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<「平和」メッセージの発信拠点から、「イーハトーブ」の建国に向けて>~IHATOV・LIBRARY(「まるごと賢治」図書館)の実現を目指して(その5=完)~この日は79回目の「敗戦の日」、そして、あの女は!!??

  • <「平和」メッセージの発信拠点から、「イーハトーブ」の建国に向けて>~IHATOV・LIBRARY(「まるごと賢治」図書館)の実現を目指して(その5=完)~この日は79回目の「敗戦の日」、そして、あの女は!!??

 

 東日本大震災の際、米国の首都・ワシントン大聖堂で開かれた「日本のための祈り」やロンドン・ウエストミンスター寺院での犠牲者追悼会などで、英訳された「雨ニモマケズ」が朗読された。また、この詩に背中を押されるようにして、世界中からボランティアが被災地へ駆けつけた。そしてまだ、復旧のメドさえついていない能登半島地震の被災地でもこの詩に詠われた「行ッテ」精神が被災者を勇気づけている。そして今度は、追い打ちをかけるようにして宮崎・日向灘地震。さらに、海の向こうでは…

 

 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農民芸術概論綱要』)―。ウクライナやガザ…世界全体の悲しみの地にこのメッセージを届けたい。「平和」を希求する賢治の心の叫びを積み込んだ「銀河鉄道」…新図書館こそがその始発駅にふさわしいと思う。この列車が銀河宇宙の旅に出て、今年でちょうど100年を迎える。

 

 「豊かな自然/安らぎと賑わい/みんなでつなぐ/イーハトーブ花巻」―。当市は「将来都市像」をこう描いている。いうまでもなく、「イーハトーブ」とは賢治が未来に思いを馳せた「夢の国」や「理想郷」を意味する言葉である。一方、図書館学の父とも呼ばれるインド人学者のランガナータンは「図書館は成長する有機体である」と述べている。そして、賢治もまた、『春と修羅』の序をこう書きだしている。「わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です(あらゆる透明な幽霊の複合体)」―。ことほど左様に、「まるごと賢治」図書館(IHATOV・LIBRARY)が目指す”夢の図書館”は世代を継いで成長し続ける永遠の有機体である。自らを「幽霊の複合体」と称してはばからない、この天才芸術家のその”お化け”の正体を暴いてみたいというのが偽らざる気持ちである。

 

 旧病院の中庭に「Fantasia of Beethoven」と名づけられた花壇があった。設計者の賢治は「おれはそこへ花でBeethovenのFantasyを描くこともできる」(『花壇設計』)と大見えを切って、こう豪語した。「だめだだめだ。これではどこにも音楽がない。おれの考へてゐるのは対称はとりながらごく不規則なモザイクにしてその境を一尺のみちに煉瓦(れんが)をジグザグに埋めてそこへまっ白な石灰をつめこむ。日がまはるたびに煉瓦のジグザグな影も青く移る。あとは石炭からと鋸屑(おがくず)で花がなくてもひとつの模様をこさえこむ。それなのだ」
 

 「賢治とは一体、何者なのか」ー。いざ、「イーハトーブ」の建国に向けて…

 

 

 

《終わりに》

 

 私は“賢治教”の信者でも、いわゆる「オタク」でも、ましてや当然研究者なんかではない。かといって、賢治嫌いでも食わず嫌いでもない。『注文の多い料理店』にうぅ~と唸ったり、『風の又三郎』と一緒に風に飛ばされたり、『銀河鉄道の夜』の無辺空間に腰を抜かしたりする、普通の賢治好きである。それがどうして、「IHATOV・LIBRARY」(「まるごと賢治」図書館)などという大風呂を広げたかというと…。ひと言でいってしまえば「もったいない」からである。

 

 現役市議時代、視察先の自治体関係者から「御市には賢治さんがいらっしゃるから、まちづくりも賢治さん頼みでOK。うらやましい限りです」としょっちゅう言われたことを思い出す。ところがである。「賢治まちづくり課」とは名ばかりで、最近では賢治を”食い物”にして、ふるさと納税を肥え太らせようとする“錬金術”が目に余るようになった。「賢治最中」や「よだかの星」、「山猫軒」…。この程度のお茶受けならまだ許せるが、(前掲『花壇工作』の賢治ではないが)新手の“詐欺手法”にこの「おれ」もついに切れたのである。で、どうせなら、ガブッとまるごと「賢治」にかぶりついてみたいという欲求が押さえきれなくなったという次第である。だから、「まるごと賢治」図書館…

 

