HOME > 記事一覧

余命、一年半…

  • 余命、一年半…

 

 「女房に先立たれた夫は大体、2年以内に死ぬらしいぞ」―。歯に衣着せぬ知友のジャズミュ-ジシャン、坂田明さん(73)からこう忠告された。「健康に気を付けて、長生きしてください」という何か恩着せがましい励ましよりはずっと、ありがたい。一方で「逆もまた真なり」―、夫に先立たれた女房は長生きするというデ-タはこの長寿社会の中ですでに実証ずみである。私の場合はその逆になってしまった。ミジンコの研究者でもある坂田さんからいつだったか、「こいつの命はまるで透けて見えるんだよな」と顕微鏡をのぞかせてもらったことがある。本当にそう見えた。いやはや、命の中までお見通しとあっては…。というわけで、私は心機一転、新年早々からスポ-ツジムに通い始めたのだった。当年78歳―末期高齢者の悪あがき!?

 

 本日29日で妻は没後6カ月を迎えた。坂田さんの定理に従えば、私に残された余命は最大であと一年半ということになる。「いい年をして、今さら命乞いか」という意地の悪いヤジに対しては、苦し紛れにこんな屁理屈を伝えることになる。「そうじゃない。残された1年半には身の回りの整理やこれまで不義理を重ねてきた友人知人へのあいさつなどやることがたくさんある。だから、それをやり遂げるまでは死ぬわけにはいかない。余命を全うするためのやむを得ざる予防措置だよ」―。「やもめ暮らし」を心配してくれる親切な人たちも後を絶たない。ある人が「死別は最大のストレス」というタイトルの新聞記事の切抜きを持って来てくれた。これにはまいった。ある大学教授がこんなことを語っていた。

 

 「遺族ケアでリスクが高いのは高齢の男性。仕事一筋の現役生活を過ごした男性は、家庭や地域を顧みなかったツケが老後に回ってくる。交際範囲が狭く、ほぼ唯一の相談相手である妻に先立たれると、一気に日常が破綻する。下着が見つからないといった程度なら笑えるが、料理ができずに食生活が偏り、生活習慣病を悪化させたり、孤独感からアルコ-ルに頼ったりする人も多い。放置すれば孤独死しかねない。さらに厄介なのは、精神科医療への偏見が強いこと。受診を勧めても、『沽券(こけん)かかわる』などと抵抗。受診者の8割はやはり女性だ」(2017年9月15日付「岩手日報」)―。おいおい、これって、我輩のことではないのか!?そして、今度は…

 

 「おいおい、これって、現代版の『タ-ヘル・アナトミア』(解体新書)ではないのか」―。ジム通いを始めて、これにはもっとまいった。胸、腕、腹、背中、肩、臀部(でんぶ)…。所狭しと置かれた健康器具にはまるで、“腑(ふ)分け”した人体解剖図のような写真が張り付けられ、使用方法が書かれている。「あっ、そうですか。腰の痛みとお腹の出っ張りですね」と若いインストラクタ-が親切に指導してくれる。平日の日中なので私のようなシニアが多い。みんな、何かに取りつかれたように器具を操っている。顔からは噴き出るような汗が…。みんな、そんなに長生きしたいのかなあ。

 

 部位ごとに人工筋肉をこしらえていくさまはまるで、マシ-ンの奴隷ではないかとさえ思えてくる。目の前のテレビに熱中しながら、身体は規則正しい動きを継続する。これって、あの“人造人間”じゃないのか。ゾッとした。「で、おまえさんは何のためにここに来ているのか」―そんな自問が不意に口をついてでた。「うん、それはさ。さっきも言ったように命乞いではなく、つまりは“終活”を存在論(オントロジ-)的な視点で考えて見よう、と…。生き延びようとするのではなく、死を意識して生きるというということさ」(1月25日付当ブログ「『おためごかし』という偽善」参照)―。だんだん、応答がしどろもどろになってくる。

 

 遠音にまたヤジが聞こえてきた。「そんなに格好をつけるんじゃないよ。あんたもしょせんは命が惜しいだけなんだろ」―。隣のシニア男性に負けず劣らず、身体全体から汗が噴き出してきた。ヤジの通りかもしれないなと思った。ひとりの老いぼれた“偽善者”がスポ-ツジムの片隅にぽつねんと佇(たたず)んでいる。さて、今晩の酒のさかなは何にしようかな。いやはや。それはそれとして…坂田大兄、生きる勇気を与えていただき、本当にありがとうございました。

