仙台発・大人の情報誌「りらく」は、私がほぼ毎月読む唯一の雑誌。
単に美味しいものやホットな話題を伝えるのではなく、携わっている「人」にフォーカスすることを基本としている点が面白いのです。
5月号は震災のため休刊となり、その分6月号を震災復興特集号と位置付け、「復興応援企画 元気でやってます! 困難を乗り越えて 一歩、また一歩」という特集が組まれました。
弊社が取り扱っているWINPROが編集者の目にとまり、お声がけいただいた次第です。
電気のない暗い数日間を体験した人ならおわかりですが、どこかにちょっとでも明るいところがあるとホッとするものです。
WINPROは、風力と太陽光のハイブリッド型発電です。
外部電源に頼ることなく、照明灯を1年間絶やすことなく灯し続ける頼もしい存在です。今回のような大規模停電の時などは、日中は携帯充電ステーションとして周辺住民に便宜を図ってあげることも可能です。
詳細をお知りになりたい方はこちらまでご連絡くださいませ。
info@iki-sangyo.co.jp 担当:長谷川嘉宏
仙台発・大人の情報誌 「りらく」 に掲載されました
ハモコミ通信2011年6月号「仕事はじぶんでつくるもの」・「残されたソース」
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コラムで見つけたちょっといい話 その5
最近これにばかり頼ってしまっていますが(苦笑)、ある小冊子でみつけたいい話をご紹介したいと思います。
■◇■ 仕事は自分でつくるもの ■◇■
今年、楽天イーグルスのコーチに就任した田淵幸一氏。野球人として力を発揮できたのは、ある恩師の一言がきっかけだといいます。
幼い頃から引っ込み思案だった田淵氏に、野球の楽しさを教えてくれたのは、小学校の担任でした。野球の面白さに目覚め、その後法政大学に進学。念願の野球部に入部しましたが、新人は球拾いが日課でバットすら振れませんでした。
それに嫌気がさした時、氏は「自分のやるべきことは自分でつくる」との恩師の言葉を思い出しました。バッティングキャッチャーを買って出たり、率先して下働きに徹する努力をした結果、ポジションを確保できたのです。
「やらされている」という気持ちでは、自分の成長はいつまでたっても望めません。自ら積極的にやるべきことを見つけて果敢に取り組むことが、仕事で成果を出す方法の一つです。
「自分がやる」との気概を持ち、与えられた仕事以上の働きを常に心がけていきたいものです。
■◇■ ■◇■ ■◇■
グルメ情報サイト(株)ぐるなびの滝久雄会長の若い頃からの信条は、「やらなければならないことは、やりたいことにしよう」だそうです。田淵氏の例とは少し意味合いは違いますが、いずれにしても前向きな姿勢で結果を残していきたいものですね。楽天ガンバレ!
