最上義光歴史館

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最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先

【六 太田備中守に仕えた小泉平内】

 最上時代の分限帳に見える佐竹平内とは、この小泉平内のことなのか。この平内の家系が佐竹姓に復したことが、『佐竹家譜 元小泉』(以下、『家譜』)により分かっている。その『家譜』は、本論の冒頭に忍藩『親類書』と共に取り上げている。この二つの史料を調べ併せ、佐竹内記を棟梁とする佐竹氏一系の動静を、ある程度、掴むことができた。特に『家譜』の小泉平内を内記の五男とする記述が無ければ、内記に直接に結び付く系譜の発掘は、不可能なことであったろう。
 『家譜』には平内を内記の五男とあり、これを『親類書』も五人兄弟の最後に平内を置いている。平内が小泉姓に変わった事情と時期は分からない。これが『家譜』の四代・義豊の時に、「元禄十三庚辰年二月三日、苗字佐竹と相改」とあり、佐竹姓に復したことが分かる。小泉姓は平内の養家先の名であったのかも知れぬ。平内の太田氏への仕官は何時頃であったのか。『家譜』に云う。
 
一 覚永年中月日不知、瑞華院様御代北見久太夫殿肝煎を以御馬廻被召出、知行百五拾石拝領候、

 平内は寛永年中に瑞華院様(太田資宗)の代に召抱えられた。羽州の地を去ってから、さほど遠くない時期であったろう。平内の主となる太田氏の、譜代大名としての家臣団編成の時期は遅く、資宗が五千六百石の旗本として仕え、寛永十二年(1635)に下野山川で、初めて一万五千六百石の譜代大名となる。三年後に三万五百石にて三河西尾へ入る。太田氏の家臣団の増強から編成の時期は、この辺りから本格的に始まっていった。
 平内の禄高を見ると、当初の百五十石から二度の加増を受け、二百五十石を給されている。また物頭、番頭などの役も勤め、新しい土地で中堅藩士として活躍の場を得ている。延宝年間の家臣団の禄高を見てみると、二百五十石取りは六人、上位から数えて見ると、平内は十九番目以内に入る禄を頂戴していたことになる。
 平内は貞享三年(1686)十一月、田中にて没。長命であったろう。『家譜』は十代・義定の天保年間まで書き綴られている。備中守資美の明治二年(1869)二月、百二十間居城の掛川を離れ、最後の封地となる上総柴山藩に入るが、やがて廃藩を迎えることになる。明治二年の[御家中名前帳]には「五拾弐俵  佐竹平内」とあり、廃藩置県となるのはこの二年後のことである。
 太田氏家臣として最後まで勤めた佐竹氏の、略歴の一部を『家譜』の内から選び出してみよう。

 二代・俊政 … 天和二壬成年正月、物頭被仰付候鉄砲組御預被仰付候、
 三代・頼俊 … 元禄十丁丑年七月、亡跡式御大法之通式百石拝領候、御馬廻被仰付候、
 四代・義豊 … 元文二閏十一月、物頭被仰付土肥弥門跡弓組御預被仰付候、
 五代・義陳 … 宝暦八戊寅年四月、御側御用人兼役被仰付候、
 六代・義著 … 天明二寅年正月、父家督無相違百八拾石拝領候、
 七代・義命 … 寛政四壬子年十一月、格式大目付被成下、小納戸勤被仰付候、
 八代・義利 … 文化二乙丑年八月、亡父跡式弐百三拾石無相違拝領候、
 九代・義方 … 天保元庚寅年七月、大坂表引越被仰付候、
 十代・義定 … 天保六乙未年七月、亡父跡式御大法之通、七拾石拝領候、

 話しは少し戻るが、忍藩の『親類書』に「伯母婿  小川十郎左衛門」とあり、それに「北見久大夫殿家来」の加筆がある。この北見氏とは、『家譜』から平内の召抱えの際の「肝煎」を勤めていたことが分かり、伯母婿の小川氏も、平内と行動を供にしてきて、北見氏に陪臣として仕えたのであろう。
■執筆:小野末三

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そして一か月の時が流れた!!!!

今回はパーツの張り合わせです。
複雑なところは、経過の写真をお見せしながら進めたいと思います(`・ω・´)

まずは兜。ここはさほど苦戦はしないとは思います。

あ、ちなみに。接着剤は木工・紙用ボンドを使用しています。
ピンセットを使うと作業しやすいですよ。



指の入らない接着面を押さえて固定するのにも便利です。


面頬。これはちょっと複雑です。
まずは同じ形のパーツを張り合わせましょう。



(鼻の描き込みを目印に張ってね)

ここまで来たら、次は上下を張り合わせます。


蒸着!


