最上義光歴史館

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最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先

【三 忍藩阿部氏『親類書』書上げの佐竹氏】

 万治三年(1660)佐倉藩主掘田正信は改易を受け、所領没収のうえ実弟の飯田藩主脇坂安政に預けられる。ここに掘田氏家臣団の解体により、多くの浪人達を生むことになるが、それでも掘田一族の諸家への吸収、また諸藩への再仕官の道も残されてはいた。堀田正信時代の分限帳を見ると、その内の百六十余名に、掘田一族以外の諸大名への仕官先の加筆がある。これが万全とはいえないだろうが、何かと救済の道は開けてはいたのであろう。
 『親類書』書上げの寛文五年(1665)当時、伝右衛門は二十三歳というから、生まれは寛永の終り頃だろうか、掘田氏改易の万治三年(1660)当時は十八、九歳であったろうか。父の伝兵衛の死を十年以前としているから、堀田氏改易当時は兄の二代・伝兵衛の代であったろう。伝右衛門の阿部氏への仕官を、「巳二月被召出候」としているから、この寛文五年(1665)二月、伝右衛門はどの程度の禄高で召抱えられたのか。そして何時の頃まで系譜は続いて行ったのだろうか。
 ここで忍藩阿部氏について述べてみよう。当時の藩主豊後守忠秋は、将軍家光の小姓から次第に頭角を現し、寛永三年(1626)に六千石から一万石の大名となる。同十二年(1635)に下野壬生藩主、四年後には五万石にて忍藩へと転封、幕末の文政六年(1823)に陸奥白河に移るまで、阿部氏の領するところとなる。忍藩は「老中の城」として重要視され、政治・軍事的にも幕府権力を支える不可欠な藩であった。忠秋は加増を重ね、寛文三年(1663)には八万石となり、同十一年に退任した。
 佐竹伝右衛門が召抱えられたのは、掘田氏の急激な領地拡大により、浪人などを中心とした新規召抱えによる、家臣団の増強を計っていた時期である。ここに[忠秋様御代 慶安年中分限帳写]がある。その内容から推察すると、寛永から寛文期に至る間の、忠秋時代の家臣団構成の実態を示すものだという。
 例の『親類書』提出者の約八割の姓名が一致するという。しかし、どうしたことか佐竹伝右衛門の名が見当たらないことだ。これは、続いて享保八年(1723)の[拾万石軍役之訳分限帳]などからも、また他の資料等からも、佐竹氏を見付け出すことはできなかった。伝右衛門は仕官を果たした後、幾許もなくして退散したのだろうか。併せて藩内に目を向けると、安食、安恵、岩崎など九氏を数える最上氏旧臣が召抱えられ、それぞれ幕末まで書き継いだ『先祖書・親類書』などを残している。当然のこと、佐竹氏のものは見当たらない。 
■執筆:小野末三

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最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先

【『親類書』から探る一族の消息】

 近世諸藩の大名家に於いて、下層に位置する一部の者達を除く士分達は、自己の素性・姻戚等を明らかにする『由緒書・先祖書』などを、藩に提出しなければならなかった。また独自の『親類書』などの作成もあり、これらが一人の藩士の戸籍簿として、代々、書き継がれていっている。
 ここに取り上げたのは、元和八年(1622)八月、家内騒動を理由に改易を受け消滅した羽州の大藩最上氏の、旧臣の一人であった佐竹内記に関わる『親類書』である。いわば現代の『戸籍簿』に通じるものであり、各藩士の家族構成を把握する上に於いて、不可欠な材料の一つである。
 佐竹内記を筆頭とする佐竹氏一系が、どのような形で最上の地を去り、別天地で生きる道を開拓して行ったのか。それらを明確にできる程のものは何も無い。ただ『親類書』を足掛かりに、調査の広がりを求める他はないようだ。
 武州忍藩阿部豊後守忠秋の家臣、佐竹伝右衛門書上げの『寛文五年 御家中親類書』(以後、『親類書』とする)が、この調査の中核を為すものである。先ずはこれから取り上げてみよう。

