最上義光歴史館

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【坂紀伊守光秀/さかきいのかみあきひで】 〜最上家臣団のエリート官僚〜 

 戦国武将は、おおむね戦における手柄や活躍、武勇を誇示する逸話などによって名を知られ、評価もされがちだ。たしかに、武勇こそが戦国の世を生き抜く武士の本分ではある。
 しかしながら、大名をささえる家臣団として見たとき、戦上手ばかりでは決してバランスのとれた組織とはいえない。
 坂紀伊守光秀(あきひで)。
 慶長6年、志村伊豆守光安が酒田城主として栄転した後の長谷堂城主。1万3千石。最上家では十指に入る重臣でありながら、当時の記録にも後代の物語にも、華やかな戦歴はなく、逸話も残されていない。
 長谷堂合戦に際しては、後詰め部隊(援軍)の中に彼の名が見えている。当時は成沢城を預かっていたとする記録もあるが、不確かだ。彼の足跡をみると、武人というよりもむしろ政治外交の面にすぐれていたようだ。
 関ケ原戦後、最上氏と秋田氏が戦陣参加の時期をめぐって議論になったことがあった。
このとき、主君義光が徳川家康といっしょに忍(おし)へ鷹狩りに出ていたので、最上側の代表者となって秋田実季と渡り合ったのが、他ならぬ光秀であった。
 この論争のことは、秋田家の家臣が聞いた話を思い出して書き留めたもので、最上家没落後のことであるから、どうしても最上家には不利な書きぶりとなっている。そのため、坂光秀が実季から一々やり込められてしまうという内容となっている。にもかかわらず、光秀の弁舌はなかなか鋭いところを突いているように思われる。
 慶長8年3月15日、光秀は主君義光の使者となって、京都の公家山科言緒を訪問した。
 山科家は、皇室・廷臣らの公的場における衣冠装束を世話する家柄である。訪問の趣旨は、将軍家康の御前において言緒が「御取合」をしたことに対する義光からのお祝いの手紙と銀子三枚の贈り物を届けることであった。
 「使坂紀伊守也、則対顔了、食相伴了」(使者は坂紀伊守であった。そこで対面をし、食事をともにした)。
 出羽で育ったと思われる坂光秀が、礼儀作法にうるさい京都貴族の邸に参上して、きちんと用を済ませることができたのは、それなりの教養をそなえた人物だったからであろう。
 二日後の3月17日、山科言緒はこう日記に書いた。
 「最上出羽守へ一昨日のお土産に礼状を出した。坂紀伊守へも書状を遣した」
 このころ、義光は京都あるいは伏見の邸に滞在しており、光秀はその側近としてさまざまな公務にたずさわっていたことが、この断片的な記事からうかがわれるのである。
 関が原の戦いの後に、新たな最上領となった庄内地方の検地に尽力し、慶長十六年(1611)義光が寄進した慈恩寺領2千880石の検地も、光秀が責任者となって実施した。
 義光が亡くなった翌年、慶長20年(1615)正月13日、徳川家康が岡崎で鷹狩を楽しんでいたところへ、主君家親の名代として光秀が陣中見舞い行った。
 最上家からの献上品は、白鳥二、黒馬一疋、それに「いったい、どういう代物?」と、よく話題になる「最上蓼漬」一桶。光秀自身も、「子篭鮭十尺」を土産として持っていった。74歳の家康は喜んで光秀に面会し、最上家親の働きについても合わせて礼を述べたという。
 長谷堂には、自らが開基となり、その菩提寺とした曹洞宗清源寺がある。この寺に彼は田畑とともに百姓十軒を寄進して護持を図った。寺に秘蔵される「すすき図屏風」は、桃山風のりっぱなもの(山形市指定文化財)。彼自身を描いた画像は、桃山武将の同時代に描かれた肖像画としては県内唯一の貴重なもの(県指定文化財)。その表情には、温厚で知的な趣がただよう。
 彼の奥方が使用したという朱漆塗の膳椀もある。京都に上った時にでも、妻のために買い求めたのであろうか。
 元和2年(1616)4月26日逝去。年令は不明。はしなくも、徳川家康の没年に当たる。戒名「清源寺殿祀山英典公大居士」。
 ちなみに翌年3月には主君家親が亡くなり、それ以後、最上家は屋台骨がゆらぎはじめるが、光秀はそれを見ることなく亡くなったわけだ。
 光秀の妻は、志村伊豆守光安の娘だといわれ、夫亡き後は、山形城内三の丸八日町口近くに広大な屋敷をもらっている。彼女が亡くなったのは正保元年(1644)10月19日。戒名「宝正院殿実相良信大姉」。28年の寡婦としての暮らしがあったことになる。
 最上家改易の後、跡を継いだ坂光重は、上杉家に親しい人がいて、その配慮で白鷹町荒砥に落ち着き、四十間四方の屋敷を拝領してここに居住した。
 坂氏の系譜は、白鷹町と米沢市に連綿として続いている。
■■片桐繁雄著 

【志村伊豆守光安/しむらいずのかみあきやす】 〜酒田繁栄の土台をきずいた〜

 形に影の添うごとく、最上義光の側にあって出羽の統一と繁栄に尽力した家臣として、志村伊豆守光安は特筆すべき人物であろう。『奥羽永慶軍記』では、義光の柱石として、氏家尾張守守棟とともに志村九郎兵衛をあげている。後の伊豆守光安である。

 「ソノ心剛ニシテ武威ノ名顕ワレ、然モ口才人ヲクジキ、イカナル強敵トイヘドモ彼ニ逢ヒテハスナハチ降リヌ。彼等ハ皆君臣ノ礼アツクシテ、国治マリ、栄耀家門ニ及ボシ給フ」

