最上義光歴史館

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【長谷堂合戦前夜の義光書状をめぐって】

 地方史書ではしばしば、長谷堂合戦前夜、慶長5年(1600)8月18日に最上義光が直江兼続に送ったとされる書状が取り上げられる。『上杉家記』に収められている文書で、ここに全文を掲げる紙幅はないが、要旨は「上杉に敵対する意志はない。嫡子義康を人質に出す。義光みずから一万の兵を連れて上杉の味方になる」という申し入れである。
これを根拠として、歴史家は次のように義光の心情までを想像する。
「これは無条件降伏にも等しいもの……義光なりの時間稼ぎの策謀でもあったようである」(『山形県史』第二巻P48)
「(義光は)攻撃の停止を哀願した。……泣きごととはいえ、当時の義光としては、こういわざるをえない心境だったろう」(誉田慶恩著『奥羽の驍将』P163)
 だが、この文書には大きな疑問がある。
 まず、もしこれが事実なら、上杉側にとってはまたとない好都合なことであり、当然その実行を迫るはずである。武力をちらつかせて申し入れの実行を強要されたなら、義光としては応じるほかなかっただろう。だが、上杉の強要も義光の対応行動も、それを物語る史料は見えず、程無く上杉の最上進攻が始まるだけだ。
 次に、この書状が実在したのなら、当然合戦にかかわった上杉方諸将の間に知れ渡っていたはずである。だが、かれら同士の交わした消息のなかに、義光の怯惰ぶりや変節を嘲笑非難するような文面は全く見当たらず、これを話題としたものも見当たらない。
 さらに言うなら、このような文書が実際に存在したなら、関ヶ原合戦後の論功において、当然大問題となるはずである。しかし、このような事が問題とされた形跡はどこにもない。参考までに一例をあげれば、秋田実季による横手小野寺(西側)攻めの日時が、関ヶ原合戦決着の前か後かというような些細なことさえ、大問題となったのであり、仮にも奥羽諸大名の統率者として家康の信任を受けた義光が、直江にこのような書状を送ったとあれば、ことは最上義光の人間的価値にまで関わるものとして、冷厳な家康の忌避排斥するところとなっただろうことは明白だ。50余万石大大名への抜擢など、とうていありえまい。
 「上杉家文書」は中世近世史の貴重な証言の一大集積であるが、この手紙はここには見えない。後代の史料類聚の類にも採られていない。義光の卑怯さを歴然と物語る文書が真実に存在したのなら、江戸時代を通して考証家の話題となっただろうし、上杉家としても当然長く保存して然るべきものであろう。にもかかわらず、この書状現物の所在は明らかでない。江戸時代の編纂になる『上杉家記』に、全文があるのを見るだけだ。
 他方、このような書状はなかったことを、消極的ながら傍証する文献がある。長谷堂合戦を上杉側に立って書いた『越境記』なる軍記物語である。直江兼続をはじめとする上杉諸将の姓名、兵力、動静、活躍ぶりなどに力点を置いたもので、当然最上方をおとしめて書いているわけだが、この文献でも義光の哀願、申し入れのことには全く触れていない。実在したものならば、これを大きく取り上げて義光を罵倒するのに打ってつけの史料となるのに、全く取り上げていないのである。ということは、取りも直さず、その書状がなかったことを物語るものであろう。
 いつの頃か、誰かの知恵によって、慶長5年8月18日付「義光の弱音を物語る手紙」は創作されたと結論づけるしかあるまい。したがって、安易に史料として引用することは、避けなければならず、この信憑性薄弱な史料をもって歴史を語り義光を云々することは、当然のことながら当を得ないこととなるだろう。
 例はこれだけではない。「血染めの桜」然り、義光によるいわゆる「一族掃討」然り、「最上家親の死去」にまつわる荒唐無稽の巷説また然り。最上の栄光と没落の歴史事実を、我々は確実な史料批判に基づいて、構築し直さねばなるまい。

■執筆:片桐繁雄(元最上義光歴史館事務局長)