新図書館“悲話”…最高学府の中の最高学部―東大法学部コンビが「イーハトーブ」を破壊した元凶だった!!!???

  • 新図書館“悲話”…最高学府の中の最高学部―東大法学部コンビが「イーハトーブ」を破壊した元凶だった!!!???

 

 「私はやはりJRの駅前構想というのが市民にとっては突然という形で、市長から発表 され、そのあたりからですね、非常に混乱してきたということですので、首長も含めてですが、政治としての議会も含めて、私は非常に極めてその責任は重いと思っていると言わざるを得ないです。ですので、議会でこれをしっかり透明な場所で議論をして、最終的に良い合意形成をしてほしいと思います。かつ市長と議会が今、なぜここなのか、どういうプロセスを経てここなのか。やはり市民の前に出て自分の言葉で説明をしていただきたいと思います。そうしていただくということ、そしてその市民の理解を得ていただくということを前提条件として私自身は決議をしたいと思います」(会議録から、要旨)―

 

 5月19日に開催された「教育委員会議」(佐藤勝教育長ら委員6人)で、新花巻図書館の「実施基本計画」を最終的に決定した席上、委員のひとりの役重真喜子・岩手県立大学総合政策学部准教授が「駅前立地」をめぐって、こう発言。他の委員も同意した。一見、市民に寄り添うような発言内容に目を引かれたが、「待てよ」と何度か反芻(はんすう)した。当ブログ(5月5日付と同11日付)でも指摘してきたが、「補助執行」という図書館“行政”の闇の部分がこの「役重」発言によって、あぶりだされたように思ったからである。

 

 教育部門の補助執行については「花巻市教育委員会の権限に属する事務の補助執行に関する規則」(平成19年3月)で定められている。その中で、補助執行させる事務は「花巻市立図書館に関すること。花巻市立図書館協議会に関すること」で、担当職員は「生涯学習部長、新花巻図書館計画室の職員及び図書館の職員」に限定され、予算執行を除く市長の関与は排除されている。つまり、図書館を所管するのは本来教育委員会であり、首長部局が図書館部門に関わることができるのは「補助執行」に限定され、それに伴う関連事務も教育委員会の監視下で行われなければならないということである。

 

 ところが、「役重」発言を見る限り、そうした主体的な立ち位置はほとんど感じられないどころか、逆に首長部局の“暴走”ぶりや議会側の機能不全に批判の矛先を向けているように思える。行政学者の肩書を持つこの人が「補助執行」という地方自治のイロハを知らないはずはないと思うだけにナゾは深まるばかりである。

 

 役重さんは東大法学部を卒業後、国家公務員第1種試験にトップ合格し、農林水産省に入省。その後、研修先の魅力にひかれて合併前の旧東和町役場に就職。同町教育次長、合併後は花巻市まちづくり部地域づくり課長、総務課長などを務め、2012年に退官した。農村風景をコミカルに描いた自著『ヨメより先に牛(ベコ)がきた』(家の光協会、2000年4月)は「はみ出しキャリア奮戦記」として、話題を呼んだ。上田東一市長が就任した2014年から市教育委員会委員を務め、現在に至っている。役重さんは前記の会議でこうも発言している。

 

 「最終的な意思決定するのは議会ですので、それを大前提としてお話をしていますが、市としては議会に判断をしていただく行政の専門性、専門家としての案を出さなければいけないことですよね。今回、計画としてお出しするというときに、その市民会議の対話による議論を重視した、重視するということについては、問題ないと私は思っています。しか し、それによって市が決めました。ということは、適切ではないと思います。図書館としてのその専門性の見識を市としてもたくさん今まで積み重ねてきたはずです。 そういったものを総合的に市として、こういう理由で判断しました。と言うのでなければ、市民会議の方たちもちょっと自分たちが結論出したみたいになりかねないですし、市としての専門家集団としての責任ということとも、少し違うような気がします」(会議録から、要旨)

 