 「あなたにとって、賢治さんとは何ですか」と問われた際、私は「希代まれなる詐欺師ではないか」と答えることにしている。そんじょそこらの寸借詐欺師とはちがって、この大詐欺師に“騙(だま)された”と思うと、得も言われぬ清々しい“充実感”に満たされるからである。騙されたいという欲求はもしかしたら、“賢治教”のもうひとつの亜種なのかもしれないなぁ。

 

 

 

 

(写真はかつて、総合花巻病院の中庭にあった賢治の花壇「Fantasia of Beethoven」。この旧病院跡地に新図書館が完成した暁にはその入り口付近にぜひ、復元してほしいと願う=インターネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

《追記ー1》~冷酷な侵略者も、血も涙もない……暴君も、記憶を、記録を、そしてそれらを歌にして時に刻む言葉を、恐れている(師岡カリーマ・エルサムニー)

 

 「パレスチナ・ガザ地区については、その現況と歴史的経緯を伝えて民の保護を訴える声に、沈黙を強いる圧力が多方向からかかる。だが『ガザの蹂躙(じゅうりん)が許される世界は、誰にとっても安全ではない世界』だと、文筆家は言う。だから私たちもあらゆる場所から声をあげねばならないと。論考「『圧政者が恐れるもの』」―「地平」創刊号)から」(8月12日付朝日新聞 鷲田清一「折々のことば」)

 

 

 

《追記―2》~大雨警報発令中に花火大会!!??

 

 「今後強い雨による急な増水や土砂災害が発生するおそれが高いため、河川や用水路、山や崖など急な斜面には近づかないようにしてください」―。花巻市は13日午後2時2分、大雨警報(土砂災害)の発表に伴い、災害警戒本部を接したが、一方で北上川河畔での花火大会(石鳥谷夢まつり)を予定通りに行うとHPで告知した。雨天の場合は15日に延期するとしながらでの強行である。

 

 「午後3時半現在、会場となる大正橋公園内は非常にぬかるんでおります。お越しの際は長靴や雨具等をご準備のうえ、ご観覧いただきますようお願いいたします」という危機管理の無視に住民も戸惑い。昨年も同じようなチグハグ対応があったが、警戒を呼びかけながらの花火観戦―この倒錯した行政姿勢に今年も仰天させられた。ここにもトップ(上田東一市長)の決断力の無さ加減が透けて見える。機能不全、ここに極まれり!?

 

 

 

《追記ー3》~79回目の「敗戦の日」に

 

 この日(8月15日)、母方のいとこ(従兄)の訃報を知らせる葉書が届いた。92歳の大往生で、命日が妻と同じ「7月29日」だった。最近、こんな不思議なめぐり合わせが多い。2年前(2022年8月15付)の当ブログ「追憶~父を訪ねて」を再読する。父は敗戦4か月後、シベリアの捕虜収容所で栄養失調死した。そういえば、賢治と同じ37歳の若さだった。これらの逝(ゆ)きし人たちとすべての戦争犠牲者、いまも戦火の犠牲になっている海の向こうの尊い命に手を合わせ、黙祷を捧げた。この日、ガザ地区での死者は4万人を超えた。

 

 一方、「弔いの日」のこの日、赤ベンツ不倫のエッフェル女子こと、広瀬めぐみ参院議員が秘書給与を詐取した責任を取って、辞職した。この人を担ぎ出した”共犯者”たる花巻市の上田市長やその提灯持ちの議員会派「明和会」の面々はどんな気持ちでこの日と向き合ったことか。思えば、1年前の花巻まつりの際、市長と一緒に山車の先導役を務めたいたのもこのご仁だった。大方の人には8月1日付当ブログのコメント欄の写真をきちんと、記憶に止めておいて欲しい。

 

 

四日市市が図書館の駅前立地を断念…市役所周辺に建設場所を変更、当市では不毛な「立地」論争が今も~公募プロポーザルの不調が追い打ち!!??

  •  四日市市が図書館の駅前立地を断念…市役所周辺に建設場所を変更、当市では不毛な「立地」論争が今も~公募プロポーザルの不調が追い打ち!!??

 

 三重県四日市市は近鉄グループが近鉄四日市駅前に建設する高層ビルに、市立図書館を移転させるなどの計画について、近鉄側と費用面などで調整がつかないことなどから、断念する方針を固めたことが分かりました。

 

 近鉄グループは近鉄四日市駅に隣接し、すでに取り壊された商業施設「スターアイランド」の跡地に地上32階建ての高層ビルを建設する予定です。四日市市では高層ビルの3階から8階にかけて市立図書館や交流施設を、1階から2階にかけて観光施設を入居させる計画で、令和10年度中の供用開始を目指していました。しかし、四日市市などの関係者によりますと、近鉄グループは高層ビルの整備費の概算額が390億円、工期が49か月と、当初の想定を大幅に超えたとして市に事業の延期を申し出たということです。

