老兵の半生(最大のピンチ)

平成13年、私還暦を迎え、操業して30年
工場も三期工事を終え、二人の息子も入社しており
これから、少し楽できるかなと思っていた矢先
その年も景況は悪く、設備受注の落ち込みで、売上げも
極端に落ちていました。
平成14年度何処もかしこも、リストラの嵐が吹き荒れ
バブルショックが、遅れてきた地方の中小企業に取っては
倒産、整理縮小の波をもろにかぶることと、相成ったわけで
私のところも、さすがに例外ではなく如何したら、
乗り切ることが出来るか、親友の税理士と幾度か
話し合いを重ね、運転資金の確保や経費圧縮、
投資効果のない出金は、すべてカット
私を初めとして、幹部社員の給料カット
交際費の全面カット、ロータリー等の会からの脱会、
削減できうる経費は、見得外聞を捨てて、行い
尚且つ過剰社員の、希望退職募集に踏み切ったのでした。
トップとしての、資質の脆弱さにこのときほど、悲しみを
覚えたことはありませんでした。
幸いにも、三、四名の社員の犠牲基、どうにか危機を
脱したわけですが、その後遺症を癒すには、又数年の
歳月が必要でした。その後
それでも、社内設備の確実な充実を図り、社員の数も増え
平均年齢も着実に若返り、設計部門の充実が、次の課題と
なって行ったのです。
そのころから、仕事内容も弱電から車関係の装置製作に
シフトを移行し、県外受注に営業の力を注いでいきました。
製作した装置の、多くはアメリカやトルコ、東南アジア
方面の日系企業の工場で、使われることが多くなり
契約書の勉強不足で、幾度も不利な契約をしてしまうことが
多々ありましたが、それも勉強、これも勉強の時代で
ありました。利益はちょぼちょぼで、ありましたが、
社員の心の中には、装置メーカーとしての誇りが
少しずつ芽生えはじめる様になり、それに伴い、設計から
組立、制御、据付までの一貫作業をすべて、自社の社員で
出来るようになっていきました。

・・つづく・・

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