一 本国羽州最上  佐竹伝右衛門
  生国武蔵江戸     年廿三         奥平美作守殿家来
一 古主      掘田上野介殿    一 同    佐竹儀左衛門
一 寄親      松井勘左衛門         太田備中守殿家来
一 巳二月被召出候           一 同   小泉平内
   掘田上野介殿家来十年前相果         北見久大夫殿家来
一 親   佐竹伝兵衛         一 伯母婿 小川十郎左衛門
   同断今□浪人                久世大和守殿家来
一 兄   佐竹伝兵衛         一 従弟  佐竹新五郎
   松平伊賀守殿家来              掘田市郎殿家来
一 伯父  佐竹市右衛門        一 同   佐竹辰之助
    同                    松平伊賀守殿家来
一 同   佐竹与二右衛門         同   佐竹市大夫
   奥平美作守殿家来         一 同   佐竹左五右衛門

 この『親類書』書上げの佐竹伝右衛門は、本国を羽州最上、生国を江戸とする二十三歳の若き藩士である。今は亡き父を伝兵衛と云い、先の主が掘田上野介正信であったことが分かる。ここに記載のある縁者とは、実父・実兄と四人の伯父達と一人の伯母婿、そして四人の従兄弟達の十一人である。しかし、この『親類書』からは、本論の柱となる佐竹内記の姿を見ることはできない。この佐竹氏一系の棟梁としての内記が、その姿を見せたのは、『親類書』の伯父の一人の小泉平内が伝える『佐竹家譜・元小泉』 (以後、『家譜』とする)である。この『家譜』の発見が無ければ、佐竹氏一系の内記を頂点した流れを、掴むことはできなかったであろう。先ずは『家譜』から、内記と平内に関わる記述を拾ってみよう。

  「佐竹家譜  元小泉」
最上出羽守家土
 佐竹内記某五男
 初代 某 五左衛門 四郎兵衛 平内 致仕是心
      母不知
    一 出生月日出地初名等不詳、
    一 妻不知
    一 寛永年中月日不知、瑞華院様御代、北見久太夫殿肝煎を
      以御馬廻被召出、知行百五捨石拝領候、
    一 年月日不知五捨石御加増拝領候、
    一 寛文五乙巳年、物頭被仰付、弓組御預被仰付候、
    一 同十一辛亥年、鉄砲組御預被仰付候、
    一 延宝六戌午年八月十一日、五捨石音御加増拝領候、番頭
      被仰付候、
    一 同八庚申年十月十一日、病気ニ付役儀御免、願之通隠居
      被仰付、
      御扶持方拾人扶持被下候、隠居名是心ト改、
    一 貞享三丙寅年十一月十三日、於駿州田中死去、葬同所大慶寺、

 小泉平内に関しては改めて後述するが、『家譜』の冒頭の「佐竹内記某五男」から、内記が最上義光の家臣であったこと、さらに『親類書』に登場する人物達の、棟梁であったことが判ってきた。本論は、この二点の史料を基にして、あの羽州の地で栄光に満ちた最上の時代を生き抜き、そして新たな道へと歩を進めた者達を追っての、いわば追跡調査というべきものである。
■執筆:小野末三

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最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【志村光安 (6)】


 前述したように、慶長六年に東禅寺城(亀ヶ崎城、以下亀ヶ崎城に統一)に志村が移封されて後の庄内の統治は、志村・下・新関らの各城主が連携しあい、また進藤但馬・原美濃ら各城の家老と比定されてきた者達がある程度の実務を遂行していた形跡が見られる。その関係性の実情を探るにあたって、各々が発給した書状史料に注目して検討を試みる。
 考察を進めるにあたり、前提としてこれら城主と家老たちの関係、そして主君最上義光との関係を見ておかねばならないだろう。進藤ら家老達は、最上家臣としてどのような位置にあったのだろうか。
 『山形県史』ならびに『酒田市史年表』は、原美濃を大山城主下対馬守(治右衛門)の家老、進藤但馬を亀ヶ崎城主志村光安・光惟の家老であるとしている。まず、この事実関係についての確認を行いたい。

   貴札并作右衛門殿御口上之通、即伊豆守に申きかせ候、
   さてヽヽ越国之金鑿衆、篠子と仙北境にて山落つかまつり、
   十二・三人討捨申由被仰下候、驚入申され候、…(後略)
   (注23)