 

 また、近鉄側は市に対し、整備費の390億円のうち、市立図書館などの整備費は200億円を超えると説明し、市が当初想定していた費用よりも大きく上回ったということです。近鉄側は事業再開の時期について明確に示さなかったということで、市では計画を断念する方針を固めたということです。四日市市の森智広市長は「この件についてはあす(5月24日)議員への説明会を開き、しっかり説明したい」としています。いっぽう、近鉄グループの担当者は「現時点でコメントできることはない」としています(以下続報)

 

 三重県四日市市は図書館を移転する計画をめぐり、候補地を市役所の北側にある民間の駐車場とその周辺に絞り込み、今後、用地の取得に向けて測量などを行う方針です。図書館の移転をめぐって、四日市市では当初、近鉄四日市駅に隣接する場所に建設予定の高層ビル内に設ける計画でしたが、整備費が想定を大幅に超える見通しとなったことなどからことし5月に断念しました。
 

 その後、市の中心部にある広場など、3か所を検討した結果、市役所の北側にある民間の駐車場とその周辺が、立地や広さ、それに中心地の再開発事業との相乗効果なども踏まえ、最も優位性が高いとして候補地に絞り込んだことを(8月)6日に開かれた定例会見で明らかにしました。

 

 この場所は、広さがおよそ3500平方メートルあり、中心部を走る三滝通り沿いに位置します。市によりますと、土地の大半を所有する企業はこの計画に理解を示しているということです。市では8月末から始まる議会で用地の取得に向けた測量などの予算案を提出する方針です。四日市市の森智広市長は「候補地は駐車場を併設できるなど、新しいメリットもある。新図書館は市民の関心も高くなんとしても早期に整備したい」と話しています(いずれもNHKのNEWSWEBから)

 

 

●「知の泉/豊かな時間(とき)/出会いの広場」―。こんなスローガンを掲げて、新花巻図書館の建設構想がスタートして、はや12年の歳月が流れた。そして今なお、難破船のように荒波の中を漂い続けている。新たに建設用地の取得が必要となる「駅前」か、すでに市有地として存在する「病院跡地」かー。この選択に考慮の余地はあるまい。別の選択肢があるとすれば、それは何なのか。それこそが「駅前立地」につきまとう隠された”闇”である●

 

 

(写真は同じ駅前立地をめぐって、迷走を続けるJR花巻駅前。奥が建設候補地ののスポーツ店と橋上化が進められる現駅舎(右)。もうひとつの候補地は病院跡地=花巻市大通りで)

 

 

 

 

 

《追記ー1》~公募プロポーザルが不調…またまた前代未聞の関連予算の撤回へ~当市では相変わらず、不毛な“立地論争”!!??

 

 

 「新花巻図書館建設候補地選定に係る意見集約等運営業務委託プロポーザルについて、参加申込期限内に1社から申し込みがありました。プロポーザル実施要領において、『応募者が1社のみであっても、最低基準点の400点を超えた場合は、契約候補者とする』と定めており、令和6年8月1日にプロポーザル選定委員会を開催し、企画提案内容についてプレゼンテーション及びヒアリング審査を行いましたが、応募者の点数が400点を越えなかったことから、契約候補者に選定されませんでした」

 

 こんな告知が8月6日付の市HPに掲載された。つまりは市議会6月定例会で承認された業務委託料を含めた総額10,468千円の関連予算が宙に浮いたということである。今後の展開について、菅野圭生涯学習部長は「再募集しても手を挙げる業者は少ないことが予想される。関連予算はいったん撤回し、意見集約の方法について、市が独自に最善の策を模索したい。その予算として転用させていただくよう議会に説明したい」と苦しい弁明。一方、この予算案に賛成した議員たち(14人)の責任も問われなければならない。「十分に審議を尽くしたのかどうか」ー胸に手を当てて、よ~く反省してほしいものである。

 

 ところで、4年前にも同じようなことがあったことを思い出した。2020年3月9日付の市HPに「令和2年度一般会計予算(案)」を撤回するという告示が突然、掲載された。いわくつきの「住宅付き図書館の駅前立地」(のちに白紙撤回)に係る関連予算が計上されていたためで、市側はその分の予算を除いて再提案をするという前代未聞の醜態を演じた。今回はその二の舞。行政運営の見通しの悪さを暴露した形だ。難破船(新図書館丸)はもはや、マストの一部を海上に見せるだけである。これ以上、上田市政にかじ取りは任せられないという危機感さえ覚える。

 

 

 

《追記ー2》~漂えども沈まず

 

