最上義光歴史館

最上義光歴史館
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坂紀伊守光秀(さかきいのかみあきひで)の命日元和2年(1616)4月26日にちなんで、最上家ゆかりの武家の肖像画を特別公開しています。このたびは坂家の末裔坂健一氏より光秀没後に坂家の家督を継いだ坂重内光重(さかじゅうないあきしげ)の肖像画を借用し公開しています。坂重内光重像は今回はじめて一般に公開されます。また、当館より北館大学助利長像もあわせて展示公開しています。

【期 間】   
平成24年4月17日(火)〜5月20日(日)

 


坂紀伊守像(坂光秀像)  山形県指定有形文化財   


坂重内光重像 


北館大学助利長像      



《平成23年度3月分の入館者アンケート集計結果》

 この集計結果は平成24年3月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。

企画展 (3/1〜3/31)

開館日数・・・・・・・・・・・27日間
入館者数・・・・・・・・・・1,013人
回答者数・・・・・・・・・・・123人

1.本日は最上義光歴史館に

�ヾ覯菘犬鮓�に来た・・・・・・・・・・・・・・・・7%
�⊂鐇濺玄┐鮓�に来た・・・・・・・・・・・・・・55%
�N省�見に来た・・・・・・・・・・・・・・・・・38%

2.�´�の方、企画展を何で知りましたか
 
(1)ポスター・チラシ等・・・・・・・・・・・13%
 (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・15%
 (3)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・4%
 (4)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・2%
(5)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・9%
(6)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・45%
 (7)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・13%

  �△諒�、当館をどこで知りましたか

(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・10%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・10%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・13%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・1%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・0%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・13%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・・6%
(8)観光案内所 (駅など) ・・・・・・・・・・12%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・28%
(10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・6%

3.歴史館の入館は何回目ですか

(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・93%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・6%
(3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・2%

4.ご覧になられた感想

(1)内容はいかがでしたか
 
 常設展示

�‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・40%
�△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・46%
��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・13%
�い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・1%

   企画展

�‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・42%
�△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・40%
��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・16%
�い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・2%


(2)最上義光と最上家について

�,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・39%
�△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・55%
��わからなかった・・・・・・・・・・・・・1%
�い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%

〜利用者の声〜

◎卒業存積がおもしろかった。(めずらしい)大名行列の絵巻が良かった。屏風の色調がすぐれている。合戦の説明がわかりやすかった。

◎案内、説明してもらい大変勉強になった。次回は妻もつれてきたいと思う。

◎卒業存積がおもしろかった。大正〜昭和にかけて取り上げられる絵の題材が変化していくのが大変興味深く、当時の美術教育の変遷がわかっておもしろかった。

◎順路を示す看板のようなものがほしい。

◎大変詳しく案内の方に歴史を教えてもらい、また来たいと思った。

◎戦国時代〜江戸幕府までの間の資料、内容がもっと知りたい。

◎親切にガイドしてもらい、良かった。

◎説明文、マーク等を大きく、もう少しわかりやすくすれば良いと感じた。
スクリーンを使っての説明があっても良いと思う。

◎山形にいても知らなかった義光のことがわかった。

◎コーナー4の5項目の業績で義光の業績が良く分かり、大河ドラマの最上家の
位置が分かった。

◎山形の歴史が良く分かった。

◎かりがねの旗は切断したのでしょうか?絵図では三段になっておりますが。

◎武具などに興味があるので、もう少しそれらの類があれば良かったと思う。

◎最上家は意外と大きな藩なのが分かった。

◎無料でいいものを見せてもらえて(特に義光や伊達政宗の書状)良かった。

◎図が多く用いられており、分りやすかった。

◎無料になったのがいい。(以前は有料だった。)

◎気軽に見られ、勉強にもなった。

◎ボランティアガイドの方の説明が良くて、歴史の時代背景などつなげてくれて良かった。やはり一人で勝手に見ていたら、解らずじまいで帰る所だった。大変よく
勉強になり、歴史が増々好きになった。

