最上義光歴史館

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 昨年、山形市は2月8日を「ラーメンの日」に制定し、今年の2月1〜11日に「『山ラー』フェア」を開催しスタンプラリーやトークイベントなど行います。このフェアとあわせ、当館にもお立ち寄りいただければ幸いです。「食べてから観るか、観てから食べるか」、昔、そんな宣伝文句があり、いや、あれは「食べる」じゃなくて「読む」でしたか、失礼しました。
 さて、この「ラーメンの日」というのは、総務省の家計調査においてラーメンの世帯当たりの消費額が県庁所在地で日本一となり、山形市が「聖地宣言」を行ったことによるものです。2月8日というのは、その家計調査の発表時期にちなむものです。
 山形市にはその他にも日本一があり、まず「さといも」と「こんにゃく」。これは「芋煮」の材料であるためですが、なぜか「炭酸飲料」の消費量も日本一です。これが本当によくわからず、炭酸飲料が芋煮会のマストアイテムというわけでもなく、コーラの早飲み競争が山形で流行しているわけでもなく、どう消費されるのかナゾなのです。あと日本一としては「たけのこ」があるのですが、これもよくわからず、「孟宗汁」とか「土佐煮」とかを頻繁に食べるわけでもなく、ちょいと牛肉とともに煮物にしたりはしますが、それでも重量ベースで2位の新潟市の2倍以上、金額ベースで2位の京都市の1.5倍というのはどうしたことなのでしょうか。
 とにかくこういうことからすれば山形市は、「こんにゃくの聖地」でも「炭酸飲料の聖地」でも「たけのこの聖地」でもでもよかったとは思うのですが、さてはともあれ「ラーメンの聖地」を宣言したのです。
 さて、ここで問題は、「おすすめの店はどこ」ということですが、その前にそもそも「山形ラーメンとはどんなもの」ということが問題です。これを山形市民に問うても、きっと某局のチコちゃんに質問された人のようになるかもしれません。まず、スープは牛骨、豚骨、鶏ガラ、魚粉、貝だしとなんでもありで、麺も細いちぢれ麺から太いストレート麺まで、チャーシューは牛、豚そして鶏もありで、つまりなんでもありというのが山形ラーメンの特徴です。関係者はこれを「多様性」と言っていまして、なんか先端を行っている感じはします。これを横文字で言えば「ダイバーシティ・ラーメンシティ」とでもなるのかしらん。
 そのうえで、どこがおススメかと問われれば、ここは「ソバリエ」の教えが役に立ちます。この「ソバリエ」というのは、かつて山形は、ラーメン推しの前にソバ推しだった経過があり、そのときにソバの案内役として、ソムリエをもじって「ソバリエ」というのを養成しました。その山形のソバというのも、そば粉は晒し粉からひきぐるみ粉まで、辛いツユから甘いツユまで、切り方も太麺から細麺まで、店によってまちまちで、ラーメンと同様に「山形そば」の定義ができないのですが、「ソバリエ」はうまいまずいということは言わず、どんなそばが食べたいのかを聞いて、それに合ったそば店を紹介するのを役割とします。例えば、更科系の上品なそばであればあそこ、そばの風味豊かな田舎そばであればここ、とお薦めするのです。これをラーメンにも適用してはどうかと。実際、ラーメンソムリエというのがあるそうですが。
 さて、本職のソムリエは、その品種や産地などの知識とともに「ワインの言葉」というものを持っています。アロマはとか、ポディはとか、アタックがとか余韻がとか、いくつかのポイントとともに、例えば、「ブラックチェリーの色彩にコーヒーの香ばしさ」とか、さらには熟成した赤ワインには「濡れた子犬のような匂い」とか、石油臭がするリースリングワインには「キューピー人形の香り」とか表現するそうです。まあ、客の方はせっかくの説明をきいても、そのうち酔っぱらって赤や白さえもごっちゃになってしまうのですが。
 では、ラーメンをそんな言葉で表現したらどうでしょうか。「蔵王山系の伏流水がきらめく黄金色のスープに、のびやかに育った肉牛のアロマと、恵まれた大地の小麦の香りが漂う、山形のテロワールが生み出した一杯。アタックは優しく、しかしながらボディはコクがあり、もう一杯食べたくなる余韻がある。」という感じでしょうか。どんなラーメンなのかよくわかりませんが。