 「パリオリンピック」を名乗る方から、次のようなコメントが届いた。「今オリンピックが開催されているパリ市の標語は『漂えども沈まず』です。今の花巻市の様子は、『漂って、そのうち沈む』かもしれません。市自らが重要施策の決定ができず、思い余って第三者に依頼しようとしたところ、その第三者すら決定できない状態を見るにつけ、花巻市における地方自治は既に崩壊しているように見えます。

  

 

 

 

 

<「花巻」図書館事始め…キラ星のごとき、その足跡>~IHATOV・LIBRARY(「まるごと賢治」図書館)の実現を目指して(その4)

  • <「花巻」図書館事始め…キラ星のごとき、その足跡>~IHATOV・LIBRARY(「まるごと賢治」図書館)の実現を目指して(その4)

 

 「この名の起こりは、花巻の町を流れる豊沢川の水の様に、新しい知識を次々に求め得ようという意味で、町内の有力者52人で発足している。毎月10銭を拠出して書籍を購入し、ひろく町民に読書を普及させるもので、この豊水社の伝統が明治41年、花城小学校に『豊水図書館』を設立するきっかけとなった。この様に忠次郎は文明開化の時代に自ら先頭に立ち、知識欲に燃えた青年達に読書をそなえつけた、その先駆者としての活動は、大いに称(たた)えてしかるべきである」―

 

 私家本『心田を耕し続けて―小原忠次郎の歩んだ53年』(土川三郎編)の中にこんな文章が載っている。文中に登場する「忠次郎」は私の曽祖父に当たる「小原東籬」(忠次郎=1852~1903年)である。花巻城にはかつて桜並木で有名な「東公園」があり、その一角に「鶴陰碑」と刻まれた石碑が建っていた。いまは市博物内に移設されているが、その碑にはこのまちの基礎を築いた194人の功労者の名が刻してある。その揮ごうの主が忠次郎であり、図書館の前身「豊水社」を創設したことでも知られている。私が図書館問題に人一倍の関心を持つのはこの家系のせいかなと思うこともある。

 

 忠次郎に遅れること18年、のちに農業技術者として、内外で製糖会社などを率いた菊池捍(まもる=1870~1944年)が同じ花巻の地に生を受けた。妻は北海道帝国大学の初代総長を務めた佐藤昌介の妹、淑子である。その家系の中に“豊水”精神を引き継いだ女性がいた。捍の長女の昌子で、いまも継続している「宮沢賢治の作品を読む会」の設立を呼びかけたその人である(7月24日付当ブログ参照)。来歴を調べていくうちに、その並外れた個性に圧倒された。

 

 昌子は長年、町立図書館の司書を務め、読書の大切さの啓蒙普及に尽力した。そのエピソードはいまも語り継がれ、例えば当市出身の童話作家、柏葉幸子さん(71)はこう書いている。「返された本を胸にかかえて書架の間を音もなく行き来する姿は本の王国を牛耳る侍従長のようでした。今思えば私にとって彼女は物語の手先でした。彼女を、そのまま物語の主人公に使わせていただいたりもしました。そこにいる司書が素敵でなきゃつまらないと私は思うのです」(『花巻図書館50周年記念誌』)

 

 「カランコロン、カランコロン」…。花巻市内の中心市街地に西欧風の洒落た建物が建っている。捍が大正15年に建設し、今年でちょうど100年を迎える「菊池捍」邸である。この建物の前を通るたびに私の耳元には今でも軽やかな下駄の音がこだまを繰り返す。「私はお絵かき」「じゃ、私はピアノに行くからね」「ぼくは英語の寺子屋さ」…。夕方近く、当時の小中学生の明るい声が路上にはね返った。

 

 昌子の夫は著名なプロレタリア美術家の寺島貞志で戦後花巻に疎開し、絵画教室を開いていた。また昌子の妹、聡子(としこ)はピアノの先生だった。さらに、近くの浄土真宗「専念寺」の本堂では英語塾が開かれ、私はこっちに通っていた。ちなみにこの寺の長男は宗教学者の山折哲雄さん(93)。時折、臨時の講師として洒脱な説法をしてくれたことを思い出す。「花巻」図書館事始めに忘れてはならないもうひとりの人物がいる。

 

 「この法律は、社会教育法(昭和24年6月)の精神に基き、図書館の設置及び運営に関して必要な事項を定め、その健全な発達を図り、もって国民の教育と文化の発展に寄与することを目的とする」―。「図書館法」(昭和25年4月)はその目的について、こう謳っている。図書館の“憲法”とも言われるこの法律を最初に手掛けたのは当市ゆかりの山室民子(1900―1981年)である。

 