◎もう少し刀が見たい。

◎企画展が面白かった。昔の子供たちの字の上手なことにびっくりした。我が身を振り返り恥ずかしくなる。友人の意見で企画展の絵はがきを作り売り出してはとい
う意見があった。

◎TVドラマになるといいと思う。

◎展示品を増やしてほしい。

◎ホームページなどで広報お願いします。とてもよかった。

◎説明がとても丁寧で大変勉強になった。また勉強して、改めて来たいと思った。

◎ガイドの方にお願いしたかったが、今回は時間が無かったので次はお願いしたい。

◎最上義光最高。今度はもっと時間をかけて見に来たい。

◎資料がきちんと展示されていて、すばらしい。無料で見せて頂き感謝。

◎クイズ等で興味をひかせている所が良いと思う。

◎ガラスの中の字が小さいので目の悪い人には見えづらい。

◎昔と今の山形が最上義光歴史館を見て分かった。また機会があったら来たいと思う。

◎子供たちの卒業記念はびっくり、大正四年の絵が良かった。説明してくれる人もいたので良かった。

◎無料にするのはもったいないくらいの内容。300円くらい取って、より充実した内容を期待する。

◎最上義光の悪いイメージを払拭できるように、お願いしたい。


■名称 
「鐵[kurogane]の美2012」 〜武士[mononofu]と日本刀〜 

■会期 
4月10日(火)〜7月8日(日)

■内容
収蔵品の中から武士との係りがわかる刀剣資料10振を公開しています。

■展示刀剣
太刀  銘  一 備前国吉(以下切)/嘉暦二(以下切)
太刀  銘  藤光/元和元□□月十日給之兼松又四郎源吉政
短刀  銘  則国(黒田家伝来/重要美術品)
短刀  銘  備前長船住景光/元徳三年五月日(重要美術品)
刀  朱銘  来国次
太刀  銘  備□長船盛重
刀   銘  月山正信作
太刀  銘  出羽国酒田住兼高作/八幡宮奉納源家親
脇指  銘  (三日月)大慶直胤作/文化二年八月日
脇指  銘  池田一秀入道龍軒/文化十一年二月日 袁茂政所佩

最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【氏家守棟(13)】


 しかし、その和議も翌天正十五(1587)年には破られて最上家の庄内侵攻が本格化し(注40)、十一月までには武藤義興を滅ぼしている(注41)。翌天正十六年の二月には、由利十二頭の一人である岩屋朝盛から氏家尾張守に書状が送られており(注42、43)、岩屋が昨冬庄内へ下向した義光に参上した様子が伝えられている。わざわざ庄内においての出来事を連絡している内容であることから、氏家尾張守は天正十五年の庄内攻略には参加しなかったか、あるいは義光と交代し山形に帰陣した可能性を指摘できよう。

 書状史料の上で、再び氏家守棟が登場するのは天正十九(1591)年の事である。
 前年から引きつづいたいわゆる太閤検地において、前年に仕置軍の先導として仙北に入った鮭延秀綱・寒河江光俊は、小野寺氏領湯沢城に滞陣し上浦郡の領有権を主張する構えを見せたが、奉行色部長真の勧告により同地を退陣したと見られる(注44)。しかし、天正十八年末から天正十九年春にかけて最上義光が上洛、秀吉に対して工作した結果、上浦郡は最上家の領有権が認められた(注45)。これに関して、守棟は色部に対し、最上家が上浦郡の領有権を獲得した件を伝え、また百姓の逃散に対処するよう要請した書状を色部に対し発給している(注46)。同内容を記した鮭延秀綱書状(注47)の中で「山形留守居氏家尾張守」と明確に記載されており、守棟は、義光上洛中の在国衆を管轄する責任者である事が推測されるのである。

 これ以降「氏家尾張守」の名が記載される書状史料は途絶える。『奥羽永慶軍記』最上義光・伊達政宗閉門之事条で、両家の代表的家臣の名が挙げられているが、その中に「氏家尾張守」の名はない。この記事内容は文禄四(1595)年の出来事を指しており、恐らく守棟は文禄四年までに死亡しているものと推測されるが、根拠としては若干薄いと言わざるをえない。新たな史料の発見が待たれる。 