■◇■ 残されたソース ■◇■
帝国ホテルの料理長を26年間努めた村上信夫氏は、厨房出身で重役になった唯一の人です。10代で厨房に入った3年間、氏の仕事は鍋磨きだけでした。
当時、氏と同じように何人もの少年が入って来ましたが、1年以内にはほとんどが辞めていきました。
その中で、氏は「日本一の鍋磨きになろう」と決意し、銅の鍋を自分の顔が映るくらいピカピカに磨き続けたのです。
やがてその働きぶりは、先輩たちの知るところとなりました。使用した鍋が返される時、普通はソースの味がわからないように洗剤が入れられてくるのですが、村上氏にだけは、ソースを残したまま返されてくるようになったそうです。
それは先輩たちの秘かな応援でした。村上氏はそれを舐めて隠し味を勉強し、一人前の料理人になることができたというのです。
頼まれごとは「試されごと」といいます。人からものを頼まれる際は、その受けっぷりから仕事ぶりまでが試されています。今置かれている状況を喜び、依頼された仕事を黙々とやり遂げましょう。人生を開く扉は目の前にあるのです。
■◇■ ■◇■ ■◇■
日本一の鍋磨き、そう決意した瞬間から、気合いと共に新しい視点が加わったことでしょう。日本一だとすれば、この程度ではいけない、こんなことでへこたれている場合じゃない、もっと工夫はできないか・・・。
一次避難所 & 二次避難所
何もなくなってしまった、という筆頭は陸前高田市ではないかと思います。あそこの何も無さはハンパじゃない。
閖上は子どもの頃、父に連れられて、毎週のように魚釣りに行った思い出の地。仙台ゾウ・プロジェクトとしても、ここで開催された「8時間耐久ママチャリレース」に2年連続参加したという縁があります。港朝市が好きで、砂丘から眺める海も好きで、何度も足を運んでいました。
だからどこにどんな建物があって、と、町の様子はほとんどわかっていたのです。それだけに、「・・・」。
今回は、お掃除志隊のメンバー10名で、この閖上から仙台空港の脇を抜け、山元町の一次避難所、青根温泉の二次避難所において、現場の生の声を伺うツアーとしました。
これまで石巻方面ばかりだったので、県南の実情も見るべきだ、と思ったのです。

<写真中央がW先生>
山元町は死者行方不明者数が約750人。町民数16700人だったわけですから、かなり大きな影響と言えるでしょう。
メンバーの知り合いW校長先生が総監督をしている山下中学校を訪れました。
この気さくなW先生。ご自身も自宅を失った避難民なのですが、とにかく明るい!
避難所の自治運営をじょうずに主導し、6月中旬には避難所解散、という町の方針に沿ってやるべきことをすべてやっているのです。この人に任せておけばバッチリ、そんな頼もしさを感じました。
すでに震災6ヵ月後となる9月11日のイベントの準備まで視野に入っており、やはりトップの人間性、リーダーシップ、その影響度は計り知れないものがあるなぁ、と感じました。

<写真右下が若女将Sさん>
次に訪れたのが青根温泉とだ家さん。
最近、ひょんなつながりから若女将Sさんがメンバー入り。
そんなこともあり、お邪魔させていただきました。
社長であるご主人の口から、リアルな実情が次から次と語られました。それはまさに現場ならではの声。震災対応の難しさを浮き彫りにしてくれるお話でした。そして、二次避難の人たちに何とか不便をかけずにもてなしたい、というホスピタリティが伝わってきました。
基本的には一次避難所の人も二次避難所の人も、はやく自宅に帰って元の生活をしたい、というのが本音のようです。
お掃除志隊 in 石巻3
震災から2カ月以上、気温25℃ともなると、ヘドロの臭い、かなりキビシイものがあります。
この日のお掃除志隊は18名。
大街道南という海にほど近いところのお宅のお掃除に取り組みました。
庭や駐車場を埋め尽くしていた瓦礫、床下と庭にたっぷりと積み重なったヘドロ。
取って運んで取って運んで・・・。
やりがい180%。お住まいの老夫婦、とても喜んでくれました。

この日は次なる活動の準備のため、旧雄勝町を訪れました。
南三陸町同様、鉄筋以外の建物はすべて瓦礫と化してました。
もう唖然です。
下の写真は雄勝支所。
3階の窓の上の部分、色が2層に分かれているのがわかるでしょうか?
この境まで津波があがった、ということです。
屋上に避難した人は、どんどん上がってくる様子に、「もう駄目だ」と恐怖に怯えていたそうです。
結局その日は屋上で一夜を過ごしたのですが、あまりの寒さに、ご老人5名がそのまま亡くなってしまったという悲しいお話を伺いました。

お掃除志隊 in 石巻2
5月4日の石巻お掃除志隊。
さすがにGWとあって、あちらこちらでボランティアさんがいっぱいでした。大型バスからお揃いのジャンパーで登場し、意気揚々と現場へ。どんな現場なのかな?