 右の一文は、慶長十四(1609)年六月に、由利郡東部の笹子において発生した笹子山落事件に関して、進藤但馬が赤尾津(本城)満茂に対し山形へ連絡したこととその返答を申し送っている書状の一部であるが、傍線部「即伊豆守に申きかせ候」とあるのが見える。進藤但馬は、かかる重要事案に関して「即」「申し聞かせる」事ができる立場にあったのであり、志村光安と共に亀ヶ崎城に居って職務に携わっていた、つまり家老的立場であったとするのが妥当であろう。
 原美濃は、上記のように直接的に志村や下ら城主とのやり取りを記した書状史料は見当たらないが、以下に挙げる史料によってその立場を検討しえよう。

   無音村年具之覚
  一、 高四百四拾四石七斗九升者
    (中略)
  右地所相渡者也、仍如件
   慶長十七年      進藤但馬 印
      十一月二十七日    安清(花押)
              原 美濃 印
                 頼秀(花押)
     北館大学殿  (注16)

 とあり、両名が連署して年貢覚を北館大学に通達している事が分かる。また、元和元年頃発給されたと推定される(注26)書状群においても両者の連携が見られる。

   追而、彼飛脚一人、人留無相違御通可有之候、猶々□有かせきの由、
   次右衛門殿申上候、尤各々へもさうたんいたし候 已上

   先日亀崎より走申候故、貴殿御念故、小俣村ニてとらへ申候、
   忝由貴殿へ但馬殿より書状御越候、又大嶋手柄被申候由、
   我等所へも被越候、(略)(注18)
 

 原美濃守が、有沢采女に対し亀ヶ崎から欠け落ちた者を召捕った大嶋某と言う者を賞する事を報じた書状であるが、これと同日付で同じ懸案を記した進藤但馬発給の書状が存在する。

   一書令啓上候、此方より牧野安芸武井内之者闕落申候ニ付、
   濃州様より貴殿へ被仰遣候ヘハ、程々御念被入候而御穿鑿被成、
   越後之内小俣村ニ而とらへ申事、(略)(注19)

 上記二つの書状実線傍線部を参照すると、原美濃・進藤但馬双方が書状を発給した事を双方が把握し、亀ヶ崎よりの欠落という事件に対して連絡をとりつつ「各々へさうたん(相談)」しながら対処していることが判明する。また、点線傍線部を見ると、原美濃書状は「亀崎より」進藤但馬書状は「此方より」と自らの在所が区別されているように見て取れることから、原美濃は亀ヶ崎城に在城してはおらず、また「次右衛門殿」へ申上げるとあって次右衛門は治右衛門と同音であり、これは下治右衛門を指すものであろうか(時期的に見て下吉忠の継嗣下秀実であろう。慶長十七年八月十五日付下秀実宛行状(注27)において、下秀実が治右衛門を称していることが確認される)。同事件に関わるもう一通の書状にも、

   (前略)亀崎より闕落申候弐人之者、小俣村にて搦申候事、
   貴殿無御油断御念入候故と存候、(中略)貴殿より我等所へ
   御越候書状をも、今朝亀崎へもたせ越候、(後略)(注17)
 

 とあり、「我等所」と「亀崎」を明確に他所と区別している。これらいくつか挙げた書状の内容を検討する限り、原美濃が下対馬守の家老である可能性は高く、進藤但馬と原美濃は異なる居所、恐らく亀ヶ崎と大山において同等の家老的立場とそれに伴う権限を持って統治に当たっていたと考えるのが妥当だ。
<続>

(注26) 『鶴岡市史』(鶴岡市 1962)
(注27) 「鶏肋編所収文書」(『山形市史 史料編1 最上氏関係史料』)


