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「日米地位協定」の抜本見直しを陳情(花巻市議会)…本日、沖縄県民投票(~追記⑮)

  • 「日米地位協定」の抜本見直しを陳情(花巻市議会)…本日、沖縄県民投票(~追記⑮)

 

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の移設計画(新基地建設)をめぐり、名護市辺野古の埋め立ての是非を問う県民投票の投開票日(2月24日)が1週間後に迫るのを受け、私は18日に「日米地位協定」の抜本的な見直しを求める陳情書を花巻市議会へ提出した。沖縄における米軍基地の偏在によってもたらされる犯罪の数々。その根底に横たわるのがこの協定の「治外法権性」であり、そうした事態を許しているのは私たち本土側の「無知・無関心」である。なぜ、沖縄の人たちが県民を二分するような苦渋の選択を余儀なくされなければならないのか―。まず、本土の私たちに何がやれるのか…その第一歩になればと考えている。正式に受理されれば、今月28日開会の3月定例会で審議される。以下に陳情書の全文を掲載する。

 

 

 

【件名】 日米地位協定の抜本的な見直しについて

 

【趣旨】 沖縄県に米軍基地が偏在することによって引き起こされる米軍人・軍属らの刑事事件や騒音被害などを重く受け止め、米国側に「特権」を認める日米地位協定の抜本的な見直しを求めること

 

【理由】 日米地位協定は1960(昭和35)年、「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」(新安保条約)の締結に伴い、従来の日米行政協定に代わって双方で合意されました。しかし、公務中に犯罪を起こした場合、米国側の裁判権が優先される(第17条)などその不平等性が以前から指摘されてきました。日本政府は「運用の改善」を主張するにとどまっていますが、最近になって、地方自治体や地方議会の間で協定の抜本的な見直しを求める声が急速に広がりつつあります。

 

 たとえば、当花巻市議会もその一員である「全国市議会議長会」(813市区議長で構成)は2016(平成28)年5月、日米地位協定の抜本的な見直しを求める要望書を採択。この前年には「全国町村議長会」(928町村議長で構成)も同じ趣旨の特別決議を採択しています。さらに、2018(平成30)年7月には「全国知事会」が抜本見直しの提言書をまとめ、日米両政府に提出しました。提言書はこの中で「米軍基地は防衛に関する(いわゆる専管)事項であることは十分認識しつつも、各自治体住民の生活に直結する重要な問題である」と指摘、その必要性を訴えています。

 

 現在、こうした動きを受け、全国の7道県36市町村で見直しを求める意見書が相次いで可決され、岩手県議会も昨年12月定例会で「本県においても本年、日米合同委員会(運用を協議する日米の実務者会議)の合意に沿わない米軍機の低空飛行訓練が実施され、県民に大きな不安を与えている」などとして、衆参両院議長や内閣総理大臣ら関係大臣に全国知事会の意向に沿う形の意見書を提出しています。

 

 この件については、2016(平成28)年6月9日付で私が紹介議員となって、同趣旨の請願書が当花巻市議会に提出された経緯があります。しかし、「趣旨には賛同できるが、外交問題は権限外」「花巻市民の公益に資する請願とはいえない」「岩手県には米軍基地はなく、その点で地位協定との接点はない」―などの理由で賛成多数で否決され、現在に至っています。

 

 沖縄県にはわずか0・6%の国土面積に米軍基地の約70%が集中しています。この基地偏重の実態は逆にいえば「国民全体の安全を担保する役割の大半が沖縄に押し付けられている」ということを意味しています。残念ながら、当花巻市議会の対応はこうした沖縄の現実に背を向けるものだと言わざるを得ません。

 

 当市は宮沢賢治の精神をまちづくりの基本にすえ、将来都市像として「イ-ハト-ブはなまき」の実現を掲げています。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農民芸術概論綱要』)という賢治のメッセ-ジや詩「雨ニモマケズ」の中で繰り返される「行ッテ」精神はそのまま、沖縄に寄り添うことの大切さを教えているのではないでしょうか。基地を一方的に押し付けられてきた沖縄の受難の歴史を「他人事」として、切り捨てるのではなく、一日も早く日米地位協定の抜本的な見直しをするよう、政府及び関係機関に意見書を提出していただきたく、ここに陳情します。

 

 

 

(辺野古の「新基地建設」現場では連日のように抗議のカヌ-船とそれを排除する作業船や海上保安部との衝突が繰り返されている=沖縄県名護市の大浦湾で、インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

《追記-1》~目的と手段

 

 朝日新聞のコラム「日曜に想(おも)う」(2月17日付)の筆者は「人間を目的として尊重し、単なる手段として利用してはならない」という哲学者、カントの言葉を引用し、歴代の沖縄県知事の無念の思いを紹介している。

 

●「沖縄が歴史上、常に手段として利用されてきたことを排除し(中略)新しい県づくりに全力を挙げる」(初代の故屋良朝苗氏)

●「沖縄は手段あるいは政治的質草にされ、利用され続けてきた」(故大田昌秀氏)

●「われわれがどう話しても大きな力が押しつぶして、通り過ぎていく。国家の品格を信じられなくなるくらいさみしいことはない」(故翁長雄志氏)

