最上義光歴史館

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山形藩主・最上源五郎義俊の生涯

【二 試練の元和六年】

 元和四年(1618)九月の、藩政監察を目的とした幕府検使の派遣が、果たして最上家内の不穏な空気を、どこまで察知し得たであろうか。そして、同六年(1620)三月、目付として今村伝四郎、石丸定政が山形に派遣された。「同十八日、今村伝四郎、石丸六兵衛監使トシテ羽州最上ニ赴ク、翌年四月、江戸ニ帰ル[注1]」、また「同日、最上源五郎家中申ふん有之ニ付而、両方之様子御聞可被成ため、今村伝四郎、石丸六兵衛、為御上使、羽州エ被遣[注2]」と、幕府監使派遣の目的を、具体的に家中騒動の調停のためとしている。
 この目付の派遣が、幕府独自の最上家内情の把握によるものなのか、それとも家中で相対峙する二つの勢力が、ともに幕府の介入により、諸案の解決を望んだものなのかは定かではない。いずれにせよ、数年後に訪れる最上家大破への決定的な第一歩を、確実に踏み出したことには間違いないであろう。
 この元和六年(1620)の目付導入という立場に置かれた最上家が、また一方では公的な勤めを果たすべく、江戸城普請手伝いを課せられた年でもあった。この年は江戸城の拡張工事と、大坂城修築が行われた年であり、江戸城の助役は大体は関東以北の大名に課せられた。この年の工事については、「其地御本丸御普請弥来々年之由、得其意事[注3]」と、既に二年前には決定していたようだ。

今年、築江戸城諸箇所石壁、平石壁者、自内桜田至清水門、升形者、外桜田・和田倉・竹橋・清水門・飯田町口・糀町口等也、米沢中納言景勝・松平陸奥守正宗・佐竹右京大夫義宣・松平下野守忠郷・最上源五郎義俊・南部信濃守利直、勤役之[注4]、
 
このように、江戸城の普請手伝いは、すべて東北諸大名に課せられている。その中から、(イ)米沢藩、(ロ)仙台藩、(ハ)秋田藩の三藩は、次のように伝えている。

(イ)[上杉年譜] 元和六年春二月五日、江城隍塹石壁ノ経営アルへキ旨アリ、コレニ依テ諸将二命シ御手伝アルヘキヨシ、
(ロ)[貞山公治家記録] 此日 (二月十一日)、江戸御二丸大手口升形ニ石壁御普請ノ義、公へ仰付ラルノ旨御触アリ、
(ハ)[梅津政景日記] 二月廿五日、江戸御普請、景勝様、正宗様、下野様、源五郎殿へハ御催促二候へ共、殿様へハ御触無之由、
 
 この三藩の記録を見るように、二月中には手伝いの命が下っている。この中で秋田藩については、どのような事情があったのか役を免ぜられており、事前に準備をしていた手伝衆を帰国させている。山形藩については、家譜の類いは何も語ってはいないが、惣奉行に任ぜられた和田左衛門に関わる書状などから、僅かながらも、その時の状況を知ることができる。

   「東根薩摩守景佐外連署書[注5]」
     以上
此度江戸御普請御本役ニ被仰付候、依之先達如申越候、貴殿乍御大義惣奉行ニ被仰付、随而貴殿少身と申、支度も成兼候ハンと被思召、為合力与銀子壱貫目、八木(米)弐百俵被下候、於其元ニ原美濃・中山七左衛門御請取候て、御支度をも御申尤候、右両人之衆へも様子申越候、尚江戸へ御立へ候定日者、重而可申入候、恐々謹言
    三月八目        東根薩摩守
                   景佐(花押)
                楯岡甲斐守
                   光直(花押)
    和田左衛門殿        
           人々御中

