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「百年の計」という時間軸…「狂気」と「正気」の狭間にて

  • 「百年の計」という時間軸…「狂気」と「正気」の狭間にて

 

 monumentum aere perennius」というラテン語が裏表紙に記してある。「青銅よりも永遠なる記念碑」という意味だという。迷走を続ける「新花巻図書館」問題を考え続けるなか、絶えず頭を離れなかったのが「百年の計」という時間軸のことである。そんな折しもまるで天の啓示みたいな形でめぐり合ったのがずばり『100年かけてやる仕事―中世ラテン語の辞書を編む』(小倉孝保著、プレジデント社)。英国が準国家プロジェクトとして100年をかけて完成させた『英国古文献における中世ラテン語辞書』の誕生の物語を追ったドキュメンタリ-である。

 

 「自分たちの生きている時代に完成しそうもない、つまり自分たちが使うあてもない辞書をつくることになぜ、それほど精力を傾けたのか」―。著者は執筆の動機をこう書いている。この事業がスタ-トしたのは第1次大戦が始まる前年の1913年で、完成したのは2013年。ひと口に「100年」といわれてもその時間軸はピンとこない。著者は新聞記者らしい感覚でその時空間をこんな風に説明する。「日露戦争前に辞書の必要性が叫ばれ、徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜が亡くなった大正2年にプロジェクトが始動。そして、第一次、第二次大戦、戦後の混乱と経済復興、バブル経済とその崩壊を経て初めて辞書が完成している」―。それにしても、この気の遠くなるような「世紀をまたぐ」事業を支えた心意気とは一体、何だったのか。

 

 「英国では中世、公文書や教会の文書、そして研究発表はすべて中世ラテン語で書かれていました。そうした文書を現代人が正しく理解するには完全な辞書が必要です。中世ラテン語の辞書なくして英国の古文書は一つも理解できません。近代に入っても書き言葉としてラテン語は広く使われ、ニュ-トンが万有引力の法則を発表したときのレポ-トを理解するにも辞書が必要です」―。オックスフォ-ド大学でラテン語を教えるリチャ-ド・アシュダウンは本書の中でこう語っている。また、第二代編集長を務めたデビッド・ハウレットは辞書つくりの醍醐味を「ハチ」にたとえて言う。「辞書編集はハチが花の上を飛ぶのに似ています。こっちの文献をのぞいたら、次は別の文献を探ります。図書館が森、書棚が樹木、文献が花だとすれば編集者はハチです」

 

 意外な登場人物だったが、米国生まれの詩人で俳人でもあるア-サ-・ビナ-ドさんがインタビュ-の中でこんなことを口にしている。「アイヌ語が滅びてしまったとき、日本語がわからなくなる。英語の源流がアングロ・サクソンの民族語とラテン語にあるのと同じように、日本語にはアイヌ語が影響しています。カミはアイヌ語でカムイでしょう」―。ハタと心づいた。「辞書つくりとは、言葉の背後に堆積した記憶の古層を掘り起こす発掘作業ではないか」―と。

 

 ちなみに私の手元にも数冊のアイヌ語辞典が常備してある。試しに「津波」を引いてみる。『萱野茂のアイヌ語辞典』によれば、「津波」はアイヌ語で「オレプンペ」(o-rep-un-pe)と表記される。語源分析をすれば、「オ=それ、レプ=沖、ウン=住む、ペ=者」となり、アイヌ民族にとっての津波とは「沖に住んでいて、しばしば陸地にやって来るもの」という共通認識があった。一方、日本語の解釈では「津」には船着き場や港などの意味があり、文字通り港を襲う波だから「津波」と名づけられた。森羅万象(自然)をカムイ(神)として敬うアイヌの精神世界では「津波」は抗(あらが)えない自然現象として、そのことを言葉に刻印して後世に伝えたのだと思う。日本語にしても「津波」よりは「海嘯」(かいしょう)という古語の方が自然の脅威が伝わってくる。

 