 

 

《追記―2》~係争委、沖縄県の申し出を却下

 

 【東京】沖縄県名護市辺野古の新基地建設を巡る国交相による埋め立て承認撤回の執行停止処分に関し、総務省の第三者機関「国地方係争処理委員会(係争委)」(委員長・富越和厚公害等調整委員会顧問)は18日の第4回会合で、処分を「国の違法な関与」とした県の審査申し出を却下すると決めた。委員会は審査対象となる「国の関与」に該当しないと判断した。近く県に決定を通知する。

 

 県は昨年8月の埋め立て承認撤回に対し、沖縄防衛局が「私人の立場」で、国民の権利利益救済を目的とする行政不服審査法(行審法)に基づき国交相に執行停止を申し立てたことから、「適格性を欠く」と指摘。それにもかかわらず、国交相が執行停止を決めたことから「国の関与は違法」として、係争委に審査を申し出ていた。国は、地方自治法で執行停止処分は係争委の審査の対象とならないと訴えており、係争委の審査の対象となるかどうかが焦点となっていた。富越委員長は会合後の記者会見で、却下の理由を「沖縄県の申し出は不適法」と述べた(18日付「沖縄タイムス」電子版)

 

 

《追記―3》~闘いの原点

 

 「米兵が女子児童乱暴/3人がかりでら致」―作家の目取真俊さんは1995年9月に発生した戦慄すべき事件の第一報を伝えた地元紙の記事を自らのブログ「海鳴りの島から」(2月18日付)に転載、こう記している(要約)

 

 「辺野古新基地建設をめぐる問題は、すべてこの事件から始まった。私たちは忘れてはいけない。あの時、沖縄の大人たちは、一人の子どもを守れなかったことを恥じ、二度とこのような犠牲を生み出してはいけない、と反省し、誓ったのだ。そして、諸悪の根源である軍事基地の撤去を実現するために努力することを決意したのだ。新たな基地をどこに造るかなど、想像すらしなかった。いま私たちが県民投票をやらざるを得ないのは、23年前に起こった事件の反省を生かしきれず、あの時の決意を実現しきれなかったことの結果でもある。事件が起こった沖縄島北部東海岸に、新たな基地を造る。そういう理不尽なことを許していいのか。県民投票に行く前に、一人でも多くの人が当時の記事を読んで、辺野古新基地問題の原点に何があったかを考えてほしい」

 

 

《追記―4》~「都合のいい愛」と「暴力の構図」

 

 「政府は沖縄の声を聴く耳をもたず、多くの国民も基地問題について見て見ぬふりをしている。黙って癒しを提供してくれていればいいという意識なのでしょうか。土砂投入の日、私が辺野古でみたのは、都合のいい形で沖縄を愛そうとする、日本の暴力の構図でもあります」(2月19日付「朝日新聞」、『裸足で逃げる』などの著書がある上間陽子・琉球大学教授)。そういえば、岸政彦・龍谷大学教授も同じことを「沖縄を愛するという形で、差別している」と発言したことがある。

 

 

《追記―5》~日米地位協定の改定、国民運動に

 

 神奈川県在住の男性(82)は朝日新聞「声欄」(2月19日付)に次のような文章を寄せた(要約)。「沖縄の方々が願うのは過重な基地負担の軽減だが、その負担をさらに過酷にしているのが在日米軍に様々な特権を認める日米地位協定だ。昨年夏には全国知事会が地位協定の抜本的な見直しを提言し、公明党や国民民主党も改定案をまとめた。地位協定について関係機関に法律学者やメディア等も加えて検討協議を進めるべきだ。七十有余年の占領状態からの脱却を目指す国民運動に発展させることを、強く望むものである」

 

 

《追記―6》~公明党も改定反対から急きょ、方針転換

 

 公明党の遠山清彦衆院議員と、かわの義博参院議員(参院選予定候補=比例区)は1月に訪米し、党「沖縄21世紀委員会」の日米地位協定検討ワ-キングチーム(WT=遠山座長)がまとめた日米地位協定見直しの提言を米政府に申し入れた。公明党は2018年2月、日米地位協定に関する議論を本格化させるため、「沖縄21世紀委員会」にWTを設置。同委員会の井上義久委員長(現・副代表)は、「沖縄県民の思いを真正面から受け止めていく」「運用実態などを検証し、協定のあるべき姿を議論する」と訴えた。

 

国土面積の約0・6%しかない沖縄県には、全国の米軍専用施設面積の約70%もの広大な米軍基地がある。米軍人・軍属による事件や航空機墜落事故などが後を絶たない。日米地位協定は、公務執行中の米兵の犯罪に関する第1次裁判権を米側に与え、日本側に裁判権のある公務外の米兵の犯罪でも日本側が起訴するまで容疑者の身柄引き渡しができないと定める。米軍基地の管理権も米軍にあり、米軍機事故でも、米側の合意なしに警察は現場に入れない。こうしたことが基地に関する沖縄県民の負担感を増している。

 

WT初会合で遠山座長は、地位協定のあり方について「変えるべきところは変える」と強調。その後、5項目の提言をまとめ8月3日に政府へ申し入れた。菅義偉官房長官は「具体的提案を踏まえ努力をさらに強めたい」と答えた(2月19日付「公明新聞」電子版)