 母親の佐藤機恵子(旧姓=1874~1916年)はキリスト教の伝道・慈善団体「救世軍」の創始者、山室軍平の妻で、花巻の素封家の家に生まれた。機恵子が菊池捍とほぼ同時代を生きた偶然にも驚かされる。民子は女性初の視学官(教育行政官)として、文部省課長(教育施設課)の第1号に就任し、図書館法の成立に尽くした。まるで、目に見えない糸で繋がれた“人脈図”に興奮しながら、私は柏葉さんの次の文章にまた、唸ってしまった。昌子・聡子姉妹のたたずまいについて、作家らしい観察眼でこう活写している(前掲記念誌)。ちなみに、柏葉さんにとって姉妹は読書とピアノの師匠だった。

 

 「ピアノの先生(聡子)は日本人ばなれしたわし鼻ぎみで、トレンチコートをさっそうと着こなすキャサリン・ヘップバーンみたいな素敵な人でした。お姉さん(昌子)も素敵でした。髪をみだれなくお団子に結い上げて、銀縁の丸めがねに黒いワンピース、そして黒い腕ぬきをしていました。事務室で大きなマグカップから何かを飲む姿にさえあこがれました」―。その昌子は「作品を読む会」を立ち上げた経緯について、こう語っている。「『セロ弾きのゴーシュ』の面白さが忘れられずに“とりこ”になった。大きな平和を求めていた賢治の作品にふさわしいものにしたい」(昭和52年1月27日付「朝日新聞」岩手版)

 

 何とも胸がときめくような光景ではないか。もう一度、あのさんざめくような街の雰囲気を取り戻したい。賢治の一切合切を集めた「IHATOV・LIBRARY」(花巻病院跡地の新図書館)と「菊池捍」邸とを結ぶ地平線上に私はこのまちの未来の姿を見てしまう。たとえば、そこには被爆地・広島を撮影したことで知られる昌子の弟の写真家、菊池俊吉(1916~1990年)も待っているはずである。「文化と芸術」を抜きにして「イーハトーブ」を語ることは、「何も語らない」ことと同じである。

 

 

 宮澤賢治の童話『黒ぶだう』の舞台といわれながら、「菊池捍」邸ではいまイベントが開催される風もなく、固くカギが閉じられたままになっている。実に不気味なたたずまいである(文中の氏名で敬称略の人たちは物故者)

 

 

 

 

(写真は昌子さんが司書をしていた当時の町立花巻図書館。今は市庁舎の分室になっている。市内城内で=インターネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

 

《追記》~79回目の「原爆の日」と菊池俊吉(コメント欄に写真掲載)

 

 今日6日は79回目の「原爆の日」。文中の菊池俊吉氏は被爆後の広島などを撮影した写真家として知られる。彼の経歴を以下に紹介し、合わせてその記憶をいまに伝える1枚をコメント欄に掲載する。なお、菊池氏らの写真や映像はユネスコ「世界の記憶」の「広島原爆の視覚的資料―1945年の写真と映像」として、来年度の登録候補になっている(以下はウキペディアより)

 

 

 1916年(大正5年)、岩手県花巻市御田屋町生まれ(旧「菊池捍」邸)。1937年(昭和12年)、オリエンタル写真学校を卒業後、1938年(昭和13年)東京光芸社写真部に入社し、報道写真家として始まり。1941年(昭和16年)岡田桑三が設立した東方社写真部に入社、1942年(昭和17年)2月に創刊された陸軍参謀本部の対外宣伝グラフ誌『FRONT』の写真部員となる。戦時中、日本本土及び外地の部隊、産業記録撮影など幅広く活躍した。

 

 1945年(昭和20年)敗戦後、解散の東方社スタッフは文化社として再建。同年9月、文部省の学術調査団のもとで原爆被災地の医療状況を記録映画撮影、スチール写真担当として医学班に属し、10月1日10月22日被爆後の広島を撮影]1946年(昭和21年)4月、焼け野原となった東京ドキュメントとして『東京1945年・秋』を出版。1947年(昭和22年)8月、復興中の広島をアピールするための写真集『LIVING HIROSHIMA (PDF) 』製作のために再び広島へ。

 

 文化社の解散後、1951年(昭和26年)以降『世界』、『中央公論』、『婦人公論』などのグラビア頁を担当。科学雑誌に内外科学者のプロフィールと科学実験など科学分野の写真で知られた。1985年(昭和60年)、歴史的資料となる写真集『銀座と戦争』、『昭和の歴史』に作品が掲載。1990年(平成2年)、急性白血病により逝去、享年74。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<それはコウノトリとの出会いから始まった~「芸術と文化」によるまちづくり>~ IHATOV・LIBRARY(「まるごと賢治」図書館)の実現を目指して(その3)…あぁそして、イーハトーブの懲りない面々よ!!??

