最上義光歴史館

最上義光歴史館
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 「紙本著色遊行上人絵」という最上義光が光明寺に寄進した絵巻物があります。狩野永徳の弟・宗秀の手によるもので、最上義光が依頼したものです。光明寺に文禄3年(1594)7月7日に寄付したのですが、理由があって再度、義光の孫である家信により寛永8年(1631)7月15日に寄付されました。当館では、最上義光没後400年記念の年(2013)に全巻公開し、全10巻を掲載した図録も作成しました。
 本絵巻は、藤沢清浄光寺(通称:時宗総本山「遊行寺」)の絵巻を模写したものですが、元となった絵巻は焼失しています。本絵巻は現在、国の重要文化財として奈良国立博物館に寄託されており、修復にむけて検討がなされています。全10巻の総延長は約170mにもなり、まともに修復すれば数千万円以上を要するらしいのですが、予算にあわせて修復箇所や修復方法などを模索していくようです。
 ちなみに「遊行」(ゆぎょう)とは、僧が諸国をめぐり歩くことです。これを「ゆうこう」と読んでしまうと、遊び歩くこと、あてもなく歩くことになってしまいます。「上人」も「しょうにん」とも「じょうにん」とも読みますが、微妙に意味が違い、ここでは「しょうにん」と読みます。この巻物における上人とは、一遍上人とその後継者の他阿弥陀仏のことで、その伝記の巻物です。
 ここで、一遍上人の人となりを少々。
 一遍は、延応元年年(1239)に伊予国で生まれ、13歳のときに出家し大宰府で修業を開始。25歳で実家へ戻りますが、家庭内の問題に巻き込まれて殺されそうになり、文永7年(1270)に再び仏門に。文永10年(1273)に遊行の旅に出て、「南無阿弥陀佛」を唱え、日本中ほとんどを巡り歩きます。
 「紙本著色遊行上人絵」の中からいくつかの場面を紹介しますと、巻第一には、弘安元年(1278)冬、吉備津宮の神主の息子の妻が、夫の不在中に一遍に帰依し剃髪(!)、帰宅した神主の息子はその姿に驚き怒るも、一遍に接し感銘を受け、自身も帰依して出家する(!!)場面が、巻第二には、弘安元年12月、信濃国佐久郡伴野にて踊念仏を初めて行い、この時初めて紫雲が出現する場面が描かれていたりします。
 全国を遊行するうち一遍と同行する人は増え、常に20名ほどの信者と行動するようになります。彼らを「時衆」と呼びましたが、時宗(時衆)とは、念仏を中国から伝えた善導大師が、時間ごとに交代して念仏する弟子たちを「時衆」と呼んだことによるそうです。ただ、一遍には新たな宗派を立宗しようという意図はなく、「宗」の字を用いるようになったのは江戸時代からのことです。
 一遍が記した書物は一切残っていませんが、その事績は最後まで行動をともにした弟・聖戒が描かせた「一遍聖絵」全12巻や、一遍の弟子・宗俊が編纂した「一遍上人絵詞伝」全10巻、つまりこの「遊行上人絵」のことですが、これらによって今日まで伝えられています。
 続いて山形市にある光明寺のご紹介を。
 光明寺は時宗の寺で、初代山形城主の斯波兼頼(1316-1379)が、城内に草庵を設けたのが始まりとのこと。兼頼が死去するとこの草庵に葬られ、2代直家が寺院を整備し、兼頼の戒名「光明寺殿成覚就公大居士」に因み「光明寺」と名付けました。初代山形藩主の最上義光(1546-1614)が山形城を大改修した際、光明寺は山形城の二の丸大手門前に広大な境内を得て移されました。この敷地には現在、当館があります。元和8年(1622)に3代藩主最上義俊が御家騒動により国替になると、同年、新たに入封した鳥居忠政が山形城の正面に最上家の菩提寺がある事を嫌い現在地に移されました。
 「紙本著色遊行上人絵」が文禄3年(1594)に寄付されたのは、光明寺の本丸から東門前への移転新築という慶事によるものと思われます。(松尾剛次(山形大学人文学部教授)「歴史館だより№21」)。その後、37年後に再度、寄付されることになったのですが、その間にはつぎのような出来事がありました。
 最初、最上義光は京都伏見の最上屋敷にいて、当代一の学僧である一華堂乗阿から、源氏物語や和歌の教えを受けて深く尊敬し、ついには山形に学問を広めるべく乗阿を山形に招請し光明寺の住職へと迎え入れました。乗阿は慶長8年(1603)に第18代の住職として山形に入りましたが、慶長10年(1605)には京都へ戻りました。それ以後光明寺は、寛永3年(1626)まで無住となりました。その間、元和3年(1617)に山形の大火により光明寺が焼失し、元和8年(1622)に3代藩主の最上家信が御家騒動により国替となっています。
 改めて寄進した寛永8年(1631)7月15日は、最上義俊(家信)が亡くなる4ケ月前(享年26歳)でした。義俊の死因ははっきりしないものの、我が身に迫る死期を覚悟しつつ、切羽詰まっての仏心への帰依を願ってのことであったのかも知れません。(小野末三執筆「山形藩主・最上源五郎義俊の生涯」)
 さて、当館随一の豪華図録「遊行上人絵-最上義光没後四百周年全巻公開」 (平成25年9月14日発行)は税込2千円です。送料別で地方発送も承ります。まだ在庫があります。念仏踊りのお供としていかかでしょうか。


