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「Mr.PO」の思想と行動(5)…その“詐術”のからくり

  • 「Mr.PO」の思想と行動(5)…その“詐術”のからくり

 

 「まるで暗号みたいな数字の乱発による“目くらまし”」―。「Mr.PO」(上田東一市長)の詐術手法はひと言でいえば、こんなことになろうか。JR花巻駅東西自由通路(駅橋上化)をめぐって、市側から公表された「Q&A」集を読んでいるうちに頭がクラクラしてきた。35項目にわたる問答(全16ペ-ジ)は数字の羅列ばかり。たとえば、ざっと38億円にのぼる巨額な事業費…目を凝らすと、このご仁が繰り出す“金目行政”のからくりが透けて見えてくる。やや長文のきらいはあるが、〝お任せ民主主義“にオサラバするためにも、辛抱してお読みいただきたい。

 

 「財源として国からの補助金約16億円を見込んでいます。また、JR東日本との負担額が定まっていない、現在使用されている跨線橋の撤去費が約4億円あります。これを除いた約18億円が市の負担となります。この市の負担分の約18億円の95%については、合併特例債の活用を予定しておりますが、合併特例債は償還金(返済金)と金利の70%が国から地方交付税として措置されるため、市の負担分の約18億円のうち、国から交付税措置される額をさし引いた約6億円が市の実質負担額と想定しています。これにJR東日本との負担額がまだ定まっていない跨線橋撤去費の市負担分を加えた約6億円+アルファが市の実質負担額となると考えています」―

 

 「そうか。実際には38億円もかかるのに6億円ですむのなら…。それで駅の利便性が高まるなら、安いもんではないか」―。財政にうとい一般市民や市議の一部が陥りやすい“落とし穴”である。考えて見れば、国庫補助や交付税措置などの財源も元をただせば私たち国民が納める税金である。また「債権」(償還金)は借金そのものであり、その返済は後々の世代まで委ねられる。この「Mr.PO」流が“目くらまし”手法と言われるゆえんである。さらにはこんな記述も。「駅西側は区画整理事業により良好な住宅地として整備されています。ショッピングモ-ルなどの利便施設の整備も進み、独立した生活圏として人口集積が進み、花西地区は人口が増加している地区(他には花南地区)となっています」―。ふと、そうかなぁ。そう言われてみれば…とここにも“落とし穴“が用意されている。で、実態は―

 

 駅橋上化要請の先頭に立ってきた「花西地区まちづくり協議会」は7行政区で構成されている。市の統計資料によれば、平成29年3月から令和2年3月まで4年間の人口は全体で8418人から8538人(伸び率1・4%)とわずか120人増えたにすぎない。逆に若葉町や材木町、石神町、藤沢町の4行政区では人口減に転じている。私自身、高校時代まで旧花巻農業高校に近い「農学校通り」(藤沢町)に住んでいたが、徒歩で駅に向かうのに難儀したものである。ましてや車社会のいま、駅橋上化(東西自由通路)のメリットを享受できるのは徒歩圏内の西大通り地区の住民に限られるのは目に見えている。ある意味、高齢者や障がい者など移動手段が限定される人たちを排除する、一見「公共」を装いつつ、実際はそうではない(健常者優先の)差別的な”公共”事業とさえ言いたくなる。

 

 あまり表には出したくないのかもしれない、もうひとつの重大な数字の隠ぺいがある。「Q&A」集のどこを探しても見当たらないのが肝心のJR花巻駅の乗車人数や東口と西口を結ぶ地下道の通行量である(HP上には地下道の通行量と高校生に特化した利用状況が駅橋上化を正当化するデータとして別途、掲載されている)。JRや市の統計資料によると、花巻駅の1日平均の乗車人数は3269人(令和1年度)で、地下道の平日の通行量は1日平均(出入り)が約1000人と見積もられている。自由通路が完成したからといって、わざわざ遠方から駅を訪れる人はあるまい。したがって、今回の「JR花巻駅東西自由通路(駅橋上化)」によって、直接の恩恵を受ける最高値は(3269人+1000人)=4269人というレベルに設定することができる。

 

 「木を見て、森を見ず」―。細部に気を取られていると、全体を見失うことにハタと心づき、この数字を電卓に入力してみた。総事業38億円÷4269人=約89万円。この算式から浮かび上がってくるのは、受益者一人当たりの事業費がざっと90万円の巨額に上るという事実である。旧花巻市内の遠方や大迫、東和、石鳥谷の旧3町の住民にとっては何ほどのメリットがあろうか。「受益者負担」の公平性を無視した、これまた「エセ公共事業」と言わざるを得ない。さらに、自由通路やエレベ-タなど市所有にかかる工事費が11億円なのに対し、JR所有分は倍以上の24億円。ところが、JR側にとっては補助対象外のこ線橋の撤去費の一部を負担するだけの“ただ乗り”…あっ、思い出した。昔はやった「キセル」(無賃乗車)みたいなあんばいなのである。