と、まさに絶賛の対象となった人物である。
 出自は明らかでないが、成沢・谷柏・柏倉など山形周辺の郷村名を名字とする最上家臣が少なからず存在するところから、彼も漆山地区志村(山形市北部)の出であろうかと推察される。年齢も不祥。活躍の時期と没年から推して、主君義光に近い年齢だったかと思われる。
 天正5年(1577)ごろ、谷地の領主白鳥十郎長久が、義光を殺して出羽を自分の領地にしようと、中央の権力者であった織田信長のところに使者を派遣し、
「わが家こそ斯波兼頼以来、代々出羽国の守護職を務めた家柄」と、鷹と馬を献上する。
 信長は遠い出羽のことなど知らなかったから、その言い分を受け入れたという。
 伝え聞いた最上側は、放っておけぬとばかり、こちらも信長へ接触する。この時に使者となったのが、志村九郎兵衛光安だった。光安は、献上品として青鷹一居、駿馬一頭、名刀工「月山」の鍛えた鑓二十本(十本とも)ともども、最上家の系図をたずさえて上京し、信長に謁する。信長は光安に面会して、白鳥の言い分を偽りと断定、「最上出羽守殿」として返書を与えたという。
 この話は江戸時代の文献にあるだけで信憑性はとぼしいが、光安が最上家にとっていかに重要な存在だったかを物語るとはいえるだろう。
 その後、白鳥を討伐することになるが、ここでも氏家と志村の策謀と活躍が語られる。
 天正12年(1584)、白鳥十郎は義光によって誅殺される。続いて寒河江氏、天童の里見氏も、義光の制圧するところになるが、どの戦いでも志村伊豆が大きな働きをした。ついで、最上郡方面に兵を進め、鮭延越前守秀綱と戦うが、ここでも「秀綱を殺すな」という義光の意を体して、光安はその城外脱出を見逃している。
 光安が最も注目される働きをしたのは、慶長5年9月のいわゆる長谷堂合戦であろう。寄せくる上杉の大軍を向こうにまわし、長谷堂城に篭もって持久戦に持ち込み、山形の本城と町を戦火から守りぬいたのである。この戦いは、畑谷落城9月13日の翌日から始まっているが、光安は援軍として派遣された鮭延秀綱らとともに、しばしば上杉軍を翻弄した。
 9月末に、関ケ原の戦いで東軍・徳川家康側圧勝となった結末が報らされると、直江兼続のひきいる上杉勢は撤退する。この追撃戦の激烈さは、両軍あわせて2千を超える戦死者を出したことでも想像できるだろう。ちなみに、関ケ原の戦死者は、6、7千だったとされており、長谷堂合戦は、全国的に見ても、実は関ケ原につぐ大合戦だったのである。
 山形最上方の城塞のほとんどが落城あるいは空け逃げだったのに、たいした損害も出さずに長谷堂城を守り通した功績は、抜群のものだった。
 直江退去の10月1日、ここで慶長出羽合戦は事実上決着している。
 このとき、撤退した直江兼続は、大きな失態を演じた。庄内から最上に攻め入って、谷地城を占拠してここに篭もり、総大将兼続からの山形城総攻撃の命令を今か今かと待ってていた下治右衛門吉忠のところに、撤退の連絡をしなかったのである。
 吉忠とその率いる兵たちは、兼続から置きざりにされて孤立してしまったのだ。
 そこを最上の大軍が包囲する。援軍を期待できない情況でも上杉方は篭城して交戦しようとするが、義光は「次右衛門は武勇の誉れも名高き者、特に庄内のことに詳しい人物であるから、なんとかして降参させて味方にしたい」と、光安に交渉を命じる。
 夜に入って光安は、独り谷地城に入る。
 「関ケ原では西軍が大敗し、上杉の大将直江殿は会津に帰られた。貴殿一人が義を守り、数多い兵士とともに戦い死にたりとて、何の益かあるべき。義光公も貴殿を惜しみなされて、拙者を遣わされたのである。降参なされば必ず礼をもって厚く遇する」と、理を尽くして降伏をすすめた。下一族はその熱誠にうたれ、また直江が何の連絡もなく撤退したことへの反感もあって、ついに軍門にくだった。「志村という武将は、敵に対して絶対偽りを語らぬ」という相手方の高い評価も作用したらしい。
 「口才人ヲクジキ」という『永慶軍記』の記述どおりであった。
 下一族は、その後庄内尾浦城(鶴岡市大山)を落とし、翌年4月には酒田城攻略にも大きな働きを見せる。
 慶長6年(1601)、戦功を賞されて、志村光安は庄内の最上川北3万石酒田城主に大抜擢される。この石高は、最上家臣としては最上一族の本荘満茂の4万5千石に次いで第2位である。広大な平野があり、最上川口には古くからの港がある。その重要な所を、志村光安は任されたのである。下吉忠は、田川郡1万2千石大山城主となり、名乗りも下対馬守康久と称することとなる。降将への処遇として類少ない手厚い処遇といえるだろう。
 酒田の志村、大山の下。この二人が、庄内地域に数々の事績を残すこととなる。
 光安は、戦火で荒廃した酒田の町づくりに努める。町の指導者として重きをなした三十六人衆と協議し、経済活動を重視した都市計画だったとされる。強い西風、それによる災害への対策、商人職人の居住地、寺町の配置を工夫し、さらに港の機能を充実して、「羽州第一の港町」にふさわしいものとした。
 城も当然復旧した。土塁のなごりは、東高校の敷地に残っている。城内に祀られていた山王宮を移建して、酒田町の鎮守とした。今の日枝神社である。長谷堂城主時代に菩提寺だった曹洞宗清源寺から峰岩呑鷲和尚を招き、新たに青原寺を建立した。
 酒田繁栄の土台は、志村光安によって固められたといってよいだろう。
 慶長8年、義光は新たな領地となった庄内の二つの重要拠点、酒田東禅寺を「亀ケ崎」、大宝寺を「鶴ケ岡」と目出度い名に改めた。庄内の末永い発展を願ったのである。
 最上家では、慶長17年までに庄内の検地を完了したが、並行して古来の神社仏閣の復興にも力を入れた。これにも、志村伊豆守が大きくかかわっている。
 慶長10年、鶴岡市の金峯神社本社、13年、同釈迦堂、羽黒山五重塔などの大規模な建造事業を差配したのが、光安だった。下対馬守もいっしょに協力したことが、残る棟札から知られる。
 光安の人柄がよく表れた手紙がある。年次未詳、10月3日付。家普請をしている家来四人にあてたもので、
 「壁の下地は念入りに、どうせなら台所も造れ。風雨のひどい時分で大変だろうが、しっかりやれ。大工衆にもご苦労と、申しつたえてくれ」という内容である。
 具体的な状況が今ひとつはっきりしないが、工事にたずさわる大工衆へも、思いやりを見せていることは読み取れる。
 慶長14年かと推定される「用度帳」断片に、二月二十日「(銀)拾匁は上方へ点取りに代金として」、二月三十日「四十三匁は、しょふたく(里村昌琢)へ御音信」と記された部分があるそうである(川崎浩良「山形の歴史」345p)。「点取り」とは、批評を受けること、「御音信」とは、ここでは「おみやげ」ぐらいの意味であろうか。最上一統の気風として、光安もまた、連歌をたしなんでいたらしいのである。
 天童市若松観音堂に、武人画家として高名な郷目貞繁筆の「板絵著色神馬図」(重要文化財)がある。永禄6年(1563)寄進のものだが、その余白下部に「志村九郎・・」という落書が見える。天童攻めを終えた天正12年(1584)後のいつの日か、参詣した光安が、なにげなく筆をとってわが名を書き付けたのであろう。
 慶長16年(1611)8月7日没。主君に先立つこと3年である。年令不明。その後を九郎兵衛光惟がついだが、慶長19年6月1日、鶴ケ岡城下において一栗兵部に襲殺された。その係累と思われる人物が安藤対馬守へ預けられ旨の注記が『最上義光分限帳』に見えているが、詳しいことはわからない。
 妻は元和年間には健在だったと見え、『山形城下絵図』三の丸南東部に「志村伊豆守後室」の屋敷があった。僚友であった坂紀伊守光秀の後室も近くに住んでいた。最上家重臣の妻たち、夫に先立たれた二人の女性の間に、どんな交流があっただろうか。
 酒田青原寺の裏庭に立つ古風な二基の五輪等が、志村伊豆守夫妻の墓である。
 彼が領した飽海郡遊佐町、庄内平野の北はずれ、鳥海山の裾野に落伏(おちぶし)の小さな集落がある。集落の東台地には曹洞禅の古刹永泉寺(ようせんじ)がある。伽藍の間を行くと、奥まった木立のなかに、一基の石造九重塔が建っている。風化した塔の四面には、「奥大日本出羽州□□□君侯前豆州太守為天室良清公大禅定門 士卒等謹就于永泉精舎建立石塔一尊以供養…」の刻まれているというが、実物からはなかなか読み取り難い。
 彼を慕う家臣たちが建立したもので、山形県文化財に指定されている。
■■片桐繁雄著 

