最上義光歴史館

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山形藩主・最上源五郎義俊の生涯

【三 改易への道】
   
 元和六年(1620)三月、先に述べたように、二人の目付派遣から始まった山形藩への監禁は、翌七年より「山形御横目衆として石丸六兵衛・稲村(今村)伝四郎」、またその翌八年三月より「華房弥左衛門・岡田新三郎」と、連続して目付派遣を見るに至った[注1]。改易の日を迎えるまでの二年五ケ月の間、家中騒動の調停を目的としながらも、幕府の監視下に置かたのも同然の山形藩では、藩主擁護の現状維持を訴える松根備前守光広と、山野辺義忠を頂点とする一派との力の相剋が、少しも衰えることなく拡大への道をたどっていたのである。
 同七年(1621)六月吉日、義俊は大沼浮島稲荷神社に二基の石灯篭を奉納した。この熊野宝前と大沼大明神の石灯篭銘文の内容は、ほとんど変わりはない。しかし、この銘文からは、家中の騒動の渕に身を沈め、如何とも仕難い自己無力さをさらけだした、苦衷に満ちた義俊の姿を、はっきりと汲みとることができるのである[注2]。
 その銘文の一節の、「伏して願はくは、神諦に遵ひ、哀納し、無二の懇志を以て、武運をして続かしめ、国家をして孫々に保たしめんことを、无(無)限の神明に丹祈し、知見を定めん」の字句からは、義俊の最上家の前途に危惧の念を抱きながらも、己の非力を自覚して神の力にすがるべく、真心から神に祈りを捧げ、知識と見識を定めようと、必死に願っていることが判る。
 この銘文に込められた、義俊の必死の願いから、家中に立ち込める暗雲の中で、それを打破するはどの己の力量の無さと、加えて藩内勢力の趨勢から我が身の立場の不利を悟り、ただ々々神仏にすがるより外はない程に、瀬戸際に負いつめられた、義俊の姿を垣間見ることができる。
 義俊はこの必死の祈願を終えた後に、江戸に向かったものか、近隣の佐竹義宣は二月末に、また伊達政宗も八月には江戸入りをしている。そして、秋から冬の時期にかけて、義俊は佐竹義宣と、茶の湯の席にて顔を会わせていたことが、梅津政景の日記[注3]から知ることができる。
  
 (イ) 十月十三日、最上源五郎殿へ来ル御数寄可有由、兼而御約束御申候へ共、御城御数寄相極候ハゝ、明後かや橋へ御出可有由候て、被仰分候御使ニ参候、
 (ロ) 十一月十日、朝、最上源五郎殿数寄ニて御出被成候、御相客近藤石見殿・牟礼郷右衛門殿、
 (ハ) 十二月十六日、晩、最上源五郎殿へ御振舞ニテ御出被成候、
 
 十月十三日、佐竹義宣は江戸城内での茶会に出席のため、義俊の招請を謝辞する。十一月十日、義俊は義宣の茶会の席に招かれた。合客の一人の牟礼郷右衛門は、一昨年九月に山形に検使して派遣され、義俊、義宣共に面識のあった人物である。十二月十六日、義宣は義俊の招待を受け最上邸に赴く。
 この時期の政景の日記には、義宣と諸大名や幕臣達との交流を示す記事が多く見られる。このように江戸での武家達の社交の一環として、茶席を設けて互いに親睦を図っていたことが判る。義俊にしても、喧騒の渦中にある国元を離れた江戸の地で、相手が義宣だけではなく、他の人物ともこのような席を設け、互いの親交を図っていたことと、十分に察することができる。この年かと思われる十二月廿二日付の義俊書状に、「一書申入候、仍明後日廿五日朝、藤堂和泉殿振舞申候、云々[注4]」と、津藩主藤堂高虎を朝の席に招待していることから、政景日記の記事とを併せ、義俊の江戸での私的な面の一端を、僅かながらも知ることができる。
 また、寒松の[日暦[注5]]によれば、十月十二日、足利より江戸に入った寒松は、廿三日には「快晴、午往最源相逢」と、最上邸を訪れ義俊と会ったことを書き残している。そして廿五日、江戸を離れる寒松に対して、義俊は贈物を届け謝辞を表した。このように、寒松との接触が絶えず保たれていたことは、この時期の義俊にとっては、寒松が多分に心の大きな支えになっていたものと察せられる。重ねて思うには、この時期あたりまでが、義俊にとっては僅かに残された安穏の日々であったであろう。
 明けて元和八年(1622)三月九日、佐竹義宣の家臣への書状から、最上家重役達の「公事」について、未だ解決していないことが判る。
 
