最上義光歴史館

最上義光歴史館
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◆◇◆義光と寒河江肥前守の辞世◆◇◆                   

 最上義光が亡くなったのは、旧暦一月十八日。太陽暦では二月二十六日、余寒なお厳しい時節である。晴れた夜なら満月に近い月は、冷たい光を地上に投げかけるだろう。
 さて、石川県金沢市の研究家から歴史館に手紙が届いた。金沢の研究家皆様がテキストとしている『政隣記』の一節をコピーして下さったものだ。

「一 最上駿河辞世并詠哥

 一生居敬全 
 今日命帰天 
 六十余霜事 
 対花拍手眠

 有といひ無しと教へて久堅の
  月白妙の雪清きかな 」

 先様の疑問は、これが確かに「最上駿河守家親」の作だろうかということのようであったが、こちら側としては、瞬間的に「これは大変。ひょっとしたら義光の?」という受け取り方になっていた。
 「最上駿河守家親」なら、元和三年没。年齢三十六歳であるから、「六十余霜」とは合わない。亡くなったのは三月六日(太陽暦四月十一日)とされているから、春欄漫ではあっても、「久方の月の光、白妙の雪」といった景物からは程遠い。さらに亡くなる前、二晩ほど苦しんだとする記録もあるのだから、悠々と雪・花・月を愛でつつ、咲いた花にまで感謝しながら命終を迎えるという達観した境地には、これまたほど遠過ぎる。
 義光晩年に至りついた澄み通った心境が、この辞世に脈々と通っていると見るのははたして僻目だろうか。ということで、この漢詩(五言絶句〉と、和歌一首は、まず義光の作と見て誤りあるまい。
 葬儀は義光がみずからの菩提寺として建立していた「慶長寺」で執り行われた。二月六日(三月十六日)、春分近いころで日没は寅の刻、午後五時半ごろになる。その夕刻に、義光公の黄泉(よみ)路の旅にお供しようと、みずから生命を絶った四人の家臣がいた。
 長岡但馬、山家河内、寒河江十兵衛、それにもう一人。辞世の句を残した寒河江肥前守である。肥前守は義光の地域統一戦のなかで敗北した寒河江氏の一族だったと思われ、戦後は義光に帰参して幕下に入った人物と思われる。「最上義光分限帳」では最上一族以外ではトップの酒田の志付九郎兵衛三万石についで、第二番目に寒河江肥前守二万七千石が挙げられている。秋元本・伊藤本山形城内図、守春本城下図、どの絵図でも廓内に広大な屋敷を与えられている「寒河江新二郎」は、「肥前守」の子なのではあるまいか。
 彼の辞世は、『最上中興事略』という最上家伝来の古記録に採録されている。この本は、全体が漢文風。平仮名で書くべき部分まで万葉仮名風に漢字を当て、ひどく読みにくいが、ここでは読みやすい通常の文字使いになおして掲げてみる。