 以上、書状史料を中心として氏家守棟の動向を探った。守棟は、最上義光の代理として各地を転戦し、また義光へ対する他家よりの書状の披露や添状の発給等を担当しており、軍事外交面での活躍が顕著である。義光の上洛中は「山形留守居」としての役割を課されており、氏家氏には、斯波氏入部から引き続く家宰的性格が強く残存していたと考えられる。
〈終〉

(注40) 『山形県史 古代中世史料1』
    第二高等学校所蔵文書 五月廿五日付武藤義興書状写
(注41) 『秋田県史 資料編第1巻』
    田村文書 霜月廿四日付最上義光書状
(注42) 『山形県史 古代中世史料1』
    秋田藩家蔵文書 衣更着九日付岩屋朝盛書状
(注43) 天正十六年の年号比定は『山形県史』による。
(注44) 『秋田県史 資料編第1巻』
    色部文書 十月廿五日付鮭延愛綱書状
(注45) 『秋田県史 資料編第1巻』
    色部文書 二月八日付鮭延愛綱書状
(注46) 『秋田県史 資料編第1巻』
    色部文書 二月廿六日付氏家守棟書状
(注47) 『秋田県史 資料編第1巻』
    色部文書 二月廿八日付鮭延愛綱書状




最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【氏家守棟(12)】


 天正十年も秋に入る頃から、最上家の庄内へ対する干渉が活発化する。九月には庄内国人来次氏秀が同国人砂越次郎へ書状を送り、鮭延秀綱が連絡を寄越した事を伝えており、秀綱による調略の手が庄内へと伸びている事をうかがわせる(注32)。さらに十一月には、前述した通り、義光が安東愛季に対して、白岩八郎四郎が大宝寺に通じた為これを討伐したこと、来春中には清水・鮭延両氏を率いて庄内へ攻め込むので、時を同じくして攻め入って欲しいという内容の書状を送っている(注31)。氏家は同日付同内容の副状(注33)を送っており、十一月時点では義光と行動を共にして、庄内問題に対応していたのであろうか。安東氏と庄内を掌握する武藤氏は由利地方の主導権を巡って抗争中であり、利害関係の一致する最上と安東は同盟関係にあったといえる。庄内進出は当時の最上家にとって最重要懸案であり、同盟者である安東氏と連絡を密にする事は至極当然とも言える事であった。

 翌天正十一(1583)年三月に、武藤義氏は庄内国人前森蔵人(東禅寺筑前)に攻められ敗死する。この前森蔵人の謀反は、武藤義氏の圧政と義光の策動が要因となったものだという(注34,35)。義氏の後継には丸岡兵庫義興が迎えられたが、それで庄内の争乱が収まったわけではなかった。天正十二(1584)年には義興・東禅寺らが上杉氏に接近し、臣従する意思を伝えている(注36)。対して、義光は天正十四(1586)年一月に、東禅寺筑前へ氏家守棟が庄内に出馬する予定であるという内容の書状を送っている。

  史料�察\儀郤憩�付最上義光書状(注37)
   急度□啓之候、(中略)我々為代官氏尾[欠所]之条、(中略)
   夫迄之儀、餘日有間布候得共、先以人数少々可相下之由、
   氏尾へ申付候間、少勢之事者、近々可致下着候、定具成儀者、
   従氏尾所可被及□候歟、其内之儀、追々後軍可相下之条、
   可心安候、(後略)
   正月七日  義光(鼎形黒印)
     東禅寺筑前守殿へ

