最上義光歴史館
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見学の裏ワザ
最上義光歴史館
〒990-0046
山形県山形市大手町1-53
tel 023-625-7101
fax 023-625-7102
(
山形市文化振興事業団
)
【義光会】「よしあきフェスタ2026in街なか賑わいフェスティバル2026」への参加
「よしあきフェスタ2026
in街なか賑わいフェスティバル2026」への参加
山形市の秋恒例イベントとなっている
「街なか賑わいフェスティバル」
が、今年も10月10日(土)秋晴れのもと開催され、義光会も「よしあきフェスタ2026」コーナーを設けて参加しました。
「街なか賑わいフェスティバル」
とは、平成23年(2011)から開催されているもので、毎年10月の第二土曜日に、山形市中心市街地の商店街や店舗と街なか賑わい推進委員会が、連携して開催する秋の恒例イベントで、山形市の中心街地である、本町から七日町までの歩行者天国を中心に、マルシェや飲食ブース出店、音楽祭などが開催され、一日中楽しめるイベントとなっています。(主催:街なか賑わい推進委員会)
◆ 会場 本町〜七日町通り
�ー憩�町エリア(七日町商店街振興組合様)
��一番街エリア(七日町一番街商店街振興組合様)
��シネマ通り(協同組合旭銀座のれん会様)
�に楪�エリア ここでは最上義光歴史館(義光会)が「義光公コーナー :よしあきフェスタ」ブースを開設。
�ナ御憧曄 嵎御憧曚瞭�」
��山形まるごと館 紅の蔵「村木沢フェア」
★「よしあきフェスタ」とそのルーツについて
「よしあきフェスタ」
は,最上義光歴史館(義光会)が全面的に協力して参加している、
「街なか賑わいフェスィテバル」
のイベントの一つです。街なかに設けられたスタンプ設置場所4ケ所を巡るラリーで、完走者にはオリジナル義光公グッズ(タオル&ステッカー)がプレゼントされます。
今年のラリー完走者は450名で、毎年参加しているというリピーターの方も多く見られたようです。
合わせて、義光公に扮した武将が出迎えて、子供さんの甲冑着用体験と一緒に写真撮影ができるコーナーも設けました。こちらも家族で来場され子供さんが、甲冑を着て誇らしげに記念撮影出来た事で喜ばれました。
「よしあきフェスタ」のルーツ
は、平成25年(2013)10月13日、山形市の礎を築いた戦国武将最上義光公の没後400年祭のメーンイベントとして、鎧兜を身にまとった、武将や武者に扮した市民らが、山形市の目抜き通りを練り歩く、最上義光 武将隊パレード
「よしあきフェスタ」
と
「街なか賑わいフェスティバル」
と同時開催される形で大々的に行われました。
その翌年以降、多くの方々、そして子供たちに、義光公に親しんでもらえる継続的な取り組みを残すべく、街なか賑わいフェスティバルの一つのコーナーブースとして引き継がれました。これが「よしあきフェスタ」のルーツです。今では、街なか賑わいフェスティバルにとっても、北は文翔館、南は紅の蔵という長いイベントエリアを歩いて楽しめるスタンプラリーとして、欠かせない存在になっています。
更に歴史を遡れば、大正2年(1913)に義光公没後300年祭「義光祭」が開催され、翌年からその事業の一環として仮装行列が行われ、山形の夏祭りと言ったら義光祭だったそうです。戦時中一時中止していたが昭和22年に復活し、昭和37年まで続きました。
その後、昭和38年(1963)に「蔵王夏まつり」のイベントの1つとして「花笠音頭パレード」が始りましたが、昭和40年(1965)から「山形花笠まつり」と名称を変え単独開催されることになりました。
現在は、「山形花笠まつり」と「街なか賑わいフェスィテバル」は、それぞれが独立し、夏と秋の街なかの賑わいを創出するイベントとして開催されております。
★「よしあきフェスタ」に於ける「義光会」の活動
「義光会」では義光公没後400年祭の、メーンイベント最上義光 武将隊パレードに武将に扮した会員ほか、幟や太鼓を持った会員が参加し、パレードを盛り上げました。
その後、「街なか賑わいフェスィテバル」がメーンイベントとなったものの、「よしあきフェスタ」、は一つのコーナーブースとして引き継がれて開催されています。
義光会の「よしあきフェスタ」への参加は、「最上義光公」並びに「最上義光歴史館」の知名度アップ、ひいては歴史館への入館者増に繋げたいとの思いからです。
第一回開催以降、毎年参加しており「義光会」活動の伝統行事の一つとして引き継がれているものです。
今年も多くの会員が参加・活躍し、街なか賑わいの一役を担ったと思っております。
※我々が館内の案内を無料で行っています。
是非ご来館いただき、お声を掛けてください!
