最上義光歴史館

最上義光歴史館
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木村☆社長が予告どおり「大ふへん者」の甲冑をペーパークラフトにしました!!!





まだ歴史館に完成品がありませんので、完成品ができしだいアップします!!

乞うご期待!!


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▼前田慶次郎甲冑ペーパークラフトの工程図(『米沢・戦国 武士[もののふ]の時代』) >> こちら

《平成22年度11月分の入館者アンケート集計結果》

 この集計結果は平成22年11月1日から同30日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。



      企画展示 (11/1〜11/30)

    開館日数 ・・・・・・・・・・25日間
    入館者数・・・・・・・・・2,291人
    回答者数 ・・・・・・・・・・150人


 1.歴史館をどこで知りましたか

 (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・・14%
 (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・・5%
 (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・10%
 (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・・1%
 (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・・0%
 (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・・4%
 (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・・15%
 (8)観光案内所 (駅など) ・・・・・・・・・・・19%
 (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・・19%
 (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・13%

 2.歴史館の入館は何回目ですか

 (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・・92%
 (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3%
 (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5%


 3.ご覧になられた感想

 (1)内容はいかがでしたか

   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・・45%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・・44%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・・11%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・・0%

 (2)最上義光と最上家について

   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・・39%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・・57%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・・1%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%


 〜利用者の声〜

 ◎最上家の事を分かりやすく説明してもらったので、家に帰ってからもう一度復習したいと思う。

 ◎詳しく説明を聞くことができて、大変楽しかった。

 ◎説明板の字が小さくて読めない。

 ◎あまり時間がなく、もう少しゆっくり見たかったので、また来たい。受付の方が丁寧に対応してくれたので良かった。

 ◎最上義光の人物像について、小説や大河ドラマを基に「義光の描かれ方」に焦点を当てた企画展をしてほしい。

 ◎料金がかからなかった事は大変良いと思った。

 ◎最上氏の家臣の神保氏も展示してほしい。

 ◎楽しく見学する事ができた。

 ◎充実した展示は素晴らしいと思った。最上義光公の功績を知る事ができ感動した。

 ◎もっと視覚的なものを増やした方が分かりやすい。文書が多すぎると、一般の方には難しくなると思う。

 ◎説明が分かりやすかったので、苦手な歴史ながら、頭に入っていった。

 ◎施設が最上義光という武将に特化して造られており、とても分かりやすかった。山形市民に非常に尊敬されている武将である事を感じさせられた。このような歴史館は、全国でも珍しいと思う。

 ◎説明文に他家との比較などを加えてくれるとより分かりやすくなると思う。

 ◎海外の方にも対応できるよう「英語」「中国語」「韓国語」の説明を付けた方が良いと思う。

 ◎関ヶ原戦後の説明はたくさんあり、良く分かったが、それ以前の家督を継いでからの経歴も充実させてほしい。

 ◎特別展でもよいので、本物の「鬼切丸」を見てみたい。

 ◎案内板の字がよく読めないので、字を大きくしてほしい。

 ◎ケースの中の解説文が遠くて少し見づらい。解説の方の声が聞こえてきて、一人で見ていると気になる。これだけの資料を無料で見る事ができて良かった。

 ◎義光や昔の事が詳しく分かって良かった。

 ◎素晴らしい資料を無料で提供しているのは、山形の懐の深さを感じた。

 ◎無料施設にもかかわらず、音声ガイド・パンフレット等充実しているので驚いた。とても有意義な時間を過ごす事ができた。

 ◎これだけたくさんの展示物で無料は有難い。全国の施設や歴史館を巡っているが、ほとんどの施設が入館料を取るので、無料なのは大変驚いた。


最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【本城満茂 (4)】

 ともあれ、最上氏が最上・村山両郡に勢力を進展させていく十五世紀始めの段階において、最上氏は庶子たちを積極的に郡中における交通・経済の要所へと分封し、大規模な惣領制を展開してその支配権を固めていった。最上家三代の最上満直の子満国も應永十三(1406)年に楯岡へと封じられ(注6)、天童氏や中野氏らと同様に周辺地域の支配を進めて行ったと考えられる。だが、その支配体制も、時を経るに連れて一族の宗家からの分立・台頭が激しくなる。最上氏は、斯波兼頼を始祖とする一族の宗家という権威を振りかざして領国支配を行っていたものの、例えば天童氏は同じ斯波一族として最上家と同等の格を以って大崎氏に相対しており、次第にその独立性を強めていったようだ。

