最上義光歴史館

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最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門

【五 二つの襲撃事件】
 
 増田と越中と異なる出身地を持つ土肥半左衛門の内、修理大夫義康と清水大蔵義親への襲撃事件に関わったのは、いずれの半左衛門なのか。大方の軍記類は「庄内大山の住人戸井半左衛門」としているが、これは明らかに越中出身の半左衛門であろう。軍記類の云う義親に味方して命を落とした半左衛門について、「是は先年丸岡にて罪なき修理大夫殿を鉄砲にて討奉りたる罰にても侍らんか」としているのは、二つの事件は共に一人の半左衛門の仕業だということになる。ここに、二人の最上の旧臣が庄内藩に提出した[覚書]がある。

[万年久左衛門覚書]
一、於添川之地高名仕候、藤田丹波可被存事、
一、最上之谷地と申所二籠城之時、はづを合せ申候、丹波可存候事、
[五十嵐甚五左衛門覚書]
一、最上修理正切腹之砌、てき一人うち申候、原美濃申候、

 この[覚書]を見るように、二人は共に義康襲撃事件に関わっていたことが分かる。その証人として藤田丹波と原美濃を挙げているが、丹波の旧主は越中土肥の半左衛門の父政繁で、弓庄以来の旧臣である。また原美濃(頼秀、八左衛門)は、下次右衛門の養子の長門の伯母婿として、次右衛門と行動を共にしてきた人物である。そして谷地での戦いの後、最上の臣となり、改易の日を迎えるまで、庄内川南の代官として足跡を残している。
 この[覚書]で解るように、この事件に越中土肥と深い関わりのある者達がいたことからも、こゝに登場するのは越中土肥の半左衛門であろう。
 義康が義光の勘気に触れ山形を退散、高野山への道程を下次右衛門の勢力圏内にとった一行を、これを攻めた最高責任者は下次右衛門ではなかったのか。そして、その実行者として手を下したのが、半左衛門を主とする下一党の面々であった。
 現今、この事件を取り上げ、興味深く描いている出版物が多く見られる。その内の一本を取り上げ、関連箇所を引用してみよう。
 
…この事件には義光は命を出してはおらず、里見民部や原・土肥による陰謀に下次右衛門も加わっていた。事件が発覚し義光が激怒した事を知ると、次右衛門は我が身に疑惑が降りかかることを恐れ、半左衛門を葬ろうとした。それを知った半左衛門は逃亡したが、南部盛岡城下で追手により討取られた。また原八左衛門も山形城で捕らえられ打ち首となった。

 このように、半左衛門の他国への逃亡説などと、全く予想だにしなかった展開にまで発展している。原美濃にしても、先に少しは触れてはいるが、元和五年(1619)加茂村の「年貢皆済状」にも連署しており、また三年後の最上家改易後の九月、庄内の「万役(雑税)書上」にも署名している。
 次の義親襲撃事件に際して、義親方に荷担し共に最期を遂げたというのは、いずれの半左衛門なのか。軍記類の多くは、家親の追及が迫った義親を清水へ逃し、最期は義親と共に殺されたとしている。そして、世間はこれが義康を攻め殺した罰であるとして、この二つの大事件は同一の土肥半左衛門の仕業と見ていることだ。
 要するに多くの軍記類に登場する土肥半左衛門とは、それは同一の人間であり、越中土肥の半左衛門であると云っているのだ。そこからは、同じ時期の最上家中に複数の半左衛門がいたことは、全く見えてこない。ただ、明確に判断できるのは、慶長八年(1603)の義康襲撃事件に関わったのは、越中土肥の半左衛門だということだ。
■執筆:小野未三

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【四 最上家への道程】

 慶長五年(1600)九月、天下の形勢が定まり、長谷堂にて最上勢と対時していた上杉勢は、急遽、米沢へと撤退を開始する。しかし、未だ谷地にて交戦中の下次右衛門の一党が、最上側の説得を受け兵を収めたのは、しばらく後のことである。
そして、今度は下次右衛門は最上の將として、庄内に残存する上杉勢を攻めるために出陣していくことになる。この天下の趨勢が決まりつゝある時、半左衛門が越後を離れ、下氏の内に入ったのは何時の頃であったのか。[家記]は半左衛門の溝口秀勝の下での活躍振りを伝え、次いで下次右衛門を頼り越後を去っていった様子を伝えている。
 