会員番号0804
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新・最上義光連歌の世界�� 生田慶穂
新・最上義光連歌の世界��
1 花かつみかつみえ初(そむ)る芦辺かな 紹巴
2 茂りそひたるきしの青柳 顕与
3 五月雨(さみだれ)の跡は汀(みぎは)のあらはれて 昌叱
4 田づらにつづく里のかよひ路 生
5 放飼 (はなちかふ)駒もくるれば立かへり 義光
文禄三年四月二十八日賦何人百韻
今回取り上げるのは、伝本のひとつに「文禄三年卯月廿八日会津興行」と記された連歌である。文禄三(一五九四)年四月、義光と紹巴は会津にいたのだろうか。――否。
考証の過程を簡単に示そう。
まず義光・紹巴の前後の状況を確認する。義光は文禄二年春に肥前名護屋城に在陣、年内に帰京、同三年七月までに山形に戻ったと推定される(伊藤清郎『最上義光』)。その帰路、会津に立ち寄った可能性がある。他方、紹巴は文禄三年二月下旬から三月上旬にかけて秀吉の吉野の花見と高野山参詣に同道、四月六日・十六日に上洛中の松平家忠と対面、五月十二日〜十六日に在京の毛利輝元の依頼で千句連歌を詠んでいる(両角倉一『連歌師紹巴』)。四月半ばから五月半ばのひと月弱で京・会津間を往復するのは、途中船を使ったとしても、七十一歳の紹巴には難しいだろう。
さらに『紹巴発句帳』を調べると、上記の発句に「奥州浅香辺之人興行」という詞書を付す伝本が見つかった。「会津興行」とは、興行場所ではなく、興行者の出身地を示すのではないか。「会津衆興行」の「衆」が書写の過程で脱落したとも考えられる。
つまり、紹巴も義光も京におり、紹巴は当座の景ではなく、興行者顕与の出身地に因んで歌枕安積(浅香)の沼(現福島県郡山市)の景物「花かつみ」を発句に詠んだのである。鶴崎裕雄氏が指摘するところだが、地方を度々巡回した宗祇と異なり、地方から京の紹巴を訪ねるという構図が、はっきりと見て取れる(『芸能史研究』二二〇)。
このように連歌を文学というより史料として扱ってみると、複数人物の居所比定という価値が立ち現れる。しかしながら、興行場所の特定には細心の注意が必要だ。「最上吉祥院興行」と記された慶長十九年七月六日の連歌について、長谷勘三郎氏は昌琢ら京の連歌師が山形を訪れたかと推測したが(『歴史館だより』二六)、興行者善雅を指す可能性が高い。
最後に作品内容にも少しふれたい。紹巴の発句は、安積の沼の花かつみ(一説に菖蒲の一種)がわずかに蘆の合間に見えはじめたと詠む。「かつみ」と「かつ見」が掛詞だ。これに顕与は沼の岸辺には青柳も生い茂っていると付け、昌叱は五月雨のあとに大きな水溜まりが現れたと応じた。日野輝資(生)は里から五月雨に潤った田んぼへと続く道を詠み、義光は放牧された馬も日が暮れると里に帰ってゆくと続けた。
上洛の折、義光は安積の風景を目にしただろうか。思わず旅心地になる連歌である。
■執筆:生田慶穂(山形大学准教授)「歴史館だより��33」より
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「鮭様」と最上義光 〜ウェブにおける最上義光像の受容〜 内野広一
「鮭様」と最上義光 〜ウェブにおける最上義光像の受容〜
「虎将」「出羽の驍将」「羽州の狐」…最上義光には様々な異名がつけられ、そのイメージに沿う形で人物像が語られる事がままあった。
近年、ウェブ上における最上義光の愛称として「鮭様」という表現がよく見られるようになった。本稿では、最上義光がそう呼ばれるようになった経緯を時系列を追って分かりうる範囲でご紹介したい。また、本稿では、最上義光を「鮭様」と評価する史料的妥当性は論じない事をお断りしておく。