 ところで、米国映画「博士と狂人」(P・Bシェムラン監督、2019年)は、初版の発行まで70年の歳月を費やした世界最高峰の『オックスフォ-ド英語大辞典』(OED)の誕生秘話(実話)を描いた作品である。原作はベストセラ-となったサイモン・ウインチェスタ-の同名のノンフィクションで、メル・ギブソンとショ-ン・ペンが初共演して話題を呼んだ。貧しい家庭に生まれ、学士号を持たない異端の学者(ギブソン)。エリ-トでありながら、精神を病んだアメリカ人の元軍医で殺人犯(ペン)。この2人の天才が辞典つくりという壮大なロマンを共有し、固い絆で結ばれていく…

 

 「ワ-ドハンタ-」(言語採取者)―。こうした英国の辞書プロジェクトの背後には古典から言葉を探し出す無数のボランティアたちの姿があった。ある日、精神病院から大量の語彙カ-ドがギブソンの手元に届けられる。罪への贖罪(しょくざい)からなのだろうか、それはワ-ドハンタ-の鬼と化したペンからのものだった。犯罪者が大英帝国の威信をかけた辞書つくりに協力していることが明るみとなり、時の内務大臣ウィンストン・チャ-チルや王室をも巻き込んだ事態へと発展してしまう…。こんな手に汗を握る展開に私は「百年の計」とはある意味で”狂気”のなせる業(わざ)ではないかとさえ思った。

 

 「いまの時点で将来に向けた過大な計画を策定すること自体が逆に『絵に描いたモチ』になる」―。花巻市議会の6月定例会で「Mr.PO」(上田東一市長)はまちのグランドデザインを問われたのに対し、こう答えた。るる紹介してきた「夢の辞書つくり」とは真逆の発想である。辞書つくりが百年の計であるとするならば、それを収蔵する「図書館」はそれ以上の時間をかけても一向におかしくない。将来の遺産とはいつの時代でも、そうした世代を超えたリレ-が生み出すものである。残念ながら、Mr.POにはそのどちらの資格もない。つまり、このご仁には「狂気」どころか「正気」さえも感じられないということである。

 

 

 

(写真は映画「博士と狂人」のポスタ-。左がギブソン=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

《追記》~危機に瀕する先住民の言語

 

 7月7日付「朝日新聞」に「よみがえれ/豪州先住民の言語」と題する特集記事が掲載され、先住民(アボリジナルピ-プル)の言語復活の努力が紹介された。参考までにその一部を以下に転載する。中世ラテン語の辞書編纂に国を挙げて取り組んだ英国がかつて、自国の植民地下にあった豪州先住民の言語を奪う立場にあったという歴史の皮肉を肝に銘じておきたい。

 

 

 豪州では6万5千年前から先住民が暮らす。250以上の言語が話されていたとされるが、18世紀後半以降の入植の過程で多くが失われた。政府の昨年の報告書は、現状で1千人超が話す言語は20だけだとする。すべての世代が第1言語として話しているのは、12言語にすぎない。一方で、ガーナ語など復活の動きがある10の言語を紹介している。

 

 政府は20~21年に各地の取り組みに計2千万豪ドル(約17億円)を助成した。メルボルン大のレイチェル・ノードリンガー教授(言語学)は「言語が失われることは、先住民の知識や文化の一部が失われることでもある」と指摘。ユネスコ国連教育科学文化機関)によると、世界にある6700言語の40%が消失の危機にある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「Mr.PO」の思想と行動(10=完)…結局は「権力と無駄」との相関関係を証明しただけの「終わった人」~ところで、「まん福」跡地に新図書館ってのは!?

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《前 編》

 

 ののしり合いに終始した花巻市議会の「6月(バトル)定例会」は7月1日、15日間にわたった会期の幕を閉じた。最終日のこの日、久しぶりに傍聴席から「兵(つわもの)どもが夢の跡」と化した議場を見下ろしてみた。一方の主役…「Mr.PO」(上田東一市長)の疲れ切った表情が目に飛び込んできた。心底、思った。「この人はもう、終わった人だな」と…。その一方で、議会制民主主義(二元代表制)の崩壊の危機をすんでのところで回避した一部を除いた議員諸賢の奮闘には、これまでそうではなかった分の“名誉回復”を含めて拍手を送りたいと思った。