…其後、下対馬(次右衛門)を頼ミて庄内へ行給ふ、是も土肥殿母方の叔父に小杉原勘斎と云あり、早く対馬に従ひ居れり、此人万ツ相談をなし半左衛門殿を招故也、其時土肥半左衛門殿并普代の家人、皆最上出羽守穀を頼行て主人とす、半左衛門殿ハ対馬居城大山の城三丸ニ居住、出羽守殿より唯今の知行五千石計のあてかひなりし也、土肥殿普代の家来相残る者供、栃屋半右衛門・上坂式部・有沢太左衛門・藤田丹波、扨ハ采女など跡先に皆羽州へ行奉公相勤るなり、其内采女にハ、越後・出羽の境目小国の城を預らる、([家記])
 
 越後での徳川方の掘・村上・溝口などの勢力により、上杉勢と一揆の平定を見たのは、八月の上旬のことである。とすれば、半左衛門が溝口秀勝の許を離れたのは、これ以降のことであろう。しかし、半左衛門が旧縁の下氏を頼るにしても、反上杉の立場の溝口氏に属していた半左衛門が、直ちに上杉方の下氏の許に走るとは思われず、谷地攻防戦が終り、下次右衛門が最上に降り、その将として翌年四月に始まる酒田攻めに参加する頃、半左衛門は下次右衛門の許に入ったのではなかろうか。
 下氏については、上杉時代の[文禄三年定納員数目録]によると、「大山衆 千四百五拾八石」とあり、庄内三郡の代官として活躍していた。[家記]によれば、「半左衛門殿姉婿下対馬守事、本ハ越後の住人也、土肥御牢人にて御入候節、婿となし給ふ也」とあり、半左衛門が下氏との嫁が生まれたのは、土肥一党が弓庄を去り、越後の上杉氏の許に入ってからの事であろう。
 上杉時代の半左衛門に関しては、上杉対最上の庄内争奪の戦いが始まる、天正十六年(1588)の十五里ケ原合戦の前後から、下氏や半左衛門とも関わりを持つ原八左衛門などと共に活躍している。この合戦が上杉方の勝利に終ると、下次右衛門は尾浦(大山)の代官として勢を振るう。半左衛門は与力組頭として丸岡在番となり、引き続き次右衛門に付随することになる。そして、慶長三年(1598)の上杉景勝の会津転封の際には、何故か景勝の許を離れて行くのである。
 慶長六年(1601)四月、最上勢による上杉残存勢力の酒田攻めが始まると、先陣の下次右衛門の手勢の中に半左衛門の姿があった。[奥羽永慶軍記]には、「山北ヨリ来リシ土肥半左衛門一陣ニ進、我ヲ手本ニセヨトイフママニ……」とあるが、これを増田土肥の半左衛門とするのは無理だろう。併せて、酒田城下での戦い振りを拾ってみよう。
 …其節出羽守殿ハ在江戸にて追合有之時、半左衛門殿一番に進ミ、上坂式部・下長門守・藤田丹波四人先渡にて鑓を合、大勢つつき敵餘多討取、次の日押入、二の丸まて焼払候二付、扱二成、城ヲ明渡し申候、その時、修理殿(義康)より四人に感状給候由、此咄藤田丹波覚書に有、([家記])
 この[覚書]などに見るように、下次右衛門の一党となり旧主上杉の勢力と相争う、半左衛門を始めとする越後・越中出身の者達が多くいたのである。
■執筆:小野未三