 

 

(写真はスポ-ツジムの訓練のひとこま。いまやシニアの間でも人気が上昇している=インタ-ネット上に公開の写真から)

  

 

縁(えにし)の不思議

  • 縁(えにし)の不思議
  • 縁(えにし)の不思議

 「東北のなかでもとりわけ交通の便がよくない町に立地しながらも、1960年代からジャズ喫茶として地道に営業し続けてきたのに、店全体が津波に流されてしまった。幸い、店主の佐々木賢一氏は後ろから襲ってくる津波をギリギリで逃げ切ったが、長年集めた店内のレコ-ドや写真やミュ-ジシャンからの手紙などが一切合財なくなってしまった。半世紀以上の過去の記録が、一気に消えてしまったわけだ」―。日本在住の日本文化研究者、マイク・モラスキ-さん(63)は2006年、日本語で初めて書いた『戦後日本のジャズ文化』でサントリ-学芸賞を受賞したが、2年前に刊行された岩波現代文庫版のあとがきに冒頭のような文章を寄せている。

 

 文中の佐々木賢一さんこと「賢ちゃんは」は東日本大震災(3・11)でがれきの荒野と化した三陸沿岸の大槌町駅前で、ジャズ喫茶「クイ-ン」を経営していた。創業は60年近くも前、岩手最古と言われた。大津波はこの老舗を一気に飲み込み、奥さんの命を奪ったうえ、2万枚以上のレコ-ドを海へと流し去った。震災直後、私は無残な姿をさらけ出す跡地に呆然と立ち尽くしていた。足元には数枚のレコ-ドの破片が泥まみれなって散らばっていた。名古屋市内の妹さんの家に避難していた賢ちゃんは3ケ月後、花巻市に居を移した。

 

 「死んだ男の残したものは/ひとりの妻とひとりの子ども/他には何も残さなかった/墓石ひとつ残さなかった」(谷川俊太郎作詞、武満徹作曲『死んだ男の残したものは』)―。賢ちゃんの生還を祝ったライブが開かれ、畏友の坂田明トリオがこの名曲を奏でた。ボロボロとあふれる大粒の涙が真っ白いひげを濡らした。こぶしで目をぬぐいながら、賢ちゃんが言った。「生死を分けたのは運命のいたずらだとしか考えられない。でも、生かされた以上、この歌のように精一杯生きるしかない」―。賢ちゃんが別の追悼ライブで「おかしなアメリア人がいるんだよ」とモラスキ-さんを紹介してくれた。その言いぐさが振るっていた。「この男はおれ達よりもジャズに詳しいんだよな。それだけじゃない。居酒屋論も展開する。ただもんじゃないぞ」―。あった、あった。『呑めば、都』なんていう著作も。

 

 私の妻が亡くなったちょうど1週間後の昨年8月5日、賢ちゃんはまるで後を追うように突然、旅立った。妻より1歳年上の76歳だった。長女の多恵子さんが住む、花巻市東和町の自宅に焼香に伺った。懐かしい遺影の前に1通の封書が置かれていた。「モラスキ-さんからです。どうぞ」と多恵子さんが言った。丁重なお悔やみの言葉が何枚にもわたって、日本語でつづられていた。「彼がね、また新しい本を出したんだって」と分厚い文庫本を見せてくれた。『新版 占領の記憶/記憶の占領』(岩波現代文庫)―。「戦後沖縄・日本とアメリカ」という副題がついていた。ペラペラとめくって見て、びっくりした。私が「沖縄」ウオッチをする際にいつも参考にさせてもらう芥川賞受賞作家、目取真俊さん(58)の文学論に多くのペ-ジを割いていたからである。

 

 目取真さんは1997年、『水滴』で第117回芥川賞を受賞した。「戦後生まれの小説家の中で、彼ほど『戦争の記憶』という問題を真摯かつ独創的に追究し続けた作家はいないだろう」とモラスキ-さんは同書に書いている。この小説はウチナ-口(沖縄方言)を効果的に使いつつ、とくに沖縄戦の内奥を鋭くえぐった作品である。私がさらに驚いたのはヤマトンチュにも読解が困難なこのテキストを英語で翻訳していたことだった。ジャズピアニストでもある、その異能多彩ぶりは当然のこととして、この米国人が沖縄に寄せるまなざしにこころを打たれた。「私としてはなるべく広い読者層に紹介したく、アメリカの地味ながら由緒ある文学雑誌に拙訳を掲載してもらった」とその気持ちを明かしていた。

