「どっどど/どどうど/どどうど/どどう/青いくるみも吹きとばせ/すっぱいかりんも吹きとばせ…」―。宮沢賢治の代表作『風の又三郎』はこんな呪文のような歌とともに幕を開ける。その最初の映画化(島耕二監督、日活多摩川撮影所)は、私が生まれた約7ヶ月後の1940(昭和15)年10月10日。翌年の「12・8」、日本は泥沼のような太平洋戦争に突入した。激動の歴史の狭間(はざま)に生を受けたせいなのだろうか、「どっどど」という不思議な旋律はまるで“子守唄”ように今なお、私の中に同居し続けている。そして、賢治没後94年の今年の「賢治忌」の9月21日―
「大瀧詠一/賢治と『無意識のつながり』」―。こんな見出しの記事が朝日新聞岩手版に掲載された。「あの、Jポップの先駆者の大瀧が」と読み進むうちになんと、筆者が朝日新聞の後輩、石橋英昭記者だということに気が付いた。大瀧のおじさんが賢治の『農民芸術概論綱要』の講義を受けていたことを知ったのが、執筆のきっかけだったという。そして、私は次のような中見出しに目を奪われた。「子ども時代『風の又三郎』を自身に重ね/解散コンサートは偶然命日に」―。熱烈なファンの話として、記事にはこんな“秘話”が紹介されていた。
「少年時代に見た映画『風の又三郎』に入れ込んでいること。転校が多く、子ども心に『僕は風の又三郎だ』と思っていたこと。(1970年前半、松本隆、細野晴臣、鈴木茂と組んだ)『はっぴいえんど』の解散コンサートの日が、偶然賢治の命日だったこと」などなど…。このエピソードには「宮沢賢治とは、無意識に糸がつながれていたような気がします」という大瀧自身がファンに贈った言葉が添えられていた。
大瀧詠一(1948年~2013年)は母子家庭に生まれ育ち、教師だった母親の転勤に伴って、生まれ故郷の現奥州市や遠野市や釜石市などで青春時代を送った。私より8歳下の大瀧は同じ母校の県立花巻北高校にも在籍した経歴がある。「レコードの収集に仕送りを使い果たし、学費未納で1年生で退学になった」―。こんないかにも大瀧らしい剛毅(ごうき)な後日談が地元に伝えられている。
「君は天然色」「夢で逢えたら」などのヒット曲を連発した大瀧は1981年、伝説的なアルバム「A LONG VACATION」をリリースした。この壮絶な人生を追憶しているうちに「この人の音楽の原点はやはり、『風の又三郎』にあったのではないか」と納得した。実は私にも身に覚えがある。
現役記者だった50年代半ば、私は若者たちが組織する国際交流団体「ピースボート」(平和の船)に船内ゲストのひとりとして乗船していた。下船日が近づいたある日、親しくなった若者たちが甲板で送別会を開いてくれた。深夜、カリブ海の洋上には満天の星が降り注ぎ、柔らかい風が肌に心地よかった。若者たちが歌い終わると、何かお返しをしなくてはならない。ためらいもなく、口をついて出たのが「どっどど/どどうど」だった。Jポップの草分けもおそらく、この“呪文”めいた言葉をブツブツと唱えながら、曲想を練っていたにちがいない。
ついでに言うと、「風の又三郎」は映画化の前年(1939年)に東京・築地小劇場で上演されている。この時の「又三郎」役はコメディアンとしても人気を博した俳優の大泉滉(あきら、故人)。祖父は亡命ロシア人で、日本人女性との間に生まれた父親の故大泉黒石はアナキスト作家として、名を残している。「街中をブラブラしていたら、子役にならんかねとスカウトされた。混血の顔をしていたから、転校生役の又三郎にピッタリだったんじゃないかな」―。取材で会った際、あのひょうきんなキャラクターはケラケラと笑った。
実に「又三郎」、いや“風の神さま”は色んな面白い話を運んできてくれるではないか。どんど晴れ(めでたしめでたし)…
(写真は86年前に制作された映画「風の又三郎」のポスタ―=インターネット上に公開された画像から)



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