 「先以人数少々可相下之由、氏尾へ申付候間」とあるように、ここでも、守棟は義光の命を受けて庄内へ軍勢を送る差配を行っている事を読み取ることが可能で、「代官」と合わせて考えれば、庄内方面経略の大部分を守棟が担当していたと考えてよいだろう。『奥羽永慶軍記』によれば同年五月に仙北小野寺氏との間に抗争が起こり、その陣立ての中に「氏江尾張守」の名がみえているが、武藤義興が家臣に対し藤島城防備の勲功を賞している(注38)し、同年冬には伊達政宗の仲介により最上・大宝寺の間に和議が結ばれていることが確認される(注39)ことから、最上家と武藤氏との間に実際に戦闘が発生している可能性は高い。史料の信頼性を考慮すれば、氏家は仙北ではなく庄内へと出陣したとみるのが妥当であろうか。
〈続〉

(注32) 『山形県史 古代中世史料1』
    筆濃余里所収文書 菊月二十一日付来次氏秀書状写
(注33) 『山形県史 古代中世史料1』
    湊文書 十一月廿五日付氏家守棟書状
(注34) 『来迎寺年代記』
(注35) 『山形県史 古代中世史料1』
    別集奥羽文書纂所収文書 卯月一日付最上義光書状
(注36) 『山形県史 古代中世史料1』
    上杉家文書 卯月廿八日付武藤義興書状
(注37) 『山形県史 古代中世史料1』
    大塚甚内氏所蔵文書 正月七日付最上義光書状
(注38) 『山形県史 古代中世史料1』
    高坂文書 天正十四年五月二日付武藤義興書状
(注39) 『山形県史 古代中世史料1』
    雑纂諸家文書所収文書 十二月二日付伊達政宗書状


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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【氏家守棟(11)】


 それでは、この文書に見える「敵」というのは誰の事であろうか。当時庄内に勢を張っていた武藤氏は、最上家に対して敵対的な立場を取っていたが、天正十年には由利地方侵攻を企図していた(注29)と同時に、村山郡へ軍事行動を行う動きを見せた(注30)。義光は、その対応として「庄中へ鮭延典膳さし越」そうとしたのであろうが、前年に最上家へ服したばかりの地域であったから、諸国人達、あるいは地侍連中が一枚岩であったかというとそうではないだろう。依然として武藤氏は強大な勢力を誇り、加えて三月の時点で氏家が山形へと帰陣してしまっていたとすれば、最上家の影響力が薄れ、国人領主らは自力救済の論理を盾に武藤氏に与する可能性も十分に考えられた。かかる情勢の中で、武藤氏は漫然と軍事行動を実行しようとしたとは考えにくく、恐らく周辺の中小勢力に揺さぶりをかけ、煽動しようとした可能性が高い。事実、大江一族の白岩八郎四郎が武藤氏に内通して反乱を起こし、鎮圧された様子が義光から安東愛季へ対して同年十一月に連絡されている(注31)。この白岩八郎四郎と同様な反乱が、小規模ながらも真室地方でも発生したのではなかろうか。義光はこれを重く見て、「敵」いわゆる煽動に乗った中小勢力の反乱を鎮圧し、また武藤氏の来襲に備えさせる為、その指揮を取らせることを目的として氏家を差し向けたと考えられようか。

 以上をまとめると、氏家は天正九年、最上地方に義光の名代として赴いたとはいえ、鮭延氏ら国人衆に対する影響力はさほど強いものではなく、国人衆やその陪臣達に対する加増・減封等強大な権限を付与されているわけではなかった。安堵された国人達の領地も、国人領主達の自主申告で刈高を把握するのが精一杯といった所ではなかったろうか。さらに天正十年においての真室下向は、「代官の為」と書状にはあるが、実際に鮭延氏や清水氏の領国統治を代行した訳ではなく、単に最上地方の軍事指揮権掌握を限定目的とした派遣であったことが想定されるのである。
〈続〉

(注29) 『山形県史 古代中世史料1』
    田川八幡神社文書 四月三日付武藤義氏書状
(注30) 『山形県史 古代中世史料1』
    秋田藩家蔵文書 七月十二日付武藤義氏書状
(注31) 『山形県史 古代中世史料1』
    湊文書 霜月廿五日付最上義光書状


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