 

 1月7日付当ブロブの《追記―3》で触れたように、目取真さんのブログ「海鳴りの島から」は「辺野古」新基地建設現場の動きをリアルタイムで知ることができる、私にとっては“羅針盤”の役割を担っている。本業の作家活動をわきに置き、目取真さんは連日のように現場にカヌ-を漕ぎ出し、抗議行動を続けている。その両立性について、モラスキ-さんはこう指摘する。「作家・批評家・運動家としての総合的な活動こそ、現在の沖縄における戦争と占領の継続性をくっきりと浮き彫りにしている」―。3年前の秋、目取真さんは沖縄県東村高江のヘリパッド(ヘリコプタ-離着陸帯)建設現場で、機動隊員から「土人」発言を浴びせられた。ニライカナイ(琉球国)の地に根を下ろした目取真さんにとっては「現場」に身を置くことそれ自体が小説の作法なのである。

 

 賢ちゃんにモラスキ-さんを紹介され、その人が今度は「目取真」論を展開する。つくづくと「縁(えにし)の不思議」を思う。「他生の縁」とも「多生の縁」ともいう。私は時々、賢ちゃんの仏前に手を合わせ、そして、毎日のように「海鳴りの島から」をのぞきながら、沖縄の無法を体に刻み込む。「おかしな」外国人に仲を取り持ってもらった「縁」で…

 

 

(写真は「賢ちゃんを励ます会」に集まったジャズ仲間。右から在りし日の賢ちゃん、老舗ジャズ喫茶「ベ-シ-」店主の菅原正二さん、サックスの坂田明さん=2011年6月27日、一関市のベ-シ-で。右の写真はモラスキーさん=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

《追記》

 

 2018年11月9日付当ブログで紹介した作家、葉真中顕さんの『凍てつく太陽』(幻冬舎)が第21回大藪春彦賞を受賞した。

夕張炭坑節…だんな様

  • 夕張炭坑節…だんな様

 

 妻を欠いた初めての年末・年始も沖縄・石垣島に住む娘夫婦と孫二人の嵐のような来訪で、あっという間に過ぎ去り、わが住まいは元の静寂に戻った。余りにも不気味な静けさに思わず、テレビのスイッチを入れて驚いた。新春12時間スペシャル(1月2日)と銘打った歌謡番組から流れてきたのは往年の演歌歌手、三船和子が絶唱する「だんな様」だった。故鳥井実作詞、岡千秋作曲のコンビで、1983(昭和58)年に発売されたこの歌は空前のヒット曲になった。最終節はこう結ばれている。「明日を信じて、お前と二人/お酒のもうと、差し出すグラス/私の大事なだんな様/あなたに寄り添い、いつまでも/心やさしい女房でいたい」(3番)

 

 単なる偶然とはいえ、5ケ月ほど前に妻を失ったばかりの私にとって、「だんな様」とは何ともタイミングが良すぎるではないか。が、次の瞬間、私はかぶりを振った。「否、これはヤマに散った男たちへの挽歌ではないのか」―。新人記者時代、九州での炭鉱取材の経験を生かし、北海道に転勤した後も自称“ヤマ記者”を名乗っていた。1981(昭和56)年10月、北炭夕張新炭鉱でガス突出事故が発生、道内では戦後最大となる93人が犠牲になった。4年後の1985(昭和60)年5月、今度は三菱南大夕張炭鉱でガス爆発が起こり、62人が坑内に没した。この事故をきっかけに同鉱は5年後、閉山に追い込まれた。「だんな様」はこの二つの事故をちょうど真ん中にはさむようにして、うぶ声を上げた。

 

 夕張は豪雪地帯として知られる。振り積む雪は玄関口をふさぎ、屋根からずり落ちてきた積雪はまるで雪ふとんのように上下が合体していた。夜のとばりが下りるころ、居酒屋の灯りが雪明りのようにうっすらとあたりを照らし出す。キタキツネの足跡をたどるようにして、私たち取材班は行きつけの店に足を向け、冷え切った体を温めた。「俺家」(おれんち)という名前だった。地元紙の道新(北海道新聞)やNHK、共同通信、全国各紙の記者たちがいつも一緒だった。他に体力を維持する適当な店がなかったせいでもある。北炭事故で最後の遺体が収容されたのは163日後の翌年春だった。残っていた骨片は手の平に収まるほどに小さくなっていた。

