一 はつせ寺とか鐘とかすれハ山類也 たゝ泊瀬とはかりハ非山類(下略)
   [写本34丁ウラ=第230条]

 現代語では「AとかBとか」という言い方は並列の表現として多用されるが、古典では管見にない。小学館「日本国語大辞典」[2004/第2版]で見ると、用例は寛永十五年(1638)刊の「蒙求抄」から「霊とか�劼箸�せよとあるほどに」が引かれている。他の大規模辞典でも同書から採っているところを見ると、現段階ではこれが最古の用例なのだろう。
 だとすれば、文禄四年(1595)の義光の『連歌新式注』は、これをさかのぼること40余年。今後の辞典では用例の初出となるかもしれない。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより��17/研究余滴10」より

最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先

【二 佐倉藩掘田氏に仕えた佐竹氏】

 慶長五年(1600)の関ケ原の戦いの後、徳川氏の覇権確立による豊臣大名の排除により、多くの譜代大名を創設している。三代将軍家光の寛永初期の頃、新しく幕政の担当者として、新参譜代大名による幕政が行われるようになる。その新たな担当者の一員として、堀田加賀守正盛が登場してくる。寛永三年(1626)御小姓組番頭から、野州佐野一万石の大名となった正盛は、同十二年(1635)老中に列すると武蔵川越三万五千石へ、そして三年後には十万石にて信州松本へと移る。しかし、僅かにして同十九年(1642)六月に下総佐倉へと移り、前期佐倉藩の創設となる。
 この正盛の大名家創設の寛永初期の頃から、家臣団の増強と編成が始まったのであろうから、佐竹氏の仕官の時期は、少なくとも松本藩時代の頃であろう。佐竹氏の記録の初見となるものは、[掘田加賀守正盛分限帳](実は子の正信の代、明暦から万治三年までの間という)である。この万治三年(1660) とは、慶安四年(1651)将軍家光の死に殉じた正盛の後を継いだ正信が、この年に無断帰国などの理由で改易され、前期佐倉藩掘田氏の終焉となる年である。分限帳には六名の佐竹氏の記載がある。

佐竹伝兵衛(二百石)  辰之助(二百石)  市兵衛(百石)  友右衛門(二十人扶持)  万左衛門(四十俵三人)  辰之助母(女儀 五十俵)

 また、市兵衛には「松平伊賀守殿へ」、万左衛門には「久世大和守殿へ」と、掘田氏改易後の仕官先を示す加筆が為されている。これは、全てではないが、一部の藩士の間にも見られる。この分限帳の成立の頃は、内記は既に死亡、子の初代・伝兵衛が継いでいたものと思われる。
 元和八年(1622)八月、小大名に転落した最上義俊に近侍し、藩の再生に勤めてきた内記が、最上氏を離れ堀田氏に仕官した時期はいつ頃であったか。それは堀田氏が川越から松本へと転封を重ね、寛永十九年(1642)に佐倉藩成立を見る頃、掘田氏家臣団の大幅な増強が為された時期であった。
 多くの浪人達が仕官の口を求め、集まって来たのであろう。内記が最上氏を去った時期は、早くとも寛永の十二年(1635)以後のことであろう。そして、内記の名を掘田氏の内から初めて見出だすのは、松本へ転封が決まった二ケ月後の五月、藩主正盛が江戸より松本へ遣わした諸役人から、[松本諸役人誓紙之前書]という誓書を提出させている。その中に、寅五月十五日付の内記を含む五人の連署があり、内記の掘田氏に仕官していたことが分かる。
 このように、内記の仕官の時期は、掘田氏の川越藩時代の頃で、最上氏を去ってから間もない頃であったろうが、早々に役に就く程の評価を受けた人物であったのだろう。もう一点、内記に関わる貫重な記録が有った。それは寛永十七年正月付の[覚書]の一つに、次のような記録が有った。

右之奉行役者相除、左近煩指合有之節者、御城中御番以下見廻可申旨被仰出候事、

 この覚書きは何を語っているのだろうか。内記が何か体調でも崩し、奉行役でも免除されたのではないか。このように二点の記録から、僅かながら内記の堀田氏家中での存在を、確認することができる。『親類書』の佐竹伝右衛門が、父の伝兵衛の死期を「十年以前」と記していることから、祖父内記の死期はそれ以前の、寛永の終り頃ではなかろうか。もう正信の分限帳には、内記の後を継いだ伝兵衛の名が有った。
 また、卯正月廿日付の[江戸役人之覚]に、奏者番として伝兵衛の名がある。日く
  
右者弐人宛ニ而一日一夜替り、夜者壱人ニ而御番可相勤旨被仰出候事、

 また[物頭之覚]には、日く

一、御持弓拾張      佐竹伝兵衛
   此足軽拾壱人小頭共ニ

 この二つの役に就いた伝兵衛とは、内記の子の初代・伝兵衛なのか、孫の二代・伝兵衛(伝右衛門の兄)なのかはっきりしない。この当時の卯正月に該当する年は、寛永十六年(1639)と慶安四年(1651)である。
 以上、掘田氏家臣となった佐竹内記と、その一族の姿を垣間見ることができた。しかし、辰之助、市兵衛、友右衛門、万左衛門、また辰之助母などが、内記とどのような繋がりを有していたのか、掘田氏内部の調べからは、満足な結果は得られなかった。
■執筆:小野末三

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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【志村光安 (10)】


まとめ


 志村光安に関わる慶長期以前の書状史料は皆無で、最上氏が勢力を拡大する段階での動向は周辺史料に頼らざるをえず、従って詳細な検討は困難であった。ただ、義光が最上家中の実権を掌握した初期の段階から近臣として義光に付き従っていたことは確かであろう。
 光安が通称として「九郎兵衛」を名乗っていた事について、いくつかの周辺史料にその記載が存在している。嫡子の志村光惟が「九郎兵衛」を襲名している事から考えても、恐らくそれは事実としてよいだろう。その後光安は通称を「伊豆守」に変更しているが、その画期は慶長初期頃であろうと推測される。
慶長五(1600)年、慶長出羽合戦において、光安は長谷堂城の守将として活躍した。上杉軍撤退後、最上軍は諸城奪回の動きを見せるが、当年から翌年にかけての庄内攻めにおいて光安は主導的役割を果たしていたようだ。
 その後、光安は、新関久正・下吉忠らとともに最上家へ加増された庄内へと配属された。酒田城主として転出した以降の史料は豊富であり、光安ならびに庄内諸将の動向をある程度検討する事が可能であった。
 書状史料を検討するかぎり、最上中級直臣衆出身の進藤但馬・日野備中・原美濃らが庄内において内政実務を実行していたように見受けられた。筆者は、まず前提としてこれらの者たちが事実志村らの家老職であったかどうかを再検討し、城付きの家老であることはほぼ確実であったろうとの再確認を行った。その上でこれらの者達の権限を検討したところ、原・進藤らは各々密に連絡を取りながら領内の民政を行い、警察権、徴税権を行使していることが判明した。その上で志村光安は庄内衆の取り纏め役として由利・庄内・山形の連絡を仲介する役割を負っていたようだ。しかしながら、藩政における大規模事業である治水事業は義光主導で実行された形跡が顕著で、実務に当たったのは中低級の義光直臣層だった。つまり、庄内の政治権力は上下を問わず志村・新関・進藤ら最上氏直臣層出身者に握られており、またその施政の背景には義光自身の意向が強く働いていることが想起される。ゆえに、庄内は義光直臣層による領国支配のテストケースだったのではなかろうか、という仮説を提示しえるだろう。
<了>

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