「関係人口論の元祖は実は賢治ではないか」―。こんな趣旨の発言に一瞬、あっけにとられた。「都市と地方をかきまぜる」をミッションに掲げ、二地域居住や関係人口の創出などの事業を展開する「(株)雨風太陽」(本社、花巻市)が3年前に株式上場(東証)した際、高橋博之社長は地元の詩人で童話作家、宮沢賢治の世界観を経営理念の基本に据えることを表明した。私自身、賢治による「まちづくり」を一貫して主張していただけに、援軍来たれりと背中を押された気分になっていた。ところが…
「雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ/丈夫ナカラダヲモチ…」―。株式上場の直後、地元で開かれた報告会の会場で高橋社長はこの有名な詩を朗々と詠(えい)じながら、持論を展開した。「都人よ 来って/われらに交れ…」という一節が代表作『農民芸術概論綱要』の中にある。高橋社長は「賢治」元祖論の根拠をこの一文に求め、こう述べた。「都市と地方の分断を解消し、共に手を取り合って生きることの大切さを伝えています」―。この本が書かれたのは約100年前。人口動態など社会情勢が全く違う時代のメッセージをそのまま、現代社会に当てはめるという強引な手法に次第に腰が引けてきた。
「日ハ君臨シ/カガヤキハ…」(1番)―。高橋社長は舞台せましと賢治「作詞・作曲」の「(花巻農学校)精神歌」を披露し、400人以上が詰めかけた会場の雰囲気は一気に盛り上がった。私自身のブログ名「ヒカリノミチ通信」もその一部「日ハ君臨シ カガヤキノ/太陽系ハ マヒルナリ/ケハシキタビノ ナカニシテ/ワレラヒカリノ ミチヲフム」(4番)を借用している。涙がこぼれるほどに美しい詩句である。さて、今回の当ブログのテーマはこの「精神歌」論争をめぐる攻防についてである。以下に少し、おさらいをしておく。
花巻農学校精神歌は賢治が当時、“桑っこ大学”と呼ばれていた「稗貫農学校」(現、県立花巻農業高校)の教師時代の大正11(1922)年2月、校歌を持たなかった生徒たちのために作詞。盛岡高等農林学校(現、岩手大学)の学生「川村悟郎」が作曲を担当した(8月3日付と同24日付当ブログ参照)。私はこの事実を元にして「作曲」の誤記載の訂正を求めてきたが、頑としてそれに応じないことに不思議な違和感を抱き続けてきた。そして、ハタと心づいた。焦眉(しょうび)の急になっている「新花巻図書館」問題に対する“立ち位置”の気の遠くなるような乖離(かいり)、つまりは「ダブルスタンダード」(二重基準)ではないかと…
「なぜ、賢治精神を称揚しながら、精神歌が産声(うぶごえ)を上げたそのゆかりの地である稗貫農学校跡地(現花巻病院跡地)への立地に背を向け、市側が進める駅前立地に与(くみ)するのか。例えば、全国に広がる賢治ファンやインバウンドの喚起など病院跡地への立地の方がはるかに関係人口の創出という持論にかなうのではないか。これを裏返せば、結局は賢治の”いいとこ取り”…。関係人口論とはつまるところ、株主を確保のための手段ではなかったのか」―
そういえば、「関係人口」創出のための共同事業体「花巻二地域居住推進コンソーシアム」には同社のほか、花巻市とJR東日本盛岡事業本部、現職市議が社長を務める「Pサポ東北」という会社が名を連ねている。明らかに「駅前」シフトの布陣である。その社名も賢治に由来するらしい「雨風太陽」に対する、以上が私の素朴な疑問である。誤記載の訂正とともに回答を願いたい。
一方、高橋社長は報告会の中で、賢治童話『セロ弾きのゴーシュ』についても触れていた。その簡単なあらすじは―
●町の活動写真館の人気者であるゴーシュは、音楽団でチェロを弾いていました。しかしあまり上手ではなく、いつも楽長に叱られていました。演奏会まであと10日、演目は「第六交響曲」。ゴーシュは町外れにある水車小屋の自宅に帰ると、毎晩必死にチェロの練習を続けます。するとなぜか次々と訪問者が現れて……。「トロイメライ」をリクエストする三毛猫。音階を習いに来る小鳥のかっこう。スティックを持参して「愉快な馬車屋」を合奏する子タヌキ。そしてチェロの音で子どもの病気を治そうと訪れる野ネズミの母子…
●これらの不思議な訪問者との対話を通じて、ゴーシュは自分の演奏に足りない部分を徐々に自覚していきます。そして迎えた演奏会の日、ゴーシュは楽長からアンコールを求められ、かつて三毛猫に聞かせた「印度の虎狩」(賢治の創作曲)を見事に演奏し、大きな賞賛を浴びるのでした(どんど晴れ)