 

 

《追記―7》~共産党本部と地元議員との気の遠くなるような乖離

 

 日米地位協定の抜本見直しを求める「6・9」請願(上記「陳情書」参照)など沖縄の米軍基地問題に対し、同党所属の花巻市議(当時2人)はほとんど無知蒙昧ぶりをさらけ出してきたが、最近になって党本部との認識のギャップがますます、顕著になってきた。同じ「革新」を標榜する会派「平和環境社民クラブ」(社民党系)もまさに同類項。この問題に関心を持つ市民の間からは「イ-ハ-ト-ブ議会(花巻市議会)の七不思議」との声も。参考までに共産党本部の見解を以下に掲載する(要約)

 

 

 日米地位協定は、米軍に基地の排他的管理権を与え、日本側の立ち入り権を明記していません。これに対し、NATO(北大西洋条約機構)加盟のドイツやイタリアでは、基地への立ち入り権が明記されています。日本はあまりにも立ち遅れています。しかし、日米安保条約によって日本が米軍に「基地提供義務」を負うことと、米軍が基地を自由使用し、日本側の立ち入りも認めないということとは全く別の問題です。問われているのは、日米地位協定による日本の主権の侵害を放置していいかどうかです。

 

 日本が米国と主権国家同士の対等・平等な関係を結べず、対米従属の下に置かれていることを異常と思わない首相や外相に政治は任せられません。日米地位協定の改定は独立した主権国家として当たり前の要求です。政府に抜本改定を迫る世論と運動を大きく広げる時です(2018年11月13日付「しんぶん赤旗」)

 

 

《追記―8》~震災を経験して知った、沖縄の痛み

 

 上記「6・9」請願を提出した花巻市在住の日出忠英さん(当時74)は参考人陳述でこう述べた。「東日本大震災の際、宮城県気仙沼市で被災したが、みんなに支えられて頑張って来れたと思っている。あの震災を経験しなかったら、自分自身、沖縄の現実に目を向けることもなかったのではないか。現在は当花巻市に居を移し、(宮沢)賢治精神の大切さをかみしめている。沖縄の悲劇は他人事ではない。もう見て見ぬふりはやめたい」(2016年6月24日開催の総務常任委員会で)

 

 

《追記―9》~作家の故橋本治さんの遺言状

 

 先日亡くなった作家で活発な評論活動でも知られた橋本治さんは1996年9月8日の県民投票の前日、沖縄にいた。その時のことを雑誌に載せた評論「基地とようかん」で書き残している

 

「法的拘束力があろうとなかろうと『われわれの問題はわれわれで決める』という、そういう新しい時代がやっと始まった」と橋本さんは記した。この一文に接し、初の県民投票を前にした当時の高揚感を思い出す
那覇市のパレットくもじ前の広場だった。読谷村にあった楚辺通信施設を模した「小象のオリ」を据えて高校生らの模擬投票をやった。沖縄の将来を自らが決めるという意思表明だ
同じ広場で17日夜、若者が開いた音楽祭をのぞいた。ラップに乗せた「ニイ・テン・ニイ・ヨン県民投票に行こう 沖縄のことを考えよう」というメッセ-ジが心に響いた。新しい世代の登場を実感した。一つの変化だ
県内政党の対応は揺れた。96年の県民投票では棄権呼び掛けまで飛び出した自民党県連は今回、自主投票で臨む。「われわれの問題はわれわれで決める」という潮流から取り残されないか
国の態度も変わらない。橋本さんは「言ってみれば、『国』というものは、沖縄とアメリカが直接取り引きできないようにしているブロ-カ-なんですね」と看破した。今の政府にも当てはまる。新しい時代は始まらないのか(2月20日付「琉球新報」コラム「金口木舌」より)

 

 

《追記―10》~ジャ-ナリストの故むのたけじさんの遺言状

 

「戦後に満州から引き揚げてきた人が『日本の満州化が進んでいる』と言ったそうですが、私もその通りだと思いますね。満州は中国の東北部です。そこに日本が満州国という傀儡(かいらい)国家をつくった。その国と日本は『日満議定書』を結んだ。共同防衛の条約です。どうです。日米地位協定の日本とアメリカの関係と似ていませんか。この協定の先に、沖縄が抱えるさまざまな問題があり、アメリカの戦争に日本も参加できるように解釈する憲法問題があるわけです」(2016年7月1日付「朝日新聞」岩手版コラム「再思三考」より)

 

 

《追記―11》~協定の見直しを認める意見書

 

大阪府吹田市議会は昨年12月定例会で、日米地位協定の見直しを求める意見書を可決し、内閣総理大臣など関係方面に提出した。意見書の全文は以下の通り。

 

 

 我が国には、日米安全保障条約に基づく日米地位協定によって、全国に130施設の米軍基地がある。そのうち、52施設は九州・沖縄地方に所在しており、航空機騒音、米軍人等による事件・事故、 環境問題等により、基地所在自治体に過大な負担を強いている側面 がある。日米地位協定は締結以来、一度も改定されておらず、補足協定等により運用改善が図られているものの、国内法の適用や自治体の基地立入権もない。航空法や環境法令などの国内法があるにもかかわらず、自由に訓練等ができる特権を与えている我が国は、他国と比 べても厳しい状況にある。

