ふるさとに戻って、早や四半世紀が過ぎた。後先も見ないまま、がむしゃらに突き進んできた我が“図書館”戦争もハタと気がつけば、敵の包囲網の中に真っ只中。「そろそろ、店じまいということか」とそんなことをツラツラと考えていたある日、本棚の奥から「望郷記」と題したメモ書きが出てきた。茶褐色に変色した字面の背後から、言葉たちがまるで息を吹き返したかのように飛び出してきた。「そうだったのか。ここに初発の源(みなもと)があったのか」と妙に得心した。先が見えてきた老残の“覚書”として、ここに書きとどめておこうと思う。
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ご無沙汰しておりますが、お元気のことと思います。さて、私は(2000年)3月31日をもって朝日新聞社を定年退職し、これを機にふるさとに居を移しました。35年間の記者生活の三分の二近くが九州と北海道の勤務でした。筑豊や三池、水俣、沖縄、そしてアイヌコタンや国境のまち・根室、夕張の閉山地帯…。南と北の光景が今もはっきりとまなうらに刻まれています。いずれも近代日本の繁栄に打ち捨てられた光景です。
南北両眼に映る東京(中央)のたたずまいが何とも、グロテスクで不気味なものに見えるようになったのはいつ頃からだったでしょうか。身の置き所がないというか、居心地が悪いという気持ちが近年、ますます強くなっていました。バーチャルランド(仮想国)と化した中央の光景に焦点が合わなくなってきていたのかも知れません。そろそろ潮時だと思っていた時期がちょうど、定年に重なりました。迷うことなく、ふるさとに帰る決心をしました。
ふるさとで久しぶりに腰の曲がったお年寄りたちと出会いました。地面と平行なほどに腰の折れ曲がったおじいさんやおばあさんは言葉少なにこう語るのでした。「貧乏人の子だくさんだったからねぇ。田んぼや畑とにらめっこの人生だったよ」。働く(労働)ということの真の意味を思い知らされる言葉でした。その辛苦を思えば甘い感傷など許されるはずはないと知りつつも、なぜかホッとさせられるのでした。
「背伸びをしながら、落ち着かない表情であたりをキョロキョロと眺めまわして暮らす人間を比べると、一木一草のいのちをじっと、見つめ続けてきたこの人たちの人生の方がはるかに気高いのではないか」と―。
これから先は南の眼と北の眼を大きく見開きながら、「化外(けがい)の民」と言われ続けてきた、この地の人々の記憶の古層(例えば、それは蝦夷とか東北アイヌと呼ばれた人々の記憶)をたどる旅を続けたいと思っています。この国の成り立ちを考え直すためにも、そのことがとても大切だという思いを募らせています。
町はずれに掘っ建て小屋を建てました。お年寄りたちが労働の疲れをいやす湯治宿も近くにあります。ぜひ一度、足を運んでください。在職中は本当にお世話になりました。また、これまでの非礼を重ねてお詫びいたします。健康にはくれぐれもお気をつけてください。ますますのご発展をお祈りしております。
(2000年=平成12年春、定年と帰郷の挨拶状から)
(写真はわが家から遠望する霊峰・早池峰山。この山が望める場所を居所に定めた=花巻市桜町4丁目の自宅から)



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