ね、簡単でしょう?

胴、満智羅、は見た目通りに張り張り。

袖と篭手。これも難しい所。
まず、袖部分を指示通りに折ります。(のり付けはまだ!)
次に、篭手ののりしろを袖部分に“はさみ”ます。

その後、袖を貼り付けます。
これで完成。


鎧掛け。
構造は簡単ですが、きちんと折り目に沿って張らないと…


このようにゆがみます(;Д;)

朱槍と座布団は小さい割に折り目が長くて結構大変。
カッターで軽く切って折り目がつきやすくするか、
ペン先で折り目をつけてやるといいかもしれません。

最後に台座。
これは簡単。サクサクっと…

何……だと……

閉じれぬとは…解せぬ…

先に2枚を組み合わせないと、最後ののり付けができないのか…
(; ・`д・´)…ゴクリ…

台座ェ……切りなおしっす(ノ∀`)タハー

 《平成22年度2月分の入館者アンケート集計結果》
 この集計結果は平成23年2月1日から同28日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。


          企画展示 (2/1〜 2/28)

       開館日数・・・・・・・・・・・24日間
       入館者数・・・・・・・・・・1,245人
       回答者数・・・・・・・・・・・232人


 1.本日は最上義光歴史館に

   �ヾ覯菘犬鮓�に来た・・・・・・・・・・・・・・・・5%
   �⊂鐇濺玄┐鮓�に来た・・・・・・・・・・・・・・56%
   �N省�見に来た・・・・・・・・・・・・・・・・・39%

 2.�´�の方、企画展を何で知りましたか
  
  (1)ポスター・チラシ等・・・・・・・・・・・21%
  (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・10%
  (3)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・6%
  (4)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・6%
  (5)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・13%
  (6)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・39%
  (7)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・5%

   �△諒�、当館をどこで知りましたか

  (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・・7%
  (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・9%
  (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・15%
  (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・1%
  (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・1%
  (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・8%
  (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・17%
  (8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・19%
  (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・21%
  (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・3%

 3.歴史館の入館は何回目ですか

  (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・88%
  (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・9%
  (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・3%

 4.ご覧になられた感想

  (1)内容はいかがでしたか
  
  常設展示
 
    �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・46%
    �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・40%
    ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・10%
    �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・5%

  企画展

    �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・30%
    �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・48%
    ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・16%
    �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・6%


  (2)最上義光と最上家について

    �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・49%
    �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・49%
    ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・1%
    �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%


 〜利用者の声〜

 ◎村山地方における最上家の拡大の様子(かかわり)等を知りたい。

 ◎「保科正之展」をしてもらいたい。

 ◎説明文が下にあり、読む時に不便だった。

 ◎ボランティアの方の説明があって、よくわかった。内容が見やすく山形県の誇りを感じた。

 ◎中国語のガイドがほしい。

 ◎現代との結びつき(関連性)を説明してもらえれば、更に興味が深まると思う。

 ◎当時の女性の使用していた日用品なども展示してほしい。

 ◎企画展を増やしてほしい。

 ◎新聞の記事を見て、長谷堂合戦の鳥瞰図の事を知り見に来たが、ホームページ等で合戦の様子をより詳しく紹介できるよう、行軍の様子をフラッシュで表現してほしい。

 ◎新しい鳥瞰図が分かりやすくて良かった。

 ◎ボランティアの説明があり、非常に分かりやすかった。

 ◎滋賀に伝わった最上家のことも、最上家の流れとして展示してほしい。

 ◎兜や鎧を多く展示してほしい。
 
 ◎説明がとても分かりやすく、とても楽しかった。

 ◎音声ガイドがとても聞きやすく、詳しく説明されていてとても良かった。

 ◎入館料をとってもよいと思う。

 ◎ボランティアの方のおかげで、最上義光の存在と人物像が分かった。帰宅したら、この地域の歴史に関する本を読んだり、友達にも薦めたいと思う。是非、大河ドラマにしてほしい。

