最上義光歴史館

最上義光歴史館
ログイン
メモ メール Q&A  リンク 地図 ウィキ 特集 プラン
 当館は公園の敷地内にあり、建物の前には噴水がある立派な石造りの池があります。聞くところによると、これはローマのトレビの泉をイメージしたものだそうです。トレビの泉は、「後ろ向きにコインを泉へ投げ入れると願いが叶う」そうで、ここに訪れた人は、泉に背を向け、コインを右手に持ち、左肩越しに投げます。コロナ禍以前は、1週間に約15,000ドル、年に780,000ドルざっと1億円以上のコインが投げ入れられていたとのことです。「あ~、その100分の1でも、館の前の泉に投げ入れてくれないかなぁ」と、ずんの飯尾さんのようなことを考えてしまいますが、当方が管理する公園でもないので、なんともなりません。
 トレビの泉には、ネプチューン(芸人さんじゃない方)などの厳つい大理石像が並んでいるのですが、当館前の泉には2体のブロンズ像が建っています。「愛の女神・笹戸ちづこ」像(佐藤忠良、制作1988年)と「若き立像‘96・笹戸ちづこ」像(笹戸千津子、制作1996年)の2体の女性裸像です。それぞれの作者は師弟関係にあるのですが、笹戸千津子氏がモデルとなった彫像と自らを彫った像とが並ぶという画期的な場となっています。彫刻家の師弟関係というと、オーギュスト・ロダンとカミーユ・クローデルとの関係が想起されますが、それはさておき、やはり創作意欲は刺激されるようです。
 佐藤忠良氏の作品は多くの公共空間にも置かれ、宮城県立美術館に併設されている「佐藤忠良記念館」には 約600点の彫刻作品が収蔵されています。とりわけ笹戸千津子氏がモデルとなった「帽子」シリーズは代表作ともなり、上半身は裸でスリムジーンズに帽子を被るという、流行をも取り入れたような裸婦像は人気を博しました。
 当館の前の公園にある像は、逆にシャツだけをまとったものです。いわゆるwearingはしていないので、「Don’t worry!」ではありません。実際、小さな子がこの像のまわりで遊んでいるとき、「おしり、おしり」と騒ぐ声が聞こえてきたりします。ちょっとしたクレヨンしんちゃん状態というか。
 この「シャツ」シリーズとでもいうべき彫像は、全国各地にもあるとのことですが、とにかく日本では公共空間での女性裸婦像が多く、しばしば論争もおきており、ジェンダーやルッキズムなどさまざまな問題提起がなされています。
 日本に「銅像」が輸入されたのは明治以降。軍国主義が進むと同時に軍人像が増えたのですが、戦中の金属供出や、戦後、軍国主義の排除を目指したGHQの政策で大半が撤去されました。代わって登場したのが「乙女の像」。それは平和の象徴として、衣装により貧富や階層などが表出しないよう裸体になっているとの説があります。昨今、平和、平等、自由などについては、別の多様な表現が求められるところではありますが、まずは裸婦の是非についての問題というより、その製作意図が大切とのことです。
 少々難しい話になってしまいましたが、なにはともあれ、泉にしろ、彫刻にしろ、お金が置かれるようになれば、それは本物と個人的には思っています。
 さておしまいに、いつもの「ことわざコーナー」ですが、今回は「頭隠して尻隠さず」でしょうか。もちろんその意味するところは、彫像の話とは無関係なのですが、話の流れで、思わず浮かんできました。確か昭和の時代に、そんな漫画があったような。顔は誰だか知らないけれど、仮面モノだったよう気がするのですが。


