8月30日に行います、岩部山三十三観音「御詠歌更新作業」の準備中です。
少しでもスムーズに作業がはかどるように今週は職員一同予め作業を進めている状況です。
(私は事務所を守るという使命で関わっております!)
この暑い中、いやいや・・・う、うそです(-_-;)(-_-;)
率先して今日は朝から順調に進んでいる更新作業の撮影に行ってきました。
30日、関係者の皆様よろしくお願いいたします。
ちなみに2~5番までの観音様に行くには画像4.5のような石の隙間を通って行きます。
第33番観音様の西側に金毛和尚像が彫られています。
明治廿七年(1894)、北山霊山と金毛の徳を慕って、村人相計り発起して金毛禅師の像を、三十三番十一面観音を勧請する三つ岩下に刻みつけ、参詣するものをして追慕せしめてゐる。
金毛の温顔、亦慈愛そのものヽ如きを金毛の石像、又云う如く試めすが如く。
「仏僧と村人によって勧請する時の心境を忘れず、子孫亦祖父の難渋を汲み、不撓不屈(ふどうふくつ)の精神を体し拝して信念を高め以て難局処するのだ。」と
引用:北山観世音由来(昭和5年)小関仁四郎著
金毛和尚は、身丈六尺(約1.8m)あまりの豪僧でしかも酒豪であったという。
金毛和尚は書を能くしたといわれ、近郷に知られるところになり、一升酒を飲みほし、一気にその筆を走らせ、たびたび大字を書いたといわれる。
以前紹介した川樋上の馬頭観世音や新田宝山塔の碑面が金毛和尚の書によるものです。
金毛和尚は川樋の松林寺住職の後、二井宿の慶昌寺第二十世住職、荒砥の金鐘寺第二十二世住職となり安政六年(1859)示寂しました。
引用:南陽市史
西国霊場中興の祖である花山法皇は三十三所の観音霊場を御巡幸され、その折に各札所で詠まれた歌が御詠歌として今日まで伝わっています。
花山法皇はその時に当山を西国巡礼結びの地と定められ、三首の御詠歌を詠まれました。
その御詠歌は現在・過去・未来を表し、「世を照らす~」で始まる歌が【現在】、「万世の~」は【過去】、「今までは~」は【未来】を表すとされています。
その三首の御詠歌は満願のお寺に相応しく、なかでも「今までは~」で始まる御詠歌には、長い間ずっと親のように想い、供に旅してきた笈摺を最終の札所である当山でようやくたどり着いて、満願に寄せる格別の思いでこの地に納めたという花山法皇の御姿をうかがい知ることが出来ます。
この笈摺を脱ぐという行為は満願に伴う「精進落とし」であり、それはすなわち宗教的次元での「再生」を意味したものと考えられており、この歌が【未来】を表すのは、そのような意味があってのことかもしれません。
引用:華厳寺山主 久保田美好「西国巡礼慈悲の道」より
第33番「谷汲山 華厳寺 十一面観世音菩薩」
世を照らす 仏のしるし ありければ まだともしびも 消えぬなりけり(現在)
世を照らす※1観音様の真理(証し)があれば、法(のり)の灯火(ともしび)※2は消えることはないであろう。
※1観音経は「普明照世間」あまねく明かりを世間に照らすと説いています。
※2煩悩に迷うこの世から人を導く仏法を、闇夜を照らす灯火に見立てた言葉です。
万世の 願いをこゝに 納めおく 水は苔より 出る谷汲(過去)
限りなく続く永い世の人々の願いを谷汲山に納め置く。
苔むした谷から清い水が湧いてくるように、汚れ多い世の中で観音様は人々の心を清めてくれることだろう。
◇「谷」と「谷汲」をかけています。
今までは 親と頼みし 笈摺(おひずる)を 脱ぎて納むる 美濃※の谷汲(未来)
※華厳寺は岐阜県(美濃)揖斐川町にあります。
長い巡礼の旅で、親のように頼みにしてきた笈摺※を満願結所の谷汲山に脱いで納める身となる。
※巡礼者が衣服の上に着る白衣のこと。死装束と同じ意味で着ています。
◇「美濃」と「身」をかけています。