 楯岡の地に入部した後の楯岡城主は、初代伊予守満国のあと、二代河内守満正、三代和泉守満次、四代豊後守満春、五代長門守満康、六代因幡守満英と変遷したようであるが(注6)、その動向に関しては、十六世紀前半段階に至るまでそれを直接的に語る史料が存在せず、その詳細な動向を探ることはきわめて困難である。信頼のおける史料の上で、その名が登場するのは『伊達正統世次考』永正十一(1514)年二月条で、「(上略)春二月十五日最上兵と羽州村山郡長谷堂に戦う、楯岡・山辺式部已下敵一千余人を斬り、長谷堂城を抜き、小梁川中務親朝を留めてこれを守る」とあり、伊達稙宗と最上義定との争いに、楯岡は最上方の一部将とし出陣していたようである。なお、この戦死した「楯岡」が上記した城主の誰を指すものであるかは判然としない。

 十六世紀も半ばを越え天正年間に入ると、最上宗家の内訌を克服した最上義光が、最上・村山地域の確固たる領国化を強行せんと北進の気配を見せ始める。義光がまず打倒しなければならなかったのは、比較的早い段階から最上家との家格的分立を強め、最上諸族の中でも頭一つ抜きんでた形で独立色が強い天童氏であった。天童氏は元亀末から天正初期にかけて発生した最上家内紛の際も反義光の急先鋒であり、最上宗家に対する対立姿勢を明確に示していた。当時天童氏は険阻な山城の天童城に居を構え、四方に支城を設けて重臣たちを配置し防御線を構築していた。さらに、天童の周辺地域の国人領主達とは同盟関係にあり、「最上八楯」として地域的党的結合を為していた。「最上八楯」は天童・延沢・飯田・尾花沢・長瀞・六田・成生そして楯岡であり、楯岡氏も天童方の一翼として、押し寄せる最上勢を幾度か撃退しているようである。

 対する最上義光は、延沢満延の嫡子又五郎に娘を嫁がせ、婚姻関係を結ぶ事によって二家の間に和議を成立させた。その衝撃はかなりのものであったようで、天童勢は瓦解への道をたどった。天童落城の時期に関しても、天正五年(1577)説と天正十二年(1584)説があるが、近年は十二年説が有力である(注7 他)。ともあれ、延沢氏が最上方へと転向した結果、中心的存在を失った最上八楯の結束は完全に崩れた。義光はその余勢を駆って北進し、最上八楯を含む国人領主達を制圧し、領国化して自らの支配権を拡大していった。もちろん楯岡氏も例にもれず、最上氏の侵攻を受けた。当時の城主は楯岡因幡守満英であったとされるが、満英がいかなる抵抗をしたかを示す史料は存在しない。東根の後詰に出向いた満英が、落城の報を聞いて絶望し自害して果てたという話が残っている(注8)ようだが、確証は無い。ただ、その後の楯岡領は豊前守満茂へと襲封された事は確かなようである(注6)。
<続>

(注6) 『村山市史 原始・古代・中世編』(村山市 1991)
(注7) 『山形県史 第一巻』(山形県 1982)
(注8) 川崎浩良『山形の歴史(前篇)』(出羽文化同交会 1948)


本城満茂(5)へ→

最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【本城満茂 (3)】

 「本城系譜」では、最上貞家の官職は修理太夫、法号は金勝寺月潭光公と表記され、没年は応永十七年としている。同様に満貞の官職は修理太夫、法号は法祥寺念叟観公、没年は応永二十年となっている。それでは、他の系図の兼頼の次代・次次代はどうなっているだろうか。前述した通り、兼頼の次代は直家、その次代は満直である。『山形市史 史料編1』に記載されている各系図における二人の法号・没年をまとめると下表のようになるが、これを見る限りでは、「本城家譜」における貞家と満貞は他の系図の直家と満直と同一人物としてとらえる事ができ、さらに没年を見る限りでは「本城氏系図」は「最上家譜」を原本として編まれているように見うけられる。



 これは、恐らく編纂作業の途中で「直」の字が「貞」と読み間違えられ、そのまま誤記されてしまったのであろう。また、楯岡氏三代目が「本城氏系図」では家泰、「本城系譜」では満定となっているが、双方とも法号が「巨岳」であることを見ても、これら二人は同一人物と想定してよいだろう。また、「最上・天童・東根氏系図」には最上豊前守光俊として義光の末弟とされているが、他の系図のどれにもそのような記述は見られず、また系図自体の信憑性に疑問が呈される史料でもあることから、これは誤った記述と見てよいだろう。
<続>

→本城満茂(4)へ

最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先

【四 松平伊賀守に仕えた佐竹氏】

 忍藩『親類書』から、佐竹市右衛門・与二右衛門の二名が、松平氏に仕えたことがわかる。内記の五人の息子の内の二人である。
 藤井松平伊賀守忠晴が、元和五年(1619)に初めて二千石の旗本となり、小姓組番頭、そして大番頭と出世を重ねながら、二万石の大名として駿河の田中に入封したのは、寛永十九年(1642)九月のことである。この田中藩は幕閣への登竜門として、入・転封の激しい藩であった。松平氏がこの田中を出発点として、掛川を経て丹波亀山に入封したのが慶安元年(1648)、続いて武蔵岩槻へと移ったのは貞享三年のこと。以後、但馬出石から最後の封地となる信州上田に移ったのは、宝永三年(1706)のことである。この新参の譜代大名家も同じことで、その創設期に際しては、諸領地の増加に伴う家臣団の増強もあり、それは上田藩に一万石加増の五万八千石で入封の頃まで続いた。
 亀山藩当時の延宝四年(1676)の[御家中年数改]を見ると、寛永から正保の頃までの召抱えが多く見られる。そこに寛永十九年(1642)召抱えとして、佐竹市右衛門と市大夫、弥一兵衛の名がある。[家中旧記私留]に、当時の佐竹氏の略歴が記されている。