 

また、本年7月には、全国知事会も、日米地位協定を抜本的に見直すこと等を盛り込んだ米軍基地負担に関する提言を決議するなど、地方から改善を求める声が上がっている。よって、本市議会は政府及び国会に対し、日米地位協定を抜本的 に見直すことを強く要望する。以上、地方自治法第99条の規定により意見書を提出する。

 

 

追記―12》~「逃げ出したい」

 

 「私は逃げ出したい気持ちです。市長として発議した2006年の住民投票で9割近くの人が『反対』の意思を示したのに、民意をいかせず、逆の結果を招いてしまったからです。私がやりたかったのは、国との対話です。住民投票の民意を踏まえて、こちらは住民の生活を守る観点からモノを言う。政府は、安全保障や外交を担う立場から話をする。しかし、国は対話ではなく、市庁舎建設の補助金凍結という前代未聞の手段に出ました。『アメとムチ』で、国には逆らえないという気持ちが市民に広がりました」

 

 「政府は沖縄県民投票の結果にかかわらず、辺野古の基地建設を進めるでしょう。それは民意を無視するという大きなリスクを私たちの政府が負うことを意味します。政治家がよって立つ基盤を崩してしまいかねませんが、政府はそのことに気づいていないのでしょうか」(2月21日付「朝日新聞」掲載=米軍岩国基地への空母艦載機の移駐の是非を問うた住民投票を発議した元岩国市長の井原勝介さん。要約)

 

 

《追記―13》~砂上の楼閣

 

 「地盤改良/砂杭7・7万本必要」「軟弱層/最深は水面下90㍍」―2月22日付の「朝日新聞」は一面トップで「辺野古」新基地建設をめぐる国の変更計画を大々的に報じた。沖縄県は「地盤改良自体に途方もない年数を要する」として、建設工事の中止を求めているが、国は「一般的で施工実績が豊富な工法で、対応は可能」(菅義偉官房長官)と強行突破の構えを崩していない。「普天間飛行場の危険防止のための移設」と国は言うが、危険防止を遅らせているのは一体、どっちの方なのか。

 

 

《追記―14》~違った世界の出現

 

 【東京】第160回芥川賞・直木賞(主催・日本文学振興会)の贈呈式が21日、都内のホテルで行われ、沖縄の戦後史を描いた小説「宝島」を書いた真藤順丈さん(41)に直木賞が贈られた(1月11日付当ブログ参照)。真藤さんは受賞スピ-チで、名護市辺野古の新基地建設に伴う埋め立ての賛否を問う県民投票に触れ「賛成か反対のいずれかに明確な声を上げてもらいたい。もし、示された民意と正反対の施策が進められてしまったとしても、(県民投票の)以前と以後では違う世界が待っていると思っている」と述べ、県民にエ-ルを送った。

 

 今後の創作活動については、米軍基地から物資を奪い「戦果アギヤ-」と呼ばれた若者たちになぞらえ、「小説が“降りてくる”のを待つのではなく、つかみ取りにいくような書き手でありたい。次世代の作家の肥やしになっていければ、こんなにうれしいことはない」と話した(2月22日付「沖縄タイムス」)

 

 

《追記―15》~異化の爆発

 

 名護市辺野古の新基地建設に伴う埋め立ての是非を問う県民投票について芥川賞作家の大城立裕氏(93)=那覇市=は「県民は歴史的な大成長を遂げたと感じる」との見方を示した。かつて日本へ「同化」しようともがいた時期もあった県民が「異化」に意識が変容し「政府に対し県民投票という大げんかを売るまで成長した」と語った。本土に対する劣等感から来る同化志向に対し独自のアイデンティティ-を求めるのが「異化」だとし、日本政府による構造的差別を前に、辺野古での新基地建設への抵抗運動は「異化の爆発だ」と指摘した。

 

 薩摩の侵攻、琉球処分、戦前の皇民化教育、米統治下からの日本復帰など、本土の間で同化と異化に揺れてきた県民。「大成長」を遂げた県民の今後に大城氏は注目している(2月22日付「琉球新報」)
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トド(海馬)を殺すな、ジュゴン(海牛)も殺すな…

  • トド(海馬)を殺すな、ジュゴン(海牛)も殺すな…
  • トド(海馬)を殺すな、ジュゴン(海牛)も殺すな…

 「トドを殺すな、トドを殺すな/俺達みんなトドだぜ/おい撃つなよ、おい撃つなよ/おいおい俺を撃つなよ/そこの人!俺を撃つなよ」―。頭蓋の底にこびりついていた、まるで咆哮(ほうこう)とでもいうべき歌と旋律が突然、目を覚ましたようだった。「あの酔いどれ歌手がまだ、健在だったのか」と年甲斐もなく目頭が熱くなった。競輪評論家で絵描きでもある「友川カズキ(かずき)」(68)である。『週刊金曜日』(2月1日号)のロングインタビュ-で数十年ぶりに再会を果たした。1976年にリリ-スした「ドトを殺すな」を、友川は東北弁を使って吠えるように歌う。北海道・羅臼の荒れ狂う海がその歌の背後から立ち上がってくる。

