最上義光歴史館

最上義光歴史館
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【本城豊前守満茂/ほんじようぶぜんのかみみつしげ】 ~秋田南部を舞台に活躍~

 弘治2年(1556)生まれ。義光より10歳年下。弟だろうという説もあるが、どうやらそうではなく、分家筋の最上一族と見るほうがよいようだ。
 『奥羽永慶軍記』『羽源記』などによると、義光の領地拡大作戦や領内支配にあたって、仙北地方(横手・湯沢付近)や由利郡など、現在の秋田県南部を主な舞台として大活躍している。
 はじめ楯岡城主として「楯岡」を名乗ったとされ、仙北地方が最上領になった一時期は湯沢を本拠としたために「湯沢豊前守」と称されたこともあった。
 最上義光が関が原合戦の後、慶長7年5月に由利地方を与えられてからは、その地方の政治をまかせられ、本城城(現本荘市)を築いて政治の拠点とした。今残る城跡も城下の町並みも、満茂の建設が基礎となっているわけだ。
 彼の支配した領地は、最上家の分限帳で見ると実に4万5千石、最上一族、家臣団のなかでは最高の石高である。越後村上や津軽弘前に匹敵する堂々たる大名クラスである。最上の家臣でありながら、秋田の佐竹氏や津軽家とは、まるで対等の大名同士のような付き合いをしていたことが秋田藩の記録類からうかがわれる。さらに、この地域には豊かな金山があったところから、大きな財力をもっていたと想像されるが、これは今後の研究課題としよう。
 ちなみに、秋田県側には「本荘市」という地名は、「本城豊前」の姓にちなむという説があり、そうだとすれば最上一族の名字が市の名として残ったことになる。だが、その反対に「本荘」城主になったからその地名を姓にしたと見るほうが妥当かもしれない。
 最上家が改易になったとき、満茂は幕府の閣僚であった酒井雅楽頭忠世(前橋藩主)にあずけられた。「預け人」とは、政治的事件に連座して身分地位を剥脱され、大名家に預けられた人物である。そういう身の上ではあったが、満茂は大勢の家来を引き連れて前橋に移転した。その後は酒井家の家臣として召し抱えられたが、知行は本人千石、その家来たち2千石、合わせて3千石という待遇であった。
 寛永16年(1639)1月21日没、84歳。宗家の主だった義光の69歳、義姫の76歳も長命なほうだったが、満茂はそれにまさる長寿にめぐまれたわけだ。
 その墓は前橋の長昌寺にあり、子孫が姫路に移転してからも、代々墓所をたいせつに守りつづけてきたといわれる。
■■片桐繁雄著

あなたが最上義光を時代劇に登場させるとすれば…誰に演じてもらいますか??

★なんと!!このアンケートも一周年です(⌒▽⌒)!! 一年間で815票の投票がありました。

つ、ついに…平成20年12月1日…歴史館も開館20周年に突入しました(ToT)!!

開館当初は、権謀術数にたけた「羽州の狐」などと呼ばれ、残忍でずる賢い武将というイメージがありました。それは、地元の郷土史家たちが正当に評価していなかったことなどが原因といわれています。しかし、近年の調査で、当時は一流の文化人として認められ、特に連歌については高い評価を得ていたことや、文化人たちとの交友関係なども明らかになり、評価やイメージも変わってきています。そこで、新たな義光像を調査すべく、2007年6月より見学を終えた入館者のみなさまから下記のことについてご投票をいただいております。
※2009年のNHK大河ドラマ「天地人」とは関係ありません。


見学を終えられて…もしもあなたが時代劇に最上義光を登場させるとすれば、だれに演じてもらいますか??芸能人、スポーツ選手、政治家などなど…名前をご記入ください!!



【投票結果/2007年6月から2009年3月31日までの集計】


top3

☆☆☆1.高橋英樹さん(42票)
☆☆2.佐藤浩市(34票)
3.阿部寛さん(30票)



※(⌒ー⌒)b
時代劇でおなじみの方々や現在映画やドラマ、スポーツで活躍されている方々の名前がみられます。
ご見学をされて、展示の内容から文化人をイメージされる方、肖像画などから武人をイメージされる方、ご自分のひいきにされている方を投じられる方などそれぞれです。

ちなみに職員にきいてみると…

職員A「やっぱり桃太郎だろう!!1位になる前から彼だと思っていた!!」
職員B「東山さんだと目が切れ長でかっこいいと思う…個人的には伊原剛志さんがいいな!!」
職員C「文化人として知的で品格があり、上方文化に造詣深い義光のイメージは野村萬斎さんかなあ!!」
職員I「ぜったい藤岡弘!!藤岡弘しかいないでしょう!!」

↑↑↑
言いたい放題ですみません…みなさんはいかがでしょうか!?


【あ行】
赤西仁さん、浅野忠信さん(8)、東幹久さん(2)、麻生太郎さん(8)、阿部サダヲさん(2)、阿部寛さん(30)、井坂俊哉さん、石黒賢さん、石坂浩二さん(3)、石田純一さん、石原慎太郎さん、石原良純さん(4)、市川昭男さん、市川海老蔵さん(5)、市川染五郎さん、市原隼人さん、イチローさん(24)、伊東四朗さん、伊藤英明さん(4)、井上康生さん(2)、井上ひさしさん、井上浩さん、伊原剛志さん(3)、今井翼さん、今井雅之さん(2)、今井ゆうぞうさん、岩隅久志さん、上原浩治さん、宇梶剛さん(3)、瑛太さん(3)、江口洋介さん(8)、榎木孝明さん(7)、江守徹さん(4)、遠藤利明さん、王貞治さん(2)、大沢たかおさん(2)、大嶋一也さん、大杉漣さん(3)、大竹まことさん(2)、大鶴義丹さん、大八木淳史さん、小笠原道真さん、岡田准一さん、緒形直人さん(7)、奥田瑛二さん、小栗旬さん(3)、尾崎紀世彦さん、小沢一郎さん(7)、オダギリジョーさん(14)、織田裕二さん(15)、落合博満さん、置鮎龍太郎さん、尾上菊五郎さん(2)