 

 「がまんしている背中をみれば/男らしさに、涙が出ます/私の大事なだんな様…」(2番)―。しんしんと深雪が降りるある夜、店の中に「だんな様」の大合唱がこだました。同席したヤマの男たちの飲みっぷりの良さにうっとりし、板子一枚下の「地獄」から生還した時の(タバコの)一服の仕草にほれぼれしてしまう…。そんな男たちがある日突然、地底(じぞこ)に絶命する―、まるでヤケクソみたいになって、この挽歌を歌いまくっていたことを今でもまざまざと思い出す。そこには特ダネ競争にうつつを抜かす記者の姿はなく、幼児と見まごう亡骸(なきがら)にともに涙した“同志”たちが確かにいたような気がする。

 

 そういえば、足尾鉱毒事件を明治天皇に直訴した「田中正造」研究でも知られる在野の哲学者、花崎皋平(はなざきこうへい)さんも、当時住んでいた札幌からふらりとこの居酒屋に現れることがあった。その花崎さんから年賀状が届いた。「私は今年満88歳を迎えます。幸い、まだ(無病)息災ですので、反戦平和の活動と読み書きを続けたいと思っております」と記してあった。妻の別離とヤマの男たちの無念、そして、私よりも10歳年上の老哲学者からの励まし…。新年早々、「だんな様」が思わぬ縁(えにし)を紡ぎ直してくれた。

 

 作詞した鳥井は妻の死の約1か月後の昨年8月末に83歳でこの世を去った。このヒットメーカーが実は北海道生まれというのも奇縁といえば奇縁ではある。ひょっとして、この演歌は生と死のはざまに響く現代の「声明」(しょうみょう)なのかもしれないという思いがした。それにしても、「夕張」は演歌がぴったりのまちだった。

 

 

 

(写真は雪に埋もれる夕張の町並み。スト-ブは半年間、つけっぱなしである=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

《追記》~「絶望の街」で終わらせない

 

 1月5日付「朝日新聞」全国版の社会面トップに、こんな見出しの記事が載った。「あの街/代替わり」と題したシリ-ズで、財政再建に苦闘する元炭都・夕張の姿を伝えていた。当ブログで言及したように、相次ぐ炭鉱災害と閉山の嵐の中で、夕張は2006年に財政破綻した。「第2の閉山」と呼ばれた。記事の中に元炭鉱マンの加藤博さん(86)が登場していた。15歳で石炭から土砂をふるい分ける「選炭」の仕事についた。最後に働いた炭鉱が閉じたのは87年。関東へ出稼ぎに出た―。「だんな様」を口にした、おそらく最後の世代だと思う。ヤマの男たちの苦楽を託したような、この演歌がいつの日かよみがえらんことを…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

沖縄から日本への…「新しい提案」

  • 沖縄から日本への…「新しい提案」

 

 「辺野古新基地建設の中止と普天間基地代替施設について国民的議論を深め、民主主義および憲法に基づき公正に解決することを求める」―。12月6日付で東京都・小金井市議会(五十嵐京子議長、定数24)から、首相並びに衆参両院議長、総務・外務・国土交通・防衛の各大臣、官房長官、沖縄担当大臣あてに、上記のような全国の地方議会で初めてとなる画期的な意見書が提出された。以下にその全文を掲載するので、まずその内容を読んでいただきたい。

 

※

 

 沖縄県名護市辺野古において新たな基地の建設工事が進められていることは、日本国憲法が規定する民主主義、地方自治、基本的人権、法の下の平等の各理念からして看過することのできない重大な問題だ。普天間基地の海兵隊について沖縄駐留を正当化する軍事的理由や地政学的理由が根拠薄弱であることは既に指摘されており、沖縄県議会はこれまで何回も政府に対して「在沖海兵隊を国外・県外に移転すること」を要求する決議を可決採択している。

 

