最上義光歴史館

最上義光歴史館
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館内のカビや害虫を駆除するための燻蒸作業を行うため、下記の日程で休館いたします。※17日は臨時開館です。


7月9日(月) 休館日
 10日(火) 臨時休館 
 11日(水) 臨時休館
 12日(木) 臨時休館
 13日(金) 臨時休館
 14日(土) 臨時休館
 15日(日) 臨時休館
 16日(月) 臨時休館
 17日(火) 臨時開館


ご迷惑をおかけしますが、みなさまのご理解ご協力を賜りますようお願い申しあげます。

最上義光歴史館/財団法人山形市文化振興事業団

関東に於ける最上義光の足跡を求め ―特に関ヶ原戦以後に限定して―

【五 慶長十六年の江戸城普請の頃】

 慶長期もやがて終りを告げようとする頃、それは義光も体力の変調からくる肉体の衰えは、それは多方面に渡っての政治的活動にも、多少の変化を与えたのではなかろうか。『当代記』〔十三年条)に、慶長十三年五月頃、義光の在府を伝える記録がある。そこには諸国大名達の献上物の記録の中に、義光と重臣の坂紀伊守の名が見られる。

五月三日 拾    御帽子  最上出羽守
五月八日 五つ   御小袖  最上出羽守
九月九日 百枚   銀子   最上出羽守
九月九日 五拾把  最上綿  坂上紀伊守

 ここに坂紀伊守の名が見られるが、紀伊守は義光とは常に行動を共にしている人物で、義光亡き後も家親の身近かに仕え、重要な立場にあった人物である。この年の義光は、昨年の普請手伝い以来、引き続き在府していたのであろうが、消失した慈恩寺の再建に尽力した義光が、三重塔が同年八月に完成の後、翌年の四月に千部会[注1]を行ったというから、この時期には在国していたのであろう。
 嫡子の駿河守家親は、その身分は幕臣の一員の如く、同十五年と三年後の正月には、恒例の御謡初めに出席、また琉球王の参府に際し、その奏者役を勤めるなど、江戸での華やかな動きを知ることができる。これらは、晩年期に入った義光にしてみれば、更なる最上家繁栄への道として、歓迎すべきものではあったろうが、これが嗣子としての家親と国元との間に、いつしか疎遠関係が生まれてくるのも、致し方のないことであろう。
 この年の工事については、『当代記』は次のように記している。

十六年辛亥三月朔日辛工ヲ起ス、実ハ六日丙午ノ着手ニ係ルト云フ、奥州及信州、関東ノ大名、仙台城主伊達政宗、若松城主蒲生秀行、米沢城主上杉景勝、山形城主最上出羽守、久保田城主佐竹義宣、……助役大名伊達政宗等ハ、自ラ臨テ工事ヲ督シ、将軍秀忠亦殆卜工事ヲ巡視ス、

 このように、北からは伊達・佐竹・最上など、前回から引き続いての助役であった。幸いにその詳細については、「伊達政宗記録事蹟記[注2]」に伊達家の工事進行状況が語られている。その中に義光も再三登場している。この時期、義光は在府していたことが分かる。

三月六日、天気快晴、御普請土取始申候、
三月十日、快晴、台徳院御普請場江披為成候、
三月廿三日、雨小ふり、され共御ふしん仕候、将軍様も御出候、佐渡様も御出候、殿様(政宗)も御すきニ御出、御とをり被成候、又したゝめにやとへかへりに、ふしんはへ御出候間、まかり出候へハ、いろいろ御懇切の御意とも候、またひた殿(蒲生)・景勝(上杉)殿、出羽(義光)殿、御奉行衆より、ほりのわりをあるへく候間、わり衆出し申候、
三月廿八日、天気よし、五ツ時、将軍様御出、川島と御意被下候……殿様(政宗)も御出被成候、少おそく候て、将軍様へあひ御申なく候……人足よるまかり出候間、ひた殿・景勝・出羽殿御奉公申合、夜明申候而、人そく出し申ニさため申候、
四月六日、天気くもり、風吹、将軍様御出被成候、……将軍様御成被成候て、御ことは被下候、御なわはり近頃見事之由被仰出候、佐州さま仰ニハ、ひた殿・景勝・出羽殿へも申理へくよし仰候、
四月廿日、朝より曇り、将軍様御出被成候、殿様(政宗)よき処へ御出、一段御仕合ニ候、四ツ比より少々ふり申候、ひる頃皆以人そくあけ申候、出羽殿丁場ニ而、土よせを申候、くちおしきよし申候、