 

 「当市はもう、JRから信用されていない。話し合いができる状況ではない」―。一般質問のやり取りの中で、顔を引きつらせながらヒステリックに叫ぶMr.POの姿に一瞬、その意味を解しかねた。自ら手掛けた2大プロジェクト―「新花巻図書館」と「JR花巻駅の東西自由通路(駅橋上化)」の整備計画がともに議会側の反対でとん挫したことに対する“逆恨み”が根底にあるようだった。「当り前じゃないですか。こっちは相手側とコンセンサスを得ようと頑張っている。それが(議会側の)反対でダメになる。これじゃ、前に進めない」…。いやはや、と思った。「このご仁は首長の立場をどこかの企業のトップと勘違いしているのではないか。いや、企業にもちゃんと、株主総会というものはある」

 

 「1・29」事変と私が名づけたあの“青天の霹靂”(へきれき)をもうすっかり、忘れてしまっているようである。あるいは忘れたふりをしているのかもしれない。2020年1月29日、ある昵懇(じっこん)のコンサルタントと密室で練り上げた「新花巻図書館複合施設整備事業構想」なる代物が突然、天から降ってきた。いまでは“上田私案”と呼び慣らわされる「住宅付き図書館」の駅前立地構想で、「Mr.PO」vs「市議会」の“イ-ハト-ブ戦争”勃発の契機になった事件である。「住宅付き」部分の白紙撤回、駅橋上化をめぐる集団“やらせ要請”などの経緯については当ブログに収録した「イ-ハト-ブ歌舞伎『青天の霹靂』」もう一度お読みいただきたい。

 

 「間接民主主義は憲法で保障されている、大切な議会運営の基本」―。一般質問最終日の6月23日、Mr.POに対する議会側の“引導渡し”かと思いきや、発言の主は何とそのご本人だったというブラックユ-モアも顔負けのお粗末が演じられた。耳を疑うどころか、耳朶(じだ)が壊れたのではないとさえ思った。そういえば、このご仁の発言は「1・29」事変で議会側にケンカを売ったあたりから、まるで思考回路がメルトダウン(炉心溶融)したみたいに迷走状態を繰り返してきた。「憲法で保障?…。それを踏みにじってきたのは一体、誰だったのか。あんたにだけは言ってほしくはない」―。インタ-ネットの議会中継でこの茶番を見せつけられた私は思わず、パソコンに向かって毒づいていた。

 

 

《後 編》

 

 最終日の本会議終了後、急きょ議員説明会があることを知った。議題は「旧料亭・まん福」の経緯について―。現職市議時代からの懸案で、その後の経過が気になっていたので傍聴した。この老舗料亭は1935(昭和10年)に開業され、戦後長きにわたって、花柳界の隆盛を支えてきた。64畳にも及ぶ大広間の天井には樹齢2千年を超すとも言われる屋久杉の樹皮が使われ、床の間や柱には黒檀(こくたん)や紫檀(したん)などの銘木がふんだんに施されていた。ここで結婚式を挙げたという市民も多く、一方で“料亭政治”の舞台としても利用されるなど当市のシンボル的な存在だった。しかし、近年の料亭離れで経営が悪化。市側が8年前、土地代金として5800万円を支払い、建物は無償で譲り受けた。

 

 この日の説明会で市側は「建物や跡地の利活用について、民間資金の導入などを検討してきたが、条件が見合う引き合いがなかった」として、この種の市場調査は今後、行わない方針を固め、今年12月末完了をメドに解体撤去することになった。また、旧料亭内あった花巻ゆかりの画家の作品など65点は市博物館へ収蔵し、床の間や石灯篭など再利用が可能な工芸品15点は公売に付すことになった。今回の建物撤去に伴い、更地になる総面積はざっと、3840平方㍍にのぼる。〝塩漬け“状態になっている旧新興製作所跡地(花巻城址)を除き、市の中心部にこれだけ広大な空き地は他に見当たらない。つけ加えると、私自身は花巻城址の「旧東公園」跡地こそが、新図書館の立地にふさわしいと事あるごとに訴えてきたが、Mr.POの”失政”のあおりを受けて、日の目を見ることなく現在に至っている。