 

 「花巻駅東西自由通路整備事業は、駅利用者及び東西居住者の利便性向上を図るとともに、東西の一体的なまちづくりと駅周辺市街地の活性化、賑わいの創出を図ることを目的としています」(令和2年10月31日開催の松園地区住民説明会の資料より)―。活性化や賑わい創出の具体的な青写真を示さないままの「駅橋上化」問題の欺瞞(ぎまん)はるる述べてきたとおりである。それはさておき、新版「おらが駅舎」物語のミステリ-はこれからいよいよ佳境(かきょう)を迎える(以下は5月24日付当ブログ「イ-ハト-ブ歌舞伎『青天の霹靂』(全7幕)」の続編である。作演出・増子義久)

 

 

 ……「Mr.PO」が得意満面で「住宅付き図書館」の駅前立地という珍妙な構想をぶち上げたのは、令和2年1月29日(私は「1・29」事変と呼ぶことにしている)。これを受けた形で、地域単位や諸団体を対象にした「駅橋上化」問題の説明会が本格的にスタ-ト。6月から12月にかけて計16回の説明会が行われた。ここで留意しなければならないのはこの説明主体が「建設部新図書館周辺整備室」ということ。察しの良い方はとっくにお気づきのことと思う。つまりは、新図書館建設と駅橋上化とはコインの表裏…どちらかが欠けても機能しないということなのである。

 

 ところで、事態が思惑通りに進まないのが世の常である。「Mr.PO」がおそらく“サプライズ”気分で公にした件(くだん)の構想に市民の大方がそっぽを向いてしまった。「ブライド」が背広を着て歩いているような、この種の人物にとっては面目丸つぶれである。追いつめられた末、「住宅付き」の部分は白紙撤回を余儀なくされたが、ここで白旗を上げるようなご仁ではない。それどころか、花巻市議会3月定例会に上程された「駅橋上化関連予算」(2603万円)が賛成多数で否決されたにもかかわらず、今度は米国生活で身に付けたらしい「アストロタ-フィング」(エセ草の根運動=“やらせ要請”)なる手法を駆使し(6月9日付当ブログ参照)、再度同じ予算案を議会に再上程するという、なんとも騒々しい〝大立ち回り”ぶりである。

 

 この案件を審査する6月定例会は本日6月17日に開会した。「議会制民主主義」の真価も問われる、今回の「駅橋上化」戦争に”参戦”するのは4人。21日から3日間の日程で論戦が交わされる。それにしても、「Mr.PO」はどうしてこうまで突っ張るのであろうか。おそらく、これまでの度重なる”失政”を知り尽くしているのが、他ならぬご本人だから―というのが私の見立てである。つまりは「恥の上塗(ぬ)りはできない」という干からびた品性のなせるわざ。「五輪中止」を今さら口にはできないという例の類(たぐい)である。

 

 さ~て、お立合い!駅橋上化問題の担当部署はどさくさにまぎれるようにして、4月1日付で「都市機能整備室」(建設部内)に姿を変え、肝心の図書館はと言えば、ちゃっかりと「新花巻図書館計画室」と名義替えをして、生涯学習部内に引っ越ししているではないか。そして、「Q&A」集には苦し紛れにこんな表現が見える。「無理」を押し通し続ければ、いつまでも「道理」が引っ込む―などと思ったら大間違いである。

 

Q「花巻駅東西自由通路(駅橋上化)整備は、新しい図書館を花巻駅東側に整備することを目的として整備するのではありませんか」

 

A「花巻駅を含む地域は花巻地域の中心市街地でありますので、人口が増加傾向にある花西地区の利便性を図る花巻駅東西自由通路(駅橋上化)整備と駅のそばに新図書館を整備することは花巻駅周辺を含む中心市街地の活性化を図る手段となるものと考えております。しかし、新図書館の建設場所については現在、市民の間で駅周辺かまなび学園周辺かで意見が分かれております。仮に新図書館の建設場所がまなび学園周辺になったとしても、花巻駅東西自由通路(駅橋上化)整備は、花巻駅周辺を含む中心市街地の活性化を図るため、検討すべきものと考えています。その意味で、新図書館建設場所に関するご意見はご意見として、花巻駅東西自由通路(駅橋上化)整備の必要性は、新図書館とは別にお考えいただくようにお願いいたします」

 

 「橋上化の方はすべて、私どもの方で整備をさせていただきます。で、伏してお願い申し上げます。貴殿が所有する図書館の立地予定地はぜひとも私どもに、できれば格安でお譲りいただきますように…」―。舞台上ではJR殿に哀願口調で土下座する「Mr.PO」の姿が。観客席からは尻だけが見えて、頭は見えない。皆の衆はアッと驚く大団円に固唾(かたず)を飲む。新版「おらが駅舎」物語もいよいよ、大詰めへ…。観客席からヤジが飛んだ。「『頭隠して、尻隠さず』とはこのこと。“猿芝居”だとしたら、お猿さんに申し分けない。ひょっとしたら、日光東照宮の三猿(見ざる・言わざる・聞かざる)の真似をしているのかも知れないが、どうせ芝居を打つのなら、もっと芸を磨かんかい」―“裸の王様”(アンデルセン)の侘びし気なシルエットを映しながら、緞帳(どんちょう)は静かに下りた。