 この伊達家の記録から、最上家も他の東北大名達と同様に、手伝いを命ぜられたことが分かる。この工事は七月には終了しているが、藩主達をはじめ、将軍も度々現場に姿を見せていたことが判る。またこの年の三月には、これと並行して全国の大名・小名二百数十名にも禁裏修造の役を課している。
 八月、義光は駿府の家康を訪れている。これが単なる時候の挨拶であったのか。「八月二十二日、出羽山形城主最上義光、鴻ヲ家康ニ進ム、家康、之ヲ献ズ」とあり、家康はこれを禁中に献上している。また九月にも家親も駿府入りをして、大鷹を献上している。
■執筆:小野末三

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[注]
1、『寒河江市史・中巻』(寒河江市・平十一年)
2、『東京市史稿・皇城篇』
3、「慶長十六年禁裏御普請帳」(『大日本史料』12編之7)

 《平成24年度4月分の入館者アンケート集計結果》

 この集計結果は平成24年4月1日から同30日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。


     企画展  (4/1 〜4/8)
     常設展示 (4/10〜4/30)

     開館日数・・・・・・・・・・・26日間
     入館者数・・・・・・・・・ 2,151人
     回答者数・・・・・・・・・・・103人


 1.本日は最上義光歴史館に

   �ヾ覯菘犬鮓�に来た・・・・・・・・・・・・・・・・・5%
   �⊂鐇濺玄┐鮓�に来た・・・・・・・・・・・・・・・56%
   �N省�見に来た・・・・・・・・・・・・・・・・・・39%

 2.�´�の方、企画展を何で知りましたか

 (1)ポスター・チラシ等・・・・・・・・・・・12.5%
 (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・12.5%
(3)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・12.5%
 (4)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・・0%
 (5)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・25%
 (6)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・・25%
 (7)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・12.5%

   �△諒�、当館をどこで知りましたか

 (1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・・・7%
 (2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・・・2%
 (3)インターネット・・・・・・・・・・・・・・16%
 (4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・・・1%
 (5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・・・2%
 (6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・・・6%
 (7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・・22%
 (8)観光案内所 (駅など) ・・・・・・・・・・・・9%
 (9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・・30%
 (10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5%

 3.歴史館の入館は何回目ですか

 (1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・・85%
 (2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・・10%
 (3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5%

 4.ご覧になられた感想

 (1)内容はいかがでしたか
 
   常設展示

   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・45%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・45%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・10%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・0%

   企画展

   �‖臺僂茲�った・・・・・・・・・・・・・・63%
   �△茲�った・・・・・・・・・・・・・・・・37%
   ��ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・・・0%
   �い弔泙蕕覆�った・・・・・・・・・・・・・・0%


 (2)最上義光と最上家について

   �,茲�わかった・・・・・・・・・・・・・・36%
   �△錣�った・・・・・・・・・・・・・・・・58%
   ��わからなかった・・・・・・・・・・・・・・2%
   �い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ�%


 〜利用者の声〜

◎頒布資料で義光について書かれた500円位のものがあると良いと思う。

◎鬼切丸(実物)と延沢満延の展示をしてほしい。

◎鬼切丸の実物が見てみたい。

◎伊達家との関係(関ヶ原以前)の義光公の動きをもう少し知りたかった。

◎ガイドさんをお願いしていなかったのに、声をかけてもらい説明してもらえたので大変良かった。

◎文化人としての義光に興味を持った。周辺大名との関係がどのようであったのか詳しく知りたいと思った。

◎大変よろしい。盛岡市にも似た建物が出来たが、十万石と五十万石の力をおもいしらされた。

◎兜がかっこ良かった。

◎京都等観光地と比べ無料に驚いた。料金を取ってもよいと思う。ボランティアガイドの説明と合わせ、すばらしかった。歴史が具体的に理解できた。

◎山形・新潟・仙台の関係がわかった。

◎無料でなくてもよいと思う。

◎大きな施設にしてほしい。義光だけでなく、この時代にかかわった人を全て。

◎昔の城下町と現在の市内状況が一目でわかる参考資料があればよいと思う。

◎説明してもらい歴史が理解でき、楽しく拝見することができた。

◎ボランティアガイドの方の説明が親切で良かった。

◎初めて入館したが、時間を充分取れなかったので、次はゆっくり見学したい。

◎大変良い施設で、無料でしたが料金を払ってもよいと思った。そのほうが、より充実していけると思う。

◎すごく楽しかった。また来たい。

◎初めて来たが、貴重な資料がたくさんあり、歴史の勉強にもなり楽しかった。

◎東北における他の大名(豪族?)との血縁が知りたい。かなり政略結婚で結びついて、親戚同士で争ったりもしていたようなので・・(天文の大乱等)

