最上義光歴史館

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義光のニックネーム…虎将!?

義光の代表的なキャッチコピーをみてみると…
「奥羽の驍将」「羽州の狐」「修羅鷹」「戦国の驍将」「北天の巨星」などがあげられます。いずれも現代の地元山形の方々が義光に冠したものです。大変誇らしいものもあれば残念なものもあります。これらは義光を紹介する際にしばしば引用されています。義光の最初のイメージを決定付けるきわめて重要な文言といえるでしょう。

ちょっと昔にさかのぼってみましょう…
義光が亡くなってから約230年後…幕末の儒学者塩谷宕陰(しおのやとういん/1809-1868)は、山形藩主水野忠精(みずのただきよ/1832-1884)に従って嘉永2年(1849)からその翌年まで山形に滞在し、その間に作った漢詩を『山形従役詩』にまとめました。その中に義光を讃えた詩が発見されました。

 雑咏 
英風千古快心胸 (英風千古、心胸に快し。)
散歩時尋虎将蹤 (散歩して、時に虎将の跡を尋ぬ。)
四十八城何處是 (四十八城いづれの処か是なる。)
秋高天半玉蟾峯 (秋高き天の半ば、玉蟾の峰。)

【大意】
英雄のなごりは消えず、思うだに、胸に快い。
そぞろ歩きのおりふしに、虎将(義光)の跡を尋ねる。
(最上領)四十八城。それは今、いずこ。
高く澄む、秋の空。中天に浮かぶは、月山の美しい峰。

宕陰は義光を「虎将(こしょう)」と称し、その業績を讃えています。これは、現在わかる最も古い義光のニックネームです。「虎将」とは義光が叙任した「近衛少将」の漢名「虎賁郎将(こほんろうしょう)」から発したものと考えられています。義光が「虎将」で甥の伊達政宗が「独眼竜」。戦国の奥羽では竜虎がたがいに競い合い並び立っていたわけです。

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最上義光歴史館では小中学生向きの解説シートを配布しています。

義光と連歌

義光は、当時の知識階級が文学的な楽しみとした連歌が非常に優れていました。

連歌は源氏物語や古今和歌集以下の古典を背景にしながら、一座の人々と静寂優雅な境地を楽しむものです。
桃山時代の連歌は数多くありますが義光の作品は数においても質においても同時代諸侯の中では、細川幽斎を別格例外とすれば、他に匹敵する人物は黒田如水だけです。
作品の数は現在確認されたものだけでも33巻、句数は約250句にのぼります。

同席した文人としては、里村紹巴とその一派の連歌師たち、公家では日野輝資、飛鳥井雅庸、大名では細川幽斎、前田玄以、黒田如水、僧侶では木食上人応其、聖護院道澄、醍醐寺光台院の亮淳僧正、豪商では灰屋紹由、角倉了以など。
まさに錚々たる文化人たちです。

義光が国文学者の間で以前から高く評価されていたのも当然でしょう。
義光連歌の中には、発句を後陽成天皇から賜ったものがあります。
まさに驚くべきことです。(勘)


※写真「慶長三年卯月十九日 賦何墻連歌(義光発句)」初折表部分

最上家の第1代斯波兼頼(しばかねより)は、今から約650年前の延文元年(1356)にこの地にきて城をつくり、「出羽国最上郡山形郷(でわのくにもがみごうりやまがたごう)」という地名から「最上(もがみ)」という名字を名乗るようになったといわれています。

その兼頼から数えて11代目の当主(城主)が義光です。義光は慶長5年(1600)の慶長出羽合戦(けいちょうでわかっせん)の活躍で57万石という広大な領地をもつようになりました。

現在の山形県のうち置賜地方を除く全部と秋田県の南の一部です。また、義光は57万石を治める城として、これまで住んでいた山形城を三重の濠(ほり)で囲まれた大変大きな城につくり直し、家臣や商人・職人たちが生活する城下町を整備しました。

この時に山形市の原型がつくられたといわれています。義光は現在の山形市の繁栄の礎を築いたといえます。

名 前 最上義光(もがみよしあき)
出身地 山形(山形城/現在の霞城公園)
生 年 天文15年(1546)1月
没 年 慶長19年(1614)1月18日(69歳)
墓 所 光禅寺(山形市鉄砲町)
出 自 清和源氏・足利一門斯波氏の支族
家 紋 丸ニ引両筋・竹ニ雀・五七桐・十六葉八重菊



