中山には「境口番所」があり、厳重な門構えと周囲を柵で囲い、取り調べが終るまでは出入り出来ない構造になっていました。
番所には鉄砲や刺股(さすまた)、突棒(つくぼう)などを立て並べ不測の事態に備えていました。
通常時は関所と同様に人物改めや荷物改めを行いました。
参考:南陽市史、案内看板
掛入石(かけいりいし)(別名:隠れ石)を過ぎると中山に入ります。
この掛入石は米沢領と上山領との領境になっていました。
なお、中山地区は昭和32年1月1日に上山市に編入するまで置賜郡に属していました。
中川という地名は、明治22年合併する際、中山村の「中」と川樋村の「川」を参互折衷して中川村とした合成地名です。
画像は「掛入石」と「上山藩領境界石標」です。
案内看板より
掛入石は古くから置賜と村山の「境石」であり、領境を示していたもので、当時はそばを通る米沢街道を往来する賓客等の送迎はこの石の前で行っていたと言う。
(中略)
慶長五年(一六00)、関ケ原出羽合戦で撤退する豊臣方の上杉勢がこの窟にひそみ、追撃する徳川方の最上勢を撃退した古戦場であり、かくれ石とも呼ばれている。この巨石の上には明治初年までふた抱えもある桜が枝をのばし、芭蕉の句碑が立つ花の名所であったが、明治二十九年に奥羽本線敷設工事の際に支障があったため、ダイナマイトで割削され今の姿になっている。
米沢街道の続きです。
江戸時代、北条郷(現南陽市一帯)を通る公儀の道が米沢街道でした。
羽州街道※が慶長年間頃(1596~1615)から整備がすすめられ、参勤交代の道路として利用されると、羽州街道と米沢領を結ぶ米沢街道もそれに伴って整備されたと考えられます。
羽州街道の宿駅の上ノ山に続いて、川口・中山・小岩沢・川樋・赤湯を通り、大橋・糠野目・米沢と継いでいました。
羽州街道からの分岐点は上ノ山三本松にあり、追分の碑が建っています。
※ 奥州街道(五街道の一つ)の桑折から山形・秋田を通り、青森の油川で奥州街道と合流する街道です。
この羽州街道は。弘前・黒石(青森県)、秋田・亀田・本荘・矢島(秋田県)、庄内・松山・新庄・長瀞・天童・山形・上山(山形県)等の大名の参勤交代に用いられました。
参考:南陽市史
画像は上山市三本松にある「元禄四年追分板碑」です。
東置賜郡史によると、伊達氏の時代、米沢と最上領(山形)を結ぶメインの街道は新宿(高畠町二井宿)と上山市楢下を結ぶ柏木峠を越える道路でした。
平成元年には柏木トンネルが開通しています。
その頃の米沢街道(最上街道)※は鳥上坂から松沢・高畠方面へと白竜湖の東山際を大きく迂回するルートでした。
米沢街道(最上街道)は、天正十九年(1591)蒲生氏郷が置賜の地を領有した時に新しく開削したものといわれています。
氏郷が会津城に居住し、郷安を米沢城に、郷可を中山城に居住させ、最上領に対し軍事的優位を保つ目的で、米沢と中山をつなぐ道路を新たに造ったといわれる。
一説には闇夜に、南は舟坂・北は鳥上坂・中間の窪田の3カ所にかがり火をたき、ほぼ一直線に造ったといわれています。
参考:南陽市史・東置賜郡史
※街道の名称は、目指す土地名で呼ばれていました。
米沢側から見れば最上街道、最上側から見れば米沢街道と呼ばれます。
画像1枚目は赤湯秋葉山からの風景です。
2枚目は江戸時代の鳥上坂の道、3枚目は国道13号です。
(過去に撮影した画像です)