↑ 「山ラー」フェアとあわせ、当館にもお立ち寄りを。今年は雪が少ないのですが、先日の大寒波のときはご覧のとおりでした。雪景色の中でラーメンが楽しめるかも。

(→館長裏日記へ進む)

続・伊達政宗毒殺未遂事件の真相

はじめに
 伊達政宗毒殺未遂事件については、『歴史館だより Vol.6』(平成十一年三月発行)で「伊達政宗の母義姫」と題し論じたことがある。一九九四年に発見された虎哉和尚の手紙(文禄三年十一月二十七日 大有和尚宛 仙台市博物館保管)をもとに、伊達家の正史「貞山公治家記録」(元禄十六年 仙台市博物館所蔵)の義姫山形出奔の時期の誤りを指摘したものであった。同時に通説の根拠とされてきた「貞山公治家記録」の信憑性への疑問と事件の全面的見直しの必要性を述べたものであった。
 その後、この事件について調査・研究を進めてきたが、その成果は「伊達政宗と母義姫―毒殺未遂事件と弟殺害について―」(『市史せんだい』Vol.27 仙台市博物館、二〇一七年九月)として発表した。その中で、東京都あきる野市横沢(旧五日市町)にある真言宗の古刹、大悲願寺の伊達政宗書状(写真1)や過去帳などの資料をもとに、政宗毒殺未遂事件と弟小次郎殺害は、小田原参陣という伊達家存亡の重大局面を前に、伊達家の一本化(兄弟争いの根を断ち切る)を図り、小田原で政宗に万が一のことがあっても伊達家が存続できるように、政宗と母が共謀した偽装(狂言)ではないか、と述べた。母による毒殺未遂事件はなかったし、弟小次郎も生きていた可能性が高い、というのが結論である。


(写真1)
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 今回、歴史館より前回以降の研究成果を紹介してほしいとの要請があり寄稿することにした。『市史せんだい』発表と重複する部分があることをお許しいただきたい。
 なお、義姫の名前については「貞山公治家記録」に拠って「義姫」として論を進めていく。一次資料で政宗の母の名前を確認できないためである。当時は「お東」「お東様」と呼ばれていたようである。義姫自身も手紙に「ひがし(東)」と署名している。これは夫、伊達輝宗が隠居後「東」と称していたためだろう(注1)。これに対し政宗は家督相続前「西殿」と呼ばれていたようである(注2)。米沢城の輝宗と政宗の居所が東西に分かれていたことによるものだろうか。以上のことから、ここでは適宜「義姫」「お東」の呼び名を使用していきたい。

(注1) 
天正十二年極月吉日 伊達政宗宛伊達輝宗正月行事 『伊達家文書』三一九号。「受心(伊達輝宗)」と署名し、「東より」「館(伊達政宗)へ」とある。
(注2)
(天正十年)五月十一日付で伊達輝宗と同政宗に宛てた勝光寺正壽書状(『伊達家文書』三一六号・三一七号)を見ると、輝宗宛書状では宛所が「伊達殿 御陣所」とあるのに対し、政宗宛書状では宛所が「伊達西殿 御陣所」となっている。

事件を捏造したのは政宗本人である
 松尾剛次氏は著書『最上氏三代』(ミネルヴァ書房、二〇二一年)の中で、前掲の『市史せんだい』の拙論を踏まえ「政宗毒殺未遂事件の話は事実ではない」「『貞山公治家記録』が捏造した話である」「毒殺未遂事件は伊達藩によって捏造された事件である」(二六頁〜二七頁)と述べている。言うまでもなく、捏造とは「事実でない事を事実のようにこしらえて言うこと」(『広辞苑』)である。事件が捏造されたものであることはその通りであるが、捏造したのは政宗本人であり、母義姫との共謀であったと考えられる。勿論、母による政宗毒殺未遂事件はなかったし、政宗による弟小次郎殺害もなかった。手討ちにしたことにして寺へ逃した(出家させた)と考えられる。大悲願寺の十五代住職秀雄が小次郎本人である可能性が高い。
 では何故このような事件を捏造したのだろうか。これを解く手掛かりとなる資料がある。事件直後に政宗が側近の鬼庭(もにわ/後に茂庭)石見守綱元に宛てた書状である。全文は「貞山公治家記録 付録」に収録さえている。その中で弟殺害の理由を将来内乱が起こることを未然に防ぐため、と述べている。つまり弟擁立の芽を摘んで伊達家の一本化を図るためであった。しかし、弟を殺しては小田原で政宗に万が一のこと(豊臣秀吉の命による切腹、打首など)があった場合、伊達家の血統が途絶えかねないおそれがあった。当時政宗には実子がなく、長男の秀宗(後の宇和島藩主)が誕生するのは事件の翌年、天正十九年(一五九一)のことである。血統を絶やしかねないたった一人の弟殺害は考え難い。