山形藩主・最上源五郎義俊の生涯

【三 改易への道】
   
 元和六年(1620)三月、先に述べたように、二人の目付派遣から始まった山形藩への監禁は、翌七年より「山形御横目衆として石丸六兵衛・稲村(今村)伝四郎」、またその翌八年三月より「華房弥左衛門・岡田新三郎」と、連続して目付派遣を見るに至った[注1]。改易の日を迎えるまでの二年五ケ月の間、家中騒動の調停を目的としながらも、幕府の監視下に置かたのも同然の山形藩では、藩主擁護の現状維持を訴える松根備前守光広と、山野辺義忠を頂点とする一派との力の相剋が、少しも衰えることなく拡大への道をたどっていたのである。
 同七年(1621)六月吉日、義俊は大沼浮島稲荷神社に二基の石灯篭を奉納した。この熊野宝前と大沼大明神の石灯篭銘文の内容は、ほとんど変わりはない。しかし、この銘文からは、家中の騒動の渕に身を沈め、如何とも仕難い自己無力さをさらけだした、苦衷に満ちた義俊の姿を、はっきりと汲みとることができるのである[注2]。
 その銘文の一節の、「伏して願はくは、神諦に遵ひ、哀納し、無二の懇志を以て、武運をして続かしめ、国家をして孫々に保たしめんことを、无(無)限の神明に丹祈し、知見を定めん」の字句からは、義俊の最上家の前途に危惧の念を抱きながらも、己の非力を自覚して神の力にすがるべく、真心から神に祈りを捧げ、知識と見識を定めようと、必死に願っていることが判る。
 この銘文に込められた、義俊の必死の願いから、家中に立ち込める暗雲の中で、それを打破するはどの己の力量の無さと、加えて藩内勢力の趨勢から我が身の立場の不利を悟り、ただ々々神仏にすがるより外はない程に、瀬戸際に負いつめられた、義俊の姿を垣間見ることができる。
 義俊はこの必死の祈願を終えた後に、江戸に向かったものか、近隣の佐竹義宣は二月末に、また伊達政宗も八月には江戸入りをしている。そして、秋から冬の時期にかけて、義俊は佐竹義宣と、茶の湯の席にて顔を会わせていたことが、梅津政景の日記[注3]から知ることができる。
  
 (イ) 十月十三日、最上源五郎殿へ来ル御数寄可有由、兼而御約束御申候へ共、御城御数寄相極候ハゝ、明後かや橋へ御出可有由候て、被仰分候御使ニ参候、
 (ロ) 十一月十日、朝、最上源五郎殿数寄ニて御出被成候、御相客近藤石見殿・牟礼郷右衛門殿、
 (ハ) 十二月十六日、晩、最上源五郎殿へ御振舞ニテ御出被成候、
 