【か行】
鹿賀丈史さん、角田信朗さん、Gacktさん(4)、風間杜夫さん、風見しんごさん、香川照之さん(2)、片岡鶴太郎さん(2)、勝野洋さん、加藤剛さん(3)、加藤紘一さん(2)、加藤武さん、加藤雅也さん(3)、角川春樹さん、香取慎吾さん(6)、要潤さん、蟹江敬三さん、金城武さん(3)、金本知憲さん、上川隆也さん(12)、神木隆之介さん、上地雄輔さん、亀井静香さん、加山雄三さん、唐沢寿明さん(16)、菅直人さん、岸谷五朗さん(2)、北大路欣也さん(16)、北村一輝さん(4)、北村晴男さん(2)、木村拓哉さん(12)、木村了さん、清原和博さん(2)、草刈正雄さん(3)、草彅剛さん(2)、久保田智之さん、栗原健太さん(3)、ケインコスギさん、ケーシー高峰さん、小池徹平さん、小泉孝太郎さん(3)、小泉純一郎さん(9)、国分太一さん、琴光喜啓司さん、小林薫さん、小林稔侍さん(4)、小日向文世さん、小宮山悟さん、近藤真彦さん

【さ行】
西郷輝彦さん(2)、斉藤清六さん、堺雅人さん(2)、坂口憲二さん(4)、坂口征夫さん、佐々木蔵之介さん(5)、佐藤浩市さん(34)、佐藤隆太さん、里見浩太朗さん(5)、真田広之さん(15)、佐野史郎さん、沢村一樹さん、椎名桔平さん(3)、ジェット・りーさん、宍戸開さん(4)、宍戸錠さん(2)、篠田三郎さん、柴俊夫さん、柴田恭平さん(6)、島田紳助さん(5)、志村けんさん(2)、照英さん(5)、新崎人生さん、陣内孝則さん(5)、末續慎吾さん、菅原文太さん(2)、杉良太郎さん(2)、反町隆史さん(20)

【た行】
TAKUYA∞さん、高倉健さん(11)、高嶋政伸さん(3)、高嶋政宏さん(2)、高橋克典さん(5)、高橋大輔さん(スケート)、高橋英樹さん(42)、高橋由伸さん、高田純次さん(4)、高田延彦さん(3)、滝沢秀明さん(4)、滝田栄さん、田口壮さん、宅麻伸さん(2)、武田真治さん、竹内力さん、竹中直人さん(13)、竹野内豊さん(6)、竹脇無我さん、舘ひろしさん(10)、辰巳琢郎さん、田中健さん、田中将大さん(3)、谷原章介さん、玉木宏さん(10)、玉山鉄二さん、田村正和さん、タモリさん、ダルビッシュ有さん(3)、地井武男さん、千葉真一さん(21)、蝶野正洋さん、塚本高史さん、津川雅彦さん(2)、月形龍之介さん、筒井道隆さん(2)、堤真一さん(7)、妻夫木聡さん(4)、デューク更家さん、てらそままさあきさん、豊川悦司さん(7)

【な行】
内藤剛志さん、内藤聖陽さん(6)、中井貴一さん(20)、永井大さん、中尾彬さん(15)、長嶋一茂さん(5)、長嶋茂雄さん(2)、永島敏行さん(3)、長瀬智也さん(2)、永瀬正敏さん、中曽根康弘さん、中田英寿さん(2)、仲代達也さん(10)、長塚京三さん、中野英雄さん、長渕剛さん、中村敦夫さん、中村勘九郎さん、中村勘三郎さん、中村吉右衛門さん(4)、中村獅童さん(2)、中村俊輔さん、仲村トオルさん(2)、中村梅雀さん、中村雅俊さん(2)、中山雅史さん、夏八木勲さん、西島秀俊さん、西田敏行さん(14)、西村雅彦さん(2)、根津甚八さん、野久保直樹さん、野村克也さん(2)、野村萬斎さん(3)、野茂英雄さん

【は行】
羽賀研二さん、萩原流行さん、鳩山邦夫さん、羽場裕一さん、林隆三さん、林家正蔵さん、速水もこみちさん、原辰徳さん、原田大二郎さん、原田泰造さん、坂東英二さん、東国原英夫さん(3)、東山紀之さん、平岳大さん、平幹二朗さん、平田満さん(2)、布川敏和さん、藤岡竜也さん(3)、藤岡弘さん(16)、藤田まことさん(8)、ビートたけしさん(2)、古田敦也さん(2)、別所哲也さん、星野仙一さん(7)、細川茂樹さん(2)、細川俊之さん

【ま行】
マギー審司さん(2)、舛添要一さん(3)、松井秀喜さん(4)、松岡昌宏さん(3)、松方弘樹さん(5)、松田翔太さん、松田龍平さん、松平健さん(27)、松中信彦さん、松浪健四郎、松本潤さん、松本人志さん、松山ケンイチさん(2)、的場浩司さん(2)、丸山和也さん、三浦友和さん、三浦春馬さん、三上博史さん(2)、水谷豊さん、みのもんたさん(2)、宮本慎也さん、武藤敬司さん(2)、村上弘明さん(20)、室伏広治さん(9)、元木大介さん、本木雅弘さん

【や行】
役所広司さん(28)、矢沢永吉さん、安田顕さん、柳葉敏郎さん(13)、柳楽優弥さん、山口智充さん(6)、山口祐一郎さん、山崎努さん(3)、山下智久さん(2)、山本耕史さん、山本太郎さん、ユースケ・サンタマリアさん、米倉斉加年さん

【ら行】
ラサール石井さん、隆大介さん

【わ】
渡瀬恒彦さん(8)、渡辺裕之さん(2)、渡辺正行さん、渡部篤郎さん(2)、渡哲也さん(25)


山形藩主・最上源五郎義俊の生涯

【一 義俊遺領を継ぐ】(1)