  • <それはコウノトリとの出会いから始まった~「芸術と文化」によるまちづくり>~ IHATOV・LIBRARY(「まるごと賢治」図書館)の実現を目指して(その3)…あぁそして、イーハトーブの懲りない面々よ!!??

 

 「科学だけでは冷たすぎる。宗教だけでは熱すぎる。その中間に宮沢賢治は芸術を置いたのではないか」(岩手ゆかりの作家で賢治関連の著作もある井上ひさし)―。兵庫県豊岡市で「演劇」によるまちおこしを実践している劇作家で演出家の平田オリザさんは近著『但馬日記―演劇は町を変えたか』の中で、井上のこの言葉を引き合いに出しながら、次のように書いている。「賢治の思いが、100年の時を経たいまよみがえる。熱すぎない、冷たすぎない、その中間に芸術や文化を置いたまちづくりが求められている」―

 

 オリザさんの活動拠点は2021年に開学した、芸術文化と観光をコラボした全国初の4年制大学―「兵庫県立芸術文化観光専門職大学」である。この長ったらしい名前の大学の生みの親が実は「コウノトリ」だったと言ったら、みんなは目を白黒させるにちがいない。「コウノトリ『も』住めるまちを創る」―。2001年から5期、豊岡市長を務めた中貝宗治さんさんは、”小さな世界都市“(Local&Global―City)を標榜して、まちづくりを成功に導いた地方政治家として知られる。その政治哲学の原点は『が』ではなく、この『も』の発見にあるとして、自著『なぜ豊岡は世界に注目されるのか』の中にこう書いている。

 

 「かつてコウノトリは田んぼに植えたばかりの苗を踏み荒らす『害鳥』でした。そのコウノトリは、今や『豊かな環境のシンボル』です。この間、コウノトリ自身は何も変わっていません。変わったのは、人間の方です。人間が価値観を変えたのにすぎません。…そのような豊かな自然は、人間にとって『も』素晴らしい自然であるに違いありません」―。特別天然記念物に指定されているコウノトリは53年前、豊岡で確認されたのを最後に姿を消した。「コウノトリ共生推進課」を設置し人工飼育を進めた結果、平成17(2005)年、絶滅から34年ぶりに世界で初めての野外放鳥に成功した。いまは「コウノトリの郷」として、まちづくりのシンボルになっている。

  

 「いっそのこと、タダで劇団に貸してはどうか」―。志賀直哉の『城の埼にて』で知られる城崎温泉の近くに収容人員が千人規模の古いホールがあった。このお荷物施設の再利用に思案投げ首していた時、東京出張の機内でふとそう思いついた。2014年4月、日本最大級の滞在型「アーティスト・イン・レジデンス」(城崎国際アートセンター)はこうして「ヒョウタンから…」ではなく、まさにコウノトリが産み落としたかのようにして誕生した。「も」の哲学の本領発揮である。生まれも育ちも東京の“全身演劇人”…オリザさんが当地に移住してもう5年になる。

 

 「堅雪(かたゆき)かんこ、凍(し)み雪しんこ」―。79年前の厳冬期、花巻郊外の山里に子どもたちの元気な声が響き渡った。先の大戦の空襲によって廃墟と化した花巻のまちに敗戦の翌年、「花巻賢治子供の会」という児童劇団がうぶ声を上げた。賢治の教え子である照井謹二郎さんと妻の登久子さん(ともに故人)は賢治童話を劇にして、戦後の混乱に巻き込まれた子どもたちを励まそうとした。焼野原の中で焼失を免れた馬小屋がけいこ場だった。

 

 当時、東京から疎開した詩人で彫刻家の高村光太郎が郊外の山荘で独居生活を続けていた。照井夫妻は第1作目の『雪わたり』を携え、親類や近所の子どもたち十数人を寄せ集めた“にわか劇団”を引き連れて、慰問に出かけた。「(分校の)校長さんも先生方も部落の子供達も大工さんも製板さんも通りがかりの村の人達もみんな温かい気持に満たされて、うれしさうに見えました。現世では数へるほどしか数の少い幸福をつくり出すお仕事は何といふいいものでせう」―。光太郎からこんな感謝の手紙が届いた。会の命名はこの大芸術家からのプレゼントだった。

 

 「ここ豊岡に世界の風を吹かせて、その風で小さな風穴を開けるのだ」―。専門職大学の初代学長であるオリザさんは自著をこんな言葉で結んでいる。瞬間、賢治のあの歌が唱和した。そう、『風の又三郎』に登場する風の精霊たちの主題歌である。

 