私たちも東京からの応援組を含め、総勢30名で4か所に分かれて作業しました。
今回の割り当ては、閉所恐怖症の私にはかなりハードルの高い床下作業! わずか50cm角の入口を見た瞬間、正直のところ「ああこりゃ無理だ」と思いました。

<東京から応援に来てくれた女性も床下で大活躍>
しかしそうも言っておれず、意を決して中へ。入るまでは恐怖でしたが、入ってしまえばなんとかなるものです。
床下表面のヘドロをスコップですくっては土のう袋へ詰める(これがかなり重たい!)。その重たい袋を匍匐(ほふく)前進しながら入口のほうに持っていく、まずはその繰り返し。
狭い中でのハード作業で汗だくです。カッパは泥まみれ。マスクの息がメガネを曇らせるので、メガネは使えません。
5名同時にもぐってまずはヘドロ取りが完了。一旦外に出たときの空気がおいしかったこと!
休憩も束の間、高圧洗浄機で床板の裏側や基礎柱にへばりついたヘドロを落とします。これをしっかりやらないと臭いが残ってしまうのです。
私の役割は投光器を持って洗浄機を当てる場所を明るくすることでした。投光器が重たくて、これまた結構しんどい作業でした。
そして仕上げは消石灰を床下前面に撒く作業。もうこの段階になると何でもできるぞ、っていう気分です。
普通なら素人がやるような作業ではないのですが、この非常事態、そんなことを言ってたらいつまでたっても片付けは進みません。
何しろそこに住んでいる人は他にもやることが山ほどあるのです。多少なりとも精神的に余裕のある我々が動かないことには前へ向かう気持ちも盛り上がっていかないことでしょう。
そんな使命感を感じつつ、まだまだしばらくお掃除志隊は続けていきます!
東京からボランティア参加してくれた人たちの感想、
「やはり画面からは想像できないことがたくさんあった」
「機会を見つけてまた来たい」
「ぜひ感じたことを周りに伝えたい」
ハモコミ通信2011年5月号「忘れ得ぬ人」・「正論」
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コラムで見つけた ちょっといい話 その4
今回もある小冊子より、コラムをご紹介します。
■◇■ 忘れ得ぬ人 ■◇■
人には人生の中で大事な日が存在します。大切な人がなくなった日、つまり「命日」が挙げられるでしょう。
人がこの世から去った日は、その人に対する恩と感謝を有する人にとっては、忘れ得ぬ日です。忘れられない日がある限り、そこに忘れられない人が存在するといえます。
故人の供養として、仏教では祥月命日を設けています。月ごとに故人を偲ぶ機会が設けられているのです。それはあたかも忘れ得ぬ人と互いに語り合う場といってもいいかもしれません。
生前に様々な形で影響を受けた人には、逝去してなお教えを請うことができます。今は亡き方々の姿を自分の目の前に置き、自分自身を律する糧とすることができるのです。
大切な人の思いに応える一生を貫くためにも、「あの人が今の自分を見たらどう思うだろうか」と自問自答をしていきたいものです。
■◇■ ■◇■ ■◇■
毎月決まった日に、原点に帰る、思いを新たにする、そんな日を作ることによって故人の思いがつながっていく。仏教の考え方、とてもしっくりきます。
■◇■ 正論 ■◇■
Y氏は路上喫煙禁止地区で喫煙している男性を目にしました。
人目を気にすることもなく、傍若無人にタバコを吸い続ける男性の態度に腹を立てたY氏。大きな声で「おいお前、タバコを消せよ!」と注意をしました。すると男性は不機嫌そうにタバコを投げ捨てたのです。