 「0・6%に70%以上の米軍専用施設が集中する」という沖縄の訴えには、「8割を超える国民が日米安全保障条約を支持しておきながら、沖縄にのみその負担を強いるのは、『差別』ではないか」という問いが含まれている。名護市辺野古に新基地を建設する国内法的根拠としては、内閣による閣議決定があるのみだ。沖縄の米軍基地の不均衡な集中、本土との圧倒的格差を是正するため、沖縄県内への新たな基地建設を許すべきではなく、工事は直ちに中止すべきだ。

 

 また、普天間基地の代替地について沖縄県外・国外移転を、当事者意識を持った国民的な議論によって決定すべきだ。安全保障の問題は日本全体の問題であり、普天間基地の代替施設が国内に必要か否かは、国民全体で議論すべき問題だ。そして、国民的議論において普天間基地の代替施設が国内に必要だという世論が多数を占めるのなら、民主主義および憲法の精神にのっとり、一地域への一方的な押し付けにならないよう、公正で民主的な手続きにより決定することを求めるものだ。なお、この意見書は米軍基地の国内移設を容認するものではない。

 

 よって、小金井市議会は国会および政府に対し、以下の事項による解決を強く求めるものだ。

 

1、 辺野古新基地建設工事を直ちに中止し、米軍普天間基地を運用停止にすること

2、 全国民が責任をもって、米軍基地が必要か否か、普天間基地の代替施設が日本国内に必要か否か当事者意識を持った国民的な議論を行うこと

3、 国民的議論において普天間基地の代替施設が国内に必要だという結論になるのなら、沖縄の歴史および米軍基地の偏在に鑑み、沖縄以外の全国の全ての自治体を等しく候補地とし、民主主義および憲法の精神にのっとり、一地域への一方的な押し付けにならないよう、公正で民主的な手続きにより解決すること

 

 以上、地方自治法第99条の規定により意見書を提出する。

 

※

 

 思想的によほど偏向している人を除いては、上記意見書に異議を唱える声は少ないと思う。では、なぜこんなにも「当たり前」の訴えが本土やその議会でこれまで閑却されてきたのか。その前に横たわるのが「NIMBY(ニンビ-)」(Not in my backyard=わが家の裏庭に来てもらっては困る)という、ある意味では当然の住民感情である。これを断罪するのは簡単であるが、今回の意見書はその壁に穴をあけようという新しい試みである。しかし、可決に至るまでは紆余曲折があった。

 

 9月定例会の段階で陳情に賛成した共産党市議団(4人)が意見書提出の段になると急きょ、反対に回った。陳情文の中に「(普天間基地の代替施設について)沖縄以外の全国のすべての自治体を等しく候補地とする」という文言があったため、同議員団は「我が党は安保破棄・全基地撤去が基本的なテ-ゼ」と主張。一時は意見書見送りが懸念された。結局、「米軍基地の国内移設を容認するものではない」という一文を入れることで合意に達し、13対10の賛成多数で上記意見書は可決された。

 

 「沖縄に基地があるのは仕方がない」(本土の保守・無関心層)という自己正当化と、「沖縄にいらない基地は日本本土のどこにもいらない」(共産党をはじめとする革新層)―。この二つの主張は一見対立しているように見えていて、実は沖縄の基地の固定化をその根底で補い支え合っているという点では同根である。私自身、当時花巻市議だった2010年12月定例会で今回の陳情と同じような趣旨で、「普天間飛行場の訓練の一部を受け入れる考えはないか」と当局の見解をただしたことがあった。共産党市議団から意想外の反論が浴びせられた。「女性暴行など米兵による犯罪と騒音被害は想像を絶しており、花巻市民がそれを受け入れなければならない理由などない」―。”対岸の火事”を決め込む姿勢に腰を抜かしたことを覚えている。

 

 今回、陳情を提出した沖縄出身で小金井市在住の米須清真さん(30)はこう述べている。「(意見書は)国内への基地移設が前提ではなく、『本土』の人たちに自分の問題と考えてもらい、国民的議論につなげるためのものです」(10月14日付「朝日新聞」)、「小金井市の市議たちが陳情内容に真剣に向き合ってくれた結果だ。全国各地で取り組みが広がれば…」(12月7日付「琉球新報」)…。小金井市議会の対応は花巻市議会の玄関払いの扱いに比べれば、大きな第一歩といえる。

 