 十月十三日、佐竹義宣は江戸城内での茶会に出席のため、義俊の招請を謝辞する。十一月十日、義俊は義宣の茶会の席に招かれた。合客の一人の牟礼郷右衛門は、一昨年九月に山形に検使して派遣され、義俊、義宣共に面識のあった人物である。十二月十六日、義宣は義俊の招待を受け最上邸に赴く。
 この時期の政景の日記には、義宣と諸大名や幕臣達との交流を示す記事が多く見られる。このように江戸での武家達の社交の一環として、茶席を設けて互いに親睦を図っていたことが判る。義俊にしても、喧騒の渦中にある国元を離れた江戸の地で、相手が義宣だけではなく、他の人物ともこのような席を設け、互いの親交を図っていたことと、十分に察することができる。この年かと思われる十二月廿二日付の義俊書状に、「一書申入候、仍明後日廿五日朝、藤堂和泉殿振舞申候、云々[注4]」と、津藩主藤堂高虎を朝の席に招待していることから、政景日記の記事とを併せ、義俊の江戸での私的な面の一端を、僅かながらも知ることができる。
 また、寒松の[日暦[注5]]によれば、十月十二日、足利より江戸に入った寒松は、廿三日には「快晴、午往最源相逢」と、最上邸を訪れ義俊と会ったことを書き残している。そして廿五日、江戸を離れる寒松に対して、義俊は贈物を届け謝辞を表した。このように、寒松との接触が絶えず保たれていたことは、この時期の義俊にとっては、寒松が多分に心の大きな支えになっていたものと察せられる。重ねて思うには、この時期あたりまでが、義俊にとっては僅かに残された安穏の日々であったであろう。
 明けて元和八年(1622)三月九日、佐竹義宣の家臣への書状から、最上家重役達の「公事」について、未だ解決していないことが判る。
 
 最早源五郎殿年寄共の公事、干今不相済候、源五郎殿ハ御かまいなき分にてハ候へ共、内々にて御指図なとも有やうニ沙汰候、又町屋なとに御座候而、傾城狂なと被成、不似合行儀之由、取さたにて候、御酒過候へハ、生もなく無行義之由、皆々御物かたりニ手、さやうニ候へハ、今般之公事之様子ニより、御身上あぶなきと、爰元にて皆御物かたりニ而候[注6]、

 この書状に見える年寄共の「公事」とは、一体何を意味するものなのか。恐らく国元での藩内抗争が決定的な局面を迎え、その決着を着けるべく、いよ々々その裁定を幕府の手に委ねるべく起こした裁判に違いない。政景日記からの昨年末の義俊の動きから見れば、この訴訟が江戸表に持ち込まれたのは、おそらく年明けてのことではなかったか。この訴訟を起こしたのは、義俊擁護の松根備前守光広だという。

 これ義俊若年にして国政を聴事を得ず、しかのみならず、つねに酒色をこのみて宴楽に耽り、家老どもこれを諫むといへども聴ざるにより、家臣大半は叔父義忠をして家督たらしむことを希ふ、しかるにひとり松根光広のみ肯はず、且家親が頓死せし体、毒殺にうたがひあり、義忠および小国日向光松・鮭延越前秀綱等逆意よりいたせるところなりと訴へ申せしにより、云々[注7]

 この最上家史料による言い分は、家中の大半が酒色に溺れ、周りの意見に耳を傾けない義俊を排し、人望のあった義光四男の山野辺義忠を、家督にと望む勢力に対し、ただ義光甥の松根光広のみが反対したという。そして、家親の死が義忠一派の毒殺によるものと、これを訴訟を起こした一因とした。
 しかし、この最上家内部の抗争の実態については、確たる史料も無く細部については知る由もない。また巷に流れる家親頓死説についても、これを全面的に認めることはできないのである。ただ、はっきりしていることは、元和六年(1620)三月に始まった目付派遣は、最上家内部の恥部を世に知らしめ、それが二年後の「公事」事として、完全に表面化したということである。
 諸史は松根光広が家親の死因に、山野辺一派が関わっていたと訴えた、という。しかし、これが光広が起こした主たる訴因ではなかろう。そこには、山野辺・楯岡、松根と同じ最上の血を引く者同志の、主導権争いに決着をつけるべく、藩主擁護の立場を表す光広が、幕府にその裁定を委ねたことにある。重ねて述べるならば、家親の死因については、これを裏付ける確実な史料も無く、いつまでも従来の説にこだわるべきではない。
 さらに、この三月九日付の書状からは、義俊の酒に溺れ傾城狂いに身を持たせた姿を伝え、今回の公事の成行きによっては、義俊の身上も危うくなるだろうと懸念している。このように、この度の最上家の一件が義俊には「御かまいなき分」とはいっても、義俊自身の身持ちの悪さが、災いのもとになるのではと示唆した。続いて四日後には、「山形之儀無落著候ハゝ御暇ハ出間敷候と見へ候[注8]」と、山形の公事が解決せねば、義宣自身の帰国もままならないだろうと、隣国に起きた不祥事の余波が、義宣にも及んで来たことが判る。
 続いて三月二十四日の書状には、「最上之くじ干今不相済候、源五郎殿身上、縦此度ハ何事なく候共、三年ハ続間敷由唱に而候、此中之行義之躰、更々人外之由にて候、酒ニ被酔候ヘハ、きちかいにて候由、各御前衆かくしたいなく、くかいにての取沙汰にて候間、きしきニて可有之候[注9]と、義俊の手に負えない酒乱の癖を伝え、義俊の身上ももう三年は続かないだろうと、若き藩主に対して深い憂慮の念を表している。先に東根景佐が遺言状に、「もかミの御国三年と此分ニあるましく候」と書き残したように、景佐の杞憂が現実となって目前に迫っていたのである。
 やがて改易の時を迎えるまでの間の動きを、[細川家史料]から関連箇所のみを拾い、列挙してみる。

 (イ) 七月廿八日、最上身上も近々可相果様ニ執沙汰仕候、見及申候躰も左様ニ御座候事[注10]、
 (最上義俊が近々改易されるとの噂があるが)
 (ロ) 七月晦日、当最上身上之事、一昨日相済申候、御意ニハ祖父、太閤御代より御心入を仕、其子駿河幼少より江戸二相詰致御奉公候間、此度之儀者、新敷郷御国被下候由ニ而、悉相済申候[注11]、
 (最上の公事も廿八日に終わったようで、祖父以来の忠節の家柄故に、幕府は国替えで決着を着けた。新知六万石という)
 (ハ) 八月十日、最前も身上候最上事、御前相済申候通被仰出候へとも、家中之者共色々儀申候而、むさと仕たる様子ニて、御礼も相済不申候事[注12]
 (この書状から知ることは、最上家重役達が国替えの決定に異議を唱え、それにより再び家中紛争の状態となり、義俊の将軍へのお目見ができなくなったという)
 (ニ) 八月十三日、最上身上可相果之由候、是者何之故候哉、便宜ニ可承候事[注13]、
 (細川忠興は最上家改易の噂を聞き、その訳を忠利に問うている)
 (ホ) 八月十六日、最上事も被成御免、今度新敷御国を被下候と恩召候段、被仰出候へ共、年寄共両人申候ハ、任御綻国へ参候共、又色々の儀可在候間、最上を守立申儀ハ罷成間敷之由、申上由候、何と可被成も知不申候[注14]
 (十日の時点で、重臣達の国替えの裁定に不服を唱えたことが判っており、その理由が国替えとなっても家中の対立は続き、最上の家を守ることは出来ないと、あくまで国替えを拒否した。この「年寄共両人」とは、山野辺義忠と蛙延越前と思われる)