 この手伝いの惣奉行を命ぜられた和田左衛門が、少身が故に支度もままならぬだろうと、藩からの物品の援助を与えていたことを伝えている。左衛門の禄高については、慶長十七(1612)年五月発給の安堵状には「三百九拾石」、また最上義光分限帳には「四百拾壱、六石」とある。[和田氏系譜] によれば、父の越中守正盛(二千七百九拾五石)と共に勤仕していたが、正盛は慶長十九年(1614)の一栗兵部の乱で討死している。この折りに左衛門の妻女が兵部の女であった故に、父の遺領を継ぐこともできず、従来の自己の禄のままであった。改易後は庄内に入った酒井家に仕え、四百石を給され足軽頭となっている。[注6]
 この助役が山形藩五十余万石の表高通りに課せられた、「本役」に関わる財政的負担の大きさは、他の藩にしても同様であったろう。秋田藩に於いては、この年の手伝いが奥州大名に課せられるとの報に接すると、未だ催促を受けない内に命ぜられることを予想して、諸在郷の給人知行地と蔵入地に触を廻し、百五十石に一人、十九万六百石に千三百七十一人の人夫を割付け、また「おつなの御用」として「あおそ」を買い集める手筈を整えていた。実際に助役は任ぜられなかったが[注7]、普段からその方策は、油断なく立てられていたのであった。
 また仙台藩に於いても、他藩とは持ち場の広さなどの違いはあるだろうが、「此人夫四十二万三千百七十九人半、御入黄金二千六百七十六枚五両三分[注8]」と、莫大な出費があったことを報じている。山形藩も、これと似たような出費を強いられたことであろう。
 この工事の終了時はいつ頃であったろうか。各藩それぞれ持ち場が異なることから、終了時も一定してはいなかったであろう。その中で、伊達政宗と上杉景勝宛の、工事終了に対する将軍からの慰労の書状の日付が、十一月廿一日とあることから、各藩もこの月あたりまでには完了していたのではなかろうか。山形藩に於いては、このような書状は見あたらぬが、楯岡甲斐守と惣奉行の和田左衛門宛の、義俊よりの書状が残されている[注9]。

(イ) 以上
一書申候、仍其許就御普請、炎天之時分骨折共大儀之至候、併弥計行候由、御普請奉行衆被仰下候条、悦入候、迚之儀ニ候間、何も油断様、精を入可被申候、猶内膳・正兵衛可申候、
        七月廿一日          家信(判)
          和田左衛門とのへ  
(ロ) 以上
今度清水御門之御普請相究、上様御機嫌能、万々仕合共之由、満足不過之候、然者此方替儀無之候条、可心安候、猶重而可申候、かしく
        九月朔日           家信(判)
          和田左衛門とのへ
(ハ) 以上
今度清水御門和田蔵之丁場、仕合能早々出来候由、旁精入候故と大慶不過之候、日夜苦身共大儀候、猶朝比奈讃岐可申候、かしく
        九月廿六日          家信(判)
          和田左衛門とのへ

 この義俊の左衛門への心からの労いの言葉は、惣奉行として工事を統括し、無事その任を果たした左衛門にとっては、一栗兵部の乱での汚名挽回の意味をも含めて、最高の喜びであったに違いない。
 また義俊は、当時の江戸藩邸を取り仕切っていたと思われる楯岡甲斐守にも、次のような感謝を込めた書状を書いている。山形に在っては幕府目付の詮議が続いていたであろう。その中での江戸城普請手伝いの軍役を果たした喜びを、この書状から伺い知ることができよう[注10]。

今度清水御門之御普請相究候、上様御機嫌能、万々仕合之由、満足不過之候、随而御普請ニ付、日夜被人精候由、殊ニ其方手前雑作共之由、大儀ニ候、然者此方替儀無之候間、可心安候、猶重而可申候、恐々謹言
   九月朔日
        山源五
 楯岡甲斐守殿     家信(花押)

 この年の六月、将軍秀忠の女和子が後水尾帝の中宮として、入内する慶事があった。その上洛の際の供奉の列には、多くの譜代の衆が連なっていた。これに関して細川忠興が忠利宛の三月五日付の書状には、「御供ハ会津下野殿・もかみ殿・鳥居左京殿、御年寄衆ハ対馬殿・雅楽殿御上候ハんかと申候[注11]」と、義俊が供奉の列に加わるのではという、風聞があることを伝えている。この噂の根拠については知る由もないが、この時期に他家文書に取り沙汰されている義俊の姿があったのである。
 この幕府目付の受入れと、軍役の一端としての普請役を担った最上家にとっては、内外ともに多難な日々であったといえよう。目付を受入れての藩内情勢については、その詳細については知る由もないが、恐らく等しく身に迫る緊迫感の中で、ただゝゞ推移を見守っていたのであろう。この時点に於いて、藩内を二分しての内部抗争の実態については、これらを示す事例を見つけ出すことは難しい。
 ただ、この内部抗争の中で、義俊に好意を示していたと思われる東根薩摩守景佐が、その書き残した遺言状に、最上家の前途を明確に暗示した箇所がある。それは当時の藩重役としての景佐には、藩内抗争の渦の中に幕府の手が入った現状に、最上家の運命を決定づける程に、もう抜き差しならぬ事態までに追い込まれていることを、熟知していたのである。
 この元和六年八月七日付の、子息の源右衛門頼宜に宛てた、「金銀の覚」・「ゆい之物覚」から成る長文の遺言状[注12]から、主家に関わるものを抽出し、任意に箇条書きにして述べてみる。