 

 「開けてびっくり、玉手箱」―。説明を聞いているうちにこの高台の一等地こそが新花巻図書館の立地最適地ではないかとふと、ひらめいた。Mr.POが全国で3番目と胸を張る「花巻市立地適正化計画」の都市機能誘導区域に位置するこの地以外にどこがあろうか…。背中を押されるような気持で、説明会の帰途、久しぶりに「旧まん福」界隈(上町、吹張町、鍛治町、末広町など)を散策してみた。最近まで近くにあったはずの岩手銀行鍛治町支店の建物はすでに撤去され、見通しがずいぶんと良くなっている。隣接する高台にまだ残る旧料亭の古風な建物が風雅なたたずまいをあたりに漂わせていた。小学生の時、友達と誘い合って通った銭湯「末広湯」はレンガづくりの煙突や男湯と女湯の文字がかすれながらも当時のまま残っていた。東北本線のガ-ドを汽車がガタゴト音をたてながら通り過ぎた。往時の商店街の賑わいが目の前に去来するような、そんな錯覚に陥った。

 

 「市有地だから、JRなど厄介な相手とも交渉しなくてすむ。Mr.POがお題目みたいに唱える中心市街地活性化にうってつけの場所ではないか。(新図書館の)建設予定地の選定が難航する中、この地こそが天からの授かりもの。真の意味の〝青天の霹靂“とはこのことではないか」―。ブラブラ歩き続けているうちに、夢がどんどんと広がった。私たちはどうしてこんなに回り道をしてしまったのか…

 

 封切直後に観た映画『終わった人』(中田秀夫監督)のシ-ンが突然、二重写しのようにまぶたによみがえった。原作は作家、内館牧子の同名の長編小説。岩手日報など地方紙8紙に2014年6月9日から連載。加筆を経て2015年9月17日に講談社から刊行。仕事一筋で定年を迎えた東大卒のエリ-ト銀行マンの定年後の悲哀を描いた傑作である。2017年にラジオドラマ化、2018年に映画化された。主人公の定年後の人生行路はほぼ、Mr.POの首長時期と重なっている。「終わった人」には去ってもらうしかないが、「終わり」は「始まり」のゴ-サインでもある。この日の本会議で長年の懸案だった「花巻市民参画条例」の制定を求める陳情が全会一致で可決された。「イ-ハ-ト-ブはなまき」の潮目は確実に変わりつつある。

 

 

 

 

(写真は映画化された「終わった人」のポスタ-=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

<注>~コメント欄に旧料亭「まん福」の近影写真を掲載

 

 

 

 

《追記》~「権力と無駄は相関する」

 

 フランス文学者で思想家の内田樹さんがこんなタイトルの論考を『週刊金曜日』(7月2日号)に掲載している。まさに、「Mr.PO」の“思想と行動”を見透かすような、ドンピシャの内容にこっちがびっくり。以下にその要旨を転載させていただく。たとえば、この命題の典型例と言えるのが「住宅付き図書館」の駅前立地構想。WS(ワークショップ)におけるアンケート調査で、この構想に賛成した人はゼロ。こうした案件で賛否のいずれかがゼロというのは統計学上、あり得ないと言われる。ということは、そもそもこの構想自体が政策上の要件を満たしていなという意味で、「権力と無駄」の相関を見事に浮き彫りにした好例である。

 

 

 「組織がほんとうに上意下達的であるどうかを簡単に確かめる方法がある。それは『無意味なタスク』(仕事や作業などを指すビジネス用語)を下僚に命じることである。完全にトップダウンの組織であれば、その『無意味なタスク』は遅滞なく末端まで行き届く。だから、『無意味なタスク』を発令しておいて、それに黙々と従う部下を重用し、『これ、意味ないですよ』と突き返してくる部下を排除するという人事考課を10年ほど続けていれば、理想的にトップダウンな組織が完成する」

 

