最上義光歴史館

最上義光歴史館
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 最近、米国大統領が中国を訪問した際、米中二極体制(G2)により「西半球は米国のトランプ政権、東半球は中国の習近平政権」になると懸念されたり、一方では中露両国が連携して日本を牽制する動きがあるとされたり、日本のプレゼンスとやらは、なにやら危ういとのことですが、米・中・露に対峙できるだけの外交力とかまして軍事力とかなかなかに難しく、おまけに円の実質実効為替レートが最弱水準つまりは経済力も弱体化していて、一体どうしたらよいものかと。
 もっとも私ごときが天下国家を論じる立場にないことは十分承知してはおりますが、つらつら思うに、そう言えば戦国時代には、加持祈祷やら呪術とやらが盛んであったなと。もしかしたら、今の日本が頼れるのはこれくらいなのではと。たしか日本は神の国ではなかったかと。いざというときには神風も吹く、明日には明日の風が吹くということではなかったかと、あ、なんか違うかしらん。
 そこでまずは、戦国時代の呪術のお話でも。手元に最上義光研究の第一人者のひとりで中世宗教を専門とされる伊藤清郎山形大学名誉教授の「最上義光と宗教」(2002年)という論文がありまして、戦国時代の呪術についても言及されているので、これを引用しながら紹介いたします。
 論文では、戦国時代の呪術について「中世の合戦は呪術戦争といっても過言ではないことは、既に指摘されている。合戦の日時、合戦の開始時間、戦闘方法、方角、吉凶、野営や首実検における作法などほとんどが占いや呪術によって決められた。それを行うのが陣僧・軍師などであった。彼らは軍学・密教・修験・陰陽道・占星術・道教等に精通していなければならなかった。」とあります。
 また軍師については、「軍師の仕事は、吉日・悪日の取り決め、籤、気・雲気、夢占い、祈祷、観天望気、占星術、怪我や病気の治療、それに築城の際の助言(築城法)などであった。」とあり、「戦国大名と修験道との密接な関係は、今川氏・武田氏・上杉氏などの例からも、従来から指摘されていることである。」とあります。
 なにはともあれ有名なのは、武田信玄と上杉謙信との呪術合戦で、川中島の戦いでは、武田信玄と上杉謙信は互いに京都の高僧を招き、自陣の戦勝と相手を調伏する祈祷合戦を繰り広げたという記録が残っているそうです。そのようなときに使われる呪術が、密教の強力な調伏の法と言われる「転法輪法」で、主に戦場で敵を呪い、悪意や執着を打ち砕く目的で用いられました。密教寺院の高僧たちが、護摩木を焚きながら敵を調伏するための秘法を連日のように執り行ったといいますが、秘法ゆえ詳しくは明らかではありません。
 この武田信玄も上杉謙信も信仰していたのが「飯綱権現」で、信濃国の飯縄山に対する山岳信仰と仏教とが融合して生まれた神仏習合の神です。一般に白狐に乗り、剣と索(縄)を持った烏天狗の姿で表され、この飯綱権現が授けるという「飯綱法」は、狐や天狗を使役する強力な呪法と信じられていました。古くから修験道や戦勝の神として信仰を集め、術はのちに俗信と混ざり合い、忍者が用いる「忍術」の源流の一つになったとも言われています。飯綱権現の本地仏(本来の姿)は不動明王ですが、飯綱権現のマントラ(真言)は「オン・チラチラヤ・ソワカ」とのことです。
 ちなみに不動明王のマントラには、3種類の異なる長さのものがあり、小咒(しょうじゅ)の「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」、中咒(ちゅうじゅ)の「ノウマク サンマンダ バサラダン センダンマカロシャダ ソハタヤ ウンタラタ カンマン」は本咒ともされ、大咒(だいじゅ)の「ノウマク サラバタタギャテイビャク サラバボッケイビャク サラバタタラタ センダマカロシャダ ケンギャキギャキ サラバビギナン ウンタラタ カンマン」となると、すべての魔を焼き払い降伏させるだけでなく、あらゆる願いを叶える、と言われているそうです。
 さて、伊藤清郎先生の論文に戻ると「義光は中世人でもあり、顕密仏教・神祇信仰など、本地垂迹の宗教大系の中に暮らしていたことも事実である。」とあり、「義光が生まれる際に、真言宗の僧侶が百日の軍荼利夜叉の秘法を行ったところ、百日目の暁に城中の山王権現社の上空に羽黒山神が現れ、生まれくる子を加護すると告げた。」とのことです。
 また、「最上家の軍師として知られるのは、山名一吽軒とその弟子といわれる堀喜吽の二人である。」とあり、山名一吽軒については「今般軍士 (師)随一と相聞ゆ」と「上杉御年譜」に記録があり、堀喜吽については、最上義光の御伽衆の一人として千石の知行を与えられていたそうです。一方、「戦国大名のそばには、他に、陣僧・遊女・傀儡子などの呪術者もいたようであるが、最上家についてはよくわからない。」とあります。