(イ)我等相はて候ハゝ源五郎さまへつきめ(継目)の御札あがり可申候、
(ロ)源五郎さま御はうこう(奉行)返しさんましく候、よくゝゝ申上可申候、我等事ハ代々殿さま御第一ニ心かけ申事きゝつたへ候事もあるへく候、少成共ゝ殿さま御はうこういたし候て、御さたのかきりにて候やうニ心けかんやう(肝要)ニ候、
(ハ)殿様へ大くりげの馬さし上申可然候、
(ニ)此度身上の外ニ金銀をただ申事も、もかミの図三年と此分ニあるましく候、せめて御国かへニも候ヘハ、いつともにて候なんそ出入候て越後・ すわ・かしまなとのやうニ候ハん事がんぜん(目然)ニ候、

 このように、景佐は己の死後も代々仕えてきた最上家への、第一の奉公を忘れずにと懇々諭しながらも、主家の行く末を「もう三年ももたないだろう。せめて国替えで済まされればよいものを」と案じ、主家に迫っている危機を、身をもって感じていたことが判る。二年後の改易を迎える際、幕府の最上家の「公事」事の解決策は、最初は禄を減じての領地替えであったという。それが、山野辺義忠などの強固なる反対により、最悪の事態を迎えたのであった。若し景佐の望んでいた「せめて国替でも」の願いが適っていたならば、少身に甘んじながらも、義光の血を引く大名家として、天下にその名を残していたであろう。義光のもとで戦国を生き抜いた景佐にとっては、崩れゆく主家を支えきれなかった無念さを抱きながら、この世を去って行ったのであろう。
 景佐は最上家はもう三年はもたないだろうと言った。この最上家の元和六年は、課せられた軍役を果たしながらも、もう後戻りのできない程に、藩内抗争の輪が広がっていたことを、景佐の遺言状から知ることができる。景佐の死は、この年の暮れの十二月廿四日であった。
[元和年録[注13]]は、この年の九月十二日、義俊の江戸での不行跡を伝えている。しかし、この時期は在国していたことが、先の楯岡甲斐守宛の書状から判っており、その日時については疑問が残る。しかし、一年半後の八年三月に、佐竹義宣が家臣宛の書状に、義俊の江戸での不行跡を伝えていることから、この記述も半ば事実に近いものと思われる。しかし、このような世間の耳目を引くような、若き主君の行動を見逃した、江戸藩邸の重役達は誰であったのか。その責任の一端は重役達が担うべきであろう。

十二日、最上駿河守子息源五郎義俊、若輩故無行儀ニ而、家老之異見をも不用、我まま無申計、如此ハゝ、家可及破滅と難儀仕時分、遊君共数多船ニのせ、自船を漕、浅草川筋ニ而、御船手衆之船頭と口論いたし、令打擲、船を漕出し逃のき候間、跡をシタひ、屋敷へ申断候、此事諸人存知候間、如何様終ニは身代可為滅亡と沙汰有之、
■執筆:小野末三 (U)

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[注]
1、[東武実録] (『大日本史料・12編33』)

2、[元和年録] (『大日本史料・12編33』)

3、[細川家史料] (『大日本古記録』)

4、 [御当家紀年録]  (『東京市史稿・皇城篇1』)

5、[『鶏肋編』所収文書] (『山形市史・史料編1』)

6、『新稿・羽州最上家旧臣達の系譜』平10年・小野末三著(最上義光歴史館刊)

7、[梅津政景日記] (『大日本古記録』)

8、『貞山公治家記録・巻28』

9、 [注5]に同じ

10、[高宮氏所蔵文書] (『山形市史・資料編1』)

11、[注3]に同じ

12、『東根市史・通史編1』平7年

13、[注2]に同じ