 「どのような有害無益な指示でも、誰一人疑義を呈したり、実行を止めようとする者がいない組織が出来上がる。すばらしく効率的な組織ではあるけれども、『無意味なタスク』について『これをやるのは時間と予算の無駄です』と言ってくれる人間がいなくなるので、結果的にその組織がする仕事のうち『ブルシット・ジョブ』(どうでもいい仕事)が占める割合は増え続ける」

 

 「自分がほんとうに下僚から畏怖されているかどうか知りたがる人間は(無意識的にだが)『無意味なタスク』を発令する傾向がある。自分が権力者として畏怖されていることを確認するためには、誰の利益にもならない『壮大な無駄』を命じて、それが実現するのを見ることだからである。それとは逆に、ボトムアップでものごとを決める民主的な組織では、合意形成には時間がかかる。それぞれ一家言ある人たちが自説を述べるので、なかなか話がまとまらない。その代わり、『誰の目にも無意味とわかるタスク』が採択されるリスクはきわめて低い」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

忙中閑―「学生時代」と図書館と…

  • 忙中閑―「学生時代」と図書館と…

 

 「つたの絡まるチャペルで祈りを捧げた日/夢多かりしあの頃の想い出をたどれば/懐しい友の顔が一人一人うかぶ/重いカバンを抱えて通ったあの道/秋の日の図書館のノ-トとインクの匂い/枯葉の散る窓辺 学生時代」(平岡精二作詞・作曲、1964年リリ-ス)―。ひとり酒のテレビから、ペギ-葉山が熱唱した懐かしい歌が聞こえてきた。思わず、唱和した。ハタと心づき、本棚の奥に眠っていた文庫本を取り出した。背表紙はボロボロになり、茶色に変色した行間に赤ペンの傍線がかすかに痕跡を残している。

 

 アンドレ・ジッドの『狭き門』―。「誤りと無知とによって作られた幸福など、私は欲しくない。 幸福は対抗の意識のうちにはなく、協調の意識のうちにある。 幸福になる秘訣は、快楽を得ようとひたすらに努力することではなく、努力そのもののうちに快楽を見出すことである」…。初恋の人にこの部分を丸写しにしたラブレタ-をそっと手渡したのも、そういえば図書館の本棚の陰だったな。真っすぐに顔を向けることさえできなくて、くびすを返すともう、一目散。60年以上も前の青春のひとこまが走馬灯のように流れていく。2番目の歌詞が流れてきた。

 

 「讃美歌を歌いながら清い死を夢みた/何んのよそおいもせずに口数も少なく/胸の中に秘めていた恋への憧れは/いつもはかなく破れて一人書いた日記/本棚に目をやればあの頃読んだ小説/過ぎし日よわたしの学生時代」―。結局はふられてしまったが、意を決して彼女を賢治命名の「イギリス海岸」(北上川)に誘ったことがあった。当時、私たち高校生の間では「北上夜曲」(菊池規作詞、安藤睦夫作曲)がデ-トの成否を占うキ-ワ-ドのひとつとされていた。「宵の灯(ともしび) 点(とも)すころ/心ほのかな 初恋を/想い出すのは 想い出すのは/北上河原の せせらぎよ」…。顔をほてらせながら、私は必死になって歌った。彼女はじっと聞いてくれていたようだったが、それっきり音信は途絶えてしまった。

 

 コロナ禍のうっとうしい日々、梅雨の合間を利用してイギリス海岸に足を運んだ。ふいに『方丈記』(鴨長明)のあの有名な一節が口元からもれた。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」―。81歳の老いぼれはこんな感慨に浸りながら、泡盛の晩酌をあおる。「死して生きるとは何ぞや。ワクチンにまですがって、生き延びようという我が性(さが)のわびしさよ」…などとボソボソとつぶやきながら。6月30日、2回目のワクチン接種。

 

 

 

(写真は悠久の流れという言葉がぴったりのイギリス海岸)

「Mr.PO」の思想と行動(9)…その強権支配の実態

  • 「Mr.PO」の思想と行動(9)…その強権支配の実態

 