(→裏館長日誌に続く)

最上家関係文書 展示状況


「親」の一字だけが書かれた「一字状」

 当館では現在、徳島里見家旧蔵「最上家関係文書」を特別公開しています。徳島市に在住する旧東根城主里見家の御子孫から昨年9月に山形市に寄贈された資料のうち、最上家関係文書6通が令和8年3月19日付で山形市指定有形文化財に指定されたことをうけて展示しているものです(8月30日まで)。その見所としてまずは、最上義光の花押でしょうか。実はこれまでの当館の所蔵品に、最上義光の花押のある文書がなかったのですが、今回、義光名の文書の全てに花押があり見比べることもできます。通常、花押がある文書というのは相手宛なので、手元には残りません。
 さて、里見家と最上家との関係ですが、最上家初代・斯波兼頼の孫・天童頼直の子が東根里見家初代・頼高です。また、東根里見家9代目・親宜(ちかよし)は、最上義光の四女・禧久姫(きくひめ)を娶っています。元和8年(1622)に最上家が国替えとなった際、親宜は徳島藩預かりになり、後に蜂須賀家の家臣となります。今回展示している文書の一つに、「親」の一字だけが書かれた文書の「一字状」があります。義光の子である最上家12代・家親が、自身の「親」の字を東根源右衛門尉に与えるとする文書です。これにより源右衛門尉は名を親宜と改めます。東根里見家9代目・親宜です。
 このように主君が配下の武将や家臣に対して、自身の名前の一字を与えて名乗らせることを「一字拝領」または「偏諱(へんき)授与」と言います。ちなみに最上家親も、かつて徳川家康に仕えていたことから、元服の際、家康から「家」の一字を拝領し、義親から家親へと名を改めています。さらに言えば、その父・最上義光の「義」は室町幕府の第13代将軍・足利義輝から一字拝領したものです。
 この足利家と最上家の関係ですが、最上家初代は斯波兼頼で、後に地名である最上を名乗りますが、斯波家と足利家と言うと、歴史に詳しい方ならピンとくるかと。斯波氏は、室町幕府において細川氏や畠山氏と並ぶ「三管領」の一つを務め、越前や尾張など複数の守護を兼任した家系です。斯波家の家格は将軍家に次ぐ高さで、足利の姓を公称し、足利尾張家とも号しました。
 家系を遡ると、足利尊氏の曽祖父にあたる足利家4代・泰氏の子には頼氏と家氏がいて、頼氏が足利家を継ぎ、家氏が陸奥国斯波郡(現・岩手県盛岡市の一部および紫波郡)を所領、その子・宗家が斯波家を名乗ります。家氏の母は当初は泰氏の正室でしたが、諸事情により側室に退き、長男である家氏は嫡子から庶子になりました。代わって北条時氏の娘が泰氏の正室となり頼氏をもうけ、足利家を継承しました。この嫡流と庶流の逆転が後々面倒なこととなるようです。
 そして斯波家初代・宗家の子が宗氏、その子が高経と家兼です。高経は、南北朝時代に足利尊氏に従い北朝軍の有力武将となり、北陸方面の司令官として活躍、延元3年(1338)に南朝軍の司令官である新田義貞を討ちました。ちなみに高経の「高」は北条高時からの偏諱です。
 一方、高経の異母弟である家兼は、兄とともに尊氏を支えました。延元元年(1336年)若狭守護に任じられ北陸へ赴くと、兄と協力して新田義貞を滅ぼしました。家兼は(北朝)文和3年/(南朝)正平9年(1354年)に奥州管領に任命され、中新田城を拠点に奥羽における斯波氏の優位を固め、管領職の世襲を確立しました。家兼の子には直持と兼頼がおり、直持は延文元年(1356)に父が逝去すると奥州管領となり、大崎氏(現・宮城県大崎市)の祖となりました。弟の兼頼は最上家初代当主となります。
 兼頼は延文元年(1356)、出羽国按察使として出羽国最上郡山形(現・山形市)に入部し、翌年には山形城を築城しました。また、多くの寺社を建立し、嫡男の直家に家督を譲って以降は、城内に草庵を結び、念仏三昧の日々を送りました。康暦元年(1379)に兼頼が死去すると草庵に葬られ、直家が寺院として整備し、光明寺と名付けました。その寺号は兼頼の戒名「光明寺殿成覚就公大居士」に因むものです。
 最上義光が山形城を大改修した際、光明寺は山形城の二の丸大手門前に広大な境内を得て移されたのですが、最上家の国替え後、山形藩に入封した鳥居忠政が山形城の正面に最上家の菩提寺がある事を嫌い、現在地(山形市七日町)に移しました。当館と周辺の公園が、かつての光明寺の敷地であり、現在はその一角に「光明の庭」と称するエリアが設けられ、「光明寺跡」と彫られた石碑と石灯籠が置かれています。

(裏館長日誌に続く)
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