 元和三年(1617)三月六日、駿河守家親は三十六歳の生涯を閉じた。その死因と場所などについては諸説紛々としているが、巷に流れているような、奇異に満ちた死因ではなかったようだ。しかし、諸史に書き伝えられてきた死因などを取り上げ、これを真相だとする次のような記事が、依然として一人歩きしているのが現状である。
 「三月五日、家親は鷹狩りに出て一日を楽しみ帰ったが、その夜俄かに死亡したので、最上家の騒ぎは非常なものであった。その死因については文書により数々のことを伝えている。第一江戸に於いて卒去したもの、第二に鷹狩りの日楯岡甲斐守邸で食事をした際、毒を盛られた、第三その夜侍女に刺されて死亡したなどである。江戸で卒去したという説は全然虚構であり、楯岡甲斐守の毒殺というのも事情に適しないのであり、侍女から刺殺されたという説は最も真相と思われる」 (『山形の歴史』川崎浩良) [注1]として、侍女刺殺説を取り上げ、家親の死因としている。
 しかし、この先人達の説に反論する訳ではないが、確たる説をもとに事実として証明せねば、何事も成り立たないのである。当時の家親の実際の行動を、幾分でも掌握しない限りは、これが事実だと言い切ることはできないのである。ここに、元和三年(1617)初頭から死の三月に至る間の、家親とその近習とされる人物の動きを示す、一人の人物の日記から、家親の死を究明していきたい。
 天正十年(1582)三十四歳のとき、武蔵野国足立郡芝郷(現埼玉県川口市)の長徳寺の住持となった龍派禅珠(号は寒松、以下寒松を使用する)は、慶長七年(1602)徳川家康の命により、足利学校の痒主となった名僧である[注2]。その書き残した文書記録類の[寒松稿]と[日暦]には、将軍を始めとして多くの人物が登場しているが、そこには、家親との交遊関係を示す多くの記事が書き残されている。その中から、家親の死に関わる時期の頃の記事を引用する。(注、原文からは関係箇所のみを抽出した)

(イ)□□□(正月大ヵ) □□(朔日ヵ)[  ]立春正月節、十日、晴、登城、自城帰時往最駿州第、昨夜使者口上齟齬故空帰、
  (江戸城にて年筮を献じての帰り、最上邸に寄る。昨夜は使者の口上に食い違いがあり、空しく帰った)
(ロ)(一月)十三日、於駿州晨炊、
  (最上邸にて朝食をとる)
(ハ)(一月)十六日、於道閑晩炊、
(家親の近習の道閑のところで夜食をとる)
(ニ)(一月十七日) 題屏風画十二首 最上駿州求之
  (家親の求めに応じて、最上邸にて屏風画に十二首の漢詩を書き入れる。※漢詩は省略する)
  梅月 元和三年丁巳正月十七日書于江城客簷下
(ホ)三月小、二日、道閑贈餠酒来、
  (道閑より餠と酒を贈られた)

 この寒松の記録から、家親が元和三年(1617)の正月は江戸に在ったことが判り、また近習の道閑(寿庵)[注3]が、三月二日にも寒松と接触していたことは、家親も江戸に居たという証しにもなるのではないか。そして、三月十二日、寒松は江戸より足利への帰路、蕨宿にて家親の病が気にかかり、友人の医師を江戸に遣わしたことを伝えている。そして四月廿日、寒松は足利にて家親の死の報に接した。
 また家親が病に倒れ、それに対して将軍秀忠よりの能々養生せよとの、家親宛の書状[注4]が残されていることから、寒松の記録とも併せ見ると、家親が不審な形で世を去ったとは考えられないのである。
 五月十六日、寒松は「雨、最上源五郎飛脚来、寿庵・侶庵文相添」と、寿庵と侶庵の文をも添えた、義俊からの飛脚があったことを伝えている。それは幕府が義俊の襲封を認めた七日後のことであった。これが代替わりした最上家当主としての、義俊にとっては寒松との最初の接触であり、そこには襲封の挨拶をも含め、父同様に最上家との厚誼を願望する、義俊の姿を垣間見ることができる。そして、十月十七日、足利より江戸に入った寒松は、「於最上源五郎殿晩炊、秉燭而帰」と、最上邸に義俊を訪ね晩食を共にした。これが義俊の山形藩主として、寒松との初めての出会いであった。義俊にしてみれば、将軍を初め幕閣の要人達とも親交のある老師と、父同様に誼を通じることが如何に大事なのかは、十分に理解していたことであろう。そして、その付き合いは、改易後のある時期まで続いていくのである。

元和三巳五ノ三、十二歳節家督、其節被為召被仰出候ハ、祖父・父無二之忠節ヲ尽候事故、最上家大切ヲ被思召候、夫ニ付今程十二才候得者、国々之仕置無覚束、依之家人共上下和順候而、源五郎ヲ守立、国家ノ政道如先規申付候様ニト被仰付、賜御条目[注5]

 元和三年(1617)五月三日、義俊は父の死から二ヶ月後に家督を継いだ。祖父義光そして家親と二代に渡って、徳川との密接なる関係を有していたにせよ、この十二才の少年に奥羽の大藩を委ねた幕府の真意は奈辺にあったのか。
 九日、幕府は七ヶ条条の項目を示した「条書」[注6]を与え、義俊の襲封を許した。その内容とは義光・家親時代の仕置の続行、家中縁組の区分、公事(訴訟)の判断、前代任命の諸奉行に対する措置などに関するものであった。これらに関しては、山形藩を幕府の管理下に置く厳しい措置であるとか、また跡式の許可が下りるまで、二ヶ月の期間を要したことから、義俊家督への不信感を思わせる向きもあったろうが、それでも義俊への本領安堵が為されたことは、この時点に於いては、藩全体に共通した喜びをもたらしたことであろう。   
 この義俊襲封に際して、将軍への御目見は果たして得たのであろうか。重臣の岩屋能登への二月廿一日付の書状(家信の署名)に、「今度、上様御目見へ申候為御祝儀、広末并銀子給候、祝着ニ存候」[注7]とあることから、襲封から近い時期に、お目見を果たしたことは間違いないであろう。
 小倉藩主細川忠興が子息の忠利宛書状によれば、「(十一月廿九日)、景勝・佐竹・正宗于今在江戸、南部信濃も参上候由候、来年西国衆在江戸、云々」[注8]として、この年の東北大名達の江戸在勤を伝えている。当時の大名達の江戸在勤の仕分けについては、大体に於いては東西に大きく区分され、交互に在勤していたようで、新たに家督を継いだ義俊ではあったが、この年の山形下向は果たせなかったであろう。
■執筆:小野末三

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[注]
1、『山形の歴史』(川崎浩良)
 この先人の唱えた家親変死説が、今やすっかり定着した感がある。それは、この説に異議を唱えることも無い程に、最上家全体を含めた調査研究が、遅々として進んでいないことを、端的に表しているのではなかろうか。