奥が佐藤忠良作、手前が笹戸千津子作
佐藤作はシャツをまとい、笹戸作は一糸もまとっていません。


小さな子にも人気の像は、当館の事務室の窓からはこんな具合に見えます。
トレビの泉というより、コペンハーゲンの人魚姫の像がある岩場のようですが。


→ 館長裏日記に続く

 現在、当館では屋根の補修工事のため、建物の前面に足場を組んでいます。工期は11月下旬までを予定しておりますが、通常どおり開館しております。ご不便をおかけするところもあるかと存じますが、どうぞご来館ください。
 実はタイミング悪く、この工事が始まる前に展示室で雨漏りが発生、それが出入りの新聞記者の知れるところとなり、写真付きの記事になってしまいました。当館の学芸員は、これでしばらく他所から展示品を借りることができなくなる、と嘆いていましたが。工事をすれば大丈夫!!とアピールしたいところなのですが、当面の間、だいたいその、人の噂になる75日間くらいは厳しいかも。
 ところで私の場合、なぜか異動する先々の施設で雨漏りに遭遇し、バケツだの雑巾だのを床に並べるのを目にしています。バケツを並べたりするのは落語とかの世界のこと程度に思っていたので、21世紀の世の中でもこうなのかと、ちょっと驚きました。
 雨漏りの原因というのは意外に様々で、当館の場合は、防水シートの劣化と雨水排水管の構造上の不具合によるものです。かつて音楽ホールのある某施設にいた時は、そのバックヤードの天井が雨の重みで剥がれ落ちてきたのですが、屋根の形状が複雑なため板金の隙間から雨漏れが発生したものです。また、築50年に近い建物の某本部にいた時は、4階部分の壁の亀裂から染みこんだ雨水が、3階の事務室の天井に回り漏れたものです。「壁際」や「窓際」にはだいたい管理職の席があるのですが、そこに落ちていました。山形などの寒冷地では隙間に染みた水分が、冬期間に氷結して膨張し、隙間が大きくなるのも一因です。いずれも以前から雨漏りが予見されており、前任者は対策を求めてはいたのですが、後回しにされていたようです。
 これも個人的なことなのですが、以前、マンション管理組合の理事長を20年以上担っていたことがあり、その維持補修に管理会社とともに関わったのですが、やはり最初に必要なのがこの雨漏り対策です。屋根の防水シートの経年劣化に対する修繕なのですが、これがだいたい15年目あたり。当館は築30年を優に超えてはいるのですが、やっと屋根防水の大規模修繕を実施ということで、一般のマンションなどと比べると、持っているというか、時間の流れが違うというか。ちなみに丹下健三設計の赤坂プリンスホテル新館は、築28年で取り壊しました。こっちは時間の流れがいきなり早い感じです。
 筒井康隆の小説に「横車の大八」というのがあります。大八はもともと腕の立つ大工でしたが、他人の仕事に横車ばかり入れるので疎んじられ、仕事は減るばかり。しかし、大八によると、建物にはそこを押すと全体が壊れるヘソという部分があり、いい家ほどヘソが一か所に集まっているという。新築する場合は壊すときのことを考えヘソを作らなければならない。しかし建物のヘソは、素人の目にはとまらないような場所に設けるため、ヘソをみつけ解体できるのは大八にかぎる、という話です。建物は丈夫で長持ちばかりがよいのではなく、社会環境に合わせスマートに解体できるのが大事ということで、この小説を学生の頃に読んで衝撃を受け、建設系の同級生にその設計思想を吹いて回ったことがあります。
 またもや話が横道に逸れてしまったのですが、最後にいつものようにことわざを。ここはやはり「畳と〇〇は、新しいほどいい」ということわざでしょうか。昔なら新郎にこんなことを言っていたかもしれませんが、今どきこんなことを言ったら、どこからどう刺されることやら。これとは逆に、「味噌と女房は、古いほどいい」という、罪滅ぼしのようなことわざもあるそうです、あっ、これでは伏字にした意味がなくなってしまう。それでも物と人とを一緒にしてしまうのは問題なわけで。ところで博物館の場合、古いのがいいのか、新しいのがいいのか。少なくても「屋根と空調機器は、新しいほどいい」とは思います。


現在の工事の様子。なんか一夜城みたいですが、通常どおり開館しています。

→ 館長裏日誌へ


山形城の御城印の販売について

山形城の御城印を10月1日から最上義光歴史館の受付にて販売しています。

販売時間は開館日の午前9時から午後4時30分までです。

【通常版】1枚 300円
【特別版】AR(拡張現実)付き 1枚1,000円(※限定5,000部)

この機会にぜひお立ち寄りください。

※なお、郵送による販売(通信販売)は行っておりません。ご了承ください。

≪御城印についてのお問い合わせ先≫  
山形市公園緑地課 023-641-1212(内線530) 


詳しくはこちら → 御城印のページにリンク (山形市役所)

《2023年9月の利用者アンケート集計結果》

 この集計結果は令和5年9月1日から同30日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。

常設展示  (9/1 ~ 9/30)
開館日数・・・・・・・・・・・・・26日間 
入館者数・・・・・・・・・・・・・1,980名
回答者数・・・・・・・・・・・・・11人


1.歴史館をどこで知りましたか??
(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・9%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・0%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・9%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・9%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・0%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・9%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・18%
(8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・9%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・36%
(10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・0%