志村光安(7)へ→

【下次右衛門/しもじうえもん】 〜一城の主となった降将〜
   
 人間を人間として大切にする……。最上義光は、その点において驚くべき思想の持ち主であった。そもそも、罪なき民衆が命を失う戦いを好まなかった。戦っても相手を殲滅するやりかたを彼はしなかった(谷地・寒河江・八ツ沼)。逃亡を黙認した(天童・鮭延)。戦後処理には、弱者への配慮を惜しまなかった(谷地・寒河江)。傷ついた部下に対する見舞状をしたためて、称賛し激励した(現存文書)。「地下人をも家士同然にせられける」とは、義光と敵対した上杉方の評価である(越境記)。一般民衆を家臣同様に扱ったのである。「その性寛柔にして無道に報いず。しかも勇にして邪ならず」と、『中庸』を出典とする言葉で義光の人間性を語った古文献もある。彼は人を活かそうとした、持てる力を発揮させようとした。野辺沢満延、鮭延秀綱、北楯大学、みなそれである。
 上杉の降将下次右衛門も、義光によって見出され、力量を発揮した人物だ。
 そして、この人物を語るには、志村伊豆守光安との友情をも語らねばなるまい。
  *  *  *
 慶長5年(1600)9月、関ヶ原を主戦場とする「天下分け目の戦い」が起こった。 義光は奥羽諸大名を率いて上杉攻撃を命じられ、準備態勢をととのえているところへ、上杉は先制攻撃をかけてきた。総勢2万とも4万ともいわれる大軍が、怒濤の如く最上領へ侵攻する。総大将は、米沢城主直江山城守兼続である。その率いる主力部隊は、9月13日に白鷹山中の畑谷城を攻め落とした。江口五兵衛ら守備兵は全員討ち死にした。
 ほぼこの前後に、上杉方は最上方の主な出城ほとんどを占領していた。2日後の15日に、兼続は長谷堂城を目前にした陣中から僚友秋山伊賀あてに手紙を書いた。

「去る十三日に、最上領畑谷城を乗り崩し、撫で切りを命じて、城主江口五兵衛父子をふくめ、五〇〇余りの首を取った……」

 「撫で切り」とは「皆殺し」。老幼、婦女子構わずすべて切り殺せと命じたのである。恐るべき殺戮である。もちろん、戦いは残虐行為そのもので、最上兵の場合も仙北(現秋田県南部)柳田城を攻めたときの地獄絵図のごとき残虐さは『奥羽永慶軍記』に詳しい。ただし義光については、このような命令を出した事実は知られていない。
 兼続は、つづけて「庄内のわが軍も、白岩・寒河江まで占領して、そこに在陣中だ」と書いた。庄内から進出した一隊は、尾浦城(後、大山城)から六十里の峠を越え、一隊は酒田から最上川筋沿いに山形を目指し、寒河江、白岩、谷地の城に陣取った。
 このとき、谷地城を占拠したのは下次右衛門であった。下はここで兵を休めつつ、総大将兼続から山形城攻撃の命令が出るのを待っていたのである。ところが、兼続が山形城にかかる前に片付けようとした長谷堂城は、志村光安らの激しい抗戦で落城せず、半月近くも日が過ぎていた。
 9月末、関ヶ原で石田方敗軍の報せが着くと、兼続は撤退を開始し、最上軍の猛追撃を振りきって米沢へ帰還した。だが、このとき彼は大将にあるまじき大失態を演じた。谷地城で兼続からの命令を今か今かと待っていた下のところへ、何の連絡もしなかったのだ。できなかったというほうが正確かもしれない。
 下の軍勢は、状況を知らされずに、最上領内に置き去りにされたのである。谷地城は、最上軍に幾重にも包囲された。
 下は「城を出て戦い、討ち死にするこそ武人の大義」と覚悟を決める。
 一方、義光は志村伊豆守を呼んで命じた。
 