 この多分に真実性のある史料から、改易直前の慌ただしい空気に包まれた、幕府対最上家の対立の構図を見ることができる。しかし、そこには藩主義俊の姿は見えないままに、二十一日、遂に破局を迎えたのであった。[梅津政景日記]は次のように伝えている。
 
 去廿二日之御日付ニ而江戸より御飛脚辰刻ニ参着、半右衛門所へ之御状之趣致拝見候、様子ハ、もかミ源五郎殿御下衆公事之事御前公事ニ罷成、公方様被仰出ノ分ハ、出羽守・駿河守御奉公致候間、此度之儀ハ被御免候間、如前ニ年寄共国之仕置可仕由被仰出候所ニ、罷成間しき由御請申上候由、就之、御直ニ御仕置可被仰付旨、公方様被仰出、云々
■執筆:小野末三

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[注]
1、[最上氏収封諸覚書] (『大日本史料・12編47』)

2、阿部酉喜夫[最上家信奉納石灯篭の銘文について] (『羽陽文化111号』昭45年)
 阿部氏は、大沼浮島稲荷神社所在の二基の石灯篭に刻まれた、風化の進みつつある銘文の解読に力を注いだ。藩内抗争の最中に巻き込まれ、如何とも仕難い立場に置かれた義俊の姿を、この銘文から見ることができる。

3、[梅津政景日記] (『大日本古記録』)

4、[蜷川文書] (『山形市史・史料編1』)

5、[日暦] (『川口市史・近世資料編3』)
 寒松は足利学校から芝(現川口市)の長徳寺、そして江戸へと絶えず行き来をしていた。この年の十月、数日前に江戸入りした寒松は、十五日に登城し将軍に謁見、その帰路には幕閣の酒井雅楽頭を訪ねている。寒松の江戸での日程は多用を極めていた。

6、[天英公御書写] (『大日本史料・12編44』)

7、『寛政重修諸家譜・巻八十』

8、[注6]と同じ

9、[注6]と同じ

10、[部分御旧記] (『大日本史料・12編47』)

11、[注10]に同じ

12、[細川家史料] (『大日本近世史料』)

13、[注12]に同じ

14、[注10]に同じ


【氏家伊予守定直・尾張守守棟/うじいえいよのかみさだなお・おわりのかみもりむね】 〜信頼厚い譜代の重臣〜

 「どうぞ親子の争いをおやめください。最上のお家は義光様に任せるのが一番です。」
元亀元年(1570)に義光が家督を嗣ぎ、新たな政策を実行しはじめた段階で、家臣団が父義守派と嫡男・義光派に分かれて対立、領内が混乱におちいった。このとき、病床の氏家定直はこう言って、主君義守をいさめた。
 その事情は5月15日付けの義守(入道して栄林)書状によってわかる。

 「さてゝゝ此口之儀者、氏家存命不定之刻、意見に及び候条、諸事の不足をさしおき、親子和与せしめ候。定めて祝着たるべく候や」

 現代語では「こちらの方では、氏家(伊予守)が生死のさかいにあるときに、意見してくれたことから、いろいろ問題はあっても、親子和解したところだ。まずは目出度いこととしてよいだろう」となる。
 
 義守としては、不満はあれども喜んでいいことと、自分を納得させている文面である。
 定直の忠言に従って義守は一旦は政治の世界から引退し、龍門寺に入った。
 文献史料を見ると、氏家定直が最上家の重臣として活躍をはじめるのは、義光が生まれる前の天文12、3年(1543、4)ごろからで、主君義守が20歳を過ぎたばかりの時期にあたる。若い山形の主を、定直は懸命に支え続けてきたのである。だからこそ、その病床からの意見には、剛毅な義守も従わざるを得なかったのであろう。
 仙台市青葉城資料館の大沢慶尋氏の研究によれば、15世紀前半の当時、米沢の伊達氏と最上氏が外交折衝をするときは、定直が後見となっていたとのことで、「義守政権の宿老で第一の重臣」の地位にあったという。
 さらに筆者の意見を述べるなら、その名字の「定」は、さらに前代の「最上義定」から拝領したのではないか。だとすれが、義定の没年とされる永正17年(1520)以前からの、譜代の家臣だということになる。
  *  *  * 
 義光時代に活躍する氏家尾張守守棟は、定直の子であろう。父が主君の名の一字をもらったのと同じく、彼も義守から「守」一字を拝領したと考えられる。ついでだが、その子「棟」、孫「定」もまた、「義」「家」の一字をもらったのだろう。
 『最上記』によれば、守棟は常に義光の側近にあった。義光が領域拡大の戦いを積極的に進めていった時代、谷地の白鳥氏、寒河江氏、天童、上山の里見氏等との戦いには、さまざまな計略を進言して、成功を収めたとされている。
 それだけではない。主君に対して厳しい苦言を呈したこともあった。
 永禄年間(1565前後)に、貴志氏が篭もった八ツ沼城(朝日町宮宿)を攻めたとき、義光は真っ先かけてめぼしい敵と渡り合おうとする。一軍の総大将が勢い込んで走り出るのを、兵士たちは「とんでもないこと」と引き止めるが、義光はそれを振り切って進み、例の鉄棒を振り回して相手を仕留め、首を取った。
 そのとき、傍に駆け寄った氏家守棟は、「大将ともあろう方がそんな雑兵の首を取って誰に見せようというのか」と、厳しく叱り付けた。義光は叱られてしょげかえり、取った首をかたわらにいた兵に与えてしまった。
 まさに信頼厚い重臣なればこそである。
 『奥羽永慶軍記』では、義光を「ソノ性寛柔ニシテ無道ニ報ヒズ、然モ勇ニシテ邪ナラズ」と称賛したのに続けて、「誠ニ君々タレバ、臣々タリトカヤ、時ノ執事氏家尾張守、元来忠アリテ義アリ」と、守棟を「志村九郎兵衛(伊豆守光安)」と並べて最上家の最重要な家臣として位置付けている。
 守棟は、まさに義光の出羽南部統一事業をささえた大功労者であった。
 『最上義光分限帳』には、その子「高壱万七千石 氏家左近」が出ており、城下絵図で見ると、山形城二の丸東大手門の前、元の県立病院の敷地一帯が氏家の屋敷であった。山形城内で最も重要な所に居住していたわけである。守棟の子光棟は、義光の娘「竹姫」を妻とするが、これは別項にゆずる。
 山形市平清水の大日堂に、氏家相模守光房が「諸願成就」を感謝して寄進した鉄鉢がある。この人物も、伊予守、尾張守に連なる人物であろう。「慶長六年閏月(この年は十一月)二十八日」とあるから、出羽合戦で勝利を収めた記念でもあろうか。参考までに、尾花沢市六沢の円照寺観音堂に延沢康満が奉納した絵馬も、同年、同月「十七日」の銘がある。この月、山形領内では祝勝パーティーでもあったのか、あるいは戦後の論功行賞が発令されたのかもしれない。
 話かわって、古く14世紀の南北朝時代、新田義貞が越前で戦死したときに、その首を取ったのは斯波氏の家来の氏家重国だと『太平記』にはある。このとき新田義貞が佩いていた太刀が、めぐりめぐって最上家に伝えられた名刀「鬼切丸」であるとされる。
 斯波氏は現宮城県北部に居住して「大崎」を名乗り、最上家はその分家として出羽最上に入った。両家には共に「氏家」を名乗る重臣がいた。
 どうやら氏家氏は、斯波氏、最上・大崎両家とは切っても切れない深いつながりがあったらしいのである。
■■片桐繁雄著