鬼庭石見守綱元宛書状の検討
 事件の直後、事件の経緯を側近の鬼庭綱元に知らせた政宗の書状については、これを偽書とする見解もあるが、書状が本物であることは『市史せんだい』で述べた通りである。この書状が佐沼亘理家(宮城県登米市迫町)に伝来した綱元宛政宗書状(亘理家の記録では一七五通あった)の一部であることは、松山茂庭家(宮城県大崎市松山)が江戸時代に作成した「貞山君尺牘」(茂庭宣元氏所蔵)によって明らかである。「貞山君尺牘」には佐沼亘理家伝来の綱元宛政宗書状十五点が写し取られており、この書状も入っている(写真2)。なお、この書状の原本は所在不明である。


(写真2ー1)
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(写真2ー2)
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 書状の中で政宗は、膳に毒を盛ったのは御東(母)と思われ、皆が噂をしているように母が自分に替えて弟を擁立しようと企んでいること、このまま弟が成長すれば将来、弟との間に争いが生じることは確実であること、たとえ争いが生じても自分一人死ぬことは何でもないが、そうなれば今は平穏な洞(うつろ。領内)が又々珊瑚斑(さんごまだら。内乱)となり、家臣たちに苦労・難儀をかけることになること、このため可哀そうだが止むを得ず弟を手討ちにしたこと、この上は母の命に別状がないよう願っていること、などを詳しく打ち明けている。そして、最後に「このような思い(胸の内)は、誰にでも話せることではない。そなたには話しておく。しかし、そなたの方で斟酌して、よいと思うことは世間へ口説き広めてほしい」と意味深長なことばで締め括っている。
 政宗が言う兄弟対立への危惧が客観的にどれ程現実味を帯び、差し迫っていたかは不明である。小田原参陣という重大局面を前にした政宗の思い過ごしであった可能性が高い。ただ内乱への不安は、伊達家四代にわたる親子相克(十三代尚宗と十四代稙宗、稙宗と十五代晴宗、晴宗と十六代輝宗との間の親子相克)に見られる骨肉の争いへの警戒心から来ていたのかもしれない。文中で「平穏な洞が又々珊瑚斑となる」(傍線筆者)と述べているのが、それである。
 弟殺害については母との共謀がなければ捏造は困難だろう。たった一人の弟を実際に殺したとしたら、どのような理由であれ、母は政宗を赦すことはなかったと考えられる。事件後の手紙、そして山形へ帰った母との間で、また最上氏改易後に仙台へ戻った母との間で交わされた二人の手紙を見る限り、親子の情愛、信頼は一貫してゆるぎないものであったと言わざるを得ない。

まとめ
 結局、この鬼庭綱元に宛てた書状が事件を実際にあったこととして伝えることになった最大の原因だろう。政宗自身が語ることであり、誰も疑うことがなかった(出来なかった)。この書状以外にも「貞山公治家記録」が参考とした資料に「木村宇右衛門覚書」(晩年の政宗に仕えた小姓の一人、木村宇右衛門がまとめた伊達政宗の言行録。仙台市博物館所蔵)がある。その中でも政宗自身事件の経緯に触れ、弟を手討ちにしたと述懐している。「貞山公治家記録」の編纂者を含め、誰も疑う余地はなかったのである。