2、[寒松史料](『川口市史・近世資料編3』)昭和58年
 龍派禅珠和尚(寒松)が書き残した文書類を総称する。
 [寒松稿]は、純然たる文学としての詩文などを収めたもので、そこには五山の禅僧との詩会を催しての交遊や、また武家や諸国の医師たちとの社交の手段として、詩文を作成した。
 [日暦]は、いわば日記の類いである。その内容は多彩を極め、寒松個人の足跡から、将軍から幕閣の要人を始めとして、武家との交際の実態を書き残している。家親の記事も多く、山形駿州・最上駿州・最駿・駿州・最駿州の名で登場している。また寒松は諸学問・医療面にも通じ、また会得した卜筮は特に重宝がられた。寛永十三年(1636)没。

3、道閑(また寿庵とも)は姓を吉原という。最上義光分限帳に「五十石 蔵米 谷(吉)原道閑」とある人物であろう。寒松の史料にも度々登場しており、「相州人道閑一雲……而精医師、自名書屋曰寿庵」とあり、家親の主治医また学問の師として、間近かに仕えていたようだ。家親、また義俊に近侍していたことが、残された書状により判る。

4、[最上家譜](『山形市史・史料編1』)
  同(元和)三巳病気之節、賜御書
 所労之由無心許、能々養生肝要候、猶酒井備前守可申候也、
  三月   秀忠(黒印)
    最上駿河守とのへ

5、[注4]に同じ

6、[注4]に同じ

7、[『秋田藩家蔵文書』所収文書] (『山形市史・史料編1』)

8、[細川家史料](『大日本古記録』)


【最上源五郎家信/もがみげんごろういえのぶ】 ~改易時の山形藩主~

【1】    
 元和3年(1617)3月6日(太陽暦4月11日)、山形藩主最上家親が急逝した。
 さて、このとき嫡子源五郎は12歳。そのときどこにいたか、確かな記録はないが、おそらく江戸であろう。
 藩主急死。
 江戸の藩邸で大騒ぎをしている3月8日、山形では城下が大火に見舞われていた。
 「山形寺社多く焼失、当山も残らず類焼」という、光明寺の記録がある。山形ではこの段階で主君の死を知るはずがなく、家臣、町人、寺社関係者にいたるまで、火災の後始末に懸命だったろう。そこに藩主急逝の報せが届いたのである。
 英主・義光没後わずか3年、重なる凶事に領内は不安に覆われたに相違あるまい。
 ところで地元山形領内の政務は、家親が幕府奥向きの役職のため江戸詰めが多かったことから、一族のめぼしい者や重役層が評定衆となって執行していたと思われる。そうして見たとき、最上藩にはどういう人物がいたか。
 まず最上一族ではどうか。
 慶長八年(1603)の政変で、長男義康はとうにいない。三男清水光氏(義親)は義光没年(慶長19年/1614)の一族抗争で敗死した。残る主な親類は、次のようだ。 
 山野辺光茂(義光の四男。後、義忠。天正16年(1588)生まれ、30歳。山野辺城主、1万9千300石)
 上山光広 (義光の五男。推定慶長4年(1599)生まれ、19歳か。上山城主、2万1千石)
 大山光隆 (義光の六男。推定慶長7年(1602)生まれ、16歳か。庄内大山城主、2万7千石。)
 楯岡光直 (義光の弟。永禄8年(1565)生まれか。52歳ほど。甲斐守。楯岡城主、1万6千石。)
 松根光広 (義光の弟、義保の子。天正17年(1589)生まれ、29歳。庄内松根城主、1万2千石。)
 本荘満茂 (最上家分家筋。弘治二年(1556)生まれ、62歳。由利郡本荘城主、4万5千石)
 いずれも大名格だが、上山と大山はまだ10代で、源五郎の叔父とはいっても兄のような若さで、力量は期待できまい。光直はもう年だ。そうなると義光の四男、前藩主の弟という近親者。年齢に不足なく、城池が山形に近いこともあって、藩内第一のリーダー格は山野辺光茂ということになりそうだ。政治の表向きには出なかっただろうが、義光の妹義姫(お東の方)が70歳で健在だった。
 いっぽう家臣の方は、寒々とした状況だった。義光とともに戦い、最上家の隆盛をもたらした往年の勇将、智将の多くはすでに亡くなっていた。
 志村伊豆守光安…慶長16年(1611)死去。後継者の光惟は義光の死去半年後に、鶴ケ岡城下で勃発した一栗兵部の反乱で殺害された。
 氏家尾張守守棟…慶長20年(1615)死去。男子三人がいたようだが、上の二人は早世。三男、左近丞親定は26歳。幼少時から仏門入っていたため、政治には疎かっただろう。
 坂紀伊守光秀……元和2年(1616)死去。
 上山を領していた里見越後・民部親子、義光の信頼厚かった成沢、谷柏らの一族は、義康廃嫡時の政変で失脚したらしい。最上家を本気で守ろうという気概をもった宿老は少なかった。
 残るは、歴戦の勇将鮭延越前守秀綱(真室川/鮭延城主、1万1千500石。56歳)・里見薩摩守景佐(東根城主、1万2千石。老齢、病身だった。)・野辺沢遠江守光昌(野辺沢城主、2万石。30歳代半ばか)・小国日向守光基(小国城主、8千石。年齢未詳)など。
 これらの中で、実力者は、血筋、年齢、経歴から見て、随一は鮭延である。こういう状態で、藩主が亡くなり、12歳の長男、源五郎が残されたのである。