不快な思いを消せないY氏は、友人にその経緯を伝えました。すると友人からは「Y君の主張は正しいけれど、その言い方だと相手が気を悪くするのも分かるよ」という言葉が返ってきたのです。
友人の率直な意見に対してY氏は、注意した時の自分の言動と表情を思い起こしました。顔は強ばり、態度が高圧的になった自分に気づかされました。
自分は正しいことを言っているという思いから、〈相手を責める心が先行し、感情的になってしまった〉と、Y氏は反省しました。
「自分は正しい」は、時として「相手は間違っている」という責め心を呼びます。「正論」が相手を制する「制論」とならないよう、十分に留意したいものです。
■◇■ ■◇■ ■◇■
責め心。イソップ物語「北風と太陽」の北風を思い起こします。
お掃除志隊 in 石巻・東松島
「 動けば何かが変わる 」
仙台ゾウ・プロジェクト有志でお掃除志隊を結成。被災したメンバーの家族・親戚宅を中心に、ヘドロに漬かった家財道具の運び出しや、床下にたまったヘドロの汲み出しなどを毎週末行っています。これまで6回実施のうち4回参加してきました。よろしければHPをご覧ください。
この中で感じたのは、つながりの大切さです。一人ではできないことも、仲間が集まれば何でもできそうな気になり、そして動けば何かが変わります。途方に暮れそうな状況も、魔法のようにキレイになっていきます。
徳島AWAおんなあきんど塾は、バザーで得た収益金で宮城県からモノを仕入れ、復興市を行ってくれるそうです。こういうのがこれからうれしい支援ですね。
お掃除志隊 in 東松島2
本日のお掃除志隊は東松島市牛網地区。
海まで200mくらいという激しいところ。
周囲の家のほとんどが全壊という中にあって、H邸はしっかりと生き延びていました。
新しく立派な造りであることの他に、幸運に助けられました。
正面から来た大津波に対して、側面からの波が手前でぶつかって、勢いが分散したらしいのです。
ここでのお掃除ボランティアは、ゾウプロとしては3日目。
さすがにずいぶんきれいになりました。

庭で楽しそうに遊んでいた3兄妹。
震災などどこへやら、まさに希望の星です。
特に末娘のAちゃん。何度も何度も「おんちゃん達、うちをきれいにしてくれてありがとう!」と可愛い声で言ってくれ、何だかとってもうれしくて、涙が出そうでした。
お掃除志隊 in 東松島
先週の日曜日、仙台ゾウ・プロジェクト第2回目の「お掃除志隊」をおこなってきました。
東松島市とは、鳴瀬町と矢本町が合併してできた新しい市。
仙台から行くと、松島町の次、その先は石巻市です。
旧鳴瀬町は、野蒜海岸が海水浴場として親しまれていました。
ここは本当に壊滅。そしてほとんど手つかず。恐ろしい光景が広がっていました。
町場の小野地区が今回のお掃除志隊の活動場所1軒目。
このあたりは床上まで津波をかぶったものの、家が倒壊するほどではありませんでした。
今回16名の我が部隊。
午前中に終わるかな? というパッと見の見立てでしたが・・・。
結局、2㌧車満載で旧矢本町の震災廃棄物集積所を5往復することになりました。
写真は家電の山。
震災廃棄物も分別する日本のきめ細かさ。いいのか悪いのか?
可燃ごみ、畳・布団類、瓦礫、木材、金属・・・。いずれも圧倒されるほどの量でした。
人口4万人ちょっとの東松島市でもこれなんだなぁ!