「次右衛門は、小身ながら武勇の誉れ高き者、説得して降参させよ。味方にして、庄内 攻めの案内者にせよ」

 伊豆守は単身、谷地城に入って、次右衛門を説得する。
 
「直江殿は、すでに会津へ帰国なされた。義をつらぬきこの城で戦って死すことと、妻子ある幾百の兵の命と、いずれか重き。城を開いて降伏し、義光公に仕えられよ」

 熱誠こめた勧告に心を動かし、次右衛門は義光の軍門に下った。おそらく武人同士の厳しい応酬がなされたはずだ。この経過で強い信頼が芽生えたのであろう。下軍はほどなく庄内攻めの先鋒となって尾浦城を落とし、翌年四月、酒田城の戦いにも功名をあらわす。 戦いが終わってから、義光は次右衛門に田川郡尾浦(大山)城1万2千石(最上家中分限帳)を与え、対馬守を称させた。元は上杉家でわずか400石だったのが1万2千石、一城の主となり、80石だった一門の者たちも、みな千石の領地を拝領したという。異例の加増であった。
 これ以後、下対馬と志村伊豆は、たずさえあって庄内発展に力を尽くすことになる。 
 慶長7年に義光はさらに由利郡(現秋田県南部)を得て57万石の大大名となる。
 庄内も由利も新たな領地である。戦いに倦み疲れた民心を安定させ、生産を高めねばならぬ。製塩、漁業など山形では今までなかった新しい産業もある。港を整備して海上の通運や交易も考えねばならぬ。さまざまな課題を解決し、領国の安定と発展を図らねばならなかった。
 その実務者として、川北・酒田と遊佐には志村伊豆、川南の田川には下対馬が登用されたのである。敗軍の降将、下次右衛門を義光はこのように信頼し厚遇したのである。なお、大宝寺城(鶴ケ岡)は直轄として城代を置くことになった。
 以後両人は、義光の意思を体して、数々の事業をなし遂げる。青龍寺川の開削にかかわった可能性もある。彼の所領がこの疎水の恩恵を蒙っていることからの推定である。ただし、確証は得られていない。史料不足で施策の具体相を知ることはむずかしいが、下の名は志村とともに庄内の神社仏閣などで見ることができる。
 慶長10年(1605)、金峰山本社の建立が義光の発願で行われた。奉行として工事を監督したのが、志村、下の両人だった。山上には重要文化財建造物の「釈迦堂」があり、棟札によれば大旦那は源義光、工事監督は志村光安と下秀久(名はあとで改めたらしい)となっている。
 このような神仏に関わる事業を、義光の意を受けてなしてきたわけだが、それらのうち最大の事業は、なんといっても羽黒山五重塔改修工事だったろう。塔の創建は平将門という伝説をもつ日本第9位の古塔である。高さは29メートル。南北朝時代に改修されて以後200余年たち、塔は荒れていた。名だたる修験の霊地、出羽国最大の信仰の霊場。義光の発願には、切なるものがあったであろう。
 義光はこの工事の奉行として、志村・下を任じた。工事期間ははっきりしないが、2〜3年はかかったと見てよいのではあるまいか。かつて敵味方となって戦った志村と下は、固い友情と信頼で結ばれていたのであろう。それを見ていたからこそ、義光は大役を2人に任せたのであろう。慶長13年7月、五重塔は完成した。
 塔の最上層の屋根に、金属製の九輪が立っている。その基礎のブロンズ造の露盤には、137の文字が彫り刻まれ、その中には主君義光とともに、志村と下と、2人の名前が並んでいる。(全二十八行。/は、行替え)

  大泉庄/羽黒山/瀧水寺/塔之修造/
  大檀那/出羽守源義光/時之執見/志村伊豆守光安/下対馬守康久/(中略)
  于時/慶長十三戊申/稔文月七日/

 「執見」は「執権」で、つまり実務責任者である。
 今、鬱蒼たる杉林の中に立つ五重塔を見上げる善男善女のうち、どれほどの人が戦いで相対した2人の武人に思いを馳せるだろうか。
 3年後の慶長16年7月に、下対馬は鶴ケ岡の椙尾神社に石鳥居を建立寄進した。わざわざ越前北の庄(福井)から運んだものである。だいぶ苦労があったと見えて、
 「懸命に努力した誠の心は、決して空しくあるまい。天長、地久、この地に豊かなにぎわいがもたらされるよう祈る」という意味の言葉が、石柱に彫り付けられている。
 志村伊豆守光安は、同16年8月に亡くなった。次右衛門としては、兄を失ったような気持ちだったろう。主君義光も、同19年正月に山形で没した。
 そして、下対馬守康久は、その年6月1日、鶴ケ岡城下で突如一栗兵部グループに襲われて、思いもかけない最期を遂げた。志村光安の嫡子、酒田亀ケ崎城主光惟もまた、この時に殺害された。
 まるで、その後の最上家の運命を予告するような事件だった。 
■■片桐繁雄著