当館と同じ敷地にある光明寺跡

(→裏館長日誌)






木立に囲まれるような場所にあるカリヨン。35鐘で構成されています。

 当館と隣接する美術館との間の、あまり人気(ひとけ)がない場所に、結構立派なオランダ製のカリヨンがあります。カリヨンとは、音階の異なる鐘が鳴り響くもので、世界カリヨン連盟の規約では「調律された23個以上のブロンズ製の鐘で、バトン式キーボードで演奏する楽器」と定められ、自動演奏も含まれます。鐘にはベル型やチューブ型があり、鐘数が多いものはチューブ型が多いのようです。カリヨンは全国各地にありますが、23個以上の鐘があるものは少なく、ベル型で25鐘ある霞城公園のカリヨンは、実は全国有数の規模のものです。
 ここのカリヨンは春夏秋冬で曲がかわり、一日5回×年4回の20曲がプログラムされています。恐らく既製のものからの選曲なので、ご当地の曲、例えば花笠音頭とか県民歌とかはなく、クラッシック音楽と唱歌とが半数ずつ選ばれています。
 クラッシックは、なぜかシューベルトの曲だけ4曲もあって、それに唱歌の選曲などからも、ちゃんとした音楽環境にあった人が選曲したことが伺えます。特に音楽教育関係者は、シューベルトを必修とし、唱歌を次々と口ずさむことができるのです。特撮ものや深夜放送ばかりで育った私のような者にとっては、このシューベルトや唱歌などの素養は身に付かず、それでも、いい年になってから、あの曲のいわれはどうだとか誰の演奏はこうだとか、蘊蓄をはじめるわけです。
 ではここから、その蘊蓄を。
そのカリヨンで奏でられるクラッシックの楽曲としては、シューベルトの他にムソルグスキーの「展覧会の絵」とかビバルディの「四季」などがあり、それは「プロムナード」からだったり「春」からだったりと、ごく当たり前の部分が奏でられるのですが、モーツアルトのピアノソナタ第11番「ロンド・ア・ラ・タルッカ」いわゆるトルコ行進曲で有名な曲ですが、これはなぜか第1楽章、そう、ソナタだけど変奏曲というあの曲が奏でられます(もちろんカリヨンでは変奏部分までは流れませんが)。また、ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」もありますが、普通ならば素直に第1楽章からもってくるところですが、このカリヨンでは第5楽章「羊飼いの歌。嵐の後の喜ばしく感謝に満ちた気持ち」が前奏付きで奏でられます。この辺がやはり音楽の造詣が深い方のなせる業なのでしょう。
 ところで、ベートーヴェンには「田園」と呼ばれるピアノソナタもあります。ピアノソナタ第15番ニ長調 作品28です。先日、天皇陛下も鑑賞したという仲道郁代さんのリサイタルでは、ピアノソナタ第13番と第14番「月光」が演奏されましたが、これと同じ年に第15番も作曲されています。ちなみに仲道さんにとって第15番「田園」は、桐朋学園高校入試の課題曲とのことですが、ベートーヴェンのピアノソナタはピアノ曲集の新約聖書とも呼ばれていて、普通は卒業発表とか大学入試とかのレベルの曲です。同校の現在の入試課題曲は、バッハの平均律(これはピアノ曲集の旧約聖書と呼ばれています)とモシュコフスキーまたはショパンの練習曲となっています。というか、こちらも普通は大学入試レベルの曲ですが。もちろん「熱情」とか「革命」とかを力技でバリバリに弾く中学生もいるにはいるのでしょうけど。
 仲道さんの第15番「田園」のCDには「ピアノソナタを巡る対話~諸井誠&仲道郁代レクチャー・コンサート」の様子が収めてあります。仲道さんの部分演奏も交えての大変興味深いもので、まず「この曲の出だしはショパンの「雨だれ」と同じ」というのはわかるのですが、「この曲はソナタ前期のしめくくりであり、ソナタ後期のはじまりとなる」という話には、なんかそうなんだろうなぁとなり、和音の調性や主題の展開の話に続き、「第1楽章の第2主題はどこから始まる」という話では、かなり具体的な説明にもかかわらず素人の私には見当もつかず、その話からの「知らないで弾くということは恐ろしいことで」という仲道さんの言葉は、そのまま「知らないで語るということは恐ろしいことで」と言われているようで、すみません、反省します。