◎最上家の説明が聞けてよかった。説明がなければ、よくある他の資料館のようなものだと思い、サッと見て帰ってしまったと思う。

◎最上義光公が歴史上果たした役割がよく理解できた。

◎義光の功績がより明確になるような展示方法はないのかな?刀剣について裏側も見える展示をお願いしたい。

◎ボランティアガイドの方の説明がわかりやすく良かった。イメージが変わった。

◎ぜひまた来たいと思う。

◎長谷堂城だけでなく、畑谷城のジオラマも見たい(あったら)わかる範囲でよいから、慶長出羽合戦に出陣した武将、戦死した武将の名前も知りたい。

◎お城の模型があればよかったと思う。

◎いろいろと説明してもらいよかった。いきいきとした情報を感じた。

◎クイズのVOL2を出してほしい。

◎文書の原文には現代訳をつけた方がよいと思う。義光公の兄弟たちについての記述や資料、家臣の構成などのパネルがあった方がもっとわかりやすいと思う。






三十八間総覆輪筋兜
38-Plate Gilt-Edged Ribbed Sujikabuto Helmet

A helmet worn by Mogami Yoshiaki, said to have been a gift from Oda Nobunaga. The helmet bowl is an elegant example of craftsmanship from the early Muromachi period, while features including the shikoro (neckguard) and mabisashi (helmet visor) were reformed during Yoshiaki’s lifetime, when the “sparrows and bamboo” Mogami family crest was also added to the stylized helmet decoration. Worn by Yoshiaki during the Battle of Hasedō in 1600, the helmet was struck by an enemy bullet, but protected Yoshiaki from harm. A testament to the fierceness of the fighting, the helmet still bears the marks of this bullet. Weight, 3.1 kg.
*The twin horned crest and central sword-shaped fixture were restored in March, 2008.(L)


19日に山形市の市川昭男市長が見学に来られました。

今朝(19日)の新聞記事(肖像画の公開について)をご覧になって、ただちにおいでになったとのこと…





肖像画3幅と日本刀の展示を熱心にご覧になっていました。




市川市長またお越しください(^o^)/

関東に於ける最上義光の足跡を求め ―特に関ヶ原戦以後に限定して―

【四 慶長十一、二年の江戸城普請の頃】
 
 慶長十年(1605)暮、幕府は翌年三月に開始する江戸城普請手伝いを、諸国大名に命じている。幕府の大名達に発した年寄「奉書[注1]」から、秋田藩宛のものを取り上げてみる。

態令啓上候、御領分之人足、千石ニ付而壱人宛之積を以、
江戸城御普請被仰付候間、来年三月一日至于江戸参着仕様ニ、可被仰付候、為其如此候、恐々謹言
    大久保相模守 忠隣
    本多佐渡守  正信
 秋田侍従殿
       人々御中

 この年の助役は西国筋の大名が占め、東北・出羽などの大名の参加は無かったようだ。『当代記』には「関東在囲之衆は、去年将軍上洛し給、依造作普請赦免、但去年留守居不上洛の衆、千石に一人つつ人夫を出す」とある。秋田藩が直接、工事に参加したのは十二年であった。
 「最上家譜」が云うには、「十一午江戸御城御普請之刻、家人共差上、群夫ヲ召連御普請之御役相勤候之節」、また「寛政重修諸家譜」も「十一年江戸城の普請をうけたまわり、御書三通を下されて労はせたまふ」と、藩の参加を示唆している。だが『当代記』によると、「当月朔日(十二年閏四月)より江戸普請、関八州并安房・信濃・越後・奥州・出羽衆行之、関東衆百万を二十万石宛五年に分、八十万石にて石をよせ、廿万石にて殿守之石垣被築、奥州衆伊達政宗、米沢長尾景勝、会津蒲生飛騨、最上山縣出羽守、今秋田に住の佐竹、云々とあり、十二年参加の東国大名達の名を挙げている。ここで十一年の普請手伝いの様子を見てみよう。

慶長十一年二月、大名関東へ下り、江戸城石垣ヲ築、其々ノ町場ニ大名等タチツケヲ著シ、自身爰ニ居ス、台徳公朝夕両度ツゝ御普請場へ御歩行ニテ御廻リ遊ハサル、御城初ノ御普請故、欺アルヘキ事、大名等モ尤ノ事也、戦場之役ヲ勤ルトハ、御普請御手伝役ハ、物ノ数ニモオラサルヘシ、扨此節マタハ諸士未タ屋敷ナキ故、町屋ニ宿ス、[注2]