【2】    
 家督相続者は、江戸時代に入ってからは長男と決まったようなものだが、当時はまだこの考えは確立していなかった。12歳の源五郎でよいかどうか。領内でもとりどりの評判があっただろうし、幕府内部でもさまざま検討がなされただろう。しかし、結局幕府は5月3日に源五郎の家督相続を承認し、57万石は安堵された。
 同月10日、幕府は未成年藩主であることに配慮し、領内政治の安定を図るべく7項目の指示をだした。内容は次のようなものである。(『徳川実記』『最上家譜』から要約。)
 1 義光、家親が定めた制度を変えないこと。
 2 家臣の縁組みは、2千石以上の場合、幕府に報告して許可を得ること。
 3 訴訟裁断は先代の如く計らい、判定し兼ねる場合は幕府と協議すること。
 4 父祖が任じた役職は、勝手に改変しないこと。
 5 父祖が勘当追放した者を、領内に立ち入らせないこと。
 6 家臣への加増、新規召し抱えは、家信幼稚のうちは幕府の許可を得ること。
 7 家臣らが徒党を組むことは厳しく禁ずること。
 幕府としては、義光の忠節ぶり、家親の律儀な奉公ぶりを高く評価し、奥羽全体の平和と安定のために最上家を重視していた。だから山形藩が整然と成り立っていくようにと、大所高所からの助言を与えたのだった。源五郎が「家信」を名乗るようになったのは、この前後であろうかと思われるが、定かではない。
 ちょうどこのころ、先に義光が三重塔を建造し、3千石といわれる莫大な寺領を寄進した出羽の大寺、慈恩寺の大改修が進行中だった。家親急逝の後は、家信が願主となったのであろう。翌元和4年8月に、本堂が完成し大々的な入仏法会が行われた。
 家信は、程なく江戸に出る。そういうときも国元では叔父山野辺光茂らが中心となって、領内政治を行っていたのであろう。
 家信は江戸の最上邸(和田倉門付近にあった)に滞在していたと思われるが、たまたま起こった事件解決に大きな役割を果たす。
 元和5年(1619)6月、幕府は広島藩主福島正則の改易を決定した。江戸の福島邸を接収するにあたって、家来たちの武力抵抗が予想されたため、幕府は監視・鎮圧の役割を最上家信および、松平忠明、松平忠次、鳥居忠政らに命じた。家信は軍勢を率いて出動し、事なく福島邸の接収を完了した。その功を賞して、秀忠は長光の太刀を褒美として下賜したと、『重修寛政諸家譜・最上氏系図』にある。家信十四歳である。
 ところが、家信の評判は悪いほうに向かう。
 元和6年9月12日の『徳川実記』に、

 「十二日、最上源五郎義俊は、少年放逸にて、常に淫行をほしいままにし、家臣の諫めを用いず、今日浅草川に船遊して妓女あまたのせ、みずから艪をとりて漕ぎめぐらすとて、船手方の水主(かこ/船頭)と争論し、かろうじて逃げ帰る、水主等追いかけてその邸宅に至り、ありしさまを告げて帰りしかば、この事都下紛々の説おだやかならず」

という話が記録されている。大大名の当主になったとはいっても、それなりの教育も、訓練も受けていなかったのだと思われる。藩内部でも混乱が生じたらしい。同年10月16日、家信は山形の山王権現(現、香澄町三丁目日枝神社)に絵馬を3枚奉納した。金蒔絵の板に馬と猿を描き、「おさめたてまつる 馬形 三疋」と幼い筆跡で書き添えられている。猿は山王権現の使いで、馬を御し、しあわせをもたらすとされる。最上歴代が崇敬し、以前は山形城内に鎮座したこの社に、十五歳の藩主は何を願ったのだろうか。
 行跡おさまらぬ主君から、家臣は離反しはじめる。重臣たちは相互に不信感をつのらせ、仲間割れしてしまう。この状態を、最上家が幕府に提出した自家の系譜ですら、
 「義俊(家信)若年にして国政を聴く事を得ず、しかのみならず常に酒色を好みて宴楽に耽り、家老共これを諫むといえども聴かざるにより、家臣大半は叔父義忠(山野辺光茂)をして家督たらしめん事を願う」(前出、寛政・最上氏系図)と記述する。奥羽の押さえとされた名門大名最上家は、大きく傾きはじめた。

【3】    
 元和6年8月7日、東根2万2千石の城主、薩摩守景佐は、嫡子源右衛門親宜(ちかよし)あてに遺言状をしたためた。景佐は義光の傍らにあって大きな働きをした人物である。子・親宜は家親から一字をもらい、義光の娘を妻に迎え、最上家とは縁つづきの関係にあった。元の姓は里見氏。慶長七年の義光書状では「里見殿」と書いていたが、11年には「東根殿」となっている。出羽の要地を領する最上一門の誇りをこめて、姓を変えたのだろう。
 さて、景佐の遺書は、「自分が死んだなら、源五郎様へ相続の御礼に行くように」から始まって、めんめんと思いを述べた文章である。「少しなりとも少しなりとも、殿様へご奉公いたして、粗略のないように心がけよ」「自分は少しも間違ったことをしなかったからこそ、東根の地をみな頂戴して、そなたへ渡すことができるのだ」
 そういうこととともに、山野辺光茂、小国光基、楯岡光直へは、内々で形見を贈るよう指示した。景佐は、藩政運営にあたって、この三人と共同歩調を取っていたのであろう。 そして、この遺書は、最後のところで驚くべき指摘をしている。
 「最上の御国、三年とこの分にあるまじく候。せめて御国替えにも候へばいつともにて……」。最上の国もこのままでは三年と持つまい。せめて国替えにでもなったら(以下意味不明)、というのである。義光とともに戦った老臣東根景佐の、最上家の将来に対する厳しい洞察であった。

【4】
 こうして、最上家内部は混乱を深め、改易への道筋を走ることとなる。詳細なのが『徳川実記』である。現代語になおしてみる。(本来は藩主は「家信」、山野辺は「光茂」とすべきところだが、この記事では「義俊・義忠」となっているので、それに従う。)
 …義俊は年若いために、みずから国政を掌握し、決裁することができなかった。常に酒色にふけり宴楽をもっぱらにし、重役家臣らが忠告をしても、取り入れようとしなかった。そこで家来たちの多くは、義俊を藩主の座から退かせ、叔父にあたる山野辺右衛門義忠を藩主にして、最上家を継がせようと望んだ。
 ところが、家老の一人、松根備前守光広は承知しなかった。のみならず、彼は先代家親の死についてまで、「毒殺の疑いあり」と幕府に訴え出た。
 当時、家親の急死には不穏な風説があったという。家親が鷹狩りのため城を出ての帰途、一族の家老楯岡甲斐守の家で宴を催したが、家親はその席でにわかに病を発し、ついに絶命してしまった。これは、同じく家老格の鮭延越前守と楯岡甲斐守が共謀して、山野辺義忠を主にしようと計って毒をすすめたのだ………というような話である。松根はこの噂を取り上げ、江戸に上って幕府にこう訴え出た。
 「鮭延らは、山野辺を主にしようと考えて家親を毒殺し、また若年の義俊をすすめて酒色にふけり、国政を乱すように仕向けたのだ」
 事実なら大事件である。幕府では酒井雅楽頭忠世が双方を邸に呼び出し、取り調べをしたが、松根の言い分には根拠がないことが判明した。松根は虚偽の訴えをしたとしてただちに罪人とされ、九州柳川の立花家にお預けとなった。
 その後、幕府では町奉行島田弾正利正・米津勘兵衛由政を使者として、将軍の意向として次のように伝えた。
 「義俊は年若くて政務が行き届かず、家臣らが騒動に及んでいる。最上というところは、奥羽越後に境して、東国第一の要地である。しばらく領地を幕府で預かり、義俊には6万石を与えよう。九人の家老も心を一つにして補佐し、国政を確実にするなら、義俊の成長後に本領を返すこととする。義忠はじめ家老一同、明日参上のうえ返答せよ」
 しかしながら、山野辺、鮭延らの家老たちは、
 「厳命承りましたが、松根のような逆臣を厳しく処分もなさらず、そのままにしておかれるのでは、またまた同様の讒臣がでて問題を起こすでしょう。そうなったらどうなることか。いよいよ義俊の本領を収公なさるとならば、我々家老どもはみな最上家から暇を取って出家遁世し、高野山に籠ろうと存じます」と、申し上げた。
 義俊は若年無力、家老は不仲、そのような最上家に一国を預けることはできぬ。幕府は、元和8年8月18日、ついに断を下した。
 最上領、25城、57万石は収公する。代わって、近江・三河に合わせて1万石を与える。
 こうして、義光が築き上げた最上百万石は、崩壊した。
 江戸時代を通じて、これほど大きな大名が改易処分となった例は、ほかにない。先にあげた福島正則は安芸広島約50万石、肥後熊本、加藤忠広もほぼ同じ。最上家の57万石は最大である。しかも最上家は、家康、秀忠二代にわたって親密な関係にあったにもかかわらずである。最上家改易は、全国諸大名にとって衝撃的な事件だった。
    