 最早源五郎殿年寄共の公事、干今不相済候、源五郎殿ハ御かまいなき分にてハ候へ共、内々にて御指図なとも有やうニ沙汰候、又町屋なとに御座候而、傾城狂なと被成、不似合行儀之由、取さたにて候、御酒過候へハ、生もなく無行義之由、皆々御物かたりニ手、さやうニ候へハ、今般之公事之様子ニより、御身上あぶなきと、爰元にて皆御物かたりニ而候[注6]、

 この書状に見える年寄共の「公事」とは、一体何を意味するものなのか。恐らく国元での藩内抗争が決定的な局面を迎え、その決着を着けるべく、いよ々々その裁定を幕府の手に委ねるべく起こした裁判に違いない。政景日記からの昨年末の義俊の動きから見れば、この訴訟が江戸表に持ち込まれたのは、おそらく年明けてのことではなかったか。この訴訟を起こしたのは、義俊擁護の松根備前守光広だという。

 これ義俊若年にして国政を聴事を得ず、しかのみならず、つねに酒色をこのみて宴楽に耽り、家老どもこれを諫むといへども聴ざるにより、家臣大半は叔父義忠をして家督たらしむことを希ふ、しかるにひとり松根光広のみ肯はず、且家親が頓死せし体、毒殺にうたがひあり、義忠および小国日向光松・鮭延越前秀綱等逆意よりいたせるところなりと訴へ申せしにより、云々[注7]

 この最上家史料による言い分は、家中の大半が酒色に溺れ、周りの意見に耳を傾けない義俊を排し、人望のあった義光四男の山野辺義忠を、家督にと望む勢力に対し、ただ義光甥の松根光広のみが反対したという。そして、家親の死が義忠一派の毒殺によるものと、これを訴訟を起こした一因とした。
 しかし、この最上家内部の抗争の実態については、確たる史料も無く細部については知る由もない。また巷に流れる家親頓死説についても、これを全面的に認めることはできないのである。ただ、はっきりしていることは、元和六年(1620)三月に始まった目付派遣は、最上家内部の恥部を世に知らしめ、それが二年後の「公事」事として、完全に表面化したということである。
 諸史は松根光広が家親の死因に、山野辺一派が関わっていたと訴えた、という。しかし、これが光広が起こした主たる訴因ではなかろう。そこには、山野辺・楯岡、松根と同じ最上の血を引く者同志の、主導権争いに決着をつけるべく、藩主擁護の立場を表す光広が、幕府にその裁定を委ねたことにある。重ねて述べるならば、家親の死因については、これを裏付ける確実な史料も無く、いつまでも従来の説にこだわるべきではない。
 さらに、この三月九日付の書状からは、義俊の酒に溺れ傾城狂いに身を持たせた姿を伝え、今回の公事の成行きによっては、義俊の身上も危うくなるだろうと懸念している。このように、この度の最上家の一件が義俊には「御かまいなき分」とはいっても、義俊自身の身持ちの悪さが、災いのもとになるのではと示唆した。続いて四日後には、「山形之儀無落著候ハゝ御暇ハ出間敷候と見へ候[注8]」と、山形の公事が解決せねば、義宣自身の帰国もままならないだろうと、隣国に起きた不祥事の余波が、義宣にも及んで来たことが判る。
 続いて三月二十四日の書状には、「最上之くじ干今不相済候、源五郎殿身上、縦此度ハ何事なく候共、三年ハ続間敷由唱に而候、此中之行義之躰、更々人外之由にて候、酒ニ被酔候ヘハ、きちかいにて候由、各御前衆かくしたいなく、くかいにての取沙汰にて候間、きしきニて可有之候[注9]と、義俊の手に負えない酒乱の癖を伝え、義俊の身上ももう三年は続かないだろうと、若き藩主に対して深い憂慮の念を表している。先に東根景佐が遺言状に、「もかミの御国三年と此分ニあるましく候」と書き残したように、景佐の杞憂が現実となって目前に迫っていたのである。
 やがて改易の時を迎えるまでの間の動きを、[細川家史料]から関連箇所のみを拾い、列挙してみる。