 一方が脱輪しただけで、車が走行できなくなるように「Mr.PO」(上田東一市長)にとって「JR花巻駅の東西自由通路(駅橋上化)」と「新花巻図書館の駅前立地」がまさに“車の両輪”であることが開会中の花巻市議会6月定例会の質疑の中で鮮明になった。その両輪が現在、議会側の必死の抵抗によって、脱輪状態になっているということはある意味で「不幸中の幸い」ということもできる。それにしても「Mr.PO」はどうしてこうまで強引に事を進めようとしているのか。自らの失政を糊塗(こと)しようという意図はミエミエだが、その強権支配を支えているのは何か。たとえば、図書館問題について―

 

 「新花巻図書館の整備は本市にとって、きわめて重要な事業。この整備計画の決定の権限と責任は社会教育を所管する教育委員会にあるのではないか」―。伊藤盛幸議員(市民クラブ)が6月22日の一般質問でこうただした際、“伝家の宝刀”のように振りかざしたのが、いわゆる「補助執行」という取り決めだった。花巻市は平成19年3月、地方自治法(第180条の7)の規定に基づいて、「花巻市教育委員会の権限に属する事務の補助執行に関する規則」を制定。「花巻市教育委員会の権限に属する事務を市長部局の職員に補助執行させるに当たり、必要な事項を定めるものとする」とし、それまで所管していた花巻市立図書館や宮沢賢治記念館、花巻新渡戸記念館などの事務を首長部局の生涯学習部に移管した。しかし、決裁手続きの権利などは従前のまま、市教委側に残るとされた。

 

 その後、2019年(令和元年)5月の、いわゆる「第9次地方分権一括法」(「地域の自主性及び自立性を高めるための改革の推進を図るための関係法律の整備に関する法律」)の成立に伴い、社会教育法や図書館法などの関連法が改正され、「補助執行」の法的根拠については「地教行法」(「地方教育行政の組織及び運営に関する法律」)で、以下のように定められた。「地方公共団体は、条例の定めるところにより、当該地方公共団体の長が、教育に関する事務のいずれか又は全てを管理し、及び執行することとすることができる」(第23条1項)。この「教育に関する事務」には図書館のほか、博物館や公民館など社会教育に関する教育施設が含まれる。

 

 一方、文科省は法律制定に当たって「担保措置」を喚起する文書にこう記している。「教育委員会が所管する公立の図書館、博物館、公民館その他の社会教育に関する教育機関について、まちづくり、観光など他の行政分野との一体的な取組の推進等のために地方公共団体がより効果的と判断する場合には、社会教育の適切な実施の確保に関する一定の担保措置を講じた上で、条例により地方公共団体の長が所管することを可能とする」

 

 「(生涯学習部職員の指揮監督や図書館を含む教育財産の取得・処分、ならびに契約や予算執行などは)地方公共団体の長が事務を管理し、執行することになっている」―。「Mr.PO」は伊藤議員の質問に対し、法律の条文を早口で並べたてながら、まさに一刀両断の勢いで切って捨てた。ちょっと、待ってよと言いたい。こうした“暴走”に歯止めをかけるための「担保措置」の規定を知らないとは言わせない。たとえば、2年前の「第9次地方分権一括法」に際しては、「社会教育法」でこんな釘をさしている。「教育委員会は、事務の管理及び執行について、その職務に関して必要と認めるときは、当該特定地方公共団体の長に対し、意見を述べることができる」(第8条の3)。さらに、当時の文科省総合教育政策局長の「通知文書」の中にはこうある。

 

 「(図書館のような)当該機関が社会教育法、図書館法、博物館法等に基づく社会教育機関であることに変わりはなく、社会教育の政治的中立性、継続性、安定性の確保、地域住民の意向の反映、学校教育との連携等に留意するとともに、多様性にも配慮した社会教育が適切に実施されることが重要である。教育委員会には、総合教育会議等を積極的に活用しながら、首長部局やNPO等の多様な主体との連携・調整等を行い、社会教育の振興のけん引役としての積極的な役割を果たしていくことが求められる」(2019年9月26日発出)

 