 

 秋田出身の友川は能代工業高校時代はバスケットボ-ルに打ち込み、その後、肉体労働を続けながら作詞・作曲を積み上げ、1970年代に衝撃的なデビュ-をした。ウイスキ-を飲みながらギタ-をつま弾く、その指先から弦が一本、一本と切れていく…こんな伝説を持つ友川の歌に出会ったのは40年近く前の北海道勤務時代。知床半島の付け根に位置する羅臼沖のオホ-ツク海には巨体を持て余すトドの群れが岩礁に寝そべっていた。漁師町の中心部に「海馬屋」を名乗る居酒屋があった。海馬、つまりトド肉を食べさせる店だった。お世辞にも美味しいとは言えなかった。片隅には何やら怪しげに「幸福を呼ぶヒゲ」と銘打ったトドのヒゲが土産用に並べてあった。トドの生首がイベント用に展示されたこともあった。

 

 「海のギャング」―。漁網などを破り、魚を食い荒らすトドは漁師たちの嫌われ者だった。1960年代、有害駆除の名目で自衛隊が出動する騒ぎに発展した。航空自衛隊のF-86戦闘機による機銃掃射、さらに陸上自衛隊の重機関砲や小銃がトドの根城―”トド島”をめがけて発射された。しかし、実際は駆除に名を借りた射撃訓練だった。当時の新聞によると、3300発の砲弾がわずか15分の間に打ち込まれたケ-スもあった。ひょっとして「とどめを刺す」の語源は、ここに由来するのではないのかとさえ思った。NHKのロ-カルニュ-スは「春の風物詩」として報道した。「役にたてば善だってさ、役にたたなきゃ悪だってさ」と友川はイントロの部分でこう叫ぶ。「トドを殺すな」は生きとし生けるものに平気で銃を向ける時代に対するプロテストソングでもあった。

 

 北の海に生息する「海馬」(トド)に対して、南の海を生きるのは「海牛」とも呼ばれる「ジュゴン」である。「ジュゴンを殺すな、俺達みんなジュゴンだぜ…」とひとり口ずさんでみる。かつて、トドが機銃掃射を浴びせられたようにいま、沖縄の「辺野古」新基地建設現場では大量の土砂がサンゴ礁の海に投入され、ジュゴンたちは行き場を失いつつある。いやすでに個体数が減っていると言われる。どうしたわけか、不意に映画「シン・ゴジラ」(庵野秀明脚本・総監督)のシ-ンが二重写しになった。トドもジュゴンも、そしてゴジラも…その受難が何か既視感のある光景として、脳裏に浮かんだのである。武器を向けられているのは、実は私たち自身に対してではないのか。

 

「巨大不明生物」(シン・ゴジラ)の正体は海底に捨てられた大量の放射性廃棄物を摂取して生き返った太古の海洋生物。存亡をかけた攻防が続けられ、ついに米国が主体となった多国籍軍による熱核(ミサイル)攻撃が実行に移されることに。結局、血液凝固剤を注入することによって、シン・ゴジラを「凍結」することに成功。首都圏へのミサイル攻撃はすんでのところで回避される―。友川はこうした時代の暗部をまさに予言的に歌い、いまも歌い続けているのではないか。「自他に抗(あらが)う―表現者のハシくれとして」というタイトルのロングインタビュ-で、友川はこう語っている。

 

「だからこの国は貧相なんだよ。政治だけじゃない。この民度の低さ、あくび出るだろ、つまらなくて。オレも含めて、悶々とするのはそこなんだよ。その自覚はあるんだよ。くだらないんだよオレも。最低だもん、だから許せない。そういう社会を許してる自分も許せない。でもそういう許せない自分に対して(自分が)生意気だからつらいんだよ。創造と破壊は、過激であればあるほど破滅に向かうのは自明なの。創造と破壊は同時進行だから。ずっと寂滅(じゃくめつ)、ずっと絶望」―

 

 私の妻は昨年夏に旅立った。その亡骸(なきがら)を沖縄・石垣島のサンゴ礁の海に葬った時、島生まれの小学生の二人の孫たちが言った。「おばあちゃんは死んだんじゃない。ジュゴンに生まれ変わったんだよ」。私(たち)は絶望しながらも、いや絶望しているからこそ、友川流に歌い続けなければならないのだと思う。「俺達はトドだ、俺達はジュゴンだ、沖縄の人たちはみんなジュゴンだ、そして俺達日本人はみんな(シン)ゴジラだ。俺達を殺すな!!妻も殺すな…」と―。

 

 

 (写真はウイスキ-の水割りを飲みながら演奏する友川さんと絶滅が心配されるトド。アメリカとロシアでは絶滅危惧種に指定されている=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

  

余命、一年半…

  • 余命、一年半…

 

 「女房に先立たれた夫は大体、2年以内に死ぬらしいぞ」―。歯に衣着せぬ知友のジャズミュ-ジシャン、坂田明さん(73)からこう忠告された。「健康に気を付けて、長生きしてください」という何か恩着せがましい励ましよりはずっと、ありがたい。一方で「逆もまた真なり」―、夫に先立たれた女房は長生きするというデ-タはこの長寿社会の中ですでに実証ずみである。私の場合はその逆になってしまった。ミジンコの研究者でもある坂田さんからいつだったか、「こいつの命はまるで透けて見えるんだよな」と顕微鏡をのぞかせてもらったことがある。本当にそう見えた。いやはや、命の中までお見通しとあっては…。というわけで、私は心機一転、新年早々からスポ-ツジムに通い始めたのだった。当年78歳―末期高齢者の悪あがき!?