 ◎見た甲斐があった、これだけ面白い展示を無料でやっているのは凄いと思う。ガイドの方の説明もとても面白かった。山形城が復元されるのを楽しみにしている。

 ◎山形城について詳しく説明してもらい良かった。義光公の兜と指揮棒が見れて感動した。ボランティアの方の説明は、とても丁寧で分かりやすかった。また今度、立ち寄りたいと思う。

 ◎資料だけでは気づかない新たな知識をガイドの方に教わりました。知らずに来たが、「企画展」も面白かった。人それぞれの御宝は良いですね。

 ◎現在も続いている最上家の様子が感じられて良かった。

 ◎企画展について展示はしっかりしていた。しかし、展示のテーマや主旨が常設展と対比的に比べられる事で、ぼやけていると思う。

 ◎ボランティアの方に丁寧に教えてもらい良くわかった。今後大河ドラマ等でもっとクローズアップされると良いと思う。

 ◎市長さんの決断だそうですが、先ず無料に驚いた。スタッフの方が親切で丁寧に説明してくれたので良く分かった。

 ◎以前より資料が充実してきたと思う。少しで良いから駐車場を確保してほしい。

 ◎山形の基礎を築いた最上義光を山形市民が尊重し、功績を大事にしている事が素晴らしいと思う。

 ◎とてもきれいに整理されていて、参考になる。ガイドブックもグッド。

 ◎案内人さんの詳しい解説が大変わかりやすかった。写真用の紙の兜が良かった。

 ◎無料でいろいろ見たのはすごく良かったが、歴史についてもう少し詳しくより多くの資料を展示してほしい。

 ◎もう少し分かりやすい表示をしてほしい。順路が分かりにくかった。


最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【本城満茂 (11)】

 この検地とほぼ同時期の慶長十八(1613)年に、満茂はその居城を赤尾津から本城へと移したと見られている。「本城満茂」の名が書状史料上に初出するのが十月十日付鈴木・斎藤連署書状(注28)においてであり、この書状が発給されたとみられる慶長十八年十月にはすでに本城へと支配の中心が移っていた。それより前に発給された同年二月五日付日野備中(注28)書状には、

  将又去二日(より)古雪御普請ニ御出被成候由、
  御太儀ニ存候、被入御念候由、長尾美作殿(より)も被申越候、
  其等之儀をも懇ニ披露仕候、

 とあり、慶長十八年の初頭には「古雪」の普請があったようだ。本城城は古雪湊を包摂する形でその城下町を形成しており、この普請は本城城の普請を指すと見てよい。姉崎岩蔵は、楯岡満茂がその本姓をもって同地を本城と改称した、としているが、『本城系譜』には「本氏 楯岡」とあり、その本姓が本城であったかどうかは疑わしい。それ以前に満茂が「本城」の名を名乗った事例はなく、楯岡・湯沢・本城と居城の所在地をその姓とするのが通例となっていた。もし姉崎氏の言うように、自らの本姓を所在地につけるならば、湯沢・赤尾津も本城と改称されていなければならないだろう。従って、元から存在した「本城村」の名が城名となり、満茂もその姓を本城とした、と見るのが妥当であろう。

 満茂が赤尾津より本城に移って九年後、幕府は最上家を改易とし、それに伴って最上領の各城も接収されることとなった。改易の理由となった、家督相続に関連して起こった家臣達の主導権争いの中、本城満茂がいかなる姿勢を保ったか、残念ながらそれを語る書状史料は残されてはいない。だが、『東武実録』によれば、「甲方」として鮭延秀綱・上山光広ら山野辺義忠を後継に推す派閥中に本城満茂の名がみえる。これら「甲方」の家臣達は、最上領内に大きな知行地を持つ城持上級家臣であり、その支配体制も最上氏からの独立性が強かった。幕府の審議の結果、藩主の主導権確立を企図した「乙方」の松根備前が筑後柳川へ流され、家臣達へは老臣が一致団結して藩主を補佐するようにとの厳命がなされたが、鮭延秀綱・山野辺義忠らはその命に従わず、逆に義俊を「天性魯鈍ニシテ、国家ヲ保ツヘキ気質ニ非ス」と評し管理能力の欠如を理由に藩主義俊の更迭・山野辺義忠の最上家家督相続を幕府に願い出る始末だった(注29)。幕府はこの動きを上意に背くものとし、評定の末ついに最上家改易が決定した。支城接収に伴い、家臣達は方々の大名へお預けとなったが、本城満茂は前橋酒井家へと流される事となった。酒井家においては客分として千二百石を給されていたようである(注30)。「実子無御座候ニ付弟楯岡長門守嫡男親茂ヲ奉願養子ニ候、」(注31)とあるように親茂を養子としてその後嗣としたとあるが、元和三年に最上家親が「本城播磨守」という人物に対して親の一字を与えている。満茂実子の可能性があるが、この播磨守の消息は判然としない。寛永七(1630)年に一度は隠居した満茂であったが、その後親茂が急死したため再勤し、長門守の婿養子信義の三男満旨を養子として迎え、跡を継がせた。
 満茂は、「本城氏系図」によれば寛永十六(1639)年に八十四歳で没したとされる。「本城家譜」の記述も寛永十六年、八十四歳で没とあり、またその生年は弘治二(1556)年とあり計算上矛盾も無い為、この没年は正しいとしてよいだろう。その後、本城氏は酒井家にあって要職を務めていたようだ。それは、寛延二(1749)年に酒井家が前橋より姫路へ移ってからも変わりは無かったのである。

