最上義光歴史館

最上義光歴史館
ログイン
メモ メール アンケート カレンダー ブックマーク マップ キーワード スペシャル プロジェクト
 年末恒例となった「今年の漢字」は「金」でした。一般からの応募数で決まるそうで、これまで行った30回のうち「金」は5回目とのことです。オリンピック・パラリンピックの日本メダルラッシュや大谷翔平選手の値千「金」の活躍、世界文化遺産に登録された「佐渡島の金山」、裏金問題などによる話題性からとのことです。ちなみに昨年度は「税」でして、合わせると「税金」という並びになります。
 当館は入館料無料ということで、つまりは税金で賄われている施設でして、それを念頭に置き館運営に臨んではおりまして、来館者数も目標を上回り、まずは皆様のご来館、ご利用に感謝申し上げる次第ではあります。
 ところで、戦国時代の漢字一文字というと、まず有名なのが、上杉謙信の旗印の「毘」です。自らを生まれ変わりと信じ、厚く信仰していた毘沙門天からとったもので、読み方も「ビ」です。また謙信には、本営に掲げられる「龍」の旗印もあります。「毘」が楷書体なのに対し「龍」はくずし字で書かれており、「懸り乱れ龍の旗」と言われています。謙信は達筆でもあったそうです。
 また、漢字一文字の旗印には、「十」というものもあります。これは十の字であれば何でもよいわけではなく、薩摩鹿児島藩島津氏が鎌倉時代より使用していた家紋で、「島津十文字」と呼ばれています。この十の意味には諸説あるそうで、二匹の竜だとか、箸だとか、十字架だとか、十字をきる呪符だなどと言われています。後におなじみの「丸に十」となるのですが、ちなみに鹿児島市の市章は、「十」を「市」に変形させ「丸に十」型にするというなかなかなデザインとなっています。
 一方、合戦図屏風などでは「五」や「伍」という旗印も見受けられますが、これは単に十の半分という意味ではなく、列伍とか落伍とかの言葉にある「伍」で、仲間という意味であり、「互」に通じるとのことです。これは徳川家康の命を受けそれを伝える使番(つかいばん)という役割の旗印です。
 また、「大」というのもあり、武田信玄の子の勝頼の旗印なのですが、震源の遺言によるものとのことです。信玄の旗印は、「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山」ですが、もしかしてこれでは、文字数が多すぎて大変だったからかしらん。信玄は「南無諏方南宮法性上下大明神」という旗印も使っていたようですが、これもそこそこ長いわけで、例えば、謙信の「毘」にならい「南」とする手もあったかもしれませんが、でもこれではなんか紛らわしいかも。
 一方、一文字ではないのですが、「大」の字を含む暗号のような有名な旗印があります。そうです、石田三成の「大一大万大吉」のことです。「だいいち だいまん だいきち」と読み、その意味は「一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は吉になれる」というものです。文字の並びは独特のデザイン処理がなされ、今で言う「ロゴ」のようなものとなっています。
 徳川家康にも有名な旗印があります。「厭離穢土欣求浄土」、難読なのですが「おんりえどごんぐじょうど」と読み、なんとなく仏像を前に唱えるマントラ(ご真言)のようでもあります。「穢(けが)れた国土を嫌い、浄土の世界を心から願い求める」といった意味で、実は仏教用語です。桶狭間の戦いに際し、窮地に立った徳川家康に、大樹寺一三世登誉天室がこれを教えたとされます。
 と、ここまで述べてきたものの、旗印に漢字を充てているものは意外に少なく、やはり家紋を用いたものが多いようで、最上義光の旗印も「丸に二つ引き」であったようです。その他、何も描かれない無地の旗印も少なからず用いられており、家康は白地という源平合戦に立ち返ったかのようなシンプルな旗印も用い、秀吉は「総金」という無地の金、赤でも白でもないその上をいくような旗印を用いています。これが伊達となると、日の丸だったりするのですが、白地に赤の日の丸の他、紺地に金の丸というかなりオシャレなものもあって、さすが伊達は伊達です。