 このように、大名達は直接普請場に出向き、工事を督励していたのであろう。この時期は藩自体の屋敷も完備されてはおらず、家臣や多くの人夫達の宿舎の確保も、大変な仕事であったであろう [注3] 。「最上家譜」に、次のような秀忠からの書状がある。

(前略)
同十一午江戸御城御普請之刻、家人共差上、群夫ヲ召連御普君之御役相勤候之節、
(イ)
就其許普請、差越使者之苦労之程察恩召候、猶口上申含候也、
 五月十二日  秀忠 (御黒印)
最上少将とのへ
(ロ)
為普請見廻差越使者、炎天之時分苦労之程察思召候、将又帷子如目録遣之候、猶之候、猶口上申含候也、
 六月廿一日  秀忠 (衛黒印)
  最上少将とのへ
(ハ)
来翰令被閲候、然者今度普請延引ニ付而之差上候者共、自路次罷帰候由尤候、被入念候旨早々示預、本望之至候、猶期後音之時、 恐々謹言
 六月廿八日  秀忠 (御判)
  最上出羽守殿

 この三通の書状のうちから(イ)、(ロ)は「最上少将」宛となっているが、義光の少将叙任は慶長十六年(1611)以降であるから、これはそれ以後の普請の際に下されたものと考えるべきである。これが「最上家伝覚書」では、(イ)は「五月十三日、御黒印、最上侍従とのへ」と。(ロ)は「最上侍従とのへ」。(ハ)は「家康御判」としている。このように、同じ最上家側の記録とは申せ、何時しかこのような誤りも生じてくるようだ[注4]。
 『出羽三山史料集』には、「初ニ義光庄内ヲ切取納後、慶長十一年六月最上出羽守義光、羽黒御参詣有り」と、六月には在国している。
 「武徳編年集成」(『東京市史稿』)は次のようにいう。
 
朔日江戸城本丸ノ天守修造始ル、伊達・蒲生・上杉・最上・佐竹・溝口・掘・村上・等是ニ与ル、天守台二重目ハ伊達政宗一人ニテ是ヲ修造ス、天守台石垣ハ南部。津軽両家是ヲ築ク、関東及ヒ信州御譜代ニ非サル十万石ヨリ一万石ノ輩、其高都合二百万石ヲ五組トシ、其四組石ヲ運送シ、一組ハ是ヲ築ク、

 この十二年の工事開始は前年度を引継ぎ、閏四月に始まっている。伊達家は天守閣の築造と、最上家と同様に掘開削にも従事している。またこの年は駿府城の二度目の工事も始まっている。『当代記』は次のようにいう。
 
此比、駿河為普清、越前・美濃・尾張・三州。速江衆下る、上方衆去年江戸普請に被下衆、此度駿河へ悉相下、是は何も一万石二万石、或は千石二千石とりの小身の衆也
 
 この工事は七月には一応の完成を見るが、暮に失火で消失、改めて完成したのは翌年の十月である。初めの完成時には朝廷、諸大名の祝賀を受け[注5]、義光も「慶長十二未七月、神君駿府江御移之節、参府恐悦、国許ノ土産献上」と、「最上家譜」はその駿府入りを伝えている。
■執筆:小野末三

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[注] 
1、『江戸幕府の制度と伝達文書』(角川書店・平十一年 高木将作)
2、「君臣言行録」(『東京市史稿』)
3、『千代田区史・上巻』(千代田区・昭三十五年)
毛利家文書によると、家臣の普請役割当てを総数2,988人として、十一年正月には1,980余人が萩を出発、これも軍役の一種として藩から補助があるとしても、家臣達にしては大きな経済的負担となり、この江戸勤番を果たすために負債に苦しられ、藩自体も京・堺の商人から多くの金子を工面したという。
4、『山形県史・第二巻近世編上』(山形県・昭六十年)
この書状については、慶長十一年義光が人足を途中で帰国させ、将軍より与えられた感状である。普請延期とはこの年は西日本の大名達による普請であったので、最上勢はすぐ帰国したのではといっているが、「最上少将」についての疑念は示していない。
5、『史料綜覧』(慶長十二年七月条)
駿府城修築ノ功竣り、家康、之ニ移ル、尋テ、太刀・馬ヲ家康ニ賜ヒ、政仁親王モ亦、太刀・馬ヲ賜フ、秀忠・豊臣秀吉及ビ諸大名等、各大名達、冬物ヲ進メテ賀ス、