高橋社長はこの童話についてはこんな風に語っていた。「ゴーシュが所属する活動写真館の楽団はいわば、管理され評価のまなざしにさらされる空間。それに対して、ゴーシュが暮らす村はずれの水車小屋は動物たちが遊びにやってくる開放的な空間で、ここでゴーシュは人間性を回復する。都市(活動写真館)と地方(水車小屋)のこの車の両輪をかきまぜるのが、関係人口論のミッションだ」―。我田引水や牽強付会(けんきょうふかい)という言葉が頭をよぎった。ふたたび、眉に唾をつけたくなった。私自身が心を打たれた、もうひとつの「ゴーシュ」観を最後に紹介しておきたい。
「この土地で『なぜ20年も働いてきたのか。その原動力は何か』と、しばしば人に尋ねられます。人類愛というのも面映(おもは)ゆいし、道楽と呼ぶのは余りに露悪的だし、自分にさしたる信念や宗教的信仰がある訳でもありません。よく分からないのです。でも返答に窮したときに思い出すのは、賢治の『セロ弾きのゴーシュ』の話です」―
2019(令和元)年12月、アフガニスタンでテロの凶弾に倒れた医師の中村哲さん(享年73)はその15年前に第14回宮沢賢治イーハトーブ賞を受賞。「わが内なるゴーシュ、愚直さが踏みとどまらせた現地」と題したこんなメッセージを寄せた。『わたしは「セロ弾きのゴーシュ」』(2021年、没後刊)と題する自著を残した中村さんは生前、周囲にこう漏らしていたという。
「自分がやりたくて、やっているのではない。目の前の不条理に巻き込まれ、怒り絶望しながら、気が付けば自分自身が他者に生かされていた」―。動物たちの無理難題の要求に時にはブツブツと文句を吐きながら、それでも愚直に心を通わせる中村さんの姿がまぶたに浮かんだ。私は拙著『「イーハトーブ“図書館”戦争」従軍記』(2026年1月刊)の中にこう書き記している。
「私が新聞記者として、初めて遭遇した最大の出来事は『三池炭鉱炭じん爆発事故』(1963年=福岡県大牟田市)で被災し、重篤な後遺症に苦しむ患者たちの取材だった。485人が死亡し、839人が不治の病と言われた『一酸化炭素(CO)中毒』に侵された。九州大学医学部を卒業した中村さんがその時、若き神経内科医の研修生として、患者の治療に奔走していたことをあとで知った。当時、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の現場で、互いにすれ違っていたかもしれない。いま思えば、その時の運命的な“出会い”が6歳年下ながら、私が哲さんを人生の師と仰ぐきっかけだったように思う。故中村医師のそれが賢治、いやゴーシュであったように…」
賢治が“夢の国”と呼んだイーハトーブ(理想郷)をその賢治精神を基軸にした世界レベルの文化都市に昇華できるか、それとも一地方都市の利便性の中に埋没させてしまうのかー。「関係人口」問題と相まって、“魂のインフラ”とも言われる公共図書館の行方―つまり、まちづくりの根本がいま問われている。
「一日ニ玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲタベ…」―。高橋社長が朗誦した詩「雨ニモマケズ」は戦前、国粋団体の「大政翼賛会」によって、農村労働力の収奪に利用された。戦後は一転、学制改革に伴う新しい教科書(中学用国語)の中で「玄米四合」が「三合」に改ざんされるという出来事があった。敗戦後の食糧難に備えるというのが名目だった。そして、今度は…。「時代」に利用されるという意味で、「おらが賢治」は同時に両刃(もろは)の剣(つるぎ)でもある。
≪追記≫~県立野亜高校「イーハトー部」
「増子耶寿子です。マスヤスと呼んでください」―。賢治生誕130年にあやかって、第35回宮沢賢治奨励賞(2025年)を受賞した『銀河の図書室』(名取佐和子著)を手に取った。読み始めたとたん、危うく腰を抜かしそうになった。14ページの6行目に「同姓」の名前を見つけたからである。同書は読書好きの数人でつくる高校の同好会「イーハトー部」の仲間たちが宮沢賢治の代表作『銀河鉄道の夜』などを読み解きながら、「ほんとうの幸い」とは何かを求め続ける“青春”小説である。
読み進みながら、私は別の想念に取りつかれていた。妻「増子美恵子」は8年前に病没した。ある種の?賢治狂い”の私の影響を受けたのか、いつの間にか妻も隠れ“信者”になっていたようだった。マスヤスからマスミエへ。その亡妻が今度は何と「イーハトー部」のニューフェイスとして、登場しているではないか。そんな妄想にとらわれた。「弔い月」(8月)が終わる31日にやっと、読了した。「私に逢わせよう」と賢治が急いで連れてきてくれたんだなと思った。
(写真は「中村哲が本当に伝えたかったこと」というサブタイトルをつけた没後刊の最後の本=インターネット上に公開の写真から)



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