(→館長裏日誌へ)

 松尾芭蕉「おくの細道」でも知られている山形市山寺の立石寺には、最上義光とその家臣10人の位牌を納めた厨子を安置する「御霊屋(おたまや)」があります。義光公の没後すぐに建立された県内最古級の御霊屋なのですが、何度か改修がなされているものの損傷が激しく、降雪時には倒壊の危険性も指摘されている状態です。この度、この御霊屋の修繕に向けた機運を高めたいと、郷土史研究会主催の研修会が開催されます。
 山寺と最上家とは代々深い関係があり、初代山形城主となる斯波兼頼が延文元年(正平11年、1356)に羽州管領として入部し、根本中堂を再建したことからはじまります。実はこれ、山寺が山形城の鬼門鎮護の位置にあることに起因するといいます。(伊藤清郎(山形大学教育学部教授・文学博士)/歴史館だより№10)後々、最上義俊公(最上義光の孫)が元和7年(1622)に、それまで城内にあった熊野神社を山形城の鬼門(北東方向)にあたる現在地(六日町)に遷座しました。
 鬼門というのは艮(うしとら)つまり北東の方角です。鬼が出入りし、災いがやってくる方角と考えられています。都や幕府の鬼門に当たる方角には、鬼門除けとして寺社が多く建てられました。古くは奈良時代の平城京において鬼門の方角に東大寺が建立され、都市を守る魔除けとされました。京の平安京においては比叡山延暦寺が、江戸においては東叡山寛永寺が鬼門除けの役割を果たしているそうです。山寺の創建は平安時代初期(9世紀)に遡ることから、山形城においては、すでにある寺社を鬼門除けとした形です。
 また、鬼門の反対側となる坤(ひつじさる)つまり南西の方角を裏鬼門といいます。裏鬼門は、複数ある鬼の通り道の中でも最後に鬼が出ていく場所とされ不吉な方角となります。京都の裏鬼門にあたる位置には、石清水八幡宮が配置されています。逆に、巽(たつみ)と乾(いぬい)つまり東南と西北は吉の方向で、天守や城主の住む館を建てました。
 城郭の鬼門除けは、桃山時代から見られるそうです。その方法は、寺社や祠を置いたり、不開門(あかずのもん)を築いたり、堀や石垣の一部を欠落させたりなどです。さらに角を欠落させる方法には二種類あり、角を斜めに欠き取ってしまう方法と、入隅とよばれる隅を内側に直角に入り込ませる方法があるそうです。
 この鬼門除けで有名なのが、京都御苑の御所の北東の「猿が辻」と名付けられている角塀です。京都御所の鬼門である北東方向には比叡山延暦寺があり、比叡山の滋賀県側の麓に、延暦寺の鎮守社である日吉大社があります。この日吉大社の召使が「猿」で、京都御所に遣わされた猿の像が、その角塀の軒下にあるため「猿が辻」というわけです。
 烏帽子をかぶり御幣を持つこの猿は、鬼門除けの役割であるにもかかわらず、夜な夜な辺りをうろついては通行人にいたずらをするため、金網で囲って封じ込めたといわれています。日吉大社の神の使いは「神猿(まさる)」といわれ、まさる=魔が去るに通じ、縁起が良いとされます。また、鬼門とは反対の方角が申(さる)であることから、猿の像を鬼門除けとしてまつるところが他所にもあります。
 さて、ご当地の山寺では、わざわざ猿の像を置くまでもなく本物の猿が少なからず生息しています。その猿による果樹や畑の被害も年々増えている状態です。電気柵などの対策も講じてはいるのですが、それを容易く乗り越える猿もおり、「作る端から被害にあい、もう農業をやめたい」という農家の方の声すら耳にします。猿を鬼門除けとして尊重すべきか悩ましいところではありますが、ここで孔子の言葉でも。「務民乃義、敬鬼神而遠之~民としてやるべきことに努め、鬼神には敬意を払いながらも遠ざけよ」ということで、鬼門除けよりもまずは生活優先ということでしょうか。