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【三 越中出身の土肥氏(越中土肥)】

 遠く源平の昔、鎌倉に幕府を開いた源頼朝に仕えていた、土肥実平の後裔だという。幕府の内部抗争に破れた土肥氏ではあったが、その一つの流れが新川郡(富山県)弓庄に移住、天正の頃には弓城を中心に、一族の割拠するところとなる。
 その頃の越中全体は、未だ織田信長の勢力圏下にあった。その死後は豊臣秀吉や上杉景勝などとの抗争の内に破れた弓庄の土肥美作守政繁は、長子の半左衛門をはじめ譜代の家臣百余人を引き連れ、越後へと退いて行った。政繁は上杉氏の扶助を受け、また一族や旧家臣達の多くは上杉の家に仕えるが、慶長五年(1600)の関ケ原の役を境に、土肥の旧臣達の多くは上杉の扶持を離れ、藤田丹波・有沢采女・栃屋半右衛門などは、最上家への仕官の道を選んでいる。
 元和二年(1616)四月、山形藩主の最上家親が発した手勢の襲撃を受け、ここに越中土肥は消滅した。この時、旧主を共に上杉氏とした下一族や、越中以来共に歩んできた越中土肥の旧臣達は、一斉に最上家を退去する。そしてその内の有沢采女は、加賀の前田家に仕え系譜を伝えた。孫の永貞(また俊貞) の代の延宝九年(1681)、絶え果てた旧主を回顧し[土肥家記](以後、[家記]とする)を書き上げた。これが越中土肥の全容を知る上に於いて、中心的な材料となっている。
 話しは天正の頃に遡る。土肥一党が弓城の退去から上杉家に吸収され、それが慶長三年(1598)の主の会津への所替、さらに二年後の関ケ原の役の敗戦により、土肥の旧臣達は上杉家を去って行く。
 
…土肥半左衛門殿景勝乃扶助を以て年月を被送候処ニ、慶長三年景勝会津へ所替の節、越後をハ掘左衛門督殿拝領有て、過分の立身にて入部の間、是を頼んで越後ニ残る侍共多し、半左衛門も其内也、([家記])
 
 越中・越後での群雄割拠の中で、その生き場を上杉家に求めた土肥一党ではあったが、それが会津への転封による越後からの撤退は、越後を捨て難い者達にすれば、上杉家からの離脱もやむを得なかったであろう。そして、新領主の掘監物に仕える者達や、半左衛門のように、越中の前田利長に仕官の口を得ようとした者も居た。しかし、半左衛門の場合は思わぬ弊害が立ち塞がり、事は順調には運ばなかったようだ。

…其節半左衛門殿越中に来り、前田肥前守殿へ一万石の約束にて既に礼相済迄に成て、讒者有て土肥ハ越中弓庄の旧守にて、普代の被官多候へハ、乱逆の次而ニハ彼者必一揆を起さんと、百姓とも従ひ安かるへき旨申により、事不調と云々、([家記])
 
 このように、越中の前田利長に高禄で取立てられる筈だったが、何かと横槍が入り、直前に沙汰止みになったようだ。若しこれが実現しておれば、半左衛門の半生も別な方向へと向かっていたであろう。
 
…又、越後に帰り、掘殿の与力分柴田(新発田)の城主溝口伯耆守聊親ミ有て、是を頼ミ、柴田に一両年を送らる、其後、右下対馬を頼ミて庄内へ行給ふ、是も土肥殿母方の叔父に、小杉原勘斎と云あり、早く対馬に従ひ居れり、此人万ツ相談をなし、半左衛門を招故也、其時土肥殿并普代の家人、皆最上出羽守殿を頼行て主人とす、([家記])

 上杉景勝が会津へと去った後の越後の内情は、慶長四年(1599)八月頃から始まる「上杉遺民一揆」 の渦中にあり、関ケ原の前哨戦として、徳川対上杉の対立が浮き彫りになってきた頃である。その最中に半左衛門が徳川方に組していた溝口秀勝の下に、一両年いたということは、最上対上杉の出羽合戦に於ける谷地攻防戦で、上杉勢の下氏に従い活躍していたという軍記類の記述は、成り立たないであろう。

…半左衛門殿御手柄の事、柴田に在住之節慶長五年関ヶ原御陣之時、越後六郡一揆起り、柴田之辺丸田の右京、赤田の斎藤、五十公の黒川等大将として所々に楯籠る、溝口伯州退治有之処、半左衛門も同道有之、有時追合に百姓の首七ツ討取られしかとも、([家記])
 