 

 

 

 

(写真は橋上化の理由のひとつに上げられた地下通路。「Mr.PO」は予算案の再上程を前に防犯カメラの設置を表明した。これを称して、市民の安心・安全に背を向けてきた行政の「不作為」という=JR花巻駅の敷地内で)

 

 

 

《追記》~JR花巻駅と疫病禍

 

 「その頃、汽車は病気やばい菌を載(の)せて来るという迷信があり、停車場を忌避(きひ)する風が盛んであつた。花巻の有志達も略(ほぼ)同様の思想で誰も土地を提供し様とする者がない。この時、伊藤儀兵衛は進んで自分の所有地の中から今日の花巻駅を提供し、駅前の通路を無料で寄附したのである。彼はこの様な迷信を一笑に附したのみならず、文明開化の発達のためには先づ交通通信の機関の完備を見なければならないことを主張した先覚者であつた」(『花巻市制施行記念 花巻町政史稿』)―

 

 現在のJR花巻駅は1890(明治23)年、貴族院議員も務めた豪商、伊藤儀兵衛(1848~1923年)の土地寄進で開業した。今回、歌舞伎に見立てた戯曲「青天の霹靂」を書こうと思った動機は遠い先祖の遺産(歴史の記憶)を一顧だにしない「Mr.PO」の“パワハラ&ワンマン”市政に対する怒りが限界に達しつつあったからである。「元をただせば、駅前一帯は地元篤志家からいただいた土地だった」―。というわけで、今度はJRとの土地交渉を有利に進めるためのネタに使われやしないか…この人物にかかっては油断も隙もあったもんじゃない。気持ちが休まる暇もない。

 

 

「Mr.PO」の思想と行動(4)…「おらが駅舎」今昔物語

  • 「Mr.PO」の思想と行動(4)…「おらが駅舎」今昔物語

 

 「俺達の隣町の横川省三(注―1)を知らないか。日露戦争の時、シベリヤ鉄道(東清鉄道)を爆破した男だ。あなたがそう云うなら、我われにも考えがある。なにしたど、もう一度云って見ろ。岩手135万県民を馬鹿にする気か」―。まるで、赤穂浪士の討ち入りを彷彿(ほうふつ)させるシ-ンではないか。「Mr.PO」(上田東一市長)が陰であやつる「アストロタ-フィング」(エセ草の根運動)なる茶番、いや“猿芝居”を連日見せつけられているうちにわずか数10年前、イ-ハト-ブを舞台に繰り広げられた一大絵巻の光景をまざまざと思い出した。題して、もうひとつの「おらが駅舎」物語―

 

 「花巻への停車駅設置は見送り」―。1971(昭和46)年10月、花巻市民やその周辺自治体の住民は“寝耳に水”のニュ-スに耳目を疑った。活劇じみたこの物語は新幹線「新花巻駅」が開業した1985(昭和60)年3月に至るまでの14年間に及ぶ“官民一体”の誘致運動の貴重な記録である。現代版「百姓一揆」とも呼ばれた、当時としては全国的にも稀有(けう)な住民運動の先頭に立ったのは「一揆の頭領」こと、百姓あがりの小原甚之助と開業当時の市長、藤田万之助(いずれも故人)。冒頭の獅子吼(ししく)のような雄叫びは国鉄本社(当時)に乗り込んだ際の頭領の啖呵(たんか)である(渡辺勤著『新花巻駅物語り―甚之助と万之助』より)

 

 総工費41億8千万円―。当時としては途方もない金額。挫折しそうになる気持ちを奮い立たせたのは「参画・協働」を先取りしたような歴代市長や市議会議長、商工会議所会頭など有力者の“三位一体”のスクラムだった。もうすでに旅立ってしまったが、私が小中学校で席を並べた親友2人は広報委員長と調査委員長の要職に付き、日夜個別の寄付金集めに走った。その額はざっと、11億8千5百万円余り。当時、ふるさとを遠く離れていた私は郷土愛に燃える親友の情熱に胸を熱くしたのを覚えている。工費のすべてまたは大半を地元で負担する、全国初の「請願駅」はこうした苦闘の産物だったのである。この貴重な記憶はのちに映画化もされ、話題を呼んだ(注―2)

 