 「どっどど どどうど どどうど どどう/青いくるみも吹きとばせ/すっぱいかりんもふきとばせ/どっどど どどうど どどうど どどう」―。「IHATOV・LIBRARY」のホールの一角に可愛らしい踊り手たちが現れた。オリザさんが演出を手がけた新作の『風の又三郎』の主役たちである。「風」こそが変革のシグナル…この光景は決して「夢」ではない。いや、夢に終わらせてはならない。「オリザ」流のまちづくりはインバウンド(外国人旅行客)へも着実につながりつつある。「イーハトーブはなまき」とは、つまりは「小さな宇宙都市」(Local&CosmicーCity)の謂(い)いである。

 

 

 

 

(写真は「賢治」が出迎えるJR花巻駅前。駅橋上化と図書館の駅前立地が実現すると、“銀河鉄道”始発駅の趣は一掃されてしまう=花巻市大通りで

 

 

 

 

 

《追記ー1》~あっちでも「公開×非公開」論争…こっちは最初から“門前払い”!!??

 

 

 6月27日付当ブログと比較しながら、以下の文章を読んでいただきたい。

 

  「兵庫県の斎藤知事のパワハラなど7つの疑惑を調査する「百条委員会」の4回目が2日、開かれたこの日は証言をすることで不利益を被ることへの懸念や心理的ストレスを訴える職員の声に配慮し、秘密会のあり方について議論された。竹内英明議員が「当初、非公開で行うと言って職員の証人に『非公開だ』と求めた所『公開でしてほしい。公の場で自分が受けた被害等を言いたい』と報道がありました。そういった場合、逆に公開でした方が良いのではないか」と提起し、議会では「公開で証言したい証人」は8月30日の公開委員会で行うと決定した。

 

 庄本えつこ議員は「こちら側から証人(出頭)要求する時に『ぜひ公開で』とは絶対にしないように注意をするように。私たちは証人に対して配慮をしたいという意思を示したい」と強く主張し、別の議員も同調圧力に注意するようにと賛同の意を示した。前回の委員会で秘密とされた「(8月)30日に斎藤知事が出頭する」件が、その日のうちに報道されていたことについて黒川治議員は「議会も当局もゆるんでしまっている、危機的な状況ではないか。興味本位でやっているわけではない」と指摘し、釘を指していた。

 

 注目度の高い委員会ということで、通常10席の傍聴席は30席に増やされていた。閉会後、傍聴人らが兵庫県庁の職員に「声が小さく聞こえない」といったクレームや「同僚だからこの人たちにも責任があるよ」「ちゃんとせい」などと詰め寄っていた」(2日付東スポWEB)

 

 

 

 

《追記ー2》~広瀬議員へ司直の手が…それを支えた懲りない面々(コメント欄に写真を掲載)!!??

 

 エッフェル女子から”赤ベンツ”不倫の広瀬めぐみ参院議員がついに、秘書給与をめぐる詐欺事件で司直の手へ。このご仁、昨年夏の花巻まつりに出没、畏れ多くも上田東一市長らと神聖きわまる風流山車の先導役を務めた(2023年9月10日付当ブログ参照)。この際、記念写真に収まった懲(こ)りない面々の姿を記憶に刻んで欲しい。政治の腐敗に手を貸した”共犯者”として…

 

目に余る“賢治”利用…ふるさと納税90億円の舞台裏~おらが賢治さんが泣いている!!??

  • 目に余る“賢治”利用…ふるさと納税90億円の舞台裏~おらが賢治さんが泣いている!!??

 

 「一体この物語は、あんまり哀れ過ぎるのだ。もうこのあとはやめにしよう。とにかく豚はすぐあとで、からだを八つに分解されて、厩舎(きゅうしゃ)のうしろに積みあげられた」―。宮沢賢治の童話『フランドン農学校の豚』の最終節はこんなセリフで閉じられている。「家畜撲殺同意調印法」が布告され、校長は法律に基づいて豚に対し、死亡承諾書への捺印をせまる。恐怖心にかられた豚はいったんは拒絶するが、結局は同意させられてしまう。賢治の教え子で戦後、「花巻賢治子供の会」を立ち上げた照井謹二郎さん(故人)は当時、その現場に立ち会った。その時の様子を「ピッグがピッグを殺した」というエピソードを交え、私に以下のように打ち明けてくれた。

 

 「真冬にしてはおだやかな日だった。雪におおわれた校庭に豚が一匹連れ出された。前足の一本がロープで縛られ、そのロープの端はテニスコートの支柱にしっかりと結びつけられた。校長がマサカリで脳天を一撃。豚はあっけなく死んでしまった。解体された豚は2日ばかり雪の中に埋められ、その後、収穫祝いの豚汁として職員と生徒にふるまわれた。その時の校長のあだ名がピッグだった」―