 慶長五年(1600)九月、美濃の関ヶ原に於いて徳川方の勝利に終わる。この頃、越後では蒲原・魚沼・古志などで起きた一揆は、俗に「上杉遺民一揆」と呼ばれ、越後全域に広がりを見せていた。その発端は何であったか。それは上杉景勝の会津転封の後に、越後に入った村上頼勝・掘監物・溝口秀勝などの勢力に対して、旧主上杉を慕う農民や神職等を中心とする勢力とが、一揆という形で抗争の場と化していた。
 その溝口勢の中に半左衛門の姿があった。[寒光院様(三代宣直)御在世之時公義江御書附]によれば、三千余人の一揆が押し寄せ、秀勝はこれを防ぎ二百人を討取ったので、一揆は算を乱し逃げうせた。そしてこの一揆は他の一揆と合流、三条城を取り巻いた。秀勝は半左衛門等を遣わし、一揆に内応する百姓がでるのを防ぐため、人質を閉じこめた。しかし、その帰路に七日町の渡しで一揆に遭遇、半左衛門等は難を逃れ新発田へ注進したという。この話しは諸史にも取り上げられている。
    
[掘氏由来]

…村上周防守は城を守て居るゆへ、家臣諸兵次右衛門、久保与左衛門、土肥半左衛門三人を遣す処、七日町の川船渡し也、其船頭人質を取って渡す処、川中にて船頭棹をもって久保与左衛門を打落し溺れ殺す、諸兵次右衛門、土肥半左衛門両人は遁帰る、

[北越太平記]

…溝口伯耆守は老将功者なりければ、若我領分にも一揆起こる事もありと思い、気呂次郎右衛門、窪田与左衛門、戸井半左衛門を遣し、領内の百姓共の人質を取りつつ、新発田の城へ入させける、三人の者共七日町の宿を過て、川を渡ける処に、渡守三人寄合、窪田与左衛門を切殺しければ、毛呂、戸井二人は川を泳越し、命計り助りて、此旨を伯耆守に告たりければ、云々

 このように、関ヶ原での戦いの直前には、半左衛門は越後に於ける徳川方の一員として、活躍していたことが分かる。それは、軍記類などの谷地攻防戦に登場する、下次右衛門の配下にあって活躍したという記述には無理がある。
 元和八年(1622)の最上家改易の後に、庄内藩酒井家に再仕官を求め、[覚書]を提出した多くの者達がいる。その中の越中出身の黒田茂左衛門の覚書から、その当時、半左衛門と共に溝口秀勝に属していたことが分かる。

[黒田茂左衛門覚書]

一、越後柴田ニおり申時、八月七日ニ成田のかつせんニ高名仕候、はうき殿御家中ニ各々被存候事、但、土肥半左衛門尉ニ有申時、
一、亀崎おしこみ四月廿四日ニ高名仕候、大山衆各々被存候、但、土肥の半左衛門尉家中ニての事、     

 このように、茂左衛門は半左衛門の弓庄以来、共に行動を共にしてきたことが分かる。
■執筆:小野未三

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最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門

【二 増田出身の土肥氏(増田土肥)】

 室町・戦国の世を経て、秋田仙北の増田周辺の勢力の一つに、増田城(土肥館)に入っていたのは土肥氏であった。秀吉の「奥羽仕置」の後に、半左衛門の父の次郎道近は最上義光の配下となり、増田地方はその支配下となる。先の天正十年(1582)八月の由利諸衆と小野寺氏との大沢合戦に於いて、小野寺氏の配下に増田播磨守とあるのは、土肥道近が初めて確認された姿であろうか。同十四年(1586)に義光が八口(印内)を攻めた時、道近は小野寺勢として加わっている。
 この土肥氏が義光に従属したのは何時の頃であったろうか。奥州仕置による出羽領主達の勢力圏の変化に伴い、それに反発して、増田地方にも検地反対の一揆が起こる。この一連の騒動の中で、「文禄四年七月二十六日の義光との合戦に於いて、家臣の山田貞久は土肥道近を背負い城中から逃れた」([増田東海林旧記])や、また「東海林隼人をはじめ討死し、土肥氏は城を明け渡した」([五郎兵衛書伝覚])などと伝えられており、道近はその頃から主筋の小野寺氏から離れ、義光に従属していったのではなかろうか。
 慶長五年(1600)の関ケ原の役以後は、小野寺義道が石田三成方に組していたとして、最上勢に攻められた時、その合戦の案内役として、「先年最上ニ降シケル土肥二郎道近(道近カ)、山北旧功ノ者ナレハ伝へ聞、義光ノ前二出テ披露ス……案内ニハ土肥二郎道成・嫡子半左衛門……」([奥羽永慶軍記])と伝えている。ここに小野寺氏の記録の内から、土肥氏の動静の一端を拾ってみる。小野寺氏とは姻戚関係にあったことが分かる。
   