 設置費寄付総数(約14900人)、市民早期実現総決起大会(参加者約3000人)、国鉄への鉄道用地提供拒否者(186人)、遠野や釜石、宮古など駅勢圏の設置要求署名(30万人)、対国鉄陳情(延べ110数回)…。わずか50年前、澎湃(ほうはい)としてわき起こったあの住民運動の熱気は今、いずこに!?まるで、こそこそと動き回るドロボ-猫みたいな新版「おらが駅舎」物語を目の前にムラムラと怒りが込み上げてきた。商議所会頭や農協組合長、同窓会長など各種団体のトップの勢ぞろい…。今回の“やらせ要請”に追従したこうした面々こそが遺産(レガシ-)ともいえる「歴史の教訓」を身をもって体験した世代ではなかったのか。

 

 1990(平成2)年3月、開業5周年を祝って、新花巻駅前に石碑が建てられた。碑文はこう結ばれている。「ここに、市民が力を合わせて、この大事業を成し遂げたことを末永く後世に伝え、ますますの弥栄(いやさか)を願って新駅開業5周年を記念し、この碑を建立する」―

 

 花巻市議会が“不要不急”という理由でその予算案を否決した「JR花巻駅東西自由通路(橋上化)」問題…。新幹線の利便にあずかりながら、一方で議会側の意思決定などどこ吹く風とばかりに「Mr.PO」の提灯を担ぐ旧世代人よ。もう一度、足元の歴史を思い起こしてはどうか。このグロテスクな光景はもはや、ある種の「カリカチュア」(戯画ないしは風刺画)としか言いようがない。以下に頭領の血の吐くような言葉を記す。爪のアカでも煎じて飲んで欲しいものである。

 

 

       【甚之助語録】(『新花巻駅物語り―甚之助と万之助』より)

●まるで山賊か虎が花巻に住んでいるから恐ろしくて花巻は通れないと、そう云う仕打ちを国鉄にされたんじゃありませんか
●現代の政治と云うものは、一人の英雄に頼るものではございません。点と線の政治から、面の政治、大衆動員の政治となっているのであります
●市の、市の主脳部の恥ずかしめは、即ちわが花巻市民の恥でありますぞ!そうじゃありませんか!

●昔から花巻は後手後手と廻る所だ。和賀と較べて政治性に乏しい。商売は熱心だが、地域の事に関して誠に消極的だ。横黒線も北上に取られるし花巻中学校も後手をとった。今又、新幹線の誘致に失敗して、一体我々は子孫に対し、何と申しひらきをするのか
●あきらめるのはまだ早い。駄目か、駄目でないか、やって見なければ判らない。花巻百年の大計の為に、我われの子孫の為にもう一度やろうじゃないか


 

《注―1》~横川省三(1865-1904年)
 

盛岡藩士の子に生まれ、のちに現花巻市東和町の横川家の婿養子に。自由民権運動に投じ、加波山事件に連座して禁錮。明治23年、東京朝日新聞社に入社し、郡司成忠の千島探検の特派員や日清戦争の従軍記者となる。日露戦争前に軍事探偵として諜報活動に従事、同37年日露戦争勃発後、沖禎介らとともに満洲に入り、鉄道爆破を図ったがロシア軍に捕らえられ、ハルビン郊外で銃殺

 

《注―2》~映画「ネクタイを締めた百姓一揆」

 

東北新幹線の基本工事計画には設置予定として名前のなかった新花巻駅が、市民運動の末に開業に至るまでの物語を、労働組合の隆盛や国鉄分割民営化といった時代背景とともに描いた群像劇。2017年制作、2020年劇場公開。河野ジベ太監督

 

 

 

(写真は映画「ネクタイを締めた百姓一揆」のポスタ-=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

 

 

「Mr.PO」の思想と行動(3)…米国仕込みのアストロタ-フィング

  • 「Mr.PO」の思想と行動(3)…米国仕込みのアストロタ-フィング

 

 岩手県旅館ホテル生活衛生同業組合花巻支部・花巻温泉郷観光推進協議会(4月26日)、花巻商工会議所(同27日)、花巻東高等学校・花巻南高等学校「同窓会及びPTA」(5月6日)、花西地区まちづくり協議会・花巻中央地区コミュニティ会議・日居城野地区コミュニティ会議・花北地区コミュニティ協議会・湯本地区コミュニティ会議・太田地区振興会・笹間行政区長会・矢沢地域振興会・宮野目コミュニティ会議(同12日)、花巻地区タクシ-業協同組合(同26日)、花巻農業高等学校「同窓会及びPTA」・花巻市商店街振興組合協議会・花巻北高等学校「PTA及び教育振興会、同窓会」、花巻農業協同組合(6月1日)、湯口地区各種団体等有志(同7日)―

 

 上掲リストはJR花巻駅の橋上化(東西自由通路)をめぐる、いわゆる“やらせ臭”プンプンの駆け込み要請の6月9日現在の状況である。観光業者や地域団体、学校や農業関係者などその数はなんと20団体。このプロジェクトに関連して上程された「業務調査費」(2603万円)について、花巻市議会3月定例会(3月17日)は「より広く市民の意見を聞くべきだ」などとして、賛成多数で否決した。今回の要請ラッシュはその後の1ケ月余りに集中している。仮にこの一連の出来事をドラマ仕立てにすると「議会制民主主義の危機…二元代表制が崩壊する時」―という演目にでもなるのだろうか。当局側と議会側とが相互に監視し合うという、地方自治のこの最高規範を自壊に追い込んだのは―。アッと驚く“悲話”の幕開けである。