【松根備前守光広/まつねびぜんのかみあきひろ】 〜俳人・松根東洋城の先祖〜

 義光の弟である義保の子。義保は長瀞城主。兄の片腕となって出羽南部の平定に尽力したが、天正19年(1591)に戦死。ときに光広は3歳の幼児だった。義光がこれを哀れんで、息子同然にいつくしみ育てたと、宇和島市に残る古記録は伝えている。
 光広は成人の後は山形市漆山に居住したこともあったが、西村山の名門白岩家の名跡を継いで「白岩備前守」を名乗る。
 慶長5年(1600年)の関が原合戦、長谷堂合戦のときは12、3歳だったから、まず戦陣の経験はなかっただろうと思われる。元和2年(1616)、庄内櫛引郷に居城松根城を築いて松根姓を名乗る。一1万2千石、一書に1万3千石とある。
 義光に育てられたことに対する報恩の気持ちからか、最上家を思う心が人一倍厚い人物だったようだ。
 熊野夫須美神社に、那智権現別当あて、年次無記8月20日付、光広の書状が一通ある。
 「最上出羽守義光が病につき、神馬一疋ならびに鳥目(銭)百疋を奉納いたします。御神前において御祈念くださるようお頼みします」という内容である。
 「白岩備前守光広」の署名からみて、松根移転以前であることは明らか。義光の病が重くなった慶長18年(1613)のものと推定される。出羽からははるかに遠い紀州那智に使者を遣わして、病気平癒の祈りをささげたのである。あるいは、光広はそのころ上京中だったかもしれない。
 義光が亡くなり、跡を継いだ駿河守家親も3年後の元和3年ににわかに亡くなり、その後を12歳の少年、源五郎家信が継ぐ。とかく問題行動を起こしがちな幼い主君に、家臣たちは動揺する。
 家を守りたてるべき重臣たちのなかには、義光の四男山野辺光茂こそ山形の主にふさわしいとして、鮭延越前、楯岡甲斐らの一派が公然と動きはじめる。
 かくてはならじ、お家のためになんとかせねばと、光広は「山野辺一派が策謀をめぐらし当主家親を亡きものにした」と幕府に直訴した。幕府でも一大事とばかり徹底的に究明したが、事実無根と判明。偽りの申し立てをした不届きの所業として、光広は九州柳川の立花家にあずけられてしまう。彼はここ柳川でおよそ五十年を過ごす。藩主立花宗茂との親交を保ちつつ、寛文12年(1672)84歳の生涯を終える。
 その子孫が四国宇和島の伊達家につかえ、家老職の家柄を伝えて維新を迎えた。
 高名な俳人松根東洋城(本名豊次郎1878〜1964)は、この家の9代目にあたる。宮内省式部官などを勤めながら夏目漱石の門下として俳壇で活躍、のち芸術院会員となった。
 昭和4年6月、父祖の地である庄内の松根から白岩をおとずれた東洋城は、昔をしのんで次のような句を残した。
  故里の故里淋し閑古鳥
  青嵐三百年の無沙汰かな
 出羽の最上から九州柳川へ、そして更に四国の宇和島へ。先祖のたどった長い長い3百年の道程だった。宇和島市立伊達博物館の庭には、「我が祖先(おや)は奥の最上や天の川」の句碑がある。
 最上家の改易で会津・蒲生氏により接収破却された松根城の跡には、最上院がある。光広の妻が晩年に住んだという松根庵には、彼女の墓碑が寂しくたっている。
■■片桐繁雄著