2.歴史館の入館は何回目ですか??
(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・91%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・0%
(3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・9%

3.ご覧になられた感想
(1)内容はいかがでしたか??
   ①大変よかった・・・・・・・・・・・・・82%
   ②よかった・・・・・・・・・・・・・・・18%
   ③ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・0%
   ④つまらなかった・・・・・・・・・・・・0%

(2)最上義光と最上家について??
   ①よくわかった・・・・・・・・・・・・・82%
   ②わかった・・・・・・・・・・・・・・・18%
   ③わからなかった・・・・・・・・・・・・0%
   ④どちらともいえない・・・・・・・・・・0%

~利用者の声~

宮城県角田市 男性/20代
あまり歴史には詳しくはありませんでしたが、最上家と伊達の関係、最上家の結末等とても勉強になりました。ボランティアさんありがとうございました。

東京都小金井 男性/50代
改易されて残念。5千石とは。庄内地区のこと初めて知りました。無料でよい。

東京都板橋区 女性/60代
説明を丁寧にしていただき、理解しやすく楽しかったです。山形愛を感じました。また、山形に来たいです。ありがとうございました。

東京都大田区 女性/70代
霞城公園を見学した後だったので、わかりやすかった。案内の方の説明をきくことができとても良かったです。

宮城県柴田町 男性/70代
ガイドの方も分かりやすく説明いただき、大満足の時を過ごしました。有難うございます。

山形県新庄市 女性/10代
様々な話をきけて大変興味深かったです。ありがとうございました。

※当館サポーターの個人名は「ボランティア」または「ボランティアさん」に変更しています。

 当館では現在、特別展示として火縄銃5挺(ちょう)が間近に見られる展示をしています。さて、火縄銃と言えば、「種子島」、「長篠の戦い」、「山形市鉄砲町」といったところでしょうか。んっ、「山形市鉄砲町」とは?!、と言われそうですが、そこは最上義光が関係するのでご容赦を。まずは早速、その話を。
 最上義光は城下町をつくるにあたり、町人町も含め守りを固めるため、城の南の出口に鉄砲鍛冶町を設けました。泉州堺から招いた鉄砲鍛冶や鉄砲衆を置き、町割りをしたそうです。今も「鉄砲町」という地名を残しており、最上義光の菩提寺である光禅寺がある場所でもあります。
 「鉄砲町」というのは全国各地にあるようですが、鉄砲鍛冶が集まる職人町であったり、鉄砲足軽たちが住む役人町であったりしたようです。ところが、戦国時代が過ぎ、天下泰平の世ともなると、鉄砲町はその役割を潜めてしまい、江戸時代中期の「山形市の歩き方」ともいえるガイド本「山形風流松木枕」でも鉄砲町についての記述はあるのですが、神社仏閣(六椹八幡宮、宝光院、玄妙寺など)しか記述がなく、その名の由来である鉄砲については「て」の字も出てきません。
 ここで、火縄銃について教科書的な話を。1543年(天文12年)種子島に中国船が漂着、この船に乗っていたポルトガル人により火縄式鉄砲が伝えられました。島主・種子島時尭(たねがしまときたか)は2挺を購入し,惣鍛冶・八板金兵衛清定に鉄砲の模作を命じました。銃身と銃底を塞ぐネジ切りが難問でしたが,翌年来島したポルトガル人によってこれらの技術を習得,伝来後8か月目にして国産銃が完成しました。当時は鉄砲のことを「種子島」と呼んでいました。(鹿児島県HPより)。
 この時の種子島、じゃなくって火縄銃1挺の購入金額は2,000両(1両の「金」含有量は天保小判で約6.38g、現在の金価格を1万円/gとすると、その金額はざっと1億3千万円!)。その後、火縄銃は摂津国堺(現在の堺市)の鉄砲鍛冶などの国産化で大量生産とともに低価格化も進み、秀吉の時代には、火縄銃(6匁銃)1挺は9石(1石米は2.5俵=150kgなので、現在の金額は「つや姫」(地元スーパーで約4,000円/10kg)換算で約54万円?)だったそうです。参考までに某オークションサイトでの最近半年の火縄銃の落札平均価格は約38,000円です(火縄銃関係商品も含む)。なんか教科書というより、某局の「突撃!〇ネオくん」のようになってしまいましたが。
 そして、火縄銃伝来から約30年後の1575年(天正3年)に起きた「長篠の戦い」では、織田信長は3,000挺の火縄銃を用いて勝利。それから25年後の関ヶ原の戦いに投入された火縄銃は、東軍・西軍合わせて約25,000挺。この時には世界有数の銃保有国になっていたとのことで、例えば、仙台藩は鉄砲普及率が高く、大坂の陣では半数近くの兵が銃を持っていたそうです。
 今や全国各地で火縄銃の実演イベントがあり、多くは5月連休やお盆の前後に開催されるのですが、特に今年は種子島で「鉄砲伝来480周年全国火縄銃大会」が8月19日に開催され、全国各地から15の火縄銃隊が参加したそうです。短筒や大筒,長筒など多彩な火縄銃による一斉撃ちや段撃ちなどの演武等が披露されたとのこと。ただ、これらの実演は、火縄銃保存会等に集うボランティアによるもので、銃も自前で管理費用もかかり、本物なので当然、殺傷力があり、火薬の規制や取扱いも厳しく、単なる武将の恰好だけという場合とは、生じる責任や負担は全く違うとのことです。
 さてさて、ひとまずこのへんで火縄銃ネタは尽きてしまうのですが、ここでいつものようにことわざを。鉄砲で思い浮かぶのはやはり「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」でしょうか、この館長日誌もそんな感じかと、いや、まだ数も撃ってはいないのですが。むしろ「闇夜に鉄砲」と言った感じでしょうか。目標も定めず、当てずっぽうで、やるのが無駄なことのたとえなのですが、確かにそうかと。まあ、生き様もそんな感じなので、すみません。