【5】
 この年家信は17歳。詳細な経緯はわからないが、江戸城和田倉門前の最上邸は返還させられた。名字の「家」字は家康から父がもらい、それを引き継いだものだったが、これも元和9年8月以後に返したと見え、「源五郎義俊」が呼び名となる。
 寛永8年(1631)7月15日、義俊は「一遍上人絵巻」を山形光明寺に再寄進する。これははじめ義光が光明寺に寄進し、訳あって一時源五郎のところで預かっていたものだった。「文祿三年七月七日 義光寄進」と巻末に銘記されているから、義光が京都で華やかに文化活動をしていた、そのころにあたる。現在は国指定重要文化財、奈良国立博物館に寄託、保管されている。
 義俊は、絵巻物を寺に返して4箇月ばかり経った11月22日、1歳の男児、仙徳丸(後、義智)を残して江戸で亡くなった。二十六歳であった。浅草の万隆寺に葬られ、墓碑はそこにある。山形の光禅寺にも、祖父義光、父家親の墓と並んで、後日建立された墓碑がある。
 若くして逝った薄倖な最上の主を悼んで、翌年4月吉日に山形七日町の法祥寺に供養の五輪塔を建てた人物がいた。
 「寒河江之住人、微力をもってこれを造立す」と刻まれている。
■■片桐繁雄著

【伊達政宗の母 義姫】

 伊達政宗の母義姫は、山形城主最上義守の娘として天文17年(1548)山形城に生まれた。最上義光の二歳年少の妹である。後に米沢城主伊達輝宗と結婚し、政宗をはじめ二男二女を生んだ。元和9年(1623)7月16日、仙台で没している。享年76。法名は保春院。墓は仙台市青葉区北山の覚範寺にある。

【勝気で行動的な性格】
 義姫は、ずいぶん気丈な人だったらしい。男勝りで、頭がよく、政治にも積極的にかかわる行動的な女性だった。こんな話がある。天正16年(1588)伊達氏が最上・大崎の両氏と対立し、一触即発の状態になったときのこと。当時、政宗は郡山(福島県)で常陸の佐竹氏、会津の芦名氏らと対陣中であり、現場に駆けつけることができなかった。これをみた義姫は、みずから最上、伊達両軍の間に輿で乗り込み、献身的なはたらきで両者を斡旋し、ついに和睦させている。
 また、慶長5年(1600)長谷堂合戦のときには、山形城に迫り来る上杉勢を防ぐため兄の義光が政宗に援軍を乞うと、義姫も手紙をおくり、窮状を知らせて一時も早い救援を要請している。このとき義姫が政宗の叔父留守政景に宛てた手紙が残っている。上杉・最上両軍の配備と各地の戦闘、落城間近の緊迫した状況などを的確に知らせる内容で、とても女性のものとは思えない。政宗は上杉軍の篭もる白石城(宮城県)を攻略中であったが、要請を受けてすぐに政景を総大将とする援軍を派遣。これより力を盛り返した最上勢は上杉勢を撃退することができた。義姫の決断力、行動力がこの二例によってもうかがわれる。

【政宗毒殺未遂事件】
 伊達政宗と母義姫。この母子については我々がもっとも知りたいと思うことは、例の毒殺未遂事件の真相だろう。わが子の膳に毒を盛るなどということが本当にあったのか。
 事件が起きたのは天正18年(1590)4月。伊達政宗が関白豊臣秀吉に謁見するため小田原(神奈川県)へ参陣する直前に起きた。場所は会津黒川城(後の会津若松城)。
 事件の経緯は伊達家の正史『貞山公治家記録』(元禄16年=1703年)に詳しい。4月5日、母の陣立ちの祝いの席に招かれた政宗は、母の用意したお膳に箸をつけたところ、たちまち腹痛を起こす。急ぎ館にもどり投薬を受け、危うく一命をとりとめた。母が自分を毒殺しようとしたことにショックを受けた政宗は、母が溺愛する弟の小次郎に伊達家を継がせるために自分を殺そうとしたこと、その背後に母の実家最上家の陰謀があることを感じとり、同月7日みずから弟の屋敷に赴き小次郎を手討ちにする。不憫だが、母を殺すわけにはいかない、というのが理由であった。義姫はその晩、山形の最上氏のもとに逃げ帰った。以上が『貞山公治家記録』の記す事件の概要である。
 このような義姫首謀説に対し、この事件は政宗が伊達家内部の弟擁立派を一掃するために仕組んだ一人芝居ではなかったか、とする説がある。作家の海音寺潮五郎はこの説をとる(『武将列伝』)。いったい真相はどうなのだろう。
 私は、『貞山公治家記録』が記す義姫出奔の時期について、かねてから疑問をいだいてきた。『貞山公治家記録』は義姫出奔の日を、政宗が弟小次郎を手討ちにした4月7日としているが、はたしてそうだろうか。その後の二人の関係を追っていくと、どうも信じられない。例えば、この事件のあと、二人はたびたび手紙でやりとりをしている。伊達家文書のなかには、母に宛てた手紙が数多く残っているが、いずれも親子の濃や豊かな情愛を感じさせる内容で、事件のわだかまりをうかがわせるものはひとつもない。特に、事件から3年後、秀吉の命で朝鮮に出兵した政宗が、朝鮮での戦況を詳しく知らせた手紙には、母から送られた小遣い対する率直なよろこびと感謝の気持が溢れており、「ぜひ無事に日本にもどって、もう一度おあいしたい」と繰り返している。このような手紙が山形に逃げ帰った義姫との間でとりかわされるとは考えにくいことである。