まず昭和期において、最上義光は『山形市史』等の記述がその人物像の基礎とされ、また大河ドラマ『独眼竜政宗』の影響もあって、冷酷非情な謀略家として一般的に認知されていた。昭和末期から平成期に至り、最上義光の事績に関わる研究が進展した結果、優れた政治家として捉える論評が増加した。さらに、数多くの和歌・連歌を残している事から、文化人としての一面も取り沙汰される事が増えた。
その評価に新たな流れが加わったのが2008年頃である。ウェブ上に一つのサイトが開設された。「戦国ちょっといい話・悪い話まとめ」というサイトである。このサイトは、インターネット掲示板「2ちゃんねる」(現「5ちゃんねる」)の中から特定のジャンルの書き込みをまとめたいわゆる「まとめサイト」と呼ばれるものである。その名の通り、本サイトは、戦国時代の人物や出来事にまつわる書き込みを、玉石混交の中から閲覧しやすいように記事形式にして大名家毎にまとめたもので、マイナーな武将の逸話や、一般には知られていない出来事などまで採録されている事から、現代の『名将言行録』とも評すべきサイトであろう。当然最上義光やその一門、家臣らのエピソードも採録されており、2026年1月現在最上家に関わる記事は317件収録されている。その最古の記事は2008/08/21の書き込みをまとめたものであるが、2番目に紹介されている記事(2008/09/09)を見ると既に最上義光が「鮭様」と呼称されており、また採録元のスレッドでは最上義光=鮭好きというイメージを面白く新鮮なものとしてとらえ、盛り上がっている様子が見て取れる。ウェブ上における「鮭様」の初出はこのあたりであろうかと思われるが、もしこれより遡る記述があれば是非ご教示願いたい。
匿名掲示板の書き込みという性格上、くだけた表現や、ネット用語を多用するスタイルで語られた最上義光の鮭好きエピソードは、「鮭様」という一見とぼけたネーミングセンスも相まって、それまで以前に提示されていた最上義光像とのギャップがおかしみを生み、インターネットに親しむ層の人々には非常に好意的に捉えられたようである。これ以降、採録元のスレッドでは最上義光=「鮭様」がすっかり定着したようだ。
もうひとつの画期となったのが、ウィキペディア以外のオンライン辞典の拡充である。研究者ではない一般のネットユーザーが歴史にまつわる事柄を調べようとネット検索を行った場合、まずウィキペディアを一読する場合が多いと思われるが、さらに幅広い知識を得ようと検索した時に行き当たるのが「ニコニコ大百科」「ピクシブ百科事典」などのSNSサービスが提供しているオンライン辞典である。これらの記事は、いわゆる辞典的なフォーマットをユーモアやインターネットスラングで味付けしたものが多く、楽しみながら歴史を学びたいという初心者層が理解を深めるのに手に取りやすいものであった。これらにおける最上義光の記事は2009年頃から編集されはじめ、そのネタ元となったのが「戦国ちょっといい話・悪い話まとめ」であった。以降、これら辞書サイトを孫引きした「鮭様」にまつわる記述が個人ブログや企業ブログ、Twitter(現X)等で広く流布する事となり、近年では、すっかり(特にウェブ上において)最上義光といえば「鮭」というイメージが定着したと考えられる。
■執筆:内野広一(郷土史研究家)「歴史館だより��33」より
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【義光会】令和8年度現地研修「最上氏・里見氏ゆかりの地を訪ねて」
令和8年度現地研修「最上氏・里見氏ゆかりの地を訪ねて」
最上義光歴史館案内ボランティア「義光会」では、会員の研鑽を積むため毎年、歴史の舞台となった各地を訪れ現地研修を行っています。今年は、寒河江市・河北町・村山市・東根市を巡り、最上氏と家臣であった里見氏のゆかりの地について現地研修を行いました。