 「沖縄発/新しい提案」の実行委員会責任者で司法書士の安里長従さん(46)は「辺野古移設の理由は『軍事的な理由でなく、本土の理解が得られないから』という本土と沖縄の不合理な区分に問題の根本がある。差別の問題だ。…きちんと自由と権利の問題だと伝えなければならない」(12月3日付「琉球新報」)と話し、その考えをまとめた同名の著作の中では「日本への民主主義の提案です」と記している。そう、民主主義の実践を呼びかける実に素朴な訴えにもかかわらず、それに背を向け続ける本土(ヤマト)への異議申し立てでもある。私はこの問題を議会で提起した際、「不道理」という言葉をあえて使った。「『沖縄』問題のことごとくが道理に合っていない」と考えたからである。

 

 「辺野古新基地建設」の工事を県民投票(来年2月24日)まで止めるよう求めるホワイトハウスの請願サイトの署名が目標の10万筆を突破し、1月7日の期限までに20万筆を超えるのは確実な情勢になっている。日本国憲法(第16条)も国民ひとり一人に請願(陳情)権が付与されていることを定めている。民主主義を構築するための、その行使こそが大切な一歩になるはずである。

 

(写真は世界一危険な基地と呼ばれる米軍普天間飛行場。この返還の交換条件とされているのが名護市辺野古への「移設」計画である=インタ-ネット上に公開の写真から)

《注》~日本国憲法第16条

  何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、 平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。

 

《追記》~ブログ休載のお知らせ

 妻の喪中に当たるため、年末年始をはさんだしばらくの間、当ブログを休載させていただきます。来年こそ我が「ヒカリノミチ」に新たな光明が差し込むことを願いつつ…。良いお年をお迎えください。

 

「征伐」から「処分」、そして「保護」へ

  • 「征伐」から「処分」、そして「保護」へ

 

 「名誉と尊厳を保持して、次世代に継承することは多様な価値観が共生し、活力ある社会を実現するために非常に重要」(12月19日)―。こう発言した同じ人物がわずか5日前には「辺野古移設が唯一の解決策。(沖縄の民意無視という指摘は)まったくあたらない」と述べている。前者はアイヌ民族を支援するための立法化、後者は米軍普天間飛行場の辺野古移設(新基地建設)をめぐり、土砂投入を強行した際の発言である。「ジキルとハイド」、いや古代ロ-マの「双面神」(ヤヌス)も顔負けのこの人物こそが影の総理ともささやかれる菅義偉官房長官である。二つの顔を使い分けることによって、この国の中央集権化(ヤマト化)は推し進められてきた。それは次のような三段階を経て、現在に至っている。

 

【第1期】~征伐期

 古代東北において、朝廷が蝦夷(えぞ=現在の東北地方)に対して行った征討。774年から811年まで続いた戦いは「38年戦争」とも呼ばれ、現在の中央集権化の基礎を築いた。「蝦夷征伐」とも。

【第2期】~処分期

 明治政府は1872(明治5)年、琉球国を廃して琉球藩とし,中央政府の管轄とした。 1875年には中国との関係を廃絶することを要求するなど政府の処分の方針を伝え、79年3月、琉球藩を廃して沖縄県を設置する旨を通告した。ここに琉球王国は約500年にわたる歴史を閉じた。

【第3期】~保護期

 1899(明治32)年、アイヌ民族の同化政策を進める「北海道旧土人保護法」が制定された。「保護」の美名に隠れたこの法律は1997年に「アイヌ文化振興法」が制定されるまで100年近く続いた。

 

 「征伐」→「処分」→「保護」…。巧妙に装いを変えながら、その根っこに貫徹するのはヤマトの揺るぎない「支配原理」である。「そう、この列島の北と南からヤマト(本土=内地→中央)の支配原理をあばき出す。その原点の戦いがいま、始まったのさ」(12月11日付当ブログ「沖縄―弔いの旅路」参照)―。旧知の沖縄・読谷村在住の彫刻家、金城実さん(79)の絞り出すような言葉がまだ、耳の底に響いている。

 

 京都大学(旧帝大)の人類学者らが1929年、今帰仁村(なきじんそん)の百按司(むむじゃな)墓から持ち出した遺骨の返還を求めて、「琉球民族遺骨返還研究会」(松島泰勝代表)は今月4日、京都地裁に提訴した。原告のひとりに金城さんも名前を連ねている。これに先立つこと6年前の2012年9月、北海道浦河町のコタン出身の小川隆吉さんら遺族3人が北海道大学を相手に、遺骨の返還と1人当たり300万円の慰謝料支払いを求める裁判を札幌地裁に起こした。2年前に大学側と和解が成立、12体分の遺骨が墳墓の地に再埋葬された。このほかにも全国12大学に1636体と、特定できない515箱分のアイヌの遺骨が収蔵されていることが判明している。金城さんが「この列島の北と南から…」と言ったのはそのことを指している。