【新史料の発見と事件の真相】
 私の長年の疑問は、5年前(1999年当時)に発見された一通の古文書によって氷解した。それは文禄3年(1594)11月27日、政宗の師である虎哉和尚が岩出山(宮城県)から京都にいる大有和尚に宛てた手紙である。大有和尚は政宗の大叔父。この手紙のなかで、虎哉は「政宗の北堂(母堂)が今月四月夜、最上に向かって出奔しました。お聞きおよびですか」と述べている。
 この注目すべき史料の出現によって、母義姫の出奔は天正18年4月7日ではなく文禄3年11月4日であることが初めて明らかとなった。つまり『貞山公治家記録』の出奔の時期は誤りで、事件後義姫は政宗とともに黒川城から米沢を経て岩出山に移り、この年11月4日まで岩出山にいたことになる。これで事件後も二人の間で頻繁な手紙の交換が可能だったことも理解できる。ちなみに伊達家文書に残る母宛の政宗の最後の手紙は文禄3年11月25日、京都から出したもの。家臣の屋代勘解由に託されたこの手紙には、政宗が京都であつらえた母への小袖が添えられていた。しかし、この手紙も小袖も母のもとに届くことはなかったはずである。
 新しい史料によって義姫の出奔の時期が正されたいま、それ以外の事件の核心に係わる『貞山公治家記録』の記述も疑ってかかる必要があろう。義姫が毒を盛ったとするなら、事件後も政宗のもとに居つづけ、手紙のやりとりをしていることは理解に苦しむ。『貞山公治家記録』は政宗が弟を手討ちにしたその晩に山形へ出奔したとして、義姫と背後の最上氏の事件への係わりを強く印象づけているが、そこに伊達家の正史としての作為は含まれていないだろうか。しかし、いずれにせよ4年後に義姫が岩出山から実家の山形に帰ったのは事実である。義姫はなぜ出奔したのか。
 従来あまり注目されることのなかった史料だが、『貞山公治家記録』の付録のなかに、この謎をとく手掛かりとなる文書がはいっている。日付はないが、事件の直後、伊達政宗が側近(茂庭綱元か)に事件の経緯を知らせた手紙がある。このなかで政宗は、お膳に毒を盛ったのは母と思われ、その背後に弟を擁立する勢力があること、このままでは伊達家内部が二分し内乱となるおそれがあるため、やむをえず弟を手討ちにしたこと、弟には罪がないが母を殺すわけにはゆかぬので、可愛そうだが殺さざるをえなかったこと等を詳しくうちあけている。そして最後に「このようなことは自分の口からは言えないのでそなたの方で斟酌して、よいと思うことは世間へくどき広めてほしい」と意味深長なことばで締めくくっている。おそらく、こうした政宗の意向が、政宗が岩出山をはなれ京都・朝鮮へ行っている留守に徐々に噂となって家中に広まり、周囲の疑惑の目に居たたまれなくなった義姫が山形へ出奔したというのが真相ではなかろうか。
 政宗毒殺未遂事件の全容は、まだ闇の中にある。しかし、義姫を事件の首謀者としてきた従来の見解は、『貞山公治家記録』の信憑性とあわせて見直されるべきだと思う。

【母子の再会】 
 山形と仙台、別れた二人が再会するのは28年後、元和8年10月のことである。最上氏の改易にともない、義姫は政宗のもとに身を寄せる。しかし二人が仙台で一緒に暮らしたのは束の間。政宗のもとにもどった10ヵ月後、義姫は黄泉へと旅立つ。晩年の義姫は足も不自由で、目も悪かったらしい。しかし、江戸にいる政宗夫人愛姫に手製の下げ袋を贈って感激させるなど、姑としての細やかな気配りを見せている。
 再会した母子の間で交わされた贈答歌が、政宗の歌集に残されている。

○年月久しうへだたりける
         母にあいて
あいあいて心のほどやたらちねの
 ゆくすえひさし千歳ふるとも

○母の返し
双葉より植えし小松のこだかくも
 枝をかさねていく千代のやど

 義姫の生涯は、文字どおり伊達家と最上家の安泰を願って奔走した一生であった。この歌をみると伊達政宗の母としての誇りを終生持ちつづけた大したお母さんではなかったか、と思う。
■執筆:佐藤憲一/仙台市教育委員会文化財課長(1999年執筆当時)・仙台市博物館館長(2008年) 「歴史館だより№6」より