 

 本日29日で妻は没後6カ月を迎えた。坂田さんの定理に従えば、私に残された余命は最大であと一年半ということになる。「いい年をして、今さら命乞いか」という意地の悪いヤジに対しては、苦し紛れにこんな屁理屈を伝えることになる。「そうじゃない。残された1年半には身の回りの整理やこれまで不義理を重ねてきた友人知人へのあいさつなどやることがたくさんある。だから、それをやり遂げるまでは死ぬわけにはいかない。余命を全うするためのやむを得ざる予防措置だよ」―。「やもめ暮らし」を心配してくれる親切な人たちも後を絶たない。ある人が「死別は最大のストレス」というタイトルの新聞記事の切抜きを持って来てくれた。これにはまいった。ある大学教授がこんなことを語っていた。

 

 「遺族ケアでリスクが高いのは高齢の男性。仕事一筋の現役生活を過ごした男性は、家庭や地域を顧みなかったツケが老後に回ってくる。交際範囲が狭く、ほぼ唯一の相談相手である妻に先立たれると、一気に日常が破綻する。下着が見つからないといった程度なら笑えるが、料理ができずに食生活が偏り、生活習慣病を悪化させたり、孤独感からアルコ-ルに頼ったりする人も多い。放置すれば孤独死しかねない。さらに厄介なのは、精神科医療への偏見が強いこと。受診を勧めても、『沽券(こけん)かかわる』などと抵抗。受診者の8割はやはり女性だ」(2017年9月15日付「岩手日報」)―。おいおい、これって、我輩のことではないのか!?そして、今度は…

 

 「おいおい、これって、現代版の『タ-ヘル・アナトミア』(解体新書)ではないのか」―。ジム通いを始めて、これにはもっとまいった。胸、腕、腹、背中、肩、臀部(でんぶ)…。所狭しと置かれた健康器具にはまるで、“腑(ふ)分け”した人体解剖図のような写真が張り付けられ、使用方法が書かれている。「あっ、そうですか。腰の痛みとお腹の出っ張りですね」と若いインストラクタ-が親切に指導してくれる。平日の日中なので私のようなシニアが多い。みんな、何かに取りつかれたように器具を操っている。顔からは噴き出るような汗が…。みんな、そんなに長生きしたいのかなあ。

 

 部位ごとに人工筋肉をこしらえていくさまはまるで、マシ-ンの奴隷ではないかとさえ思えてくる。目の前のテレビに熱中しながら、身体は規則正しい動きを継続する。これって、あの“人造人間”じゃないのか。ゾッとした。「で、おまえさんは何のためにここに来ているのか」―そんな自問が不意に口をついてでた。「うん、それはさ。さっきも言ったように命乞いではなく、つまりは“終活”を存在論(オントロジ-)的な視点で考えて見よう、と…。生き延びようとするのではなく、死を意識して生きるというということさ」(1月25日付当ブログ「『おためごかし』という偽善」参照)―。だんだん、応答がしどろもどろになってくる。

 

 遠音にまたヤジが聞こえてきた。「そんなに格好をつけるんじゃないよ。あんたもしょせんは命が惜しいだけなんだろ」―。隣のシニア男性に負けず劣らず、身体全体から汗が噴き出してきた。ヤジの通りかもしれないなと思った。ひとりの老いぼれた“偽善者”がスポ-ツジムの片隅にぽつねんと佇(たたず)んでいる。さて、今晩の酒のさかなは何にしようかな。いやはや。それはそれとして…坂田大兄、生きる勇気を与えていただき、本当にありがとうございました。

 

 

(写真はスポ-ツジムの訓練のひとこま。いまやシニアの間でも人気が上昇している=インタ-ネット上に公開の写真から)

  

 

縁(えにし)の不思議

  • 縁(えにし)の不思議
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 「東北のなかでもとりわけ交通の便がよくない町に立地しながらも、1960年代からジャズ喫茶として地道に営業し続けてきたのに、店全体が津波に流されてしまった。幸い、店主の佐々木賢一氏は後ろから襲ってくる津波をギリギリで逃げ切ったが、長年集めた店内のレコ-ドや写真やミュ-ジシャンからの手紙などが一切合財なくなってしまった。半世紀以上の過去の記録が、一気に消えてしまったわけだ」―。日本在住の日本文化研究者、マイク・モラスキ-さん(63)は2006年、日本語で初めて書いた『戦後日本のジャズ文化』でサントリ-学芸賞を受賞したが、2年前に刊行された岩波現代文庫版のあとがきに冒頭のような文章を寄せている。

 

