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正福寺館(正福寺)長井市

7月12日『ぐるっと長井の館巡り』に参加。フラワー長井線”時庭駅”から”南長井駅”まで約4時間の散策コースで二番目の館が正福寺。寺の境内東側の民家・畑地が主郭内で、南西部に高さ3m程の土塁が残り、その西側の水田が堀跡とある・・残っている土塁は祠があったために現在も残ったと説明があった。

築城年代は定かでないが伊達氏の家臣である大町家継によって築かれた。家継は、伊達宗遠の置賜攻略に戦功があり、この地を与えられた。天文(1532~1555)年間には、館主の大町頼明が在城しており、天文の乱や鮎貝氏攻めで戦功をあげている。鮎貝氏攻めでは北の備えの要所でした。天文の乱(てんぶんのらん)とは、天文11~17(1542~1548)年の6年間、伊達氏当主・伊達稙宗と嫡男・晴宗父子間の内紛に伴って発生した一連の争乱で、洞の乱(うつろのらん)とも呼ぶ。この乱の後遺症の後始末がようやく終わったのは、晴宗の子・輝宗の代であった。その後、天正19(1591)年に、輝宗の子・政宗が米沢から葛西・大崎旧領に移封されることとなり、この天正19(1591)年を廃城とした。とある・・

2025.07.21:li-no3:コメント(0):[歴史探訪]

時庭館(正法寺)長井市

7月12日『ぐるっと長井の館巡り』に参加。フラワー長井線”時庭駅”から”南長井駅”まで約4時間の散策コースで最初の館は時庭館(ときにわだて)でした、時庭駅から15分くらいでした・・この大雄山正法寺の境内は室町時代に当地の土豪である阿久津氏が館を築いた場所で本堂背後には館の土塁が残されている、この高さが3.65mで長井市内の館の中では最も高いとある。(天正19年:1591年、主家である伊達政宗が米沢から岩出山城に移された際、阿久津氏も随行した為、時庭館も廃城になったと思われますとある。館主安久津あくつ氏は伊達家米沢御譜代ごふだいと称しているため、8代伊達宗遠むねとおが置賜を攻略し、全地域を掌握した1384年を少々下った時代に時庭館が築かれたものと考えられる。西側と北側一部に土塁が残る

2025.07.20:li-no3:コメント(0):[歴史探訪]

ぐるっと長井の館巡り(馬街道)

7月12日『ぐるっと長井の館巡り』に参加。フラワー長井線”時庭駅”から”南長井駅”まで約4時間の散策コースでした。後半・・馬街道の看板と記念碑がある場所と片倉庭園へ行く、片倉庭園は個人宅なので、了解を取っての立ち入りとのことです。

この馬街道、説明では、越後街道の小国十三峠道に通じる馬街道、小 出船場までの街道だったといわれています。 台町の旧多田家西端の追分おいわけ 石 記念碑から、片倉 文六家(屋号)の前を通り抜け、街中を抜ける道を 馬街道といいます。 石碑は台町が建立し、仲町裏(四ツ谷)にある伊 藤武男氏の記念碑とともに、馬街道の記憶を蘇ら せています。 町中へ通じる迂回路ができ、物を運ぶ馬や馬車などはもっぱらこの道を通り、いつの間にか、誰いうことなく「馬街道」と呼ばれるようになった。とある、沿道には茶店がたち、そばには水車が回っているという牧歌的な風景であったと・・いい風景ですよね・・そして片倉庭園・・見事な庭です、水路からはきれいな水が流れ、庭園の池にはいろんな魚が泳いでました・・

2025.07.17:li-no3:コメント(0):[歴史探訪]

立体水路(長井市)

7月12日(土 )伊達な城館ウオーク(ぐるっと長井の館めぐり)に参加してきた、フラワー長井線の時庭駅から南長井駅間を約4時間で歩く館と街巡り・・この長井市は山形県と福島県の県境にそびえる西吾妻山を源流とする最上川が流れ、長井盆地の中央部で置賜野川と合流する、その合流地点の南側に広がる長井の町場は、米沢と庄内地方や出羽三山を結ぶ街道沿いにあり、かつ越後へと向かう街道との結節点でもあったことから、古くから交通の要衝として重視されていました。この長井市は水路や小川が見られる水の街・豊富な水に恵まれてきたと同時に、大洪水などの災害が起こり、水の脅威にもさらされてきており、水への感謝と畏怖を象徴する水の神”黒獅子”も有名である・・立体交差の水路に板塀が残る裏道も風情がありますね・・水路には”バイカモ(梅花藻)”が見れます。湧水河川など、水質の良い水路に自生する水草とのこと、街中の水路で見られのはすごいことです・・生まれ育った川西町上小松殿原地区、小学の低学年までは水草が残る小川が家の前を流れていた・・蛍にイトトンボ、黒トンボ、ヤゴにヒルにいろんな魚が泳いでいた今ではコンクリートのブロック川となったが、ここ長井は小川が残っているのですね・・一枚目写真は2本の水路が上下で交差している、下の水路を流れているのが野呂川、上を横切るよう水路を流れているのが大樋川とのこと。くぼみから水があふれて野呂川に落ち込む。水路が立体的に行き交っていた。立体水路が、いつ、何のために造られたのかは文献がなく、はっきりとしたことは分からないが江戸時代の絵図に存在が確認されている・・

2025.07.14:li-no3:コメント(0):[歴史探訪]

旧横浜正金銀行(よこはましょうきんぎんこう)本店

横浜みなとみらいに出張があり、宿泊したすぐ前が、横浜を代表する歴史的建造物の一つ横浜正金銀行の本社がありました。

この建物は明治三十三年着工し、 明治三十七年に完成した石造三階建・・現在は神奈川県の所有になり、関東大震災で被災したドームを復原し、 一部増築および改修をして県立博物館に使用している・・明治三十年代における代表的洋風建築で、外観はよく保存されておりますね・・馬車道は国際的な雰囲気漂う洗練された通り、馬車道のデザインは当時の英国建築が基になっているので、赤レンガ造りの建物や歩道を見てロンドンやマンチェスターにいるように錯覚します・・後ろに移るビルは近代のビルですがなんのそっけもない高層ビル・・これもいつかは歴史的建造物といわれる時が来るのでしょうか?

2025.07.12:li-no3:コメント(0):[歴史探訪]