 (イ) 七月廿八日、最上身上も近々可相果様ニ執沙汰仕候、見及申候躰も左様ニ御座候事[注10]、
 (最上義俊が近々改易されるとの噂があるが)
 (ロ) 七月晦日、当最上身上之事、一昨日相済申候、御意ニハ祖父、太閤御代より御心入を仕、其子駿河幼少より江戸二相詰致御奉公候間、此度之儀者、新敷郷御国被下候由ニ而、悉相済申候[注11]、
 (最上の公事も廿八日に終わったようで、祖父以来の忠節の家柄故に、幕府は国替えで決着を着けた。新知六万石という)
 (ハ) 八月十日、最前も身上候最上事、御前相済申候通被仰出候へとも、家中之者共色々儀申候而、むさと仕たる様子ニて、御礼も相済不申候事[注12]
 (この書状から知ることは、最上家重役達が国替えの決定に異議を唱え、それにより再び家中紛争の状態となり、義俊の将軍へのお目見ができなくなったという)
 (ニ) 八月十三日、最上身上可相果之由候、是者何之故候哉、便宜ニ可承候事[注13]、
 (細川忠興は最上家改易の噂を聞き、その訳を忠利に問うている)
 (ホ) 八月十六日、最上事も被成御免、今度新敷御国を被下候と恩召候段、被仰出候へ共、年寄共両人申候ハ、任御綻国へ参候共、又色々の儀可在候間、最上を守立申儀ハ罷成間敷之由、申上由候、何と可被成も知不申候[注14]
 (十日の時点で、重臣達の国替えの裁定に不服を唱えたことが判っており、その理由が国替えとなっても家中の対立は続き、最上の家を守ることは出来ないと、あくまで国替えを拒否した。この「年寄共両人」とは、山野辺義忠と蛙延越前と思われる)

 この多分に真実性のある史料から、改易直前の慌ただしい空気に包まれた、幕府対最上家の対立の構図を見ることができる。しかし、そこには藩主義俊の姿は見えないままに、二十一日、遂に破局を迎えたのであった。[梅津政景日記]は次のように伝えている。
 
 去廿二日之御日付ニ而江戸より御飛脚辰刻ニ参着、半右衛門所へ之御状之趣致拝見候、様子ハ、もかミ源五郎殿御下衆公事之事御前公事ニ罷成、公方様被仰出ノ分ハ、出羽守・駿河守御奉公致候間、此度之儀ハ被御免候間、如前ニ年寄共国之仕置可仕由被仰出候所ニ、罷成間しき由御請申上候由、就之、御直ニ御仕置可被仰付旨、公方様被仰出、云々
■執筆:小野末三

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[注]
1、[最上氏収封諸覚書] (『大日本史料・12編47』)

2、阿部酉喜夫[最上家信奉納石灯篭の銘文について] (『羽陽文化111号』昭45年)
 阿部氏は、大沼浮島稲荷神社所在の二基の石灯篭に刻まれた、風化の進みつつある銘文の解読に力を注いだ。藩内抗争の最中に巻き込まれ、如何とも仕難い立場に置かれた義俊の姿を、この銘文から見ることができる。

3、[梅津政景日記] (『大日本古記録』)

4、[蜷川文書] (『山形市史・史料編1』)

5、[日暦] (『川口市史・近世資料編3』)
 寒松は足利学校から芝(現川口市)の長徳寺、そして江戸へと絶えず行き来をしていた。この年の十月、数日前に江戸入りした寒松は、十五日に登城し将軍に謁見、その帰路には幕閣の酒井雅楽頭を訪ねている。寒松の江戸での日程は多用を極めていた。

6、[天英公御書写] (『大日本史料・12編44』)

7、『寛政重修諸家譜・巻八十』

8、[注6]と同じ

9、[注6]と同じ

10、[部分御旧記] (『大日本史料・12編47』)

11、[注10]に同じ

12、[細川家史料] (『大日本近世史料』)

13、[注12]に同じ

14、[注10]に同じ