展示中の火縄銃5挺。手前の銃は五十匁筒!!

→ 裏館長日誌






 前回に引き続き「大坂夏の陣」を描いた「最上屛風」に関わるお話です。
 この屏風絵には様々な幟(のぼり)旗が描かれています。どの旗がどの武将のものかは同定に至っていないのですが、とにかく様々な旗が描かれています。ところで、なぜ戦いに旗が用いられるのでしょうか。
 まずは敵味方がわかるようにするためで、古くは「源平合戦」の際、源氏が「白」、平家が「赤」の旗を掲げて、敵味方を区別しました。ただ、敵味方を区別するだけなら旗でなく武具や衣服に家紋をつけたり、場合によっては合言葉を用いることもあるのですが、ここは自分たちの活躍や存在を示すため、そしてそれはその後の褒賞にもかかわるため、幟旗(のぼりばた)などで目立つことも必要でした。
 一方、全体の戦況を確認する手立てとしても旗は重要で、その所在や配置を確かめ、軍功の有無を確認する役割を担う「軍目付」とか「軍監」という職がいました。ちなみに旗が倒れていくというのは、戦況悪化を意味するわけで、「旗色が悪い」と言い方はここからきています。
 この敵味方の識別は、現代戦においても重要技術のひとつです。いわゆる西側諸国や日本、韓国の軍の艦船や航空機航には、共通の敵味方識別装置が搭載されており、また、戦場における車両や重装備の歩兵部隊などにも様々な技術が投入されているといいます。ただし、認識できるのは味方の信号のみで、それ以外は、敵かどうかはわからない、というか敵と見做すしかなく、誤射や偽装などは時代が進むほど課題になっているそうです。
 ところで、「大坂夏の陣」に関わる逸話ですが、伊達政宗の軍は、味方の前線にいた神保軍を撃って討死させています。その数約300名。政宗はまわりの武将から非難され、神保家からも訴えられました。しかし政宗は、「前線の味方が後退し始めたときは、敵と一緒に討たなければ共崩れになる。このような時、伊達の兵法に敵味方の区別はない」と弁明し、幕府は不問としたそうですが、実際は、行く手を塞ぐ形となる部隊が、前進の邪魔になるので撃った、という説があります。
 「背中を撃たれる」というのは、このように意図的である場合も、単に誤射である場合もあるわけですが、撃たれた方はたまったものでありません(ですが英語ではこれを「フレンドリーファイア」Friendly Fireといいます)。この「背中を撃たれる」ということは何も戦場ばかりで起きる事ではなく、職場でもありがちなことです。いくつかのビジネス本にも、背後から撃たれることも警戒すべきとの教えがあります。
 他にも戦に関係することわざがいくつかあります。「バカな大将、敵より怖い」とか、「一将功成りて万骨枯る」とか、これも職場でよくあることで、こういうときにはとにかく「三十六計逃げるに如かず」でしょうか。そうそう、某元事務次官が唱えた「面従腹背」という手もありますが、やはり強いのは「馬耳東風」かしらん。


「大坂夏の陣」(最上屏風)

館長裏日誌へ