山寺全景(山寺芭蕉記念館提供)


(→裏館長日誌へ)



本日6月1日より、山形城ワイド御城印帳発売です。
早速お買い求めいただきました皆さま方、ありがとうございます。

令和5年度特設展示/第三部 御城印販売記念「山形城下絵図展」にて
展示しました最上氏時代山形城下絵図(旧厩本)の一部と、
最上家中分限帳(厩家旧蔵)の町名などが記載された部分が表紙です。
付属のポストカードで絵図の全体や町名の翻刻、資料名を確認できます。
表紙の箔押は金字と墨書をイメージした黒字の2種類です。
※令和7年4月1日追記…御城印帳(金字・黒字)再販いたしました。

御朱印帳より大きめでポケット式になっていますので、一般的な大きさの
御城印(A6・ハガキ大)と封筒を一緒に収納することができます。
反対側は白の上質紙なので、100名城や訪問先のスタンプ収集にも
(歴史館には100名城スタンプと、来館記念スタンプ3種類があります)
使用できますので、集めたり押したりぜひご活用ください。

お城めぐりをするなら必見の、お世話になっている方も多いと思われます
攻城団様のサイトでも取り上げていただいております。
https://news.kojodan.jp/entry/2024/05/31/100000

《2024年5月の利用者アンケート集計結果》

 この集計結果は令和6年5月1日から同31日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。

常設展示  (5/1 ~ 5/31)
開館日数・・・・・・・・・・・・・27日間 
入館者数・・・・・・・・・・・・・3,162名
回答者数・・・・・・・・・・・・・24人


1.歴史館をどこで知りましたか??
(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・8%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・4%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・38%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・0%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・0%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・4%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・13%
(8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・8%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・13%
(10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・13%

2.歴史館の入館は何回目ですか??
(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・91%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・9%
(3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・0%

3.ご覧になられた感想
3-1内容はいかがでしたか??
   ①大変よかった・・・・・・・・・・・・・79%
   ②よかった・・・・・・・・・・・・・・・17%
   ③ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・4%
   ④つまらなかった・・・・・・・・・・・・0%

3-2最上義光と最上家について??
   ①よくわかった・・・・・・・・・・・・・88%
   ②わかった・・・・・・・・・・・・・・・44%
   ③わからなかった・・・・・・・・・・・・0%
   ④どちらともいえない・・・・・・・・・・0%

3-3施設内容について
  (1)また来館したいですか??
   ①また来たい・・・・・・・・・・・・・・88%
   ②今回のみでよい・・・・・・・・・・・・12%
(2)人に来館をすすめますか??
   ①来館をすすめる・・・・・・・・・・・・100%
   ②来館をすすめない・・・・・・・・・・・0%

4.ボランティアの案内はいかがでしたか
   ①大変よかった・・・・・・・・・・・・・90%
   ②よかった・・・・・・・・・・・・・・・10%
   ③ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・0%
   ④つまらなかった・・・・・・・・・・・・0%

~利用者の声~

東京 女性/20代
興味がある人にぜひ(来館を)すすめたい

栃木県宇都宮市 男性/10代
展示がわりやすく人にすすめたい。ボランティアさんは展示にないことも話してくれて大変よかった

千葉県千葉市 男性/30代
楽しかった、小中学生クイズがよかった。

茨城県東海村 男性/30代
資料わかりやすかった。刀もすばらしかったです。今日黄色い服のスタッフの接客、解説は分かりやすかったし、新設でした。また、チャンスあれば来たいです。