 5月24日開催の「令和3年第6回花巻市教育委員会議定例会」で、市川清志・生涯学習部長が所管の図書館計画室が作成した「新花巻図書館整備基本計画(試案)」について「報告」した。佐藤勝教育長ら6人の委員が出席。内容に対する注文や疑問点が出されたが、文科省通知が求める“当事者”意識は皆無。「なにを今さら。犬の遠吠えではないか」とうつろな気持ちになった。「Mr.PO」の「パワハラ&ワンマン」とはひと言で言ってしまえば「独裁」ということである。その首に縄をかけるのは教育委員会、あなた方の出番ですよ。一般質問で別の議員が新花巻図書館のレファランス機能や学校図書との関係を問うた際も「Mr.PO」は議場に同席する佐藤教育長を差しおき、いけしゃあしゃあと答弁するという破廉恥(はれんち)ぶりを発揮していた。議会側も頑張っている。いまからでも遅くはない。

 

 

 

 

(写真は発言者も少なかった「第1回新花巻図書館整備基本計画」試案検討会議=4月26日、花巻市のなはんプラザで」

 

 

「Mr.PO」の思想と行動(8)…「橋上化」予算、“乱戦”模様の中で可決!?

  • 「Mr.PO」の思想と行動(8)…「橋上化」予算、“乱戦”模様の中で可決!?

 

 開会中の花巻市議会6月定例会は24日の議案審議で、“やらせ要請”の疑惑が晴れない中で再上程された「JR花巻駅東西自由通路(駅橋上化)」に関連する補正予算案を「附帯決議」を付すという条件つきで賛成多数で可決した。また、この日の質疑で駅橋上化の波及効果を問われたのに対し、鈴木之建設部長は「将来にわたる駅の乗車人員の増減などの予測調査はしていない」と発言。これまで橋上化に伴う利便性向上や市街地活性化などを強調してきた「Mr.PO」(上田東一市長)の説明と微妙に異なる見解を明らかにした。最前線の現場をあずかる管理職の発言は重く受け止めなければならず、図らずも「(いまの時点で将来に向けた過大な計画を策定すること自体が逆に)『絵に描いたモチ』になる」(23日付当ブログ参照)という「Mr.PO」の底意(そこい)を裏付ける結果になった。

 

 付帯決議では各種団体から整備要望が出され、市民の関心も高くなっていることを認めつつ、一方で「いまだ市民にとっては、花巻駅東西自由通路整備事業について、事業費や計画概要などで、不明な点があるとの声が寄せられている」として、①花巻駅利用者を含め、より多くの市民の意見聴取を図りながら、調査実施に努めること、②調査結果は速やかに市民や議会に公表し、事業実施の際は市民参画を図りながら進めること、③JR東日本との協議においては、応分の負担を強く求める等、事業費の圧縮に努めること―の3項目。

 

 再上程された関連予算の内訳は「花巻駅東西自由通路整備基本計画追加調査費」(1529万円)、「花巻駅東西駅前広場現況調査費」(869万円)、「土地鑑定評価業務費」(205万円)で、総額2603万円。3月定例会に上程されていったん否決された予算額と同額。なお、付帯決議に反対したのは8人(明和会=自民党系と無会派=公明党と無所属)で、“やらせ要請”を先導した議員が所属する会派(平和環境社民クラブ)の3人は賛成に回った。

 

 この日の質疑は休憩時間を含め、延々7時間近くに及んだ。ほとんどが「橋上化」」問題に集中し、時折、罵声が飛び交う緊張が続いた。一瞬40年以上も前、ハマコ-(故浜田幸一・自民党代議士)が“乱闘”国会で大立ち回りを演じた光景を思い出したが、お通夜みたいなこれまでの議案審議よりはるかに面白い。議場内の愁嘆場(しゅうたんば)の様子については追々、お伝えしたい。一方今回、予算措置した委託調査が完了するのは来年の令和4年6月になる見通しも明らかになった。「Mr.PO」の任期は同年2月4日、市議の任期は同7月31日となっており、行政の継続性や安定性の観点からは市民不在の“綱渡り”の年になりそう。一日も早く「二元代表制」の原点に戻って欲しいものである。

 

 

 

(写真は付帯決議の採決の瞬間。とりあえずの“休戦協定”のつもりか=6月24日午後、花巻市議会議場で。インタ-ネット中継の画面から)