最上義光歴史館

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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【本城満茂 (1)】


 本稿では、本城満茂に関わる考察を展開していく。本城満茂は、最上氏支族楯岡氏の出身で、義光の傘下に加わった後は最上勢の中核として各地を転戦し、特に仙北地方の係争において功績が大であった最上家家臣である。関ヶ原合戦後、最上家は庄内・由利地方を加増されたが、本城満茂は由利地方の統括者として同地に転封され、由利郡の統治並びに近隣大名の佐竹氏との折衝の窓口となった。由利郡に入封されるにあたって本城満茂は最上家最大である四万五千石の知行を配当されており、最上家中の重鎮としての機能を最上義光から期待されていた人物と捉えることができよう。なお、本城満茂は時期によって楯岡・湯沢・赤尾津と名字を変更しているが、本稿では原則的に「本城」で統一した。

 さて、本城満茂に関する先行研究は、前述した鮭延秀綱・志村光安に比べ蓄積が大きい。しかし、そのほとんどが関ヶ原後由利郡へ移封された後のもので、本城氏の家系に関する諸問題や本城氏が最上家家臣団へ組み込まれ、由利へと移るまでの動向はおざなりにされ、先行研究にも疑問点が多い。再検討を行うべき余地は大きいと言えるだろう。
 本城氏に関する研究に先鞭をつけたのが姉崎岩蔵氏である。姉崎氏はその著書『由利郡中世史考』(注1)で、古代から近世にかけての由利の歴史に関わる史料を収集、考察検討を加えたが、その収集作業のなかで本城氏の子孫と交流を持ち、残存していた古記録・系図・書状史料を見出し、世に出した。姫路酒井家の家臣本城氏が由利本城氏の後裔であることを決定付け、最上家統治時代の由利郡に関して本城城の築城時期を慶長十五(1610)年であるとし、新出の古地図を元に城下町の区画を検討した。また、楯岡氏と由利郡本城の地名についても触れ、楯岡氏の本姓が本城であり、これを在地名にした可能性を示唆している。

 姉崎氏以後、北国日本海沿岸地域の政治状況と中央政権・地方大名政権との関連を中心に据えた検討を押し進め、本城氏に関する問題を包摂したいくつかの優れた論証を発表したのが長谷川成一氏である。氏は『本荘市史』(注2)において、姉崎氏の行った考察の矛盾点を解消しつつ、元来由利郡に割拠していた国人衆がどのように最上氏領国へ組み込まれていったか、また移封された本城満茂が由利支配をどのように実行したかを検討し、由利本城氏に関する基礎研究に多大な成果をあげた。さらに、氏の論考で注目されるのが、幕藩体制成立期における出羽国の社会状況について考察した「慶長・元和期における出羽国の社会状況 ――山落・盗賊・悪党の横行と取り締まり――」(注3)である。慶長十四(1609)年に発生した越後「金鑿衆」(かねのみしゅう、金掘職人の意)が山落(やまおとし、山賊・盗賊の意)の手によって大量に殺害された事件をモデルケースにして、最上と佐竹の連携を示す書状史料を軸に、領主の司法警察権力と、山中に盤踞している武力小集団とのせめぎ合いを浮き彫りにしたこの論考は、本城氏の政略動向を検討しようとする本稿に大きな示唆を与えるものである。

 ただし、長谷川氏の論考はあくまで由利郡の支配を中心に据えたものであるから、本城氏が由利に入部する以前の動向や諸問題に関する検討は比較的手薄である。ゆえに、検討の余地があると思われる。
<続>

(注1)『由利郡中世史考』(姉崎岩蔵 矢島町公民館 1970)
(注2) 『本荘市史 通史編1』(本荘市 1987)
(注3) 『「東北」の成立と展開 : 近世・近現代の地域形成と社会』所収 (沼田哲 編 岩田書院 2002)


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