(→館長裏日誌へ続く)
 当館では、来月から開催する企画展「シン・市民の宝モノ2025」にむけて、山形市民の方から「宝モノ」とする品々を募集しています。今回は陶磁器を対象とし、古今東西、文化的評価にかかわらず出品いただけます。ただ陶磁器限定ということで、最近、流行している土偶や埴輪などの土器は、対象外となるので、また別の機会にでも。
 この「市民の宝モノ」展は以前、10年間程毎年開催していたのですが、一時中断となり6年ぶりに再開するため、「シン」という言葉をつけました。流行に遅ればせながら乗ってみただけなのですがお許しください。
 さて、陶磁器といえば、壺や皿から人形や貯金箱までいろいろあろうかと思いますが、まずは茶碗あたりのお話から。茶碗と言えば「一楽、二萩、三唐津」などと言われており、まあ、その上には唐物とか高麗の茶碗があるのですが、まずは楽焼のことを少々。
 この「楽焼」という名称ですが、「楽しい焼物」とか「楽ちんな焼物」とかいうことではなくて、まあ、そんなところもあるかもしれませんが、千利休が瓦職人であった長次郎に作らせたのが始まりです。長次郎が聚楽第の瓦を製造したことで豊臣秀吉から楽の印判を賜り、聚楽焼と称したといいます。また、聚楽第建造時に掘り出された土(聚楽土)で茶碗をつくったからともいいます。千利休と聚楽第のいずれも豊臣秀吉とは切っても切れない関係であり、つまり楽焼の発生は、戦国時代の最中にあります。
 楽茶碗は、轆轤(ろくろ)を用いない手捏(づく)ね、つまりは手の中で茶碗の形をつくり、箆(へら)で形を削り上げます。掌にしっくりと納まり、やや肉厚であるため、熱の伝導を抑えられ飲み口の触感もいいのです。素焼きの後、釉薬(ゆうやく・うわぐすり)をつけ本焼きします。楽茶碗には主に「赤楽」と「黒楽」があり、赤楽茶碗は800℃程度、黒楽茶碗は1000℃程度で焼きます。
 伝統工芸などは通常、一子相伝などで代々その技法が伝えられていくものですが、楽家の場合そうした技術伝承はなく、むしろ先代と同じ作風を良しとしないという特徴があります。長次郎の時代からの「手捏ね」という技法こそ守られますが、その他は個人に委ねるもの、例えば、釉薬の調合については教えもせず、書き残しもしないそうで、試行錯誤で作るとのことです。結果、同じ楽家の楽茶碗と言っても、代々それぞれ違うものとなります。
 京都にある楽美術館は、展示室はこじんまりとしていますが、初代長次郎から当代(今は16代)吉左エ門まで代々の楽焼が展示されています。同じ場所に代々の作品が並ぶと、その違いがわかります。それは先代と当代とが新規と回帰とを振り子のように行き来している感じもします。一番分かりやすいのは14代吉左エ門(覚入)と15代吉左エ門(直入)と比べたときの違いです。14代の安定感のある作風に対し15代はそれまでの楽家にはない前衛的なものですが、15代に言わせると、自分は初代長次郎に立ち戻ったものであるとのこと。なるほど、今でこそ、長次郎の作品は茶道の王道のように思われているわけですが、当時、珍重されていた唐物などの茶碗からすれば、ざらざらとして真っ黒い茶碗などとんでもなく斬新なもので、それを考えれば納得できます。
 15代の茶碗には、焼成温度を1,200度まであげる「焼貫」という技法で仕上げたものがあり、それはまさに大気圏を突き抜けてきた隕石のような趣があり、その形も飲み口をどうするかわからないような険しいものです(本人は飲みやすいところを飲み口にすればいいと語っていましたが)。14代のオーソドックスな作風からアグレッシブな15代となったとき、正直、かなり面喰ったのですが、作品を見ていくうち、その技法や考え方に圧倒されることしきりで、現代の作陶そして伝統の継承とはこうあるべきだろうなと勝手に思うに至っています。
 さてここで、茶碗の良し悪しについて少々。以前、楽茶碗を作っている方からきいたことによると、まず見た目より軽いこと。つまりは無駄に分厚い茶碗になっていないことです。そして外側より内側が大きく見えること。物理的にはあり得ないのですが、確かに内側が大きく見える茶碗があります。また、高台がだらしのないものでないこと。気持ちが抜けている高台というものはなんとなくわかるものです。単にきれいな細工だからよしということでもありません。高台際の釉薬の具合が見所という茶碗もありますが、高台に釉薬がかかっていないものもあります。茶碗の見所は見込み(内側)と高台だとは言われていますが、見込みと高台の両方を見るとかは展示では困難で、お道具拝見などで手に取って重さなどもはじめてわかることではあります。もちろん、色合いや様子には、好みや偶然性もあるので、それぞれかと。
 思わず楽茶碗について云々してしまいましたが、今回の「シン・市民の宝モノ」展は、何もこういう品物ばかりを求めるものではなく、古今東西、エピソードに溢れた身近な品こそ大歓迎です。特に茶碗などは「伝」や「写」などが少なからず流通しているのですが、いっそ、楽吉左エ門ならぬ楽吉右衛門とか、加藤唐九郎ならぬ加藤唐十郎とか、北大路魯山人ならぬ北大路魯仙人とか、堂々とした珍品迷品があれば、それはそれで話題にもなるというものです。

(→館長裏日誌へ)