■執筆:佐藤憲一(伊達政宗研究家/元仙台市博物館館長)「歴史館だより��30」より
※写真「大悲願寺本堂(東京都あきる野市横沢)」

▼「歴史館だより��30」ダウンロード(ファイル/3.8MB) >>こちら

 旧暦の1月18日(太陽暦の2月26日)は最上義光公の命日です。慶長19年(1614年)に69歳でなくなりました。当館では太陽暦の1月18日に義光公を偲ぶとともに来館者の皆様に記念品を差し上げております。
 義光は慶長16年3月23日に従四位上近衛少将に叙任されましたが、その年あたりから体調がすぐれず、「徳川実記」には「少将背任の後、久しく病に臥しける」とあります。しかしながら、亡くなる前年には世話になった徳川家康を訪ねて駿府に行き、家康からは薬や夜着を授かり、将軍秀忠からも見舞いの言葉や土産物をもらいました。
 さて、命日とともに話題となるのが辞世の句です。連歌を得意とする義光公にもちろんあります、と言いたいところですが、これがちょっとわけありです。
 「政隣記」という加賀藩政を天文7年(1538年)から文化11年(1814年)まで編年体でまとめた史書の中に、「最上駿河辞世并詠歌」としてつぎのようにあります。
 「一生居敬全 今日命帰天 六十余霜事 対花拍手眠
   有といひ無しと教へて久堅の月白妙の雪清きかな」
 まず、最上駿河というのは義光の次男である駿河守家親のことです。漢文部分は「一生居するに 敬を全うし 今日 命 天に帰る 六十余霜の事 花に対(むか)い 拍手して眠らん」と訳せます。ここで家親は36歳で没したので「六十余霜」とは合いません。また和歌部分に「久堅の月白妙の雪」とありますが、家親は3月6日(太陽暦4月11日)に亡くなっているので、歌の景色からほど遠い。よってこの句は、義光の作と見て誤りあるまい(片桐繁雄「歴史館だより��28」)とのことです。どうも隔靴掻痒な感じもしますが、義光の辞世の句に関わる文書はこれのみです。
 ここでいくつか有名人の辞世の句のご紹介でも。
 辞世の句で真っ先に思い浮かべるのは、松尾芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」ですが、これは亡くなる4日前に詠まれたもので、辞世の句であるかどうかは諸説あります。あと有名なのが、織田信長の「是非に及ばず」。これを辞世の句と言うか、ただの返事と言うか、難しいところではありますが、少なくてもその命日は、戦国武将の中ではもっとも有名ではと思われます。
 続けて、秀吉公、家康公の辞世の句を。
豊臣秀吉「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」
徳川家康「先に行く あとに残るも 同じこと 連れてゆけぬを 別れぞと思ふ」
 秀吉は自分の思い出を詠んだのに対し、家康は将来にむけて持続可能な組織を願った句となっています。当時は、亡くなった主君のあとを追い、その家族や家臣が自刃するという習わしがありましたが、「連れてゆけぬを 別れぞと思ふ」には、家康が家臣達にこの風習に習わないように伝えている、という説があります。ちなみに家康の2年前に最上義光は亡くなっているのですが、義光の葬儀(2月6日)が終わった時に、4人の家臣と2人の家来が殉死をとげています。
 また、辞世の句で「人気が高い」というのもなんですが、そういう評価の句としては、細川ガラシャの「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」というのがありますあー、なんとも美しくかっこいい、惚れ惚れします。
 これと対照的なのが、小野小町で、「あはれなり わが身の果てや 浅緑 つひには野辺の 霞と思へば」。意訳すれば、荼毘にふされて浅緑の煙となり、野辺の霞となるわが身を想う歌で、自然の理そのものというか素直な句ではありますが、在りし日の自分への執着を歌ったと解すれば、美人とはこういうものかとも思える歌です。
 そして、いつものようにあの御両家のご紹介を。
上杉謙信「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし」
伊達政宗「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」
もうどちらも、戦国武将のお手本のような句ですが、なぜか「月」つながりです。もっとも謙信については「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一杯の酒」というが有名ですが。
 では再度、最上義光の辞世の句とされるものについて。
 「有といひ 無しと教へて 久堅の月 白妙の雪 清きかな」
 なんとここでも「月」がでてきます。しかし、この句は戦国武将らしいというより、哲学的な句です。
 まずは「有といひ 無しと教へて」ですが、片桐繁雄著「戦国の明星最上義光」では「自分の生涯に意味があるのか、ないのか。どちらでもよかろう。すべては「空」だ。そう教えて」とありますが、このように深く読むべきか、それとも「是々非々を説いた」、平たく言えば「いろいろ言ってはきたけれど」程度に解してもよいのか。
 続く「久堅の月 白妙の雪 清きかな」は、前出の著作には「月は白々と冴え渡り、その光を受けて雪はひたすらに清らかだ」とあります。ここで「久堅」は、「ひさかた」という天・空・光などにかかる枕詞ですが、実は意味がわからない言葉です。そして「白妙」は白い布のことで、その色から、雲、雪、波などにかかる枕詞です。なので、ここは素直に「光る月や白い雪の、なんと清いこと」と読んでもいいのではとは思うのですが、いずれにせよこれは冬の情景描写であるとともに、義光の心象風景でもあります。
 これを月の光や雪の白さの清らかさを詠んだとすれば、この句のテーマはずばり「光」となります。さらに言えば、月の光も雪の白さも反射光です。まあ、反射光ということまで意味を求めるものではないにせよ、古今東西、旧約聖書から宇宙物理学まで、世の中は光が有ることから始まります。それを辞世の句にもってきたのは、さすが義「光」公と申せましょう。