 文中の佐々木賢一さんこと「賢ちゃんは」は東日本大震災(3・11)でがれきの荒野と化した三陸沿岸の大槌町駅前で、ジャズ喫茶「クイ-ン」を経営していた。創業は60年近くも前、岩手最古と言われた。大津波はこの老舗を一気に飲み込み、奥さんの命を奪ったうえ、2万枚以上のレコ-ドを海へと流し去った。震災直後、私は無残な姿をさらけ出す跡地に呆然と立ち尽くしていた。足元には数枚のレコ-ドの破片が泥まみれなって散らばっていた。名古屋市内の妹さんの家に避難していた賢ちゃんは3ケ月後、花巻市に居を移した。

 

 「死んだ男の残したものは/ひとりの妻とひとりの子ども/他には何も残さなかった/墓石ひとつ残さなかった」(谷川俊太郎作詞、武満徹作曲『死んだ男の残したものは』)―。賢ちゃんの生還を祝ったライブが開かれ、畏友の坂田明トリオがこの名曲を奏でた。ボロボロとあふれる大粒の涙が真っ白いひげを濡らした。こぶしで目をぬぐいながら、賢ちゃんが言った。「生死を分けたのは運命のいたずらだとしか考えられない。でも、生かされた以上、この歌のように精一杯生きるしかない」―。賢ちゃんが別の追悼ライブで「おかしなアメリア人がいるんだよ」とモラスキ-さんを紹介してくれた。その言いぐさが振るっていた。「この男はおれ達よりもジャズに詳しいんだよな。それだけじゃない。居酒屋論も展開する。ただもんじゃないぞ」―。あった、あった。『呑めば、都』なんていう著作も。

 

 私の妻が亡くなったちょうど1週間後の昨年8月5日、賢ちゃんはまるで後を追うように突然、旅立った。妻より1歳年上の76歳だった。長女の多恵子さんが住む、花巻市東和町の自宅に焼香に伺った。懐かしい遺影の前に1通の封書が置かれていた。「モラスキ-さんからです。どうぞ」と多恵子さんが言った。丁重なお悔やみの言葉が何枚にもわたって、日本語でつづられていた。「彼がね、また新しい本を出したんだって」と分厚い文庫本を見せてくれた。『新版 占領の記憶/記憶の占領』(岩波現代文庫)―。「戦後沖縄・日本とアメリカ」という副題がついていた。ペラペラとめくって見て、びっくりした。私が「沖縄」ウオッチをする際にいつも参考にさせてもらう芥川賞受賞作家、目取真俊さん(58)の文学論に多くのペ-ジを割いていたからである。

 

 目取真さんは1997年、『水滴』で第117回芥川賞を受賞した。「戦後生まれの小説家の中で、彼ほど『戦争の記憶』という問題を真摯かつ独創的に追究し続けた作家はいないだろう」とモラスキ-さんは同書に書いている。この小説はウチナ-口(沖縄方言)を効果的に使いつつ、とくに沖縄戦の内奥を鋭くえぐった作品である。私がさらに驚いたのはヤマトンチュにも読解が困難なこのテキストを英語で翻訳していたことだった。ジャズピアニストでもある、その異能多彩ぶりは当然のこととして、この米国人が沖縄に寄せるまなざしにこころを打たれた。「私としてはなるべく広い読者層に紹介したく、アメリカの地味ながら由緒ある文学雑誌に拙訳を掲載してもらった」とその気持ちを明かしていた。

 

 1月7日付当ブロブの《追記―3》で触れたように、目取真さんのブログ「海鳴りの島から」は「辺野古」新基地建設現場の動きをリアルタイムで知ることができる、私にとっては“羅針盤”の役割を担っている。本業の作家活動をわきに置き、目取真さんは連日のように現場にカヌ-を漕ぎ出し、抗議行動を続けている。その両立性について、モラスキ-さんはこう指摘する。「作家・批評家・運動家としての総合的な活動こそ、現在の沖縄における戦争と占領の継続性をくっきりと浮き彫りにしている」―。3年前の秋、目取真さんは沖縄県東村高江のヘリパッド(ヘリコプタ-離着陸帯)建設現場で、機動隊員から「土人」発言を浴びせられた。ニライカナイ(琉球国)の地に根を下ろした目取真さんにとっては「現場」に身を置くことそれ自体が小説の作法なのである。

 

 賢ちゃんにモラスキ-さんを紹介され、その人が今度は「目取真」論を展開する。つくづくと「縁(えにし)の不思議」を思う。「他生の縁」とも「多生の縁」ともいう。私は時々、賢ちゃんの仏前に手を合わせ、そして、毎日のように「海鳴りの島から」をのぞきながら、沖縄の無法を体に刻み込む。「おかしな」外国人に仲を取り持ってもらった「縁」で…

 

 

(写真は「賢ちゃんを励ます会」に集まったジャズ仲間。右から在りし日の賢ちゃん、老舗ジャズ喫茶「ベ-シ-」店主の菅原正二さん、サックスの坂田明さん=2011年6月27日、一関市のベ-シ-で。右の写真はモラスキーさん=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

《追記》

 

 2018年11月9日付当ブログで紹介した作家、葉真中顕さんの『凍てつく太陽』(幻冬舎)が第21回大藪春彦賞を受賞した。

夕張炭坑節…だんな様

  • 夕張炭坑節…だんな様

 