[家中旧記私留]の佐竹氏略歴は>>こちら

 松平伊賀守忠晴が大名として田中入部の時期が、この大名家の家臣団編成上に於ける、大きな出発点となってくる。この時期に採用した家臣の数は、下層級の者達をも含めると三百名を越えるという。佐竹市右衛門もこの中の一人であった。略歴を見ると、長男の市大夫が家督を継いだのは、市右衛門の亀山藩での隠居後のことで、その後の岩槻藩時代に藩を去ったようだ。そして、次男の弥一兵衛が家督を継いだ。
 寛文二年(1662)亀山藩当時の[惣給帳]を見ると、「二百石 佐竹市右衛門」、「七両三人 佐竹市
大夫」とあり、親子で勤めている。また同四年(1664)の[惣役附御給帳]には、「二百石 佐竹市右衛門」、「百五十石 佐竹与二右衛門」、「七両五人 佐竹市大夫」とあり、与二右衛門の寛文三年(1663)頃の仕官が分かる。
 岩槻藩当時の貞享四年(1687)の[分限帳]には、隠居した市右衛門の名はなく、「百五十石 佐竹市大夫」、「五人扶持金拾両 佐竹弥一兵衛」、「百五十石 佐竹与次(二) 右衛門」とある。
 市右衛門が仕官の寛永十九年(1642)までの間、市右衛門は浪人暮らしを続けていたのかそれとも他藩で勤めていたのか。与二右衛門の寛文三年(1663)の仕官時期は、佐倉藩掘田氏改易の万治三年(1660) から三年後である。掘田氏の分限帳の「佐竹市兵衛」に加筆のある「松平伊賀守殿へ」から、市右衛門は与二右衛門のことかも知れぬ。
 あの羽州最上の影を引きずりながら、新天地を求め歩いてきた内記の子息達であった。時代は少し下がり、享保十四年(1729)の[分限帳]には、「佐竹名平 百五十石」とあるから、名平が佐竹氏を継いだ。しかし、幕末の文化十年(1813)と天保十年(1839)の[上田諸士列帳]には、佐竹氏の名は無い。名平の後の佐竹氏の系譜は、何時の間にか絶えてしまったのであろうか。
 最上義光の重臣であった本城豊前守満茂の城下絵図に、市右衛門の名がある。最上時代は本城氏の家臣であったのかも知れぬ。
■執筆:小野末三

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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【本城満茂 (2)】

 本城満茂に関して諸史料を元に時期を追って動向を検討していくが、前述の通り、文書史料が慶長中期以降に集中しており、楯岡城主時代あるいは湯沢城主時代の動向に関しては、諸記録や軍記物史料の記述に頼らざるを得ない状況にある。史料の性格上、内容に統一性が無くやや信頼性に欠ける史料群ではあるが、各市町村史の先行研究や周辺史料の裏付けをとりつつ検討を進めていきたいと考える。

 まず、本城氏の家系に関しては、享和二年(1802)に成立した「本城系譜」と成立年代は不詳であるが「本城氏系図」が存在し、その全貌を知る上での基礎史料として位置付けることができる。内容は、源義家の子義国を始祖として歴代の事績を記載し、寛政六年に本城満主が小姓頭に就くまでを記録している。また、本城満茂の時期から記事内容が詳しくなっていることが特徴である(注4)。


 「本城氏系図」や、「寛永諸家譜」「最上家譜」(注5)等諸系図を見る限りでは、満茂の出身である楯岡家は、斯波兼頼から数えて二代目、満直の四男満国が祖となって興っているように見うけられる。各々の系図で、没年の記載を始め不合理な点がいくつか見えるものの、兼頼から満家までの最上家当主はどの系図でも兼頼―直家―満直―満家と全く合致している。従って、「本城氏系図」における初代兼頼から四代満家までの記述は信頼性が比較的高いと考えてよいだろう。
 しかし「本城系譜」は、兼頼の次代を貞家、次次代を満貞とし、楯岡満国をはじめ中野満基らを最上満家の弟ではなく子としている。かかる違いはいずこから生まれたものであろうか。
<続>

(注4) 『本荘市史 史料編1下』(本荘市 1985)
(注5) 『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』(山形市 1973)


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