【最上駿河守家親/もがみするがのかみいえちか】 ~名門最上家の御曹司~
 
 第12代山形城主。天正10年(1582)の生まれであるから、清水城主となった光氏(義親)とは同年齢の異母兄弟である。幼名を太郎四郎、左馬助といった。
 天正19年に、徳川家康が奥州九戸の乱を平定するために福島在の大森に着陣しているとき、義光が10歳になった太郎四郎をつれて行き、「この倅をさしあげます。自分の代わりに召し使ってくだされ」と申し出た。家康は「国持ち大名の子息を家来にするとは、初めてのこと」と非常によろこんだという。
 文禄3年(1549)8月5日、家康の前で、徳川四天王の1人井伊直政の理髪で元服をした。名乗りは「家康」の一字を拝領して「家親」。駿河守となる。「康」をもらったのは何人かいるようだが、「家」をもらったのは、最上家親と島津家久の2人だけらしい。それだけ、彼に寄せる期待も、最上家を大切に思う気持ちも、家康にはあったのだろう。
 15歳(慶長元年)から江戸詰め。家康のそばから移って、秀忠に仕えることになった。
 19歳のとき、関ケ原の戦いの直前、徳川軍が会津征伐に出たときは、秀忠にしたがって宇都宮にいたり、ついで信州真田攻めに従軍する。
 いわゆる「武功」の話は聞かれない。名門大名最上家の御曹司ということで、前線に出て戦うよりも、主君秀忠の側にあって、戦陣の心得などを学び取っていたのかもしれない。
 世の中がしずまった慶長10年4月には従四位下侍従に叙され、同月9日には細川忠利とともに宮中において天皇から盃を賜った。その夜、家親は京都の家康邸を訪問しているが、これはおそらくお礼言上のためであろう。
 同じ時期に、父親義光も京都にいた。3月29日には義光は秀忠に随行して参内。天盃を下賜された。4月26日にも、秀忠の将軍宣下に扈従して、殿上に昇った。
 出羽山形57万石、最上家は花盛りだった。
 翌年、家親の嫡男が生まれる。源五郎、後の家信、あらため義俊である。母は不詳。最上家のような名家の妻がどこの出か知れないとは、まったく不思議なことで、世間には「西三条家」の娘だとする説もあるが、根拠となる史料は見あたらない。
 その後の家親は、江戸城内で開かれる正月恒例の御謡初めには着座を許され、琉球国王の訪問では奏者役となり、摂関家から使者が訪問すれば披露役を務めるという具合で、幕府の重要式典に参画しているのが目立つ。詳細を書く余裕はないが、文化的芸術的なたしなみが豊かだったことがうかがわれ、有職故実などにも詳しかったのであろうか。
家親は江戸暮らしが常態だったらしく、その邸には京都から来た公家も訪れた。
 慶長16年(1611)10月21日には、江戸城内で催された申楽に、家親も参席した。
 その4日後、船橋秀賢と山科言経(いずれも京都の公家)の宿所を訪問して、それぞれに紅花50袋をプレゼントしたことが、両人の日記からわかる。
 慶長19年(1614)1月18日、義光逝去。その報せが小田原にいた家康にとどくと、家親はただちに帰国を許され、2月6日、山形城下の慶長寺(光禅寺)において葬儀をすます。そのあと半年ほど山形にいたと推測される。新藩主として、さまざまな政務を処理したと思われるのだが、そのころの最上領内のムードは必ずしも平穏無事ではなかった。
 6月には庄内鶴ケ岡城下で一栗兵部の反乱が勃発、酒田城主の志村光惟と大山城主の下秀実が襲殺されてしまう。最上重臣クラスのなかには、徳川につくか豊臣につくかということで互いに疑心暗鬼の状態だったらしく、家親に親しみ薄いグループの中には大坂方を支持する者があったことも否めないだろう。
 家親は、家督承認の御礼をするために9月に山形を発った。そのとき、これは果たして史実としてよいかどうかだが、野辺沢遠江、日野将監らに、清水城、清水義親討伐の命令を下していたといわれる。家親が駿河で家康に謁していたちょうどそのころ、清水は最上宗家の大軍の攻撃を受けて滅び去る。10月13日とされている。
 同年11月、家康、秀忠は、20万といわれる大軍をもって大坂攻撃を決行する。いわゆる「大坂冬の陣」であるが、このとき家親は徳川の本拠江戸城の留守居役を割り当てられた。翌年4、5月の「夏の陣」でも、家親は江戸城留守居を命じられた。
 「冬の陣」のとき、家親は1日も自分の邸に帰らずに、江戸城本丸に詰めたと『最上家譜』には記されている。
 冬・夏ともに、伊達、上杉、佐竹など東北外様諸大名は軒並み危険な戦場に駆り出されたのに対して、最上家だけは別格の役割だった。これは、家親に対する徳川家の厚い信頼を物語るものであろう。もっとも、多少の軍勢は大坂に派遣したようで、上級家臣武久庄兵衛が大坂で功績があったので賞された旨、分限帳の書き込みが見られる。
 江戸にあって、家親が高名な文人僧、足利学校の庠主(しょうしゅ/校長)寒松和尚と親交を結んでいたことが、近年小野末三氏によって明らかにされている。幾編かの漢詩を贈られたことも、新しい発見であった。
 冬の陣の直後、慶長20年正月16日、寒松が最上邸に参上した時の日記と漢詩を、読み下しで掲げてみよう。
 
 「最上家のお屋敷では、珍しいご馳走があった。如白(寒松の弟子か)もお相伴した。その席で「春の雪」の詩を差し上げ、楽しい語らいに時を過ごし、すっかり酔って帰った。

   夜雪空に連なって、月色ゆたかなり、
   壁門金殿、瓦溝めぐる、
   江天暁に到りて、尺をみたし難し、
   ことごとく是れ軍営、喜気消えんか」

 学僧で文人、幕府要人との付き合いの多かった寒松との交際は没年まで続く。元和二2(1616)2月26日、家親は山形六椹八幡宮に鷹の絵を寄進した。「源家親」の記名がある。彼自身の作であろうか。
 ところで、家親については、山形ではとかく好ましからぬ風評が語られている。
 最上家を乗っ取ろうとするグループによる毒殺とか、女に刺し殺された、などという話である。だが、これらは作り話に過ぎない。
 亡くなったのは、元和3年3月6日。36歳。『徳川実記』では「在府して猿楽(能狂言)を見ながら頓死す、人みなこれをあやしむ」とある。「在府」は「江戸府にあって」ということ。「頓死」は「急死」である。
 大大名の若い当主の急死は、うわさ話にはもってこいである。「人みなあやしむ」というのも無理はない。
 確かな史料で見ると、秋田藩重臣、梅津政景の日記によると「四日の晩から苦しみだし、
6日の四つ時(午前10時ごろか)死去した」とされている。
 いっぽう、将軍秀忠からは、病気見舞いの手紙が寄せられている。
 この年の3月4日は、太陽暦では4月9日。江戸は春の花盛りである(鈴木靜兒氏の御教示による。)花見がてらの能狂言、酒に肴に音曲に…。
 このような状況から推測して、これはまったくの想像にすぎないが、家親はにわかな食中毒にかかったのではなかったか。二晩を病に苦しんで亡くなったのであろう。
 後日、一族の松根備前守光広が「毒殺の疑いあり」と訴え出たけれども、幕府は調査のうえこれを却下、光広は偽りの訴えをしたとして築後柳川に流罪となった。幕府の判定も、
変死とはしなかったのだから、やはり病死だったとするのが正しいだろう。
 彼の領内政治がどんなものであったか。今のところ、ほとんど知ることはできないが、小野末三氏の研究によって、その人物像は少しずつわかりかけていると言ってよいだろう。
■■片桐繁雄著