 妻を欠いた初めての年末・年始も沖縄・石垣島に住む娘夫婦と孫二人の嵐のような来訪で、あっという間に過ぎ去り、わが住まいは元の静寂に戻った。余りにも不気味な静けさに思わず、テレビのスイッチを入れて驚いた。新春12時間スペシャル(1月2日)と銘打った歌謡番組から流れてきたのは往年の演歌歌手、三船和子が絶唱する「だんな様」だった。故鳥井実作詞、岡千秋作曲のコンビで、1983(昭和58)年に発売されたこの歌は空前のヒット曲になった。最終節はこう結ばれている。「明日を信じて、お前と二人/お酒のもうと、差し出すグラス/私の大事なだんな様/あなたに寄り添い、いつまでも/心やさしい女房でいたい」(3番)

 

 単なる偶然とはいえ、5ケ月ほど前に妻を失ったばかりの私にとって、「だんな様」とは何ともタイミングが良すぎるではないか。が、次の瞬間、私はかぶりを振った。「否、これはヤマに散った男たちへの挽歌ではないのか」―。新人記者時代、九州での炭鉱取材の経験を生かし、北海道に転勤した後も自称“ヤマ記者”を名乗っていた。1981(昭和56)年10月、北炭夕張新炭鉱でガス突出事故が発生、道内では戦後最大となる93人が犠牲になった。4年後の1985(昭和60)年5月、今度は三菱南大夕張炭鉱でガス爆発が起こり、62人が坑内に没した。この事故をきっかけに同鉱は5年後、閉山に追い込まれた。「だんな様」はこの二つの事故をちょうど真ん中にはさむようにして、うぶ声を上げた。

 

 夕張は豪雪地帯として知られる。振り積む雪は玄関口をふさぎ、屋根からずり落ちてきた積雪はまるで雪ふとんのように上下が合体していた。夜のとばりが下りるころ、居酒屋の灯りが雪明りのようにうっすらとあたりを照らし出す。キタキツネの足跡をたどるようにして、私たち取材班は行きつけの店に足を向け、冷え切った体を温めた。「俺家」(おれんち)という名前だった。地元紙の道新(北海道新聞)やNHK、共同通信、全国各紙の記者たちがいつも一緒だった。他に体力を維持する適当な店がなかったせいでもある。北炭事故で最後の遺体が収容されたのは163日後の翌年春だった。残っていた骨片は手の平に収まるほどに小さくなっていた。

 

 「がまんしている背中をみれば/男らしさに、涙が出ます/私の大事なだんな様…」(2番)―。しんしんと深雪が降りるある夜、店の中に「だんな様」の大合唱がこだました。同席したヤマの男たちの飲みっぷりの良さにうっとりし、板子一枚下の「地獄」から生還した時の(タバコの)一服の仕草にほれぼれしてしまう…。そんな男たちがある日突然、地底(じぞこ)に絶命する―、まるでヤケクソみたいになって、この挽歌を歌いまくっていたことを今でもまざまざと思い出す。そこには特ダネ競争にうつつを抜かす記者の姿はなく、幼児と見まごう亡骸(なきがら)にともに涙した“同志”たちが確かにいたような気がする。

 

 そういえば、足尾鉱毒事件を明治天皇に直訴した「田中正造」研究でも知られる在野の哲学者、花崎皋平(はなざきこうへい)さんも、当時住んでいた札幌からふらりとこの居酒屋に現れることがあった。その花崎さんから年賀状が届いた。「私は今年満88歳を迎えます。幸い、まだ(無病)息災ですので、反戦平和の活動と読み書きを続けたいと思っております」と記してあった。妻の別離とヤマの男たちの無念、そして、私よりも10歳年上の老哲学者からの励まし…。新年早々、「だんな様」が思わぬ縁(えにし)を紡ぎ直してくれた。

 

 作詞した鳥井は妻の死の約1か月後の昨年8月末に83歳でこの世を去った。このヒットメーカーが実は北海道生まれというのも奇縁といえば奇縁ではある。ひょっとして、この演歌は生と死のはざまに響く現代の「声明」(しょうみょう)なのかもしれないという思いがした。それにしても、「夕張」は演歌がぴったりのまちだった。

 

 

 

(写真は雪に埋もれる夕張の町並み。スト-ブは半年間、つけっぱなしである=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

《追記》~「絶望の街」で終わらせない

 

 1月5日付「朝日新聞」全国版の社会面トップに、こんな見出しの記事が載った。「あの街/代替わり」と題したシリ-ズで、財政再建に苦闘する元炭都・夕張の姿を伝えていた。当ブログで言及したように、相次ぐ炭鉱災害と閉山の嵐の中で、夕張は2006年に財政破綻した。「第2の閉山」と呼ばれた。記事の中に元炭鉱マンの加藤博さん(86)が登場していた。15歳で石炭から土砂をふるい分ける「選炭」の仕事についた。最後に働いた炭鉱が閉じたのは87年。関東へ出稼ぎに出た―。「だんな様」を口にした、おそらく最後の世代だと思う。ヤマの男たちの苦楽を託したような、この演歌がいつの日かよみがえらんことを…