第三章 本契約後社員の動揺を土下座で鎮める

アドバイザリー契約から約九か月後の二〇〇二年年二月二十六日、私のM&Aは正式な本契約である「株式譲渡契約」を締結するに至りました。本契約の締結は京都に本社がある譲り受け側企業において予定されていましたので、私は前日から京都に宿泊することにしました。宿泊先は譲り受け側企業の配慮で、一流ホテルに私たち二人分の予約がされていました。

 

 本契約の調印には当初から私一人で臨む予定でいましたが、相手側は夫婦で宿泊するものと勘違いし、二人分のスイートルームを用意してくれたのです。私は今回のM&Aに対する妻の功績が評価されたものと推測し、あらためてスモールカンパニーにおける妻の功績の重要さを感じました。そして、買収監査以外は、すべてにわたって友好的にM&Aが進んだことを再認識したのです。

 

 大企業である譲り受け側企業に手配していただいた、私たち夫婦のためのスイートルームという好意に接して頭の下がる思いがし、あらためて売却先企業の偉大さを思いしらされたのでした。

 

 契約は譲り受け側企業の本社社長室で、私のアドバイザーである株式会社日本M&Aセンターを仲介会社として行われました。仲介会社の作成した契約書への捺印をもって契約書を交換するのですが、この契約も信頼関係とお互いの素性がはっきりしていないと、とんでもない過ちを犯すことにもなるのです。契約締結はしたものの、会社実印はまだ私の手元に残っています。契約締結後に実印の不正使用もできるわけです。さまざまな予防策は契約書に網羅されていますが、一時的にも相手を疑う気持ちになってもおかしくありません。

 

 また、肝心の譲渡代金は、契約当日に振り込まれるという予定だったのですが、M&Aの進展が早かったことと、相手側の経理の都合上、翌月支払いでの契約を了承することになりました。同業者で間違いのない会社とは重々承知しているのですが、契約にまで至って会社は売却したものの、本当に譲渡代金は支払われるのだろうかと、契約締結という祝福すべき状況にありながらも、様々なよからぬ思いが浮かんだりします。

 

 譲渡額は基本合意契約締結時に示された契約額に変更がなく、私自身の処遇は、契約時点において代表取締役を辞任し、取締役社長として決算時の三月末まで従事することになりました。さらに、八月末までは顧問の立場で、引き継ぎを行うことでも合意に至りました。また、譲渡額の一部を別途に積み立て、問題なく引き継ぎが終了した段階で残額を支払うといった、譲り受け側に配慮した契約項目もありました。

 

 私には会社を利用した私利私欲や不正はありませんでしたので、引き継ぎにおいてなんらかの問題が起きることは考えられません。しかし、友好的に企業譲渡を引き受けてくれた譲り受け側企業に対し、私は円滑に引き継ぎを行う使命がありました。譲り受け側企業が契約締結後に不安になることは、従業員の大量離脱や反乱はないだろうかということです。

 

 私の会社に労働組合などありませんでしたが、もしかしたら、労働組合との問題に嫌気がさして経営断念に至ったのではないかなどと、さまざまな悪い要素を想像するはずです。こういったことは、買収監査や企業精査ではわからないことであり、売却側の経営者の言葉を信頼するほかありません。

 

 本契約が終了すれば、譲渡側企業社員へのM&A発表が控えています。M&Aは秘密保持で始まり、秘密保持で終了するため、会社売却による経営者交替は突然社員に発表されることになるのです。

 

 社員への発表は、契約締結から十日後の三月八日の朝礼時と決まりました。社員発表には、仲介アドバイザー側二名、買収企業側から五名が来社し、まず私から状況説明を行い、アドバイザーからの説明、最後に買収企業側から新社長の紹介という形式で朝礼が進み、平穏無事に社員への発表を終了させることができました。

 

 そこにはざわめきや動揺もありませんでした。私の実践したM&Aは社員を一人も解雇することなく、社員の生計を維持継続する経営戦略であったからです。経営者は自らが経営者の座から離れると、社員が困惑するものと思っているかもしれません。しかし、社員も案外シビアなもので、経営者がだれであろうとあまり問題にしていないのかもしれません。解雇されることなく給与が保証され、さらには経営者の交替によって待遇改善が期待できるものであれば、社員はそれでよしとするのかもしれません。

 

 しかし、問題もありました。私が経営者の座を退き、譲り受け側企業から派遣された新社長のサポーターとしての立場に徹しようとしたため、社員に発表した後は自ら口だしするのを止め、「双頭の鷲の戒め」を貫こうとしたことが裏目に出てしまいました。

 

 私が急にリーダーシップを取ることを止め、社員への指導や管理に口だししなくなったことと、中間管理職の資質に問題があることが暴露されることで指示系統に乱れが生じ、ベテラン社員の退職騒ぎが起きるなど、少なからず社員の間にも動揺が見え隠れし始めたのです。

 

 この事態を収拾するため、ある日朝礼のときに、私は社員全員の前で工場の冷たいコンクリートに自らの額を押し当てて土下座をしました。この土下座にはさまざまな意味がこめられていましたが、口ではなくプライドを完全に捨てて、いままで社員に見せたことのない態度で、全社員に協力を要請したのです。プライドを捨て去って土下座をしている私の姿を見て、朝礼に参加していた妻の目に、涙が浮かんでいるのを見過すことはありませんでした。

 

 M&Aの舞台裏には、経営者にとってさまざまな波乱と忍耐があります。経営者には、M&Aの実務だけでは計り知れない対応が求められ、その引き継ぎは決して一筋縄ではいかないことも知っておいてほしいのです。

 

 しかし、波乱や忍耐は一時的なもので、その壁を乗り越えればハッピーリタイアメントという優雅な人生が待ち受けているのです。

 

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