 以上が本城満茂の動向である。本城氏に関しては比較的先行研究の蓄積が多いが、その家系に関する問題、あるいは楯岡城主を継いだ時点での問題がおざなりにされてきたこともあり、本稿で多少の私見を述べた。
<了>

(注28) 秋田藩家蔵文書
(注29)『上杉年譜』
(注30)『前橋御分限帳』
(注31)「本城系譜」


氏家守棟(1)へ→

最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【コラム:新発見の最上義光書状に関して】


 2011年2月1日付の各種報道で、山形大学の松尾剛次教授が最上義光の文書を新発見したと大きく取り上げられました。

 会見での談話によれば、日付けは慶長十六(1611)年八月十二日付で、最上家家臣「進藤但馬」「原美濃」両名の署名と、義光の「七得印」が押印されており、内容としては義光の従四位上叙位を祝した進物に対する礼状との事でした。

 この「七得印」とは、中国の古典である『春秋左氏伝』に記されている、君主の心がけるべき七つの武徳(=七徳、七得とも)を印判のデザインとして使用したものだと言われています。

一、暴を禁ず ……… むやみな暴力を禁じる
二、兵を収(おさ)む ……… 武器をしまう
三、大を保つ ……… 国の威勢を大きいままに保つ
四、功(こう)を定む ……… 君主としての功あるように励む
五、民を安んず ……… 民心を安定させる
六、衆を和(やわ)らぐ ……… 大衆を仲良くさせる
七、財を豊かにす ……… 財産を蓄えるよう努める

 これが七徳であり、これらを備えたものが王として君臨するのにふさわしいとされていました。義光も、この「七徳」を目指していた、という事でしょう。


 次に、連名で署名している進藤但馬と原美濃について。
 両名ともに、庄内において酒田城主・志村伊豆守や大山城主・下治右衛門の指揮下で、年貢の徴収管理や検地などの内政実務を担当した人物です。
 『最上義光分限帳』によれば、原は千五百石、進藤は八百七十六石を給されていた上級家臣でした。まさに、最上家の「縁の下の力持ち」といえる者たちです。(両名についての詳しい検討は、拙稿「最上家家臣余禄」志村光安(5)・志村光安(6)・志村光安(7)をご覧ください。)

 今後も、新たな史料が発見されることを願ってやみません。


【里村家の人々/さとむらけのひとびと】 〜最上家の文芸を指導した〜
   
 日本では中世以来、特定の家が特定分野の職能を受け持つ伝統が一段と顕著になった。和歌の冷泉・二条、絵画の狩野、茶の湯の千家などはよく知られているが、連歌では桃山時代を区切りとして里村家が中心となった。里村一派の人たちは、いずれも最上家と親しかったが、ここでは特に目立つ4人(略系譜、太字で示した)を挙げておこう

略系譜は>>こちら

�里村玄仍。義光同席、31回。
 紹巴の長男である。義光が京都で活躍していた文祿慶長初期(1593〜1600)は30歳前だったが、紹巴もこの長男を頼みにしていたようで、いろんな席に帯同している。能書家で、義光らの連歌を美麗な料紙に清書したものが、これまでに四巻見つかっている。『若草山』という連歌指南書を書き写して義光に贈ったのも玄仍だった。
 慶長2年(1597)正月には、最上義康と対で短連歌(上五七五と下七七だけ)を詠みあった。