 

 コロナ禍のうっとうしい日々、二人の男が地域に分け入り、その地のボスたちと何やらヒソヒソ話し合う姿があちこちで目撃された。“やらせ要請”の旗振り役と目され、一人は「Mr.PO」(上田東一市長)の後援会事務局長を名乗る革新系会派の現職市議で、もう一人は建設畑が長い副市長。この二人三脚ぶりはつとにまちの評判になり、とくに市議の品位を疑う声は高まる一方。たとえば、「花巻市議会議員政治倫理要綱」はこう謳う。「市民の代表者として、常にその人格と倫理の向上に努め、その権限又は地位を利用して、不正に影響力を行使し、又は金品を授受しないこと」(第3条「政治倫理基準」)。この規定に明らかに抵触しているにもかかわらず、このご仁が議員を辞したという話は聞こえてこない。

 

 一方の副市長は元々“汚れ役”を買って出るタイプなので、役回りとしてはぴったりである。そんな時、今度は“国営”NHKがおっとり刀で助っ人に駆けつけた。6月1日の夕方の地域ニュ-スを見て、腰を抜かした。「JR花巻駅は、現在、東西を結ぶ地下道が整備されていますが、防犯カメラは設置されておらず、女子生徒への声かけ事案も起きていて地元から不安だという声があがっています」―。こんなナレ-ションとともに薄暗い地下道の動画が映し出された。正式名「日本放送協会」の大本営発表はいまに始まったことではないが、その影響力が地方自治の現場にまで及んでいることに怖気(おじけ)づいた。

 

 「アストロタ-フィング」―という言葉がある。ウィキペディアなどによれば、アドボカシ-(擁護や代弁、支持など)のひとつで、団体や組織が背後に隠れ、自発的な草の根運動に見せかけて行う意見主張や説得を行う手法。“偽(にせ)草の根”運動などとも言われる。政治的目的に限らず、商業的な宣伝やマ-ケティングの手法として、一般消費者の自発的行動を装った「やらせ」の意味でも用いられる。分かりやすい言い方をすれば、“隠れミノ”ということにもなる。最近の例では全米で発生している、コロナ禍に伴う外出制限に対する抗議デモが“市民運動”に見せかけたアストロタ-フィングではないかとの疑惑が浮上している。

 

 「いろんなところから要望書をいただいていますから、それは市民の意思としては非常に重いものではないかと。市民の要望がたくさんある中で、調査を実施することによって、議員や市民に納得してもらえるような整備計画を作成したい」―。「Mr.PO」は“やらせ要請”が出そろったタイミングを見計らって今月4日、急きょ議員説明会を招集。17日開催の6月定例会に業務調査費を再上程したい旨を明らかにした。と、ここまでは筋書き通りに進んでいるなと思いきや、得意絶調の“活舌”(かつぜつ)の口元、いや手元からからふと「水がもれる」ハプニングが。げに「口は災いの元」―ではある。

 

 「で、現在の地下道には防犯カメラを設置することにし、関連予算も同時に提案したい。地下道へのカメラの設置は全国で2番目のはずです(それにしても、ランキングが好きなご仁ではある。1番でなくて残念)」―。まさか、国営放送に指摘されたからだとは思わないが、「語るに落ちる」とはこのこと。市民の安心・安全を最優先させなければならない行政トップがこれまでの「不作為」を自ら認めたというお粗末の一席。つまり、「Mr.PO」こと「パワハラ&ワンマン」市長は自らの手で墓穴を掘ったことに気が付かないほどの愚者(おろかもの)だったということである。そして、最大なる不幸はこの程度の首長をかつぎ上げた、私自身を含めた市民の側もまた、同等に愚者だったというべきであろう。こうした“茶番劇”は今後も続々と公開される見通しである。

 

 米国仕込みの「アストロタ-フィング」を駆使するこの人物にこれ以上、市政を委ねることは許されまい。五輪を前にした「安心・安全」という言葉ほど空虚なものはない。いずこも同じ。“上田パンデミック”の勢いは衰えそうもない。“愚民”政治と訣別する、その幕引きの時期はもう1年を切っている。

 

 

 

(写真は“やらせ要請”じゃなく、”やらさせられ要請”を恥じる風もなく、大々的に報じる花巻商工会議所の機関紙=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

縁は人を結び、人は縁を結ぶ…“以心伝心”の魔訶不思議

  • 縁は人を結び、人は縁を結ぶ…“以心伝心”の魔訶不思議

 