通常の23年分と言われている宮城県の震災瓦礫。
その一つ一つは、ついこの間までそれぞれの家族で普通に使われていたもの。
思い出の詰まったものもたくさんあるでしょうに。
お年寄りだけ、女性だけの世帯では、本当に途方に暮れるしかないような状況がここにもそこにもあそこにも。
つながりを基にしたお掃除志隊の活動場所はまだまだたくさんあります。
お掃除志隊 in 石巻
仙台ゾウ・プロジェクト有志からなる「お掃除志隊」が結成され、
今後しばらくの間、土日を中心に沿岸部の被害の大きかった地域で活動予定です。
第1回が4月24日(日)。
20名が参加してくれました。
3か所を回ったのですが、場所によって被害の差がかなりありました。
駅周辺も1階はほとんど海水にやられています。
それまで普通に使われていた家具・家電品、そして思い出の品々が、
道路脇いたるところにうず高く積み上げられており、それはそれで悲しい光景でした。
さらに海寄りに行くと景色が一変。
特に石巻市門脇浦屋敷地区は惨憺たる光景でした。

ヘドロに漬かった家具や畳の重いこと。
半日がかりでようやく写真の程度にまで片付きました。
年より子どもだけでは途方に暮れるだけだったでしょう。
あまりに重く、あまりに臭く、あまりに悲しくて。
箪笥からはきれいな着物や帯なども出てきます。
ここで亡くなられたおばあさまのでした。
写真や映像からは伝わってこないのが臭い。
冷蔵庫や冷凍ストッカーは最悪です。
ヘドロも乾いていればまだましですが、濡れていると相当臭い!
結構重労働な1日でしたが、
参加したメンバーは心地よい疲れを感じながら、また参加したい! と意気込んでました。
今週末は東松島市へ行く予定です。
今、自分にできること
地域ネットワーカーを自称しているだけあって、こういう震災の時、全国の仲間たちからいろいろな支援物資が大量に届いたそうです。
それ自体そう珍しい話ではないのですが、Aさんの場合、その内容が独特です。
伊豆七島利島からは、山菜の王様シドケが10箱と同じく山菜のアシタバが1箱、沖縄伊江島からは島ラッキョウが3箱。
当然1人で食べきれる量ではありません。1人で分け切れる量でもありません。
勢い同じようにネットワークをたくさん持った人のところにまとめてハイ、という具合。
私のところにもお鉢が回ってきた、というわけです。
非常食だったり下着だったり、そういうのももちろんうれしいのですが、1ヶ月経過したこの時期には、こういうのもアリだな、と思いました。
というか、とってもうれしいものでした。
それは送り主の気持ちが想像できるから。
「自分たちにできることは何だろう? やっぱり自分たちが日ごろ精魂込めて作っているもので貢献しよう」
そんな感じだったのではなかったでしょうか?
さて、一昨年弊社の25周年記念事業として取り組んだ仙台ゾウ・プロジェクトは、
その後も活動の勢いを止めることなく、今でも100名以上の仲間たちが熱く活動中です。
『本物のゾウさんと子どもたちの直接のふれ愛』をテーマとした企画でしたが、
副産物として残った市民のボランティアネットワークがまさに宝です。
今、この仙台ゾウ・プロジェクトとして、震災復興支援プロジェクトに取り組んでいます。
大上段に構えることなく、できる範囲で身近な人の必要を満たしていこう、
というごくありふれた活動です。
ありふれてはいますが、地に足が付いている!
こういうのが地域にたくさんあればいい、そんな感じです。
震災後から今日までほぼ1ヶ月間のメールによる情報交換が750回。1日平均25通です!
最初はお互いの無事を確認し合うところからスタートし、空いているスーパー、食事のできるところ情報、ガソリンスタンドの待ち時間、これだけでも相当貴重でした。
1週間後には北海道から調達した大量物資によるメンバー内プチマルシェを開催。
モノが手に入る喜びに加え、顔を合わせた喜びを実感した1日となりました。
2週間後には南三陸町のメンバー家族への物資支援(「気持ちまでは流されなかったから」参照)。
その後、津波で家を流された人への物資調達、法的必要情報、アパート不動産情報、仕事の紹介、こんな時に勇気が出るいい言葉、気をつけるべきこと・・・。
100人もいると、弁護士から公認会計士、経営者、看護婦、県庁マン、保険関係、学校の先生、などなどその道のプロ集団です。
阪神淡路から学ぶことも多いのでしょうが、まったくあてはまらない部分も多いのです。
我々は我々の内側から、戸惑い間違えながらも、やはり内側から立ち上がるしかない、
そんな思いを感じています。