義光公の「顔出し」を設置しました。義光転生を体験!?

(館長裏日誌→ に続く)




「歴史館だより」No.30 好評配信中


歴史館だより(No.30/2023年3月発行)

●続・伊達政宗毒殺未遂事件の真相
●保春院殿四百年遠忌によせて
●最上義光歴史館サポーター「義光会だより」No.13
●研究余滴22 最上家の茶の湯


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大変お久しぶりです。ひねもす記でございます。
昨日1月7日は人日の節句、皆様は七草粥を召し上がる地域でしょうか。
山形は納豆汁が一般的なので、中の人は七草粥なるものを未見未食です。


1月6日の寒の入りを過ぎてにわかに寒くなりました。
昨日まで全く雪がなかったのですが、一転して雪景色となっております。
市内平野部では今季2度目の積雪です。


そして本日は桜茶をいただきました。
ボランティアさんのお庭の桜で作られたとのこと、
綺麗な桜の色と香りに春を心待ちにしつつ、
平穏がいち早く訪れますよう願っております。

 新年、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。とは言え、年明け早々、地震や事故など大変な状況になっております。被害にあわれた方には、心よりお見舞い申し上げます。
 さてはなんとも「めでたくもあり めでたくもなし」といった感じですが、これは「門松や 冥土の旅の一里塚」という句に続く句で、一休宗純の作です。ところで一説によると、人は120歳まで生きられるそうで、ならば自分はまだ折り返し地点ぐらいか、とのんびり構えていますが、健康寿命となると男性72.7年、女性75.4年とのことで、干支の一回り程度しかありません。
 昨年亡くなった坂本龍一さんに、「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」という著書がありますが、あと何回、まともな食事ができるだろうと、その都度の食事を大切にしている人がいます。一方、30歳を過ぎたら歳をとらない(数えない)という女性もいるらしいのですが。
 さて、山形市では毎年1月10日に「初市」が行われます。主催者の山形商工会議所のホームページによると、「山形市初市は、最上義光公(1546〜1614)治世の江戸時代初期から続く伝統行事です。当時、山形には三日町、五日町、七日町、十日町など、定期の市が立つ市日町がありましたが、それら市の中心として十日町に市神(いちがみ)が祭られ、毎年1月10日に、市神祭りとして十日町から七日町にかけて多くの露店が立ち並び、縁起物をはじめいろいろな物を並べて売り立てるようになりました」とあります。
 それでは、ちょっと詳しくみてみましょう。
 最上義光が山形城を整備した頃には、二日町から八日町そして十日町がありました。それぞれの町名の日に市が立つのですが、九日町がないのは、毎月9のつく日も十日町で市が立ったためです。
 十日町はもともと、三の丸の中にあった正楽寺と勝因寺を結んだ地にあり、その門前市が十日に開かれていたことによるそうですが、最上義光が山形城建設にあたって、現在の地に十日町を移しました。その際に、旧十日町を割付ていた基準石を移し、今(新)十日町を割付る元標にし、これを市神石としたそうです。市神石は高さ70センチ、幅35センチの円筒型の安山岩の自然石ですが、当時の観光ガイド本である「山形風流松木枕」には、「又此石は市神といわひ、毎年正月十日市の立砌(みぎり)為商人者参詣せすといふ事なし」とあります。