 「そろそろ、あの世からお迎えがくるっていうことなのかなぁ」―。最近、途切れかかっていた縁がふいに戻るたびに、こんな縁起でもない気持ちにさせられることが多い。で、今回の縁(えにし)の不思議の顛末(てんまつ)は今月1日のあるご婦人の来訪がきっかけ。20年ほど前に一度、お目にかかったはずだったが、その記憶はほどんどない。差し出された名刺を拝見して、まるでフラッシュバックみたいに往時がよみがえった。「えみし学会 運営委員」とあった。私はこの日、たまたま当ブログに「日本三大“土人考”」(6月1日付参照)なる原稿を掲載したばかり。偶然にしては余りにも出来すぎている“符合”にまず、びっくり。そして―

 

 「実はね、私もすっかり失念していたんだけど、新聞折り込みであなたの名前を思い出したの」―。花巻在住の佐久間祥子さん(75)はこう言って、微笑んだ。たしかに、4月24日付朝日新聞に「新花巻図書館―まるごと市民会議」発行の広報誌「ビブリアはなまき」創刊号が折り込まれ、私も拙文を寄せている。「そうでしたか」と互いに顔を見合わせることしばし。「これ、つたない句集ですが、生きた証しのつもりで…」と佐久間さんは一冊の冊子を差し出した。山野草の採色スケッチを添えた素敵な俳句画文集で、『おてまぎ』というタイトルが付けられていた。「子どものとき、舌が回らなくて『お手紙』と言えなくって、『おてまぎ』と。それで…」

 

 「星々が/地の霊/呼ばう/鹿(シシ)太鼓」―。還暦の時に重篤ながんに侵され、九死に一生を得た佐久間さんは以来、それまで縁もなかった俳句を友にするようになった。収められたのは330句。私自身の脳裏にも刻み込まれた、懐かしいふるさとの光景が目の前に立ち上がってくるような、そんな句が並んでいた。ある注釈文に目が引き寄せられた。「えみし学会ゼミナ-ル開催のため、811年文屋綿麻呂の朝廷軍対伊加古率いるえみし戦の最後地・爾薩体(にさて)を訪ねた」―

 

 「爾薩体」―。目が点になった。まだ現役の新聞記者だった20年以上も前、私自身がこの奇妙な地名のナゾを追って取材したことがあったからである。きっかけは宮沢賢治が“郷土喜劇”と名づけた『植物医師』。作中では主人公の植物医師として、「爾薩待(にさつたい)正」という名前で登場している。賢治の教え子だった遠縁の男性が当時、この主人公役を演じたというのも考えて見れば、奇縁である。「この地名はどうも、えみしっぽいな」という独り言みたいなつぶやきが取材行を促した。「植物医師」を名乗るインチキ医師が農民をだますという筋書きだが、アメリカの小さな町を舞台にした“初演形”の方に私の興味はあった。こんなラストシ-ンである。

 

 ………右にピストルを、左手を無造作にポケットに突っ込んだ覆面の巨漢、登場。重い声で「ハンド アップ」。右手のピストルを爾薩待の正面にむけて近寄る。爾薩待、無言で静かに両手を掲げ、ジリジリ片隅に寄る。巨漢おもむろに左手で、爾薩待のポケットから紙幣を取り出し後退(あとずさ)りにドアに近づき、ヒラリと身をかわして逃走する。爾薩待、しおれてイスに深く坐る(『宮澤賢治全集8』ちくま文庫)

 

 地名の「爾薩体」は現在は二戸市「仁左平」と書き改められている。当時、取材の水先案内をしてくれたのは市議の経験もある郷土史家の関正夫さん(故人、当時75歳)。「38年戦争」とも呼ばれたヤマト軍による“蝦夷征伐”の最後の激戦地が弘化2(811)年、爾薩体一帯で繰り広がられた「伊加古の乱」だった。「アイヌ壇の史跡」と彫られた石碑が目に飛び込んできた。「犠牲になった伊加古ら蝦夷(えみし)の墓所だったのではないか」―。関さんがふと、もらしたひと言が今も頭から消えない。

 

 「案内役の関さんは実は私の遠縁に当たる人なの。だから、えみしに魅かれるのかしら」と佐久間さんが突然、口にした。「えっ」と絶句しながら、私は前掲ブログに引用した詩人の故若松丈太郎さんの遺作『夷俘(いふ)の叛逆』の冒頭詩を思い出した。書名と同じタイトルの詩の一節にこうある。「ヤマト王権は東方や北方の先住民たちを/夷狄(いてき)・蝦夷(えみし)・蝦賊(かぞく)と名づけて従属させようとし/順化の程度によって夷俘(いふ)・俘囚(ふしゅう)などと差別した。当然のこととしてレジスタンス活動が続発した」―

 

