「賢治さんの『雨ニモマケズ』の中で、『北ニ…』のフレーズにだけ『行ッテ』という惹句(じゃっく)が入っていないのは単なる書き忘れなのではないか」―。NHKEテレで6月29日に放映された「こころの時代シリーズ『宮沢賢治―久遠の宇宙に生きる』」について、賢治の弟清六さんの孫にあたる宮沢和樹さんがこんな趣旨を語っているのを聞き、強い違和感を覚えた。かつて、同じ詩をめぐって、「ヒドリ(日取り)かヒデリ(日照り)か」という論争があり、後段の「サムサノナツ」(冷害)に対称させる意味では「ヒデリ」(干ばつ)の方がふさわしいという理由で、教科書などでは原文にあった「ヒドリ」は誤記とされ、「ヒデリ」に変更された経緯があった。
こうした“語呂合わせ”みたいな賢治解釈に私は不満を抱き続けてきたが、今回、米国出身の詩人で翻訳家のアーサー・ビナードさんがこの「行ッテ」論について、“距離感”の観点から新しい解釈をしていることを知った。ビナードさんは以下のように語っている。
「東・西・南の『病気』『看病』『死』は、人間の力ではどうしようもない、寄り添うべき『不可抗力の苦しみ』であるため、すぐに駆けつける必要がある。一方で、北の喧嘩や訴訟は、人間が自分勝手なエゴで自ら作り出している『くだらない争い』である。だからこそ、わざわざこちらからその争いの渦中に首を突っ込んで『行ッテ』あげる必要などない。遠くから一喝して『つまらないからやめろ』と言えば十分なのだ」―
ビナードさんの「行ッテ」論にうなづきながら、私は唐突にある裁判闘争のことを思い出していた。東日本大震災(3・11)で児童74人(うち、行方不明4人)と教師10人の命が奪われた大川小学校(石巻市)の旧校舎はいま、震災遺構として現状保存されている。その山際に面した野外ステ-ジには「未来を拓く」(校歌のタイトル)というスロ-ガンを掲げた巨大な壁画が張りめぐらされ、一角には宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」の一節や銀河鉄道が宇宙を飛ぶ光景が描かれている。
ドキュメンタリ-映画「生きる」(寺田和弘監督、2022年)は23人の遺族(19家族)が石巻市と宮城県を相手取った「国家賠償」訴訟の記録である。2019年10月、最高裁は上告を棄却し、学校側や市教委が避難訓練を怠るなどした「平時からの組織的過失」を認めた仙台高裁判決が確定した。
「北ニケンクヮヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ」―。裁判を担当した吉岡和弘弁護士はあえてこの一節を引用し、パンフレットの中でこう語っている。「日本社会には今なお、『裁判などはしてはならない』という法意識が通奏低音のように国民の身体に染みついている。一方、我が国の行政組織内には『行政は誤りを犯さない。犯してはならない』という行政無謬性(むびゅうせい)論がはびこる。官側に立つ者らはそうした無言の圧力に押されるように『ミスは犯していない』と言い張り、『真実を知りたい』と願う遺族たちと衝突する」―
「ツマラナイカラヤメロ」という賢治のメッセージに抗する形で遺族たちが裁判を起こした背景には「真実を明かそうとしない」官側への止むにやまれぬ気持があったのだと思う。だからこそ、賢治は「ツマラナイ」争いごとは互いにとことん話し合って解決することの大切さを訴えたのではないのか。「全世界に行って、福音を宣(の)べ伝えなさい」(新約聖書「福音書」)―。イエス・キリストが弟子たちに命じた「大宣教命令」にはこう書かれていると、知人が教えてくれた。カソリック教徒でもあるビアードさんが「行ッテ」にこだわる理由がやっと、分かったような気がした。
《雨ニモマケズ》「一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ」体験セット―。花巻市のふるさとの納税には「賢治」にちなんだこんな返礼品がずらりと並んでいる。まるで、賢治“利権”のオンパレードではないか。「世界平和」を願う詩「雨ニモマケズ」の受難劇に終わりは見えそうにない。生誕130年の今年こそ、賢治の「懊悩」(おうのう)に分け入ってみたいと思う。
(写真は旧大川小学校の巨大壁画。「雨ニモマケズ」の冒頭の雨と風は津波によって、削り取られている=インターネット上に公開の写真から)



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