【成沢道忠/なりさわみちただ(どうちゅう)】 〜大剛の老侍大将〜
   
 蔵王成沢の三蔵院に「成沢道忠公像」が大切にまつられている。
 廻国修行に出る行者の旅姿で、高さ約30センチほどの小木像である。手足が破損しているのは残念だが、作りは丁寧でしっかりしている。
 元亀から天正の初めごろ(1570年代初頭)、上山勢が伊達の後押しで山形に攻め込んだ柏木山合戦のとき、成沢城を守ったのが道忠であっと、物語には書かれている。
 「代々の家臣である七十歳にもなる道忠を主将とし、加勢として六十を超える伊良子宗牛(家平とも)をつかわしたのは、経験ゆたかな老将で守りを固め、無駄な戦を避けようという義光公のはかりごとだ」と各種の軍記物語にある。
 天正13年(1585)ごろに、義光が庄内進出を図って余目の安保氏を攻めたときには、「最上の先陣は、大剛の侍大将成沢道忠、5千余騎を引き連れて敵のたてこもる城郭に押し寄せ」(『羽源記』)とあり、老齢ながらも剛の者として知られていた。
 もっとも、このときの戦いは敵方のしぶとい抵抗にあって、失敗に終わっている。
 以上の記事によれば、70〜80歳にしてなお矍鑠として戦陣に立ったこととなる。
 また、義光の死後つまり慶長19年(1614)以後に、道忠は行者となって故国を去り、陸奥国石田沢(塩釜市)に隠れ住んだとする言い伝えもある。
 しかし、これらの記事や伝承は、年令から考えると無理な話で、あるいは、成沢氏の親子2〜3代にわたる活躍を、道忠一人のこととして、まとめて作られた可能性もありそうだ。そもそも、柏木山合戦なるもの自体、作り話らしいのである。
 最上義光歴史館所蔵の『最上家中分限帳』には「一、五千石 成沢道仲」と出ているが、成沢城をあずかったとはなっていない。名乗り名字からいえば、成沢を本拠としていたと見られるわけだが、史料のうえでは、そこが今一つはっきりしない。また、最上家が改易されたころには、重臣としての成沢氏の存在は確認されなくなっている。言い伝えのように、やはりいつのころか山形を去ったのであろうか。
 最上源五郎時代の『分限帳』では、成沢城主は「壱万八千石 氏家左近」となっており、成沢を苗字とする者は、中級家臣のなかに「百五十石 成沢惣内」なる人物が見えるだけだ。山形に残った一族であろうか。
 これは憶測になるが、成沢家が山形を去ったのは、慶長8年(1603)の秋に勃発した政変とかかわりがあるのではあるまいか。
 義光による義康の廃嫡と悲劇的な最期は、最上家内部に大きな衝撃を与えた。義康と親しかった家臣のなかには、最上領を去って新たな土地で生きる道を求めた者もあった。成沢一門も、あるいはそうしたグループに属していたのかもしれない。
 成沢道忠の子孫は宮城県松島町に健在、信濃にも同族がおられて活躍の由である。
 「道忠公像」は、松島の成沢家から寄進されたものである。戦国山形で活躍した人物の晩年の姿をかたどった貴重な彫像を、地元では「尊像保存会」を結成して護持している。ゆかりの成沢城跡もまた、歴史公園として整備されつつある。
■■片桐繁雄著


山形藩主・最上源五郎義俊の生涯

【七 寛永六年の江戸城普請役】

 前年九月、赦免の沙汰を受けた義俊が、晴れて公の場に名を連ねたのは、この年の江戸城普請手伝いを命ぜられた時であろう[注1]。前年の七月十一日、江戸を襲った大地震により、江戸城の石垣が所々で崩壊した。その修築のため全国の諸大名の動員となり、この手伝いは九月頃から予想はされてはいたが、実際に動員が下ったのは十一月であった。

十一日午刻、大地震あり、御城石垣方々崩、足利学校寒松物語被申ニハ、三十三年以前伏見ニ而今日大地震あり、三十年以前ニも今日大地震、今年又如斯波と之物語也[注2]、

 この年は大坂城の普請も行われ、両者併せて百六十家に及ぶ大名・旗本達が動員された。
この年の江戸城普請は、石垣を築き掘を掘る作業を主としたようで、石材を伊豆地方から切り出し江戸まで運ぶ「寄方」と、その石材を使用して石垣を築く「築方」とに分かれての作業であったようだ。
 義俊にとっては、山形時代の元和六年(1620)以来の普請役である。これが大藩当時の過大な経済的負担とは比べものにはならないだろうが、この度の最上家に課せられた一万石の「本役」での勤めは、ようやく表舞台に復帰した義俊としては、厳しい船出であったといえるかも知れぬ。しかし、この年の普請手伝いに於ける最上家に関わる記録を見出だすのは、なかなか困難である。知る限りでは水戸家史料から〔日次記拔書[注3]〕の寛永六年二月の条から、寛永五年辰十二月廿六日の日付のある「御普請之時役之覚」に、辛うじて最上源五郎の名が記載されていたのである。