 対ヤマト戦争の最後の激戦地―「爾薩体」を舞台にしたレジスタンスは811年、約2万人の征討軍の前に伊加古率いるえみし軍は60人余りの犠牲者を出して敗北した、「30年戦争」はこうして幕を下ろした。ところで、言語学者の金田一京助によると、爾薩体」はアイヌ語による読解が可能だとして、「木の枯れた森」とか「窪森」などという地名解を当てている(『北奥地名考』)。それにしても、賢治はなぜ、えみしを連想させる人物を劇中の主人公に起用したのであろうか。“初演形”がアメリカインディアン(先住民)の同化政策を連想させるように、賢治もまた結局はヤマト側に与(くみ)する思想の持主ではなかったのか……“聖者伝説”がまかり通るイ-ハト-ブの地ではこの手の言説はまさにご法度(タブ-)だと思い込んでいたのだったが…

 

 「私ね、賢治は縄文の系列ではなく、ヤマトの側だと思うのね。伊加古の乱にしたって、結局は爾薩体を舞台にすることで、“まつろわぬ民”への挽歌を残したかったのでは…。なんたって、銀河宇宙の人ですもの」―。“えみし”談議に花を咲かせているうちに、佐久間さんがケロッとした口調でこう言った。一瞬、こんな“危険“思想の持主がそばにいたことに虚をつかれたが、“異論”にもの申すその勇気に力をもらったような気持にもなった。

 

 まこと、「縁は異なもの味なもの」―ではある。

 

 

 

 

(写真は生き生きとした句と山野草のスケッチがマッチした俳句画文集『おてまぎ』)

 

 

 

《追記》~現代のジェノサイド、カナダで先住民の遺骨、発見。日本でもアイヌやウチナンチュ(琉球人)の遺骨問題が未解決!?

 

 カナダの先住民寄宿学校の跡地から215人の子どもの遺骨が発見され、カナダ全土に波紋が広がっている。政府は過去に子どもを家族から引き離して寄宿学校で生活させるなどの同化政策を実施し、謝罪もしているが、当事者団体は全ての学校跡地で調査をすべきだと訴えている。遺骨が発見されたのは、カナダ西部バンク-バ-から250キロ北東にあるカムル-プス。地元の先住民団体によると、遺骨は5月下旬に最新式のレ-ダ-を使い、地中を調べて見つかった。「3歳ほどの子の遺骨もあり、記録されていない死者だ」という。

 

 カナダは1867年に建国されたが、現在は「ファースト・ネ-ション」などと呼ばれる先住民に対する同化政策は英領の頃からあった。カナダ政府によると寄宿学校は全国に139校設けられ、15万人以上の児童・生徒が親元から強制的に引き離されて生活していた。今回遺骨が見つかったのは最大の寄宿学校で、カトリック教会が運営。1950年代には最大500人が学んでいたという。

 

 カナダ最後の寄宿学校は96に閉鎖され、2008年には当時のハ-パ-首相が同化政策について謝罪。15年に出された報告書は、寄宿学校における身体的虐待やネグレクトの実態を明かし、「文化的ジェノサイド」と結論づける一方、「死者数は完全にはわかりそうにない」としていた(6月5日付「朝日新聞」電子版)

 

 

コロナ神から「アイヌ学」へ…日本三大“土人考”

  • コロナ神から「アイヌ学」へ…日本三大“土人考”

 

 「コロナ禍の時代、私はアイヌ民族の教えに従って、この疫病をあえて『コロナカムイ』(コロナ神)と呼ぶことにしています。『パヨカカムイ』(徘徊する神=病気の神)にならい、“負けるが勝ちよ”、“無駄な抵抗はやめよ”という深遠なアイヌ精神が宿っていると考えるからです。私たちは今こそ、アイヌの哲学に学ばなければならないと心の底から思っています」―。『アイヌ新聞記者 高橋真』(4月29日付当ブログ参照)と題するギクリとするような書籍を恵送いただいたアイヌの古布絵作家、宇梶静江さん(88)に対し、こんな礼状をしたためた。ほどなくして、「『アイヌ学』を起ち上げよう!」という趣意書が届いた。

 

 「私がアイヌであることを意識するようになったのは、『あっ、犬が来た』という、言われない悪意ある言葉を浴びせられた、その瞬間だったのではないかと思います。それ以来、アイヌと和人(日本人)の違いは、私を捉えて離さなくなってしまいました。私はなぜアイヌなのか?私はなぜ日本人と暮らしているのか?」―。アイヌ民族として生きてきた苦難を書きつづった趣意書はこう結ばれていた。「私が考える『アイヌ学』とは、アイヌも和人も関係なく、アイヌとは何かを共に考え、共に語り合う一つの場所をこの地上に開くことです」

 

 「臥牛」(ふしうし)という地名が記憶の古層にこびりついている。北上・更木地方の小字で、まだ小学低学年だった当時、郷土史家を気取っていた遠い親戚のじいさまがこんなことを語ってくれた。「『うし』(usi)とはアイヌ語に由来している。場所や所を指す言葉で、この一帯に牛の放牧場があったので、こう呼ぶようになったんではないか。東北には同じようなアイヌ語由来の地名があちこちにあるんだぞ。覚えて置け」―。新聞記者となって北海道勤務になった際、アイヌ取材にのめりこんだのも、定年を迎えてふるさとに戻ることになったきっかけも、どうも消すことのできないこの「臥牛」の記憶みたいなのである。