 [西馬内小野寺氏系図]

八之丞  
小野寺佐渡守式部ト号ス、父肥前守同道ニテ庄内へ走り、光安寺と云寺ニ故アリテ逗留シ、其姉婿土肥氏(半左衛門)ヲ因リテ最上義光ニ属ス、後讒言ノ為ニ半左衛門君命ヲ蒙り切腹、拠ナク八之丞おやつヲ伴ヒ、戸沢右京カ元ニ走り、寛文三年死去、

おやつ  
父半左衛門切腹ノ後、叔父八之丞ト共ニ最上戸沢右京方ニ退去、おやつ子ナシ、源八兵衛ヲ養子トシテ戸沢二仕フ、
    
 [戸沢家中分限帳・土肥家系図]

女(おやつ) 
最上家没落後、尼ニ成テ酒田ニ居住シ、後新庄へ来リ長松院へ御奉公仕、老年迄相勤、土肥ノ家断絶ノ義ヲ甚悲ミ、土肥ノ名字相立申度由願ニヨリ、北条六兵衛四男源八兵衛ニ土肥ノ名字名乗可申由被仰付、

源八兵衛 
香雲寺様御代、土肥ノ名字ヲ名乗可申出被仰付、新知四五十石(四百五十石カ)被成下、御広間番相勤享保八年八十一歳ニテ卒、
 
 慶長六年(1601)正月、小野寺義道は徳川家康により改易処分を受け、一族は離散の憂き目を見る。義道の庶兄の西馬内茂道は庄内へ去り、子の八之丞は姉婿の土肥半左衛門を頼り義光に仕える。だが半左衛門亡き後は、その一女(おやつ)を連れ戸沢氏に身を寄せ、その系譜は後に秋田の佐竹氏に仕える。そして戸沢家中に残されたおやつに養子を迎え、増田「土肥」の家名を残した。
 [語伝仙北小野寺氏之次第]には、「義光公上意にて半左衛門殿切腹被成候時分、八之丞知行被召上候而、おやつ殿御同道にて最上戸沢右京殿御頼し……」の記述もあり、これらを集約した『増田郷土史』などは、「……慶長八年に義光は義康を殺した。直接手掛けたのは半左衛門であったが、幾ばくもなくして半左衛門は、関ケ原の役に大坂方と密諜したことが露見、一族ことごとく成敗された」と、軍記類などからの記事をも取り上げ、半左衛門の生涯を語っている。しかし、これらが果たして増田土肥の、真の姿を語っているのだろうか。
■執筆:小野未三

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最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門

【一 軍記類の中の土肥半左衛門】

 軍記類に登場する半左衛門の記述を見ると、戦いの場での働きぶりは別として、その最期は悪者の印象の濃い話しで締め括られている。最大の見せ場となるのは最上家に大きな禍根を残した二大事件、即ち慶長八年(1603)の最上義光の長子の修理大夫義康、同十九年(1614)三男の清水大蔵義親への襲撃事件に、深く関与している姿であろう。
 しかし、この二つの事件に関わったのは、いずれの出身の半左衛門なのか。この事件は共に最上家の継嗣問題に関わる権力争いであり、次男の家親の路線確立を目指すものであった。その中で一人は義康暗殺の実行犯、もう一人は義親支持派として行動している。
 ここで、いくつかの軍記類から、半左衛門に関わる部分を要約してみよう。

(A)[最上記]
    修理大夫殿生害之事
……山形の御城より直にいそがぬ旅におもむき給ふ、然に内々道にて御生害いたし候へと、戸井(土肥) 半左衛門に被仰付ける間、御通り候道筋に鉄砲を持、木蔭に隠相待居たるに是を間近所の若き者出合、半左衛門と一所に罷在けり……二つ玉にて御へその下を後へ打抜ける間、則真逆に落給ひ……多勢に無勢の事なれば、壱人も不残討れけり、然に彼半左衛門幾程なく、大坂へ手入したる義あらはれ、一門悉御成敗有ければ、義康公の御罸眼前に当りけるとて、請人舌を振ひけり、
(筆者注、義光は義康を廃し、家督を次男の家親に決定する。そして義康を高野山へ追放を計る。その途中、半左衛門一派に襲われ、義康は命を落とした)