 

 『武士道』の著作で知られ、国際連盟事務次長を務めた「新渡戸稲造」(1862-1933年)は、蝦夷征伐の拠点のひとつである岩手県の出身である。「願はくは/われ太平洋の/橋とならん」というメッセージや五千円札の肖像画など明(めい)の部分に光が当てられることが多いが、実は北海道大学の前身である札幌農学校時代に「殖(植)民学」を講義していたことは余り知られていない。こんな記述を残している。「北海道の殖民が大した困難を伴わなかったのは、原住民のアイヌ民族が、憶病で消滅に頻(ママ、「瀕=ひん」の間違いか)した民族だったからである」(『新渡戸稲造全集』第2巻)。北大名誉教授の井上勝生さんは自書『明治日本の植民地支配―北海道から朝鮮へ』の中でこう指摘する。

 

 「この頃(1895年)の形質人類学では、欧米の影響を受けて、文明発展史や民族の優劣と関連させて、頭骨の形の解剖学的比較研究が、最新の学問として流行していた。…新渡戸は、頭骨の比較研究に知識と強い関心を持っていた」―。金城さんの言葉の歴史的な意味が輪郭を伴って、せりあがってくる思いがする。「征伐・処分・保護」という支配原理を同一線上で同時に思考しなくてはならない。戦後日本の「知性」はそうした営為を怠ってきたのではないか。

 

  沖縄はもうすでにして、現代版「征伐」の段階に入っていると言わざるを得ない。そして、それに加担しているのが最初の征伐の対象だった、この蝦夷の地の民だったとしたら…。被差別者が差別者に容易に変身する「被支配原理」もまた、歴史が教えるところである。

 

 

(写真は土砂の強行投入に抗議する人たちに連帯を誓う玉城デニ-・沖縄県知事=12月15日午前、沖縄県名護市の米軍キャンプ・シュワブ前で。インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

《追記—1》―アメとムチ

 

【東京】政府が2019年度の沖縄関係予算案に、沖縄振興一括交付金の補完を名目にした「沖縄振興特定事業推進費」を盛り込むことが20日、分かった。事業費は30億円。関係者によると、県が市町村への配分額を決める一括交付金と異なり、県を通さない新たな交付金として、国が市町村へ直接費用を充てられるという。市町村事業への予算配分で国の直接関与を強め、沖縄県の自主性を弱める懸念も含み、今後議論になりそうだ。
 

 同推進費は予算案で新たに盛り込まれた。新設の目的として、市町村の事業に迅速・柔軟に対応して推進するとしている。政府は19年度沖縄関係予算案を3010億円とする方針を固めている。総額では18年度当初予算と同額となるが、このうち一括交付金は前年度比95億円減の1093億円と縮減され、12年度の制度創設以降、最も低い額となる。(12月21日付「琉球新報」)

 

 

《追記―2》~民意はお構いなし

 

 沖縄県名護市辺野古の新基地建設に向け、沖縄防衛局は20日、米軍キャンプ・シュワブ沿岸部で埋め立て土砂の投入を続けた。着手から21日で1週間。県民や国民の批判をよそに、作業を加速させている。20日は名護市安和の琉球セメントの桟橋にダンプ498台で土砂を、シュワブに車両261台で石材やセメントを、それぞれ搬入。2日連続で2カ所同時の作業となった。2カ所で県警が抗議の市民を規制した。土砂の運搬船は従来の4隻態勢から6隻態勢に増えた。順番に安和桟橋で土砂を積み込み、シュワブ沿岸の「K9」護岸に陸揚げした。その後、ダンプが辺野古崎近くの「N3」護岸に運び、埋め立て区域内に投入した。(12月21日付「沖縄タイムス」)

 

 

《追記―3》~「征伐」の手法(芥川賞作家、目取真俊さんのブログ「海鳴りの浜から」=12月23日付)

 