各市町の担当された方々に沢山の資料を準備していただき、案内ガイドの方々からは、ご説明いただきながら地元に行かないと見えてこない様々なことについて学ばせていただきました。この場を借りて、御礼申し上げます。
1 寒河江市
鎌倉幕府の初代別当を務めた大江広元に始まる寒河江(大江)氏の居城であった「寒河江城」。現在は石碑と堀跡が残されているだけですが、ガイドの方等から詳しく説明していただき、その後、寒河江城の三の丸にあった辰巳門(東南方)が山門として移築された「澄江寺」に移動し、説明していただきました。
寒河江城跡では詳しく説明していただきました
三の丸の辰巳門が移築された澄江寺
2 河北町・村山市
河北町には、最上義光に滅ぼされたとされる白鳥十郎長久の居城である「谷地城」があり繁栄していたということです。両者の戦いに関係する一次資料は殆どなく、戦国時代のことなので、白鳥側、最上側それぞれの立場での見方があります。伝説も相まって謎に包まれている部分も多く、白鳥氏を地元で研究されている方からお話を伺いながら、谷地城から白鳥長久の菩提寺である「東林寺」まで現地を歩きながら学んできました。
その後は、白鳥氏が谷地に移る前に城を構えていた、現在の村山市戸沢地区にある「白鳥城跡」に移動し、村山市戸沢郷土史研究会の会長さんが作成された資料をいただき、城址ケ丘(戸沢小学校駐車場)にある白鳥長久公顕彰碑等を見てきました。
谷地城の本丸跡は三社宮になっています
東林寺にある白鳥十郎長久の墓ともされる供養塔
3 東根市
東根市では初めに、最上氏が「長瀞城」として城を構え、江戸時代には米津(よねきつ)氏の陣屋となった「長瀞城跡」に立ち寄り、現地案内ガイドの方から説明していただきながら、限られた時間の中で堀跡等を巡りました。現在は、ウオーキングコースとしても整備されている堀跡等のコースは、時間があるときにゆっくりと巡りたい場所です。
長瀞城跡
現地ガイドの方に説明していただきました
東根市の本丸地区に移動し、「東根の大ケヤキ」で有名な「東根城跡」を巡りました。本丸跡は現在東根小学校となっており、元気な子供達に話しかけられ、楽しいひと時を過ごしました。小学校の敷地内が「関係者以外立ち入り禁止」になっていることが多い御時世ですが、「東根の大ケヤキ」は国指定特別天然記念物として一般開放され、普通の人達が常に小学校敷地内に入ります。子供達も、周りの人達に見守られながら、元気にのびのびと育っているように感じます。
本丸内を暫く歩き、東根里見氏の菩提寺である「養源寺」を訪ねました。養源寺は、8代城主、里見景佐(かげより)公により現在地に移されましたが、江戸時代初めの最上氏改易により、里見氏は阿波徳島の蜂須賀家預かりとなります。養源寺には、景佐公の御霊屋と8代目までの墓所がありますが、9代目の里見親宜(ちかよし)公以降の墓所は徳島県徳島市丈六寺にあります。
東根城跡「東根の大ケヤキ」前で東根小学校の子供達と
里見景佐(かげより)公御霊屋(おたまや)内の五輪塔
現在、最上義光歴史館では、「徳島里見家旧蔵 最上家関係文書」を公開中です。徳島県にお住いの里見家子孫の方から、令和7年9月に山形市に寄贈された98点の資料のうち、山形市指定有形文化財に指定された6点について、初公開を行っております。
私たち案内ボランティアのメンバーも、現地研修等の機会を通して新しい資料等の知識も身に付けながら、最上義光歴史館に来られた方々に楽しんでいただけるようご案内したいと思います。
ボランティアガイド「義光会」をご利用ください。ご案内は無料です。
会員番号2301
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