山形市 女性/30代
刀がたくさんあり、ゆかりの刀を知れたので、人にも来館をすすめたい。ボランティアの案内がわかりやすく、他の刀との違いが分かったので楽しかったです。

山形県米沢市 女性/30代
刀だけでなく最上の歴史を知ることができた。ボランティアの方が易しく丁寧に教えてくださってたいへんよかった。

東京都葛飾区 男性/70代
館内の案内に感動しました。沢山の人に知ってほしい。ボランティアの案内によって、何も知らない者がすぅっと歴史の中に入ることができた。太平洋側しか旅行したことがなかったので、ましてや歴史館に入ることなどなかったのでたので、楽しくまたなんとなく修学旅行で勉強したような気分になりました。

秋田県由利本荘市 女性/50代
とても為になりました。今後母を連れてきたいです。

秋田県由利本荘市 女性/60代
ボランティアの方が詳しく説明してくれるので、人にも来館を勧めたい。

神奈川県相模原市 女性/50代
ビデオが展示の前に理解できたので、とてもよかったです。ボランティアの方から質問にわかりやすく丁寧にこたえていただき、山形に対する愛が伝わってきました。飲食禁止のマークを見ましたが、お水は飲ませていたただきたいです。

神奈川県相模原市 男性/30代
歴史好きなら一度見ると勉強になる。ボランティアの話し方に親近感を感じよかった。

福島県福島市 女性/50代
戦国時代が好きなので、ボランティアの方の話を興味深く聞きました。

秋田県大館市 男性/10代
最上義光公の生涯が分かりやすかった。

神奈川県厚木市 男性/20代
短い時間でしたが、歴史好きには堪能できると思います。

北海道札幌市 男性/60代
歴史がよく分かるので、人にも来館を勧めたい。

青森県青森市 男性/30代
ボランティアの方が非常に親切で、また勉強熱心でした(笑)

宮城県仙台市 女性/40代
指揮棒グッズ、お箸とかあったらおもしろいですね。

神奈川県海老名市 男性/50代
とても分かりやすくおしえていただいた。とても分かりやすいので人にも来館をすすめる。今後も新たな発見を楽しみにしたいです。

神奈川県横須賀市 男性/70代
山形県の文化行政に対する意識意欲を感じた。義光公の偉業を前面に出して、山形の誇る英雄として顕彰されるとよいと思いました。産業の礎を築いた文化人として小中学生にも親しまれる展示はいかがでしょうか。

東京都台東区 女性/30代
最上義光の歴史がわかりやすくまとまっている。

神奈川県横浜市 男性/60代
今日の山形市の基礎を築いた最上義光について様々な展示品を通じて詳しくしることができて興味深い。ボランティアの方から大変親身になって分かりやすく解説して頂いた。おかげで歴史事実をよく理解できた。解説の文字が小さく読みづらい場合があった。可能ならもう一回り大きく鮮明な文字にしていただければ展示品の理解がより深まると思う。

※当館サポーターの個人名は「ボランティア」または「ボランティアさん」に変更しています。




令和5年10月1日から山形城御城印が販売されていますが、購入される際に御城印帳の発売も希望される方が多かったため、ご要望の声に応え最上義光歴史館オリジナル商品を制作いたしました。
当館で所蔵している最上時代の城下を描いたとされる絵図および、分限帳に記載されている町名部分を表紙にしています。
山形散策のお供や山形訪問の記録帳として、ご活用いただければ幸いです。

・名  称  山形城御城印帳
・販売価格  3,300円 (税込)
・発売開始日 6月1日(土)
・販売場所  最上義光歴史館 (9時~16時30分)
       (通信販売についてはお問い合わせ願います)
・お問合せ  最上義光歴史館 電話023-625-7101
       〒990-0046 山形市大手町1-53
・商品仕様  42ページ(ジャバラ式)
       本文サイズ 幅133mm×高さ181mm
       ポケット内寸 幅121mm×高さ163mm
       表紙 箔押し(金または黒)+マットPP加工
       ポストカード2枚付属(絵図・分限帳部分)