山形藩主・最上源五郎義俊の生涯

【二 試練の元和六年】

 元和四年(1618)九月の、藩政監察を目的とした幕府検使の派遣が、果たして最上家内の不穏な空気を、どこまで察知し得たであろうか。そして、同六年(1620)三月、目付として今村伝四郎、石丸定政が山形に派遣された。「同十八日、今村伝四郎、石丸六兵衛監使トシテ羽州最上ニ赴ク、翌年四月、江戸ニ帰ル[注1]」、また「同日、最上源五郎家中申ふん有之ニ付而、両方之様子御聞可被成ため、今村伝四郎、石丸六兵衛、為御上使、羽州エ被遣[注2]」と、幕府監使派遣の目的を、具体的に家中騒動の調停のためとしている。
 この目付の派遣が、幕府独自の最上家内情の把握によるものなのか、それとも家中で相対峙する二つの勢力が、ともに幕府の介入により、諸案の解決を望んだものなのかは定かではない。いずれにせよ、数年後に訪れる最上家大破への決定的な第一歩を、確実に踏み出したことには間違いないであろう。
 この元和六年(1620)の目付導入という立場に置かれた最上家が、また一方では公的な勤めを果たすべく、江戸城普請手伝いを課せられた年でもあった。この年は江戸城の拡張工事と、大坂城修築が行われた年であり、江戸城の助役は大体は関東以北の大名に課せられた。この年の工事については、「其地御本丸御普請弥来々年之由、得其意事[注3]」と、既に二年前には決定していたようだ。

今年、築江戸城諸箇所石壁、平石壁者、自内桜田至清水門、升形者、外桜田・和田倉・竹橋・清水門・飯田町口・糀町口等也、米沢中納言景勝・松平陸奥守正宗・佐竹右京大夫義宣・松平下野守忠郷・最上源五郎義俊・南部信濃守利直、勤役之[注4]、
 
このように、江戸城の普請手伝いは、すべて東北諸大名に課せられている。その中から、(イ)米沢藩、(ロ)仙台藩、(ハ)秋田藩の三藩は、次のように伝えている。

(イ)[上杉年譜] 元和六年春二月五日、江城隍塹石壁ノ経営アルへキ旨アリ、コレニ依テ諸将二命シ御手伝アルヘキヨシ、
(ロ)[貞山公治家記録] 此日 (二月十一日)、江戸御二丸大手口升形ニ石壁御普請ノ義、公へ仰付ラルノ旨御触アリ、
(ハ)[梅津政景日記] 二月廿五日、江戸御普請、景勝様、正宗様、下野様、源五郎殿へハ御催促二候へ共、殿様へハ御触無之由、
 
 この三藩の記録を見るように、二月中には手伝いの命が下っている。この中で秋田藩については、どのような事情があったのか役を免ぜられており、事前に準備をしていた手伝衆を帰国させている。山形藩については、家譜の類いは何も語ってはいないが、惣奉行に任ぜられた和田左衛門に関わる書状などから、僅かながらも、その時の状況を知ることができる。

   「東根薩摩守景佐外連署書[注5]」
     以上
此度江戸御普請御本役ニ被仰付候、依之先達如申越候、貴殿乍御大義惣奉行ニ被仰付、随而貴殿少身と申、支度も成兼候ハンと被思召、為合力与銀子壱貫目、八木(米)弐百俵被下候、於其元ニ原美濃・中山七左衛門御請取候て、御支度をも御申尤候、右両人之衆へも様子申越候、尚江戸へ御立へ候定日者、重而可申入候、恐々謹言
    三月八目        東根薩摩守
                   景佐(花押)
                楯岡甲斐守
                   光直(花押)
    和田左衛門殿        
           人々御中

 この手伝いの惣奉行を命ぜられた和田左衛門が、少身が故に支度もままならぬだろうと、藩からの物品の援助を与えていたことを伝えている。左衛門の禄高については、慶長十七(1612)年五月発給の安堵状には「三百九拾石」、また最上義光分限帳には「四百拾壱、六石」とある。[和田氏系譜] によれば、父の越中守正盛(二千七百九拾五石)と共に勤仕していたが、正盛は慶長十九年(1614)の一栗兵部の乱で討死している。この折りに左衛門の妻女が兵部の女であった故に、父の遺領を継ぐこともできず、従来の自己の禄のままであった。改易後は庄内に入った酒井家に仕え、四百石を給され足軽頭となっている。[注6]
 この助役が山形藩五十余万石の表高通りに課せられた、「本役」に関わる財政的負担の大きさは、他の藩にしても同様であったろう。秋田藩に於いては、この年の手伝いが奥州大名に課せられるとの報に接すると、未だ催促を受けない内に命ぜられることを予想して、諸在郷の給人知行地と蔵入地に触を廻し、百五十石に一人、十九万六百石に千三百七十一人の人夫を割付け、また「おつなの御用」として「あおそ」を買い集める手筈を整えていた。実際に助役は任ぜられなかったが[注7]、普段からその方策は、油断なく立てられていたのであった。
 また仙台藩に於いても、他藩とは持ち場の広さなどの違いはあるだろうが、「此人夫四十二万三千百七十九人半、御入黄金二千六百七十六枚五両三分[注8]」と、莫大な出費があったことを報じている。山形藩も、これと似たような出費を強いられたことであろう。
 この工事の終了時はいつ頃であったろうか。各藩それぞれ持ち場が異なることから、終了時も一定してはいなかったであろう。その中で、伊達政宗と上杉景勝宛の、工事終了に対する将軍からの慰労の書状の日付が、十一月廿一日とあることから、各藩もこの月あたりまでには完了していたのではなかろうか。山形藩に於いては、このような書状は見あたらぬが、楯岡甲斐守と惣奉行の和田左衛門宛の、義俊よりの書状が残されている[注9]。

(イ) 以上
一書申候、仍其許就御普請、炎天之時分骨折共大儀之至候、併弥計行候由、御普請奉行衆被仰下候条、悦入候、迚之儀ニ候間、何も油断様、精を入可被申候、猶内膳・正兵衛可申候、
        七月廿一日          家信(判)
          和田左衛門とのへ  
(ロ) 以上
今度清水御門之御普請相究、上様御機嫌能、万々仕合共之由、満足不過之候、然者此方替儀無之候条、可心安候、猶重而可申候、かしく
        九月朔日           家信(判)
          和田左衛門とのへ
(ハ) 以上
今度清水御門和田蔵之丁場、仕合能早々出来候由、旁精入候故と大慶不過之候、日夜苦身共大儀候、猶朝比奈讃岐可申候、かしく
        九月廿六日          家信(判)
          和田左衛門とのへ