      御普請之時役之覚
        三 河 衆    
 一 三万石     吉田    松平主殿頭
 一 五万千五百石  岡崎    本多伊勢守
 一 四万(千)石         水野遠江守
 一 三万五千石   西尾    本多下総守
 一 五千石           松平玄蕃頭
 一 五千石           松平庄右衛門
 一 壱万石           最上源五郎
 一 壱万石           水野大和守
     内五千右御番役ニ引之由、雅楽頭奉
    小以て拾五万五百石、内以五千石御番役引
    役高残而拾四万五千五百石、

     半役之衆     参 州 衆
     (以下、三河衆半役四家の記事は略す)

 関連記事の中から、義俊に関わる箇所のみを取り上げてみた。はじめの八家は知行高全てに係る「本役」での勤めであり、次の四家は「半役」での勤めで、三河衆十二家に割当てられたものである。この三河衆に続き残りの参加衆の記録が続き、この年の普請役の全体像を知ることができる。
 最上家が三河衆の内に編入されていることは、それは工事の持ち場の編成上のことばかりではなく、三河に所領地を有していたことを示す、一つの証しとなるだろう。最上家の作業区分の「寄方」とは、石の産地の伊豆(伊東市近在)の石場から、平石・角石に区分されたものを定められた大きさに切り、数を揃え舟で江戸まで運んだ。義俊としては公の場に復帰した最初の勤めであり、それはまた一万石の大名として、唯一の公的な勤めであったのではなかろうか。しかし、これが大地震に伴う必然的な普請手伝いであったとは申せ、義俊個人また最上家全体にとっても歓迎せざる出来事であったろう。だが「一万石・最上源五郎」を証明する証拠となることには間違いな心。最上家自体の記録の稀薄さの中で、この[日次記拔書]の存在はまことに貴重である。
 この普請手伝いが始まる寛永六年(1629)の二月頃、義俊が家臣達に「知行書出」を発給したと考えられる、重臣の柴橋図書宛のものが残されている。推察すれば、義俊の晴れて天下に復帰したこの時期に、改めて家臣団の禄高の見直しを行ったのではなかろうか。図書は柴橋石見の長男で、改易後も義俊の近臣として仕えた。

         知行書出シ之事
 一 今度何角万」奉公被申候儀」一意候、一角之」忍をもと恩召候
   へ共」未進之通ニ候故」無其儀候、定而」手前成間布候間」
         被申請」取可被申候、為其一筆」如此ニ候、巳上
     寛永六年
      巳ノ
      壬二月二日   (黒印)
          義俊
       柴橋図書とのへ[注4]

 この書出しの内容は難解で判読は難しい。しかし、これが図書個人のみに発給されたとも思われず、この年の二月を以て、全家臣の禄高の確認を改めておこなったのではないか。思うに義俊にとっての寛永六年は、とにもかくにも新しき船出の年であった。尤もそれも束の間の夢ごとに終り、僅か三年有余で終りを告げるのである。
■執筆:小野末三

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 [注]
1、松尾美恵子 [近世初期大名普請役の動員形態・寛永六年江戸城普請の場合](『徳川林政史研究所研究紀要・昭60年度』)
2、[江城年録](『東京市史稿・皇城篇』)
3、[注1]と同じ、この[目次記抜書](水戸彰考館所蔵)から、僅かながらも義俊の消息を掴むことができた。この年の普請役については、他にも関連文献をも参考にはしたが、義俊の記録は見出せなかった。「二月より江戸御石垣御普請有之」とあることから、工事は二月から始まったようだ。義俊が柴橋図書に与えた「知行書出」の発給も二月であった。
4、粟野俊之[柴橋文書](『駒沢大学史学論集・11号』昭56年)
柴橋図書は、改易後に福山藩水野家に預けられた石見の長男である。図書は引き続き義俊に仕えたが、義俊の死後は最上家を退散した。子孫は或る旗本に仕えている。