 学者の“正論”としてはうなずけるが、教育行政に長く携わってきた立場の発言としては余りにも他人行儀ではないか。「図書館とはこうあるべき」という専門的な見地からのコミットがほとんど、感じられない。まるで「丸投げ」の体(てい)である。一方、議会側が「機能不全」に陥っているという指摘については、その門外漢的な姿勢はさておき、二元代表制が危機的な状況に陥っていることに対する警鐘だと受け止めておきたい。

 

 一方、同じ東大法学部出身の上田市長は首長部局と図書館とのかかわりについて、地方自治法(第147条、第148条及び第154条)などを根拠にこう答弁している。「普通地方公共団体の長は当該普通地方公共団体を統轄し、これを代表する。普通地方公共団体の事務を管理し及びこれを執行するなど広範な権限を与えられており、同法154条において生涯学習部職員を含む職員の指揮監督権限を与えられている」(令和3年6月市議会定例会「会議録」から。要旨)―。つまり、「補助執行」を度外視する形で、新図書館の「整備基本計画」に直接関与することの正当性を強調する内容になっている。一体、当市の図書館“行政”の中で何が起きていたのか。

 

 「役重」発言については、6月2日開催の市議会6月定例会の一般質問で、本舘憲一議員(はなまき市民クラブ)が取り上げた。これに対し、佐藤教育長は「当局と議会側がしっかり、議論してほしい」というメッセージとして受け止めたとし、一方の上田市長は「大衆団交のような形でなければ、市民の前で説明することはやぶさかではない」と答えるに止まった。

 

 「教育委員会」制度について、文部科学省はHP上でこう位置付けている。「行政委員会の一つとして、独立した機関を置き、教育行政を担当させることにより、首長への権限の集中を防止し、中立的・専門的な行政運営を担保すること」―。この大原則がことごとく踏みにじられたのが、新花巻図書館の“迷走劇”の実態だったのである。生涯教育の「原点」でもある図書館問題が首長部局と教育部局の間の“密室”ゲームに終始したことのツケは計り知れないほど大きい。

 

 最高学府の最高学部で「法律」の大切さを学んだはずの当の本人たちが「コンプライアンス」(法令遵守)を蹂躙(じゅうりん)していた―。私たち市民はいま、まるで“悪夢”でも見せつけられるような残酷な現実の前に立たされている。考えて見れば、「新花巻図書館」号は発車する以前にすでに“脱輪”状態にあったということである。その犠牲者は納税者たる市民に他ならない。

 

 

 

 

 

(写真は当時、話題をさらった役重さんの奮戦記=インターネット上に公開の写真から)

 

 

 

≪追記≫~「サイレント・マジョリティ」VS.「ノイジー・マイノリティ」!!!???

 

 

 「多くのサイレント・マジョリティーが我慢を強いられているということにもなりかねないと思っています」―。当ブログで取り上げた「役重」発言にこんなくだりがあります。上田市長、あなたはこの発言を引き取る形で、たとえば、「声の大きい人」をイメージする言葉として「ノイジー・マイノリティ」という表現を口にしていました。そのひとりを自認する私の体験談を伝えておきましょう。

 

 いまから65年前の昭和35(1960)年、日本では日米安保条約の改定に反対する「60年安保」の嵐が吹き荒れていました。そんなさ中、当時の岸信介首相は「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつもの通りだ。私には“声なき声”が聞こえる」として、改定を強行しました。今日のあなたの発言が当時の岸発言と違和感なく重なりました。あなたの先輩である東大生の樺美智子さんが機動隊とのもみ合いで死亡した時、私はすぐそばにいました。

 

 亡霊のような「ノイジー・マイノリティ」(声高な少数者)がいまなお、あなたの中に息づいていることにゾッとしました。いや、「サイレント・マジョリティ」(声なき声)こそが権力者が自分に都合が良いように操る際の常とう手段なのかもしれませんね。たとえば、岸元首相の孫に当たる安倍晋三元首相が生前の選挙演説の際、「こんな人たち(ノイジー・マイノリティ)に、私たちは負けるわけにはいかないんです」と語ったように…

 

 

 

 

 

2025.06.02:masuko:[ヒカリノミチ通信について]

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