最上義光歴史館

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【斯波兼頼/しばかねより】 〜山形を政治の中心とした〜

 出羽国最上郡、山形の地にはじめて城を築き、ここを政治の拠点として出羽を治めた人物が、斯波兼頼である。
 北朝年号延文元年(1356・南朝正平11年)8月6日に山形に入部したとされる。
 時はまさに、全国的な南北朝動乱のさなか、兼頼は出羽国の探題(地方政治を監督する役職)に任ぜられ、今の宮城県北部の大崎地方から、はるばると奥羽山脈を越えてきたのであろう。
 その年は、今の宮町慈光寺境内にあたる「西根小但馬」の屋敷で年を越し、翌年山形城を築いて、ここを政治の拠点としたという。当時の常として、城は四方百数十メートル程度の小規模な館といってよいようなものだったと推定される。
 夏は高温となって農作に恵まれ、冬は比較的に雪が少なく、地震や風水害も少ない。この地に城を築いたことが、都市・山形発展のきっかけとなったわけである。
 兼頼は、敵対する近隣の豪族と戦い、あるいは連携し、室町幕府足利将軍の一門として、
地域の平和と安定をめざして政策を遂行しようとしたのだろうが、どうやら出羽国全体(現在の山形・秋田両県)を支配するには至らなかった。
 山寺立石寺の復興をはじめ、山形周辺の寺社を修復したり新たに建立したり、また寺社領を寄進するなど、神仏を大切にして、民衆の教化をはかったらしい。
 応安6年(1373・文中2)の秋、兼頼は東山に狩にでかけた。今の二口街道沿い、高瀬地区あたりの山野であろうか。
 一日狩をたのしんでの帰り道、彼は漆山の念仏堂で、他阿上人元愚和尚が説法をしているのをたまたま聴聞し、その教えに深い感銘を受けたという。
 「国々両方、合戦絶えず、飢渇なり」と山形市岩波の石行寺の写経の奥書に書き記されたとおり、戦乱・疫病・飢饉がしきりに起こった世相を見つめ、戦いに明け暮れた自分の半生をかえりみて、心に期するところがあったのだろう。兼頼は、元愚和尚に帰依して戒を授けられ、仏門に入って法名を「其阿」と名乗った。58歳だった。
 それ以後、彼は嫡男直家に跡をゆずり、城内に庵を結んで、ここでしずかな信仰生活を送ったという。この庵が、現在七日町にある時宗の名刹「光明寺」のはじまりとされる。
 康暦元年(1379・天授5)6月8日寂。正和5年(1316)1月15日生れとされるから、没年は64歳であった。
 兼頼を初代として、子孫は地名をとって「最上氏」を称することとなる。清和源氏、足利流、最上斯波氏。武家の名門である。
 第11代最上義光は、光明寺に1,760石の田畑・山林を寄進したが、これは400箇寺に及ぶ全国時宗寺院のなかで、最大の寺領である。義光がどれほど兼頼を尊崇したかが、
ここに表れているといってよいだろう。
 兼頼が山形に城を築いたことが、現在の山形市のスタートであり、その意味では兼頼こそが都市山形の生みの親と言ってよいだろう。
 ちなみに、霞城公園内の一角、桜の木立に囲まれて、彼のレリーフが建っている。また、
香澄町の通称「公園通り」には、その銅像が立ち、道行く人々にやさしい眼差しを投げ掛けている。
■■片桐繁雄著