 この義俊の左衛門への心からの労いの言葉は、惣奉行として工事を統括し、無事その任を果たした左衛門にとっては、一栗兵部の乱での汚名挽回の意味をも含めて、最高の喜びであったに違いない。
 また義俊は、当時の江戸藩邸を取り仕切っていたと思われる楯岡甲斐守にも、次のような感謝を込めた書状を書いている。山形に在っては幕府目付の詮議が続いていたであろう。その中での江戸城普請手伝いの軍役を果たした喜びを、この書状から伺い知ることができよう[注10]。

今度清水御門之御普請相究候、上様御機嫌能、万々仕合之由、満足不過之候、随而御普請ニ付、日夜被人精候由、殊ニ其方手前雑作共之由、大儀ニ候、然者此方替儀無之候間、可心安候、猶重而可申候、恐々謹言
   九月朔日
        山源五
 楯岡甲斐守殿     家信(花押)

 この年の六月、将軍秀忠の女和子が後水尾帝の中宮として、入内する慶事があった。その上洛の際の供奉の列には、多くの譜代の衆が連なっていた。これに関して細川忠興が忠利宛の三月五日付の書状には、「御供ハ会津下野殿・もかみ殿・鳥居左京殿、御年寄衆ハ対馬殿・雅楽殿御上候ハんかと申候[注11]」と、義俊が供奉の列に加わるのではという、風聞があることを伝えている。この噂の根拠については知る由もないが、この時期に他家文書に取り沙汰されている義俊の姿があったのである。
 この幕府目付の受入れと、軍役の一端としての普請役を担った最上家にとっては、内外ともに多難な日々であったといえよう。目付を受入れての藩内情勢については、その詳細については知る由もないが、恐らく等しく身に迫る緊迫感の中で、ただゝゞ推移を見守っていたのであろう。この時点に於いて、藩内を二分しての内部抗争の実態については、これらを示す事例を見つけ出すことは難しい。
 ただ、この内部抗争の中で、義俊に好意を示していたと思われる東根薩摩守景佐が、その書き残した遺言状に、最上家の前途を明確に暗示した箇所がある。それは当時の藩重役としての景佐には、藩内抗争の渦の中に幕府の手が入った現状に、最上家の運命を決定づける程に、もう抜き差しならぬ事態までに追い込まれていることを、熟知していたのである。
 この元和六年八月七日付の、子息の源右衛門頼宜に宛てた、「金銀の覚」・「ゆい之物覚」から成る長文の遺言状[注12]から、主家に関わるものを抽出し、任意に箇条書きにして述べてみる。

(イ)我等相はて候ハゝ源五郎さまへつきめ(継目)の御札あがり可申候、
(ロ)源五郎さま御はうこう(奉行)返しさんましく候、よくゝゝ申上可申候、我等事ハ代々殿さま御第一ニ心かけ申事きゝつたへ候事もあるへく候、少成共ゝ殿さま御はうこういたし候て、御さたのかきりにて候やうニ心けかんやう(肝要)ニ候、
(ハ)殿様へ大くりげの馬さし上申可然候、
(ニ)此度身上の外ニ金銀をただ申事も、もかミの図三年と此分ニあるましく候、せめて御国かへニも候ヘハ、いつともにて候なんそ出入候て越後・ すわ・かしまなとのやうニ候ハん事がんぜん(目然)ニ候、

 このように、景佐は己の死後も代々仕えてきた最上家への、第一の奉公を忘れずにと懇々諭しながらも、主家の行く末を「もう三年ももたないだろう。せめて国替えで済まされればよいものを」と案じ、主家に迫っている危機を、身をもって感じていたことが判る。二年後の改易を迎える際、幕府の最上家の「公事」事の解決策は、最初は禄を減じての領地替えであったという。それが、山野辺義忠などの強固なる反対により、最悪の事態を迎えたのであった。若し景佐の望んでいた「せめて国替でも」の願いが適っていたならば、少身に甘んじながらも、義光の血を引く大名家として、天下にその名を残していたであろう。義光のもとで戦国を生き抜いた景佐にとっては、崩れゆく主家を支えきれなかった無念さを抱きながら、この世を去って行ったのであろう。
 景佐は最上家はもう三年はもたないだろうと言った。この最上家の元和六年は、課せられた軍役を果たしながらも、もう後戻りのできない程に、藩内抗争の輪が広がっていたことを、景佐の遺言状から知ることができる。景佐の死は、この年の暮れの十二月廿四日であった。
[元和年録[注13]]は、この年の九月十二日、義俊の江戸での不行跡を伝えている。しかし、この時期は在国していたことが、先の楯岡甲斐守宛の書状から判っており、その日時については疑問が残る。しかし、一年半後の八年三月に、佐竹義宣が家臣宛の書状に、義俊の江戸での不行跡を伝えていることから、この記述も半ば事実に近いものと思われる。しかし、このような世間の耳目を引くような、若き主君の行動を見逃した、江戸藩邸の重役達は誰であったのか。その責任の一端は重役達が担うべきであろう。

十二日、最上駿河守子息源五郎義俊、若輩故無行儀ニ而、家老之異見をも不用、我まま無申計、如此ハゝ、家可及破滅と難儀仕時分、遊君共数多船ニのせ、自船を漕、浅草川筋ニ而、御船手衆之船頭と口論いたし、令打擲、船を漕出し逃のき候間、跡をシタひ、屋敷へ申断候、此事諸人存知候間、如何様終ニは身代可為滅亡と沙汰有之、
■執筆:小野末三 (U)

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[注]
1、[東武実録] (『大日本史料・12編33』)

2、[元和年録] (『大日本史料・12編33』)

3、[細川家史料] (『大日本古記録』)

4、 [御当家紀年録]  (『東京市史稿・皇城篇1』)

5、[『鶏肋編』所収文書] (『山形市史・史料編1』)

6、『新稿・羽州最上家旧臣達の系譜』平10年・小野末三著(最上義光歴史館刊)

7、[梅津政景日記] (『大日本古記録』)

8、『貞山公治家記録・巻28』

9、 [注5]に同じ

10、[高宮氏所蔵文書] (『山形市史・資料編1』)

11、[注3]に同じ

12、『東根市史・通史編1』平7年

13、[注2]に同じ