最上義光(もがみよしあき)は今から約450年前の天文15年(1546)1月に最上家10代当主義守(よしもり)の長男として山形城で生まれました。

幼いころは「白寿丸(はくじゅまる)」と呼ばれ、永禄3年(1560)に元服し、将軍足利義輝(あしかがよしてる)から一字をもらって「義光(よしあき)」と名乗ります。通称は源五郎(げんごろう)です。

元亀元年(1570)25歳の時に第11代の当主(城主)になりました。それから約40年の間にたくさんの業績を残します。

慶長7年(1602)には、57万石(徳川・豊臣を除いて全国第5位)の大大名になりました。

慶長16年(1611)には従四位上・近衛少将(じゅしいのじょう・このえのしょうしょう)になりました。

慶長19年(1614)1月18日義光は病のため69歳でその生涯を終えます。





燦・虎賁郎将最上義光

 天下麻のごとく乱れた十六世紀、奥羽の世界もまた例外ではなかった。この混乱に終止符を打ち、出羽国に平和と安定をもたらしたのが、最上義光である。
 幾多の困難にうちかって、壮大な国づくりの夢を実現した最上義光。その偉業は、今もなお山形地方に大きな影響を及ぼしている。
 
 古くは南北朝時代、清和源氏の一流、斯波兼頼が出羽探題として最上府中山形にはいり、この地を政治の拠点とする。それから190年の後、天文15年(1546)、義光は第10代山形城主、最上義守の嫡男として生を享けた。その青年時代は苦難の連続であった。米沢の伊達氏、庄内の武藤氏をはじめとする、諸領主との幾多の戦いを経て、16世紀の末には現在の山形県内陸部の過半を領有するにいたる。
 そして慶長5年(1600)、天下を二分した関ヶ原合戦に際しては、徳川家康と連携して会津の上杉景勝と戦い、その論功によって57万石という大々名となる。その版図は置賜地方を除く山形県の全域から秋田県の南部におよび、その広大さと豊かさは、俗に「最上百万石」と称されるほどであった。
 世は乱世から泰平へと、大きな転換期を迎えていた。
 人口の急増、貨幣経済の浸透、生産技術の向上…義光はこうした時代の動きを洞察して、新たな領国の建設に努めた。
 雄大な山形城を築き、周囲には整然とした城下町を建設した。多くの堰をつくって、新田を拓いた。庄内の穀倉地帯は、実に最上義光からスタートしたといって過言ではない。治水、交通路の整備、鉱山の開発、最上川難所の開削、神社仏閣の護持…出羽国は、英傑最上義光の出現によって、画期的な変貌を遂げたのである。

 義光は出羽の人と土地を愛した。信義を重んじ、伝統文化を尊んだ。
  「命のうちにいま一度最上の土を踏み申したく候 水を一杯のみたく候」
  これは、文禄の役に際して、故郷を思う心を述べた手紙の一節。
 「偽りは侍の道にあらず」断固としたこの言葉は、妹義姫(伊達政宗の母)あての書簡にある。
 古典文芸に造詣ふかかった義光と、その家臣たちによって、山形に数多く美術工芸がもたらされた。出羽太守の城下山形に絢爛たる桃山文化の華がまさに咲き誇ろうとしていた。
 だが、その矢先、元和8年(1622)8月の最上家改易によって、こうした動きは滞ってしまう。
 そしてその後、山形はめまぐるしく藩主交替が繰り返される。一貫性のない政治の下に生きねばならなかった山形の民衆にとって、「出羽百万石、黄金の時代」だったのである。
 幕末庄内の勤王の志士清川八郎は、その著書「西遊草」のなかで最上義光の業績をしのんでいる。江戸幕府の儒学者塩谷宕陰は、義光を「虎将」と讃えて漢詩にうたった。
 後世の人々からまで大きな存在として仰がれた義光は、慶長19年(1614)1月18日、波乱と栄光に満ちたその生涯を閉じた。時に69歳。
 出羽国が生んだ最大の英傑、虎賁郎将最上義光。
 その名は、燦として、永く人々に語り継がれていくにちがいない。(勘)