 

 イーハトーブ花巻応援寄付金(ふるさと納税)の人気商品のひとつがブランド豚「白金豚」である。賢治の同書の中にこんな記述がある。「水やスリッパや藁(わら)をたべて、それをいちばん上等な、脂肪や肉にこしらえる。豚のからだはたとえば生きた一つの触媒だ。白金と同じことなのだ。無機体では白金だし有機体では豚なのだ」―。銘柄名はこの文章に由来する。賢治が「あんまり哀れ過ぎる」と嘆いたその「白金豚」はいまや、文字通り、”カネノナルキ”(ベンケイソウ科の多肉植物、別名「成金草」)として、もてはやされている。

 

 食肉のもうひとつの人気商品はもちろん「牛」である。当市の令和5年度のふるさと納税額は約90億3千万円に達している。このドル箱を底支えしているのが「牛タン」だが、新銘柄「花巻黒ぶだう牛」がここ数年人気を増している。ぶどうの搾(しぼ)りかすを与えて、飼育。以前は「エーデルワインビーフ」として売り出されたが、その後、名前が変わった。当時のイベントのチラシにはこう書かれている。

 

 「花巻市御田屋町の旧菊池捍邸。『花巻黒ぶだう牛』の名称は、この建物が舞台とされる宮沢賢治の寓話『黒ぶだう』からいただいたものです」―。現存するこの邸宅は大正15年の建築とされ、昨年8月、文化庁の「国登録有形文化財」の指定を受けた。12年前、「賢治ゆかりの」という付加価値が付けられた途端、人気商品の上位にノミネートされるようになった。“賢治効果”が一目瞭然であるが、なりふり構わない“錬金術”には怖気(おぞけ)さえ覚えてしまう。”阿漕”(あこぎ)という言葉がぴったりではないか。

 

 「雨ニモマケズ」体験セット(一日に玄米四合と味噌ト少シノ野菜ヲタベ…)から今度は「はなまき星めぐりコイン」へー。臨時の共同記者会見(7月23日)まで開いて、この新しい「旅先納税」を披露した際、上田東一市長の顔にはいたくご満悦の表情があふれていた。一方の私は銀河宇宙の星たちが「コイン」(金貨)に変身させられた光景を目の当たりにしながら、5年前の“エアガン”騒動を思い出していた。まさに“悪夢”の光景だった。

 

 2019年8月、返礼品にプラスチック製の弾(たま)を圧縮した空気で飛ばす「エアガン」をリストに加えた。問い合わせが殺到し、わずか1時間足らずで受付を終了した。この話題がテレビのワイドショーやメディアで報じられた結果、事態は一変した。「アメリカでは銃乱射事件が相次いでおり,嬉々(きき)として返礼品に加えるのは無神経ではないか」…。1週間後、上田市長が謝罪文をHPに掲載し、幕引きを図った。賢治が“夢の国”と名づけた「イーハトーブ花巻」における“税金分捕り合戦”の舞台裏のほんのひとこまである。こんな光景を賢治は銀河宇宙の彼方から、どんな気持ちで眺めていることか。

 

 

 

 

(写真は「黒ぶだう牛」フェアを告知するチラシ=インターネット上の公開の写真から)

 

 

 

 

《追記》~これって、“誇大”広告に引っ掛からないのかな!!??

 

 「花巻黒ぶだう牛」は、花巻が世界に誇る株式会社エーデルワインが製造するワインのぶどうの搾りかすを飼料として給与しており、さらりとした脂と豊かな風味が特徴です。花巻出身の詩人で童話作家の宮沢賢治の寓話(ぐうわ)「黒ぶだう」で仔牛がぶどうを食べる描写があることから名づけられた、花巻ならではの「ブランド牛」です!

 

 寓話「黒ぶだう」は、花巻市御田屋町の旧菊池捍邸が舞台とされ、赤狐に誘われた仔牛が、留守の人間の別荘に入り込み勝手に「黒ぶだう」を食べていたところに住人の公爵一行が帰宅し、逃げ遅れた仔牛は見つかってしまいますが、怒られもせず、逆に黄色いリンを結んでもらうというものです。物語の中で、赤狐はぶだうの汁ばかり吸って他は全部吐き出しますが、仔牛は「うん、大へんおいしいよ。」と種まで噛み砕いて食べてしまいます。

 

 賢治は、当時すでに、ぶどうの搾りかす(皮と種)が家畜の餌として使えることに気づいていたのかもしれません。※発送までに約2ヶ月ほどかかります。ご了承くださいの上、お申込をお願いいたします=提供:JAいわて花巻 花巻黒ぶだう牛研究会(花巻市HPの「ふるさとチョイス」から)