中川地区内にある「川樋學校碑」と「紀念碑」について、調べた内容をまとめ冊子にしました。
どちらも碑文は漢文で刻されており、今回現代文に訳してみたものです。
「川樋學校碑」の訳文は次回の公民館だよりに掲載します。
興味のある方は、中川公民館にありますのでご覧ください。
釜渡戸にある馬頭観世音碑です。
石碑がある場所を、鈴木義一様よりご案内していただきました。
笹薮の中にあり、案内なしではとてもたどり着けませんでした。
急なお願いにもかかわらず、ご対応いただきありがとうございました。
ふるさと中川「馬頭観世音碑」加藤和男 記 より記事を紹介します。
元、地区共有地のかたすみ、今は荒地の中にあるが、花崗岩に馬頭観世音を刻ませた石碑が倒れている。年号は読み取れないが、明治前と思われる七月□日とある。
この土地は地区全員の馬飼育者にて管理された場所であり、年二回春と秋に馬の蹄切の場所であり、去勢など馬に関する色々な手当て等をする場所でもあった。
時には事故もあり、爪切りの時などの怪我等は、馬ばかりではなく人間にもあったという事である。
川樋の金山道入口にある百万遍供養塔です。
石碑の文字は、上4文字が風化して読み難いのですが「奉納六齊※百萬遍供養」と刻まれているように見えます。
交差点にあることから、道標の役割もあったと考えられます。
百万遍とは、人々が輪になって座り、大きな数珠を送りながら念仏を唱え、無病息災や疫病退散を願う百万遍念仏のことです。
元中山のホーエンサマ(法印様)が健在の頃は、葬儀の後にホーエンサマを呼んで御念仏を行っていました。
御膳に半紙を敷いて生米一升を盛り、コップに入れた水と小皿に塩を準備しておきます。
ホーエンサマが般若心経を唱えた後、参加者は大きな数珠の外に輪になって、数珠を送りながら御念仏(南無阿弥陀仏:ナンマイダー)を唱えました。そして御念仏が終ってから壇払いをしていました。(私の記憶では)
参考:南陽市史 民俗編
※六斎は仏教の斎日(仏教の戒律を守る日)のことで、毎月8・14・15・23・29・30日の六日間です。
前回の続きです。
牛馬共に、とても大切な家畜だから、昔は台所の入口近い所に厩(うまや)を作り、米の磨ぎ汁や汁の残りはなるべく温かいうちに牛馬にやるように心掛けた。
また、病気にならぬよう、災難に遭わぬようにと、厩の入口には馬頭観音の御札を貼り、朝の出掛けには味噌汁を御馳走し、暦や御守りを頂かせ、夕方荷を降ろすと必ず木をくり抜いて造った「馬だらい」に沸かした湯を入れ、馬の前足から背、尻を順に洗ってやるのだ。
馬で越した峠ということで「馬越え」※という地名があり、その馬にちなんだ「荷鞍石」、八幡太郎の馬が飲んだという「馬頭清水」がある。
引用:おらだ若いとき 安部惣七著
※別資料に「馬越え ~ 馬で時沢方面に越えた」と記載があるので、大洞から時沢に抜ける山道のことと思われます。(藪漕ぎ必至の道です。)
荷鞍石をご存じの方は公民館までお知らせください。
画像は大洞山です。右側の鞍部を目指すと途中までは車で行けます。
画像3枚目は、入山規制用のチェーンがある場所からの撮影です。
米沢藩の北条郷では宿駅の輸送を馬が担っていました。
近代の馬の様子が書かれた記事を紹介します。
各宿場には定められた馬持ちが登録されて、荷が入れば自分の仕事は休んで、馬の支度をして問屋に馳せ付け、荷をつけて次の問屋に届けなければならなかった。
馬の支度にも時間がかかる。
厩(うまや)から引き出し、鞍(くら)ずれを起さぬよう、下敷きの筵(むしろ)を着け、荷鞍を置き、尻がい、胸(むな)がいを締め、腹帯を締める。足には藁(わら)の靴を四つの足に履かす。
こうして荷物は一切荷鞍に結い付ける。
慣れない馬子は、腹帯の締加減、胸がい、尻がいの長短の加減が判らぬままに、坂の登り降り、荷の傾きなどが押さえ切れず、荷物が一方に傾いて荷物はいうまでもなく、馬まで倒れることがあった。
引用:おらだ若いとき 安部惣七著
画像1枚目は川樋上の馬浸場(うまひしゃば)、2枚目は川樋下の馬浸場の跡です。
馬洗場ともいいます。
現在、中川地区で馬を飼っている家はいなくなりました。
馬浸場は水が流れていて雪が融けるので、冬の雪捨て場に利用されています。