地蔵信仰が広まると六地蔵を、石幢の各面に彫り出した六面幢(ろくめんどう)が
造られるようになりました。
六地蔵とは、地蔵様が六道を輪廻転生する衆生を救済するということから、六体の
分身を祀ったものです。
中川地区では小岩沢福昌寺(画像1枚目)の他にも、新田(画像2枚目)、川樋
松林寺観音堂(画像3枚目)、釜渡戸赤坂(画像4枚目)に建立されています。
小岩沢の福昌寺は曹洞宗のお寺で、正保四年(1647)十月十三日に遷化した
古潤守泉禅師の開山と伝えられています。
明治二十九年(1896)に現在の南沢山に移転しています。
境内にはお稲荷様が祀られています。その奥にはお地蔵様や六面幢、三界萬霊等
が建立されています。
(六面幢、三界萬霊等については後日、紹介します)
本堂の左側には小岩沢子易観音の本尊も祀られています。
出産前に子易観音に奉納されている小さな枕を1個拝借し、出産後には新しい枕を
添えて2個返納します。
来週(今週になってしまいました)も無事出産をされた方がお礼に来られるとお話
されていました。
小岩沢大堂の子易観音にお越しの際は、福昌寺のご本尊もご参拝いただきたいと
思います。
参考:赤湯町史、南陽市史 民俗編
川樋の市道川樋東線と県道の丁字路近くに「川樋土地改良記念碑」が建てられています。
川樋土地改良史より引用
昭和四十七年十一月九日の山新記事より
湿田の悩み消える
南陽市川樋 土地改良四年ぶり完成
南陽市川樋土地改良区(理事長 遠藤繁雄氏)の水田土地改良事業は一億八千万円を投じて、このほど四年ぶりに完成この喜びを後代に伝えるため、記念碑を建立十三日午前十時から除幕式竝竣工式典を行なう。
同地区の水田二十ヘクタールは泥炭層の湿田で耕運機すらはいる事が出来ず、おびただしく作業能率を低下させていた。しかも夏季には、干ばつの常習地帯で十アール七俵から七俵半程度。このため四十三年から大がかりな改良事業を起こし、まず水不足解消には山の沢を利用し六万五千トンの大貯水池を完成。ほ場は用排水路を分離した区画整理を行ない幅員六メートルの幹線農道を縦横に切った。
これによって湿田は乾田となり、トラクター、バインダーなど大型農業機械もどしどしはいれるようになり、作業能率は格段に向上した。また貯水池は昼夜続行二十日間にわたって放水能力があるほか、用水路には三基の反復揚水機をすえつけ、いったん下流に落ちた水を再び上流に押し上げて再利用する方法がとられている。工事費のうち六割が受益者負担で、十アール当り七千円ずつを年賦償還するがこれによって十アール二俵の増収となるほか、労力の節減が大きい。
この土地改良事業は、米の生産調整が始まった時期に行われたので、完成までには色々な出来事があったようです。
真中の山が大洞山(標高737m)です。
江戸時代から川樋村大洞山には北条郷東部の村々の入会山(いりあい)がありました。
入会とは、平野部にあった村(俗に沖中(おきなか)と呼びます)が山間部にある村の山や林野を共有して薪や草を刈り取り、燃料や飼料、肥料にする制度です。
大洞山に入会していた村は、石岡村・大橋村・鍋田村・中野目村・高梨村・島貫村・郡山村・若狭郷屋村・三間通村・二色根村の10カ村です。
(現在の大洞山財産区の区域(地区)と違うのは、近世になってから色々あったようです)
大洞山に続く大谷地も沖中10カ村の入会地でした。
山元である川樋村と新田村の入会は認められておらず、訴訟や紛争による傷害事件まで発生しました。
明治8年(1875)地租改正の際、ようやく川樋の加入が認められ、明治32年(1889)に大谷地が川樋新田の村民12名に貸付け、大谷地の開墾が始まりました。
大正13年(1924)に入会権を解消し、中川、赤湯、糠野目、沖郷の各町村に分割されました。
参考:南陽市史、沖郷村史
釜渡戸にある道標(みちしるべ・どうひょう)です。
道標は道路の辻に建てられた交通標識です。
皇紀二千六百年(昭和15年)を記念して建てられました。
「正面 元中山ヲ経テ中川駅ニ到ル 一里四粁」
「右 吉野村太郎ニ至ル・・・」
「左 金山村ヲ経テ宮内町ニ至ル・・・」と刻まれています。
その頃の釜渡戸地区を紹介している新聞記事(昭和16年3月9日朝日新聞)があります。
「三00町程の山林がある資産家は自分の山を売り貧農は伐採に働いてかなり豊かな暮らしをしている。隣の部落では女も農耕に従事して働くがこの部落では女などは働かせない。」
山林を持っている村が豊であった時代がありました。
参考:ふるさと中川
川樋公民館の東側、県道沿いにある明治15年(1882)に建てられた川樋学校碑です。
「遠望之巍然如王侯之居」
眺めが良く、(巍然)高くそびえ王侯の建物のようだと、学校を褒め称える文章や、
明治14年に行われた明治天皇東北御巡幸の様子などが、漢文で刻まれています。
この碑の題額※は皇族の有栖川宮熾仁(たるひと)親王殿下の御親筆です。
碑の右側に「陸軍大将兼左大臣二品大勛(勲のこと)位熾仁親王題額」と陰刻されています。
撰文は山形県一等教諭の肝月兼武氏で、書は明治の三筆と呼ばれた日下部東作氏、後の鳴鶴(めいかく)先生による大変貴重な文化財です。
熾仁親王殿下の御親筆による題額は、山形県内では山形市千歳山公園にある「物部守屋大連之顕彰碑」があります。米沢市松岬公園にある「従三位上杉曦山公之碑」の題字も親王の筆によるものです。
※題額(題字)は篆書体(てんしょたい)で書かれているため、篆額(てんがく)とも云います。
昭和50年代の子供達もさすがにこの碑で壁打ちはしませんでした。
参考:中川風土記(昭和38)、広報よねざわ