 一夜とは霞やへだて今日の春   義康
 雪のこりつつ東雲(しののめ)の山   玄仍   
  
 『北野社家日記』という古記録の慶長3年10月7日の条に、「最上殿内衆」から依頼されて、北野天満宮へ『源氏物語』を発注し、手土産として最上名産「ろうそく二十丁」を届けたのが玄仍であった。
 印刷出版のほとんどなかった当時、書籍を手に入れるには書き写すしか方法がなく、そういう場合、良質の原本を所蔵し、短時日のうちに写本が作れるところとしては、蔵書も学者もそろった北野天満宮が随一だった。「最上殿内衆」の依頼がここに来たのも、自然なことだ。
 「内衆」とは普通家来をさす。しかし、最上の家来たちが自らの発意で『源氏物語』五十四帖を発注したとは考えにくい。憶測だが、その背後に義光の三度目の妻、嫁いで間もないうら若い清水夫人がいたのではあるまいか。大名の奥方から直接依頼するわけには、当時はいかなかっただろうから、家来を通すことになるはずだし、誰に頼むかとなれば、紹巴の子息で京都文化界に知己が多く、最上家に親しく出入りしていた玄仍が、都合のよい立場にあったのだろう。できあがった『源氏物語』写本は、最上家側に届けられたはずだが、それがいつなのか、惜しむらくは記録がない。
 慶長七年に父紹巴が亡くなったとき、七日ごとに百韻連歌を独りで作った高名な「玄仍独吟七百韻」写本が最上義光歴史館に収蔵されている。
慶長12年(1607)7月4日死去。年齢については幾つかの説があるが、活動した時期や、弟玄仲の年齢などを勘案して、元亀2年(1571)生まれの37歳としてよいように思う。

�里村玄仲。義光同席、21回。
 紹巴の次男。天正4年(1576)生まれ、寛永15年(1638)没。流謫の身となった父親について近江に住んだ一時期があるらしい。若かったためか、発句、脇句は少ないが、慶長4年5月5日、最上邸での節句祝連歌では珍しく発句を作った。客として、日野輝資、飛鳥井雅庸、高倉永孝、勧修寺光豊ら、堂上公家衆が4人も列席した座である。 
     
 ふけばふくあやめもわかぬ軒端かな   玄仲
 義光が脇句を付けたが、墨よごれのため解読できない(京都大学付属図書館所蔵)。 

玄仲は、御朱印貿易の豪商、兼河川土木事業家である角倉了以の姪を妻とし、長女「なべ」ほかを産んだ。この「なべ」が、江戸時代の天才的儒学者といわれる伊藤仁斎を産んだ。仁斎は、玄仲の孫、紹巴の曾孫ということになるのだから、血は争えないものだ。
 玄仍・玄仲の系統は、その後江戸幕府連歌所で里村北家と呼ばれた。
 (ついでだが、角倉了以もまた義光と5回連歌会を同席しており、親しい交流があった。駒姫らを弔う京都瑞泉寺の建立者でもある。) 

�里村昌叱。義光との同席、30回。
 天文8年(1539)生まれ、義光より6歳年上である。紹巴が教えを受けた里村昌休の子で、紹巴の娘をめとった。紹巴に次ぐ連歌の権威とされ、義光らとの連歌では発句が9回あり、紹巴の11回に次ぐ。やはり重い存在だった。紹巴が近江に追放されている間は、特に指導者としての動きが目立つ。慶長8年(1603)没。

�里村昌琢。義光同席、30回。
 天正2年(1574)生まれ、寛永13年(1636)没。昌叱の子。はじめ景敏と名乗り、慶長4年(1599)10月ごろに改名した。ほとんど毎回、父とともに義光らの連歌に加わり、回数も同じである。玄仲同様、発句が見られないのは年齢が若かったせいだろう。脇句も、義光の発句につけた例が一度あるだけだ。
 後に江戸幕府連歌所の宗匠になった。里村南家の初代、連歌界の重鎮として尊重された。
 義光が連歌を作らなくなった後も、彼は最上一族と連歌をとおして親しかった。徳島里見家文書(東根市史編集資料8)がそれを物語っているが、それについては別項(東根景佐・親宜の項)で書くこととする。

 桃山時代から江戸時代初期、里村一派の連歌師、文学者グループは、最上一門と深く豊かな交流をしていたのだった。その影響が山形の文化にどんな痕跡を残したか。この問題は、今後の緻密な検証にまつ必要があるだろう。
■■片桐繁雄著