最上義光歴史館

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山野辺義忠とその時代

 平成12年は「慶長出羽合戦四百年」に当たり、各地で記念行事が開催されたのは記憶に新しい。それらを通して感じられるのは、近年の最上義光の人物像の再評価である。以前は何故こういう評価になるのか、不思議に思う文言が多かったのである。しかし、山形市・武田喜八郎氏は自筆書状の文体・文言からの人間性への提言があり、最上義光歴史館・片桐繁雄氏は多様な資料を駆使して解明を深め、「山形合戦」の鈴木和吉氏は実地を自分の足で歩きつつの考察等があり、真の人物像が構築されていくのは嬉しい極みである。
 平成13年の山辺町では、山野辺義忠の山野辺城入部四百年に当たり、当ふるさと資料館では「特別記念展」を開催して彼の業績と生涯を紹介した。実は、義忠の人物像については義光の場合と同じく一面的で客観性が無く、時代的背景を考慮しない内容で書かれた場合が多かったのである。しかも、それでも当地方では「神様・仏様、そして義忠公」というように、特別に高い地位を与えられてきた独特の存在でもあったのである。
 それでは、「義忠」はどういう人物で、時代をどう生きたのだろうか。彼は最上義光の四男として生まれたが、現在の大石田町深堀地区出身の女性を母とし、楯岡城主楯岡氏の庇護を受けて育ったのではないかという説がある(伊藤芳夫氏、後藤嘉一氏)。その縁であろうか、慶長五年、13歳で楯岡城代に就き、翌年、1万9千300石・山野辺城主となって入部している。山野辺家系図は義忠が最上家の證人(人質)として徳川家康の許におもむいたことを記録し、彼に「将来恐るべき怪童である」と言わせたと伝えられている。
 彼の領主としての業績のひとつに釣樋堰の改修がある。宮宿方面に西流する鵜川を畑谷の途中で分水して山形盆地に流れるこの堰は、上反田で上江堰(相模地区中心)を開き、沢江堰(若木・古館等)との二つに分け、現・山辺町南部の灌漑用水の安定を考えている。次は寺社への対応で、創設・優遇した寺等、それぞれに使い分け、その位置も分散して城下町としての万一に備え、同時にそれらに繋がる領民の精神生活の統一と安定を図っている。地理的にも周辺地域の中心に位置するので領民の生活の利便を考え商業の繁栄策をとり、後の九斉市につながっている。城下町としての縄張りは近世のことなので比較的単純であるが、道路の三叉路や喰違いの部分があちこちに散在していることにその面影が偲ばれる。それらを総合した城郭は中世においては最上氏に属する「山野辺氏」が当地方を支配し、白鷹丘陵から山形盆地に突き出た形の舌端部の小高地に主郭、その周辺に副郭がめぐらされていたのを、義忠はそれらを本丸、二の丸としつつ、さらに三の丸を計画し、西方は山岳地帯になるので四の塀を備え、全体としてまとまった城下町を形成している。
 ここで興味深いのは、義忠の行った業績をさらにスケールを大きくしてみると、義光が全て成し遂げているのである。つまり、偉大な父・最上義光の業績を模範として、領内ですばらしい治世を展開している。だからこそ、長い江戸時代の僅か約20年間の治世なのに、「名君」としてその名が語り伝えられている。最上家では義光の後の家親が頓死して義俊が継いだが、義俊を支持する派と山野辺義忠を宗家にという派に分かれてしまい、「最上百万石」と称される義光の偉業が崩れてしまった。この間の経緯については他の大名家の記録等、「第三者」の資料をもっと検討・研究し、真実に迫る必要があると思う。「武家諸法度」「武士道」等、当時の武家社会の規範を考えると、彼の行動は時代の中で生きているのが分かる。後に水戸・徳川家に客分家老として一万石で招かれ、その子孫は藩主・徳川家と婚姻関係を深め、その補佐役となっている。彼の人生は山形の地では開花不十分でも、水戸・徳川家においては考えられない程の大活躍をしているのである。

■執筆:後藤禮三(山辺町ふるさと資料館館長)「館だより?9」より