(B)[羽源記]
    修理大夫殿生害并東海林三郎兵衛討死之事
……庄内大山の住人戸井半左衛門に仰付けられ……庄内丸岡という所にて左右の草原に兵を伏置きて、鉄砲認め其身は木陰に忍び居たるに……二つ玉を以て御臍の下を後へ打抜きければ、暫しもたまはず……さらば此半左衛門幾程なく、清水大蔵大輔殿逆乱の砌、大坂秀頼公へ内通の沙汰顕れ、一門郎従悉く家親公より誅罸せられけり、

(C)[奥羽軍談]
    清水落城之事
……大蔵大夫心閑に自害ありければ……半左衛門は大長刀を以渡合しが、運の究にや庭の柳に腰を打当倒れける所を、寄手の者鑓を入突てければ、落重る首を取ける手負の者は有けれ共、名ある侍一人も死せずして、「各おめおめ討れしは、戸井が日比の嗜よりは口惜事」とぞ申ける、
(筆者注、清水義親は家親の追及が迫っていることを、「庄内丸岡の戸井半左衛門方よりこれ有て、密かに清水の城へ忍び落玉ふを」と、半左衛門などの手引きにより、山形城より清水へ落ちていったが、最後は追手を受け命を落とした)
 
(D)[奥羽永慶軍記]
    義光病死 里見之徒党死罪事
……中にも土肥が討手として、奥村常陸介・小国日向守に山形の旗本三十六騎を差添たり、其頃半左衛門は古郷に在けるを、小国・奥村八百余人短兵急に攻懸たり、半左衛門尉か最期の体こそよかりけり、具足取て肩に掛上、帯よりなから我大坂一味にはあらねとも、かかる虚説に滅ん事、只是主君義安の御罰ならんと、大長刀を取て上下十四・五切て出けるか、土肥は鉄砲に胸板を打ぬかれ、其侭倒れて死す、(筆者注、この半左衛門の最期の様子は、後述する[土肥家記]に近似している。元和二年の出来事である)

 以上、これら軍記類に見られるように、義康暗殺の実行犯として描かれ、その最期は大坂豊臣方に組みしたとされる清水義親に組み込まれ、世間から誹謗を受ける程に不様な最期を遂げたことになっている。しかし、いずれの軍記類の内容からも、同姓同名の二人の半左衛門が絡んでいたとは云っていない。
 この半左衛門は、少なくとも慶長五年(1600)前後から同十九年(1614)の間、最上家に仕えた一人の半左衛門ということになる。しかし、実はそれが越中、増田のいずれの出身の半左衛門であったのか、それは越中土肥の由緒を伝える[土肥家記](延宝九年成立)から、一人の半左衛門の身元とその最期の様子が明確になってきた。軍記類からは、義康を襲った半左衛門と、義親と最期を共にした半左衛門の出自を立証するのは無理だろう。
■執筆:小野未三

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最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門

【はじめに】

 元和八年(1622)夏の頃、山形藩主・最上源五郎義俊は家内騒動の責任を問われ、早々と羽州の地を去っていった。こゝに祖父の義光が築き上げた大藩は消滅、新たに近江・三河に一万石を給される。この大国を失う大騒動による大家臣団の消滅は、共に蓄積されてきた膨大な藩政資料や、個々の家伝等の四散を招く結果ともなり、それが、後世に於ける最上家研究に、多大なる支障をもたらしてきてしまった。その結果、どうしても他藩資料や物語・軍記などを活用しての調査に、頼らざるを得ない有様である。
 最上義光の家臣に土肥半左衛門という人物がいた。多くは軍記などに登場し、各種の分限帳に「千石・弐千石」などの記録がある。この半左衛門とは、越中出身(以後、「越中土肥」)と、秋田仙北の増田出身(以後、「増田土肥」)のいずれを指すのか。
 物語・軍記(以後、「軍記類」)などの語り口を見ると、その出自については殆ど語ってはおらず、その終末についても、慶長十九年(1614)の清水義親襲撃事件の際に、義親と共に殺されたとか、また他国へ逃亡し捕らえられ殺されたとか、様々な形で伝えられて来ている。後世の研究者にしても、敢えて半左衛門複数説を取り上げる程の、魅力ある人物ではなかったのか。これら軍記類の記事を越える評論には、管見の限り拝見するには至っていない。
■執筆:小野未三

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