 

 「研究フォ-ラム 花巻地方のアイヌ語地名をさぐる」―。古代史に興味のある仲間を誘って、こんなイベントを開催したのは定年3年後の2003年。民俗学者の谷川健一さん(故人)やアイヌ語学者で横浜国立大学名誉教授の村崎恭子さんを招き、「猿ヶ石川・豊沢川流域のアイヌ語地名について」…をテ-マに開催。会場の宮沢賢治イ-ハト-ブ館は県内外からの聴衆でいっぱいになり、翌日の地名探訪会も盛会に終わった。半分、道楽三昧の定年生活の安寧(あんねい)を打ち砕いたのが8年後に発生した東日本大震災(3・11)だった。宇梶さんはそのわずか1週間後に以下のような詩をつづった(冒頭写真『大地よ!』所収)

 

 

大地よ/重たかったか/痛かったか

あなたについて/もっと深く気づいて/敬って

その重さや/痛みを/知る術を/持つべきであった……

 

 大震災の記憶も忘却のかなたへと消え去り、コロナ禍での五輪開催がまたぞろ叫ばれる中、もう一つの詩集が世に送り出された。「2021年3月11日」発行の奥付のあるこの詩集は冒頭写真の『夷俘(いふ)の叛逆』(コ-ルサック社)で、作者は奥州市出身の詩人、若松丈太郎さん(享年85歳)。福島県内で高校教師を続けるかたわら、近代の倨傲(きょごう)を指弾し続けた若松さんは4月21日に病没した。遺作のなった詩作に「土人からヤマトへもの申す」と題する作品がある。チェルノブイリ原発事故を視察した後に発表した詩「神隠しされた街」(1994年)は福島原発を予言していたとも評された。

 

 

米軍基地建設に抗議するウチナンチュ-に

ヤマトから派遣された警官のひとりが「土人!」と罵声をあびせた

ウチナンチュ-が土人だば

おらだも土人でがす

そでがす/おら土着のニンゲンでがす

生まれてこのかた白河以南さ住んだことぁねぇ

<東北の土人><地人の夷狄(いてき)>でがす……

 

 「土人」という罵声を浴びせられたのは『水滴』(1997年)で芥川賞を受賞した作家の目取真俊さん(60)である。5年前、沖縄・東村の米軍北部訓練場周辺で抗議活動中、警備していた大阪府警の機動隊員から「触るな。土人」とののしられた。私自身、その前日にたまたま同じ現場に滞在していたこともあり、その一部始終の光景が頭に焼き付いている。冒頭写真の代表作『魂込め(まぶいぐみ』は沖縄戦で両親を失った男の魂が肉体を離れて、海辺をさまよう記憶の物語である。そんな悲劇の歴史を背負わされたウチナンチュ-(沖縄人)に対する「ヤマト」の目線にハッとさせられた。考えても見れば、アイヌ民族もかつては「旧土人」と蔑(さげす)まれ、「蝦夷(えみし)」とも呼ばれた我が東北の先人たちも「化外(けがい)の民」と埒外(らちがい)に葬り去られてきた歴史を忘れてはいない。

 

 コロナ禍が猛威を振るう沖縄・読谷村在住の反戦彫刻家、金城実さん(82)に久しぶりにお見舞いの電話を入れた。「なんの、なんの。沖縄土人はそんなヤワじゃないぞ。そろそろ、全国の土人大集合の好機到来ということじゃないのか」と例のだみ声が返ってきた。そういえば、宇梶さんもこんなことを言っていた。「アイヌはね、コロナにはかからないの。ちゃんと、カムイ(神)として敬っているんだもの…。アイヌにとっては森羅万象(自然界)が全部、カムイ。だから、私たちアイヌ(アイヌ語で「人間」の意)はカムイに守られて生きている。その人間たちの余りの強欲にコロナのカムイも怒ったんだよ」

 

 「パラダイムシフト」(価値の大転換)―。「3・11」の際もインテリの口から盛んに喧伝され、結局は雲散霧消(うんさんむしょう)のはかなきに消えたように、ワクチン接種の効果が現われ、仮に五輪が無難に終わった場合、世界中を恐怖のどん底に突き落とした今次のコロナ禍もやがては「泡沫(うたかた)」と化してしまうのだろうか。そんな予感がする。それに引き換え、「土人の記憶」はそうやすやすとは消えることのない、身体に刻まれた“記憶”の集積…決して、癒すことのできない傷痕の総体である。だからこそ、いま「アイヌ学」、いや「土人学」の再興が待たれるゆえんである。宇梶さんの呼びかけに呼応したい気持ちがだんだん、強くなってくる。

 

 

 

 

(写真は“土人学”を考える際の私の必読リスト。宇梶本は藤原書店刊、目取真本は朝日文庫刊)