 市神石は十日町の道路上に半埋されていましたが、明治5年に交通の妨害になるとして県庁に移動したところ、それを運搬した人が病死しました。その後、市役所の西側にあった湯殿山神社境内に移されました。湯殿山神社は市役所改築の時に現在の地に移転し、その境内に市神神社のご神体として祀られています。ご神体は、初市の1月10日と熊手市を開催する11月23日のゑびす講大祭のみに御開帳されます。初市当日は、縁起物である「かぶ」のお頒ちや敬神婦人会による「かぶ汁」の振る舞いがあります。また、ここの絵馬は蕪をかたどったものとなっており、とてもいいデザインです。
 一方、市神石の移転後も十日市跡地への参拝者が後を絶たず、もとの場所には新たに市神様の碑が祀られ、戦後に歌懸稲荷神社境内に移されています。
 さて初市では、初飴や団子木などの「縁起物」と、まな板や杵臼などの「木工品」の他、飲食物、野菜、工芸品等の露店が並びます。ここで縁起物の説明を少々。
 まず「だんご木」ですが、全国に様々な形や風習があるのですが、お正月、特に1月15日の小正月に、ヤナギ(山形はミズキ)などの枝に紅白の小さく切った餅や団子を飾り1年の豊作を願う正月飾りです。餅花とも言い稲の花を表し、小正月が終わった後は、これを焼いて食べると1年間無病息災でいられるとのこと。1月15日のどんと焼きで焼いたり、1月20日の二十日正月(はつかしょうがつ)に食べたりするようです。
 ただし、山形のだんごは丸い最中の皮に彩色したもので食べたりしません。だんごの色は、緑が春、赤が夏、黄が秋、白が冬を表しており四季を通してご利益があるよう祈願し、恵比寿・大黒・千両箱・宝船・小判・鯛などのふなせんべいで飾りつけます。その片付けは、小正月や二十日正月にするべきでしょうが、1月末や旧正月まで飾ったりします。
 また、養蚕が盛んな地域は、団子を繭の形に整えた繭玉で同じように飾るそうですが、こちらは養蚕の豊作を願うものです。木に刺さずにそのまま供えて、小正月にいただくところもあるようです。
 つぎに「蕪」ですが、これは同業者組合への加入権が株と呼ばれおり、株という言葉にかけて、商売繁盛や身代が大きくなるよう願ったことによります。そして、「白ヒゲ」と呼ばれるアサツキの類の野菜ですが、これは白髭の老人のように豊かで長生きができるようにとの願いによるものです。
 そして「初飴」ですが、白紙の上に点々と水飴を盛ってつくる盛飴がもとで、山形特産の紅花の紅餅を筵(むしろ)に並べる様子になぞらえて、紅花の豊作を願ったものです。紅花の筵干しの様子を表すように、半紙に紅白の飴を15〜16個ほど盛り付けては市神様にお供えしました。現在は切飴となり福を呼ぶ縁起物として売られています。
 飴の種類は紅白以外にもいろいろあり、餡入り、ゴマ入り、抹茶、ココアなどありますが、露店によって取り扱う品が異なります。ところでこの初飴、なかなかに慎重を要する食べ物でもあります。歯にくっつき、歯の詰め物がとれたりするのです。歯の治療技術も飴の品質も改善されているようで、こういうことは少なくなりましたが、今でも当館の学芸員は警戒しています。
 また、数年前からこの初市の夜に、霞城公園から打ち上げ花火が上げられるようになりましたが、この話をするときりがなくなるので、この辺で失礼いたします。本年も最上義光歴史館をよろしくお願いいたします。


湯殿山神社境内にある市神神社


歌懸稲荷神社境内にある市神様の碑


市神石の跡地に建てられた十日市碑


畑地化が進む明和の時代、「羽州最上御城内乃図」


市神神社の「蕪」絵馬、大きくなりますように


( → 館長裏日記に続く)