 目取真さんは2016年10月、大阪府警から派遣された機動隊員から「土人」発言を浴びせられた。連日のように埋め立て反対のカヌ-を漕ぎ出し、辺野古の海で何が起こっているかの詳細なレポ-トをブログにつづっている。そこにはむき出しの暴力の実態が克明に記されている。「日本一の無法地帯」の現場で一体、何が起きているのか。

 

※

 

 22日(土)はカヌ-16艇で松田ぬ浜を出発した。抗議船2隻と合流し、午前中はK9護岸で陸揚げされる赤土混じりの岩ずり(土砂)の陸揚げ作業の様子を監視したあと、ランプウェイ台船が入れ替わるのに合わせてフロ-トを越え、抗議行動を展開した。埋め立て用に使用されている「岩ズリ」の赤土の含有量が問題となっている。下記のブログで詳しく検証されている。https://blog.goo.ne.jp/chuy/e/62f6664d09e564244df9daf72b66a525。K9護岸の近くで見ていると、ランプウェイ台船に積まれている「岩ズリ」は、土が流れ落ちたのか表面は岩が多く見えるが、ショベルカ-で掘り崩すと大量の赤土が含まれているのが分かる。

 

 22日は天気がよかったので、K9護岸をダンプカ-が往復するたびに、赤い土ぼこりが舞い上がっていた。沖縄防衛局は沖縄県の行政指導に従って、埋め立てに使用している土砂の投入を即座に中止し、県の立ち入り検査に応じるべきだ。安倍政権は新基地建設のために法も論理も倫理も踏みにじっている。安倍首相や管官房長官は、よく恥ずかしげもなく「法治国家」という言葉を使えるものだ。

 

  抗議をしているさなかは自分もカヌ-を漕いでいるのでカメラを扱えない。拘束後にしか写真を撮れないのがもどかしいが、カヌ-メンバーは工事を止めるために、みな必死でカヌ-を漕ぎ、海保に拘束されたあとも抵抗を続けている。空になったランプウェイ台船が離岸して沖に移動したあと、次の土砂を積んだ台船がK9護岸に向かっていく。午前中でK9護岸の近くまで移動すると、午後1時頃から土砂の陸揚げ作業が再開された。

 

 K9護岸での土砂陸揚げと並行して、朝早く大浦湾に入ってきたガット船から、空になったランプウェイ台船に土砂を移し替える作業が進められた。2隻のランプウェイ台船を交互に使い、1日にガット船3隻分の土砂を陸揚げし、埋め立て現場に投入するサイクルができてきている。このサイクルをどう遮断し、遅らせていくかを玉城知事まかせにしてはいけない。

 

 沖縄県が行政権限を駆使して、工事を止めるために尽力するのは当然として、それをあれこれ評論するだけで、自分は各工事現場で行動しなければ、工事が止まるはずがない。辺野古のゲ-ト前、海上、安和の琉球セメント桟橋、高江のヘリパッド建設現場と抗議現場が増えることで、より多くの人手が必要となっている。 抗議行動を分散させるのは沖縄防衛局の狙いでもある。年末の忙しい時期だが、時間のやりくりをして各現場に駆けつけましょう。

 

 午後は抗議船に乗って辺野古側の状況を見に行った。N3護岸では土砂を積んできたダンプカ-がやってきて、投入のために海の方に降りていく。ドロ-ンで空撮された映像を見ると、海の破壊が進んでいて胸が痛むが、それで諦めて目をそむけてしまえば、破壊は拡大する一方だ。残された海の生き物の命を救うのは、私たちの努力しかない。

 

 K4護岸の上ではクレ-ン車やショベルカ-を使い、護岸の修復作業が進められていた。この護岸の高さはまだ半分でしかない。この高さまで土砂を入れて満杯にしても、さらにその倍までかさ上げしないといけないのだ。さらにその先には水深の深い大浦湾の工事がある。その大浦湾側の護岸工事を日本政府は2020年以降に先延ばししている。

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-852512.html?fbclid=IwAR1BsISiNbfaVNjU-oJ2weDnYTaCXnXfxxwteZ6v2UPHBYkpWrnHlSrugLs

 

 軟弱地盤の問題について目途も立たないまま、辺野古側での埋め立てを進めることは、莫大な予算の浪費でしかない。展望もないまま暴走し、ブレ-キも効かない安倍政権の「あおり工事」を許してはならない。これは「沖縄問題」ではなく、日本全体に打撃を与える「日本問題」なのだ。