神去りまします悲しみに堪えず、従いまつらんと、今日死出の山形を立ち別るれば、三途(みつせ)は最上川なれや。うち渡らんと思いつめ、

霧となり霞と消ゆる夕べかな

 葬儀が終えたこの時は、早春の山形盆地もやや暖かに、ほのかなタ霞が消えてゆこうとする季節に変わりつつあったのだろう。

■執筆:片桐繁雄「歴史館だより№28/研究余滴20」より

◆◇◆「石鳥居」のこと◆◇◆

 山形周辺のあちこちに特徴のはっきりした古めかしい石鳥居があって、いろいろと話題になってきた。
 むかし尾花沢野黒沢の諏訪神社前に、倒れた石鳥居があった。これを、山形師範学校の長井政太郎氏と、東根八幡宮の神官・三浦桂一氏のお二人が、礎石の柱穴まで土砂を掘り払ってみたところ、土の中から永楽通宝3枚を含む渡来銭が数枚発見されたという。これは鳥居建立の時代の手がかりになるはずと、更に慎重に作業を続けられたそうである。
 ちょっと歴史を前に戻すと、日本では平家政権以後も、中国とはますます深い関わりが生まれ、鎌倉仏教など宗教の面においても重大な発展が見られるようになった。日本中世の発展を下支えしたのが、中国から輸入された銭貨だったわけで、室町時代以後では「永楽銭」がその代表的存在だったのである。山形地方での鎌倉・室町時代は、柏倉の寺山に大曽根荘の荘官安達氏によって、堂々たる山岳寺院が創建されていたし、近隣の長谷堂滝の山には、羽黒山を「御本社」と称する山岳修行者の拠点として、「滝山寺」が活気を呈していた。当然、これらの寺跡からは同時代の遺物と共に量は少ないが、渡来銭も出土している。近くの谷柏では、鎌倉時代に渡来したと考えられる唐、宋・元朝時代の渡来銭が数千枚掘り出されたこともある。
 さて、室町幕府によって独占的に輸入された「永楽銭」は、幕府や有力大名たちの挺子いれもあって、流通期間が非常に長かったそうで、国内での流通はますます盛んになり、量的にも膨大なものになったらしい。山形地方では、江戸時代初期の貞享二年(1685)大石田村「道天」というところの畑から40貫目(約4000枚)の永楽銭が掘り出されたという。この当時は永楽銭を示す「永」が銭を指す普通名詞にもなっていたそうである。足利・織豊・徳川と、時代は戦国から太平の時代にはいる。
 安定的に動きはじめた幕府は、自国の銭は自国で鋳造すべきだとの方針を定め、寛永十三年(1636)以後は「寛永通宝」が各所で鋳造されるに至った。それが相当広まって、頃合を見計らったのであろう、寛文十年(1670)には、渡来銭の通用を禁止するにいたった。もちろん、全国的に一気に実行されたわけでもないだろうと思われる。
 芭蕉の句「この筋は銀も見知らず不自由さよ」という句は、こういう時代の通貨流通状況を実感させてくれる。
 尾花沢近隣の野黒沢で永楽銭が発見されたということは、永楽銭が大量に流通していた時代があったと考えられるわけである。鳥居柱石の下にこの銭貨が置かれたかまたはたまたま土に紛れこんだか、とは考えてよかろう。
 長井先生は、このことから、歴史・地理学者として、山形市元木・成沢の石鳥が平安時代のものという考えには否定的になられたようだ。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより№27/研究余滴19」より

◆◇◆京都から連歌師グループが来た◆◇◆

 一六〇〇年代出羽山形の芸文活動が相当に活気を帯びていたことは、最上義光や側近家臣たちの京都での作品を見れば想像できるが、山形における活動の実相が見えないのが物足りなかった。たまたま頁をめくっていた「連歌総目録」頁七四五に、次の記載が見つかって、江戸最初期の山形で、かなり高いレベルの連歌の座が催されていたことが分かった。
 総目録の記事はまったくの断片だが、京都文人たちが、山形の吉祥院を会場として連歌の座を催したという、今までに知られなかった記事が出て来たのである。以下「総目録」記載事項の要点を「柿衛文庫本」によって見てみよう。

【開催日時】 
慶長十九年(一六一四)七月六日

【種 別】
百韻 

【場 所】 
最上吉祥院

【発 句】 
今夜先こころや逢瀬天の川
 
【発句作者】 
昌琢

【脇句作者】 
善雅

【作者句数】 
昌琢一三、善雅 八、糸 十、仙厳 十、昌硯 九、慶純 九、元通 八、玄陳 七、了具 九、英知 八、玄的 八、時佐 一
※昌琢の発句以下二十八句のみが残存。

【所 在】 
国会図書館 連歌合集 第五五冊
柿衛文庫 二一九八
大阪天満宮 六九/二六

 記事の要点は以上である。この年は、一月十八日に最上義光が亡くなった。この連歌で発句を詠じた里村昌琢とは慶長四年秋までに京都において三十回の同座が知られており、そのグループとは非常に親密だったようだ。さらに、昌琢は最上の一族東根薩摩らとは書簡によって連歌稽古の交流をつづけていた。その謝礼として、東根からは「紅花」が贈られたこともある。彼らとしては、みちのく最上は遠いけれども心情的には近いものがあったのだろう。
 こういう事情から思うに、里村派の連歌師たちが、年の内に山形を弔問した可能性もあるだろう。昌琢は紹巴亡き後の京都連歌界の実力者で、後には江戸幕府連歌所の宗匠として里村南家の初代となった。寛永十三年(一六三六)没。
 会場となった吉祥院は最上三十三観音札所の第三番。最上歴代が尊崇した出羽最上の古寺。義光が老母のために御詠歌の額を寄進し、参道に石橋を架けたりもした。京都文人たちの連歌会にふさわしい会席だったのだろう。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより№26/研究余滴18」より

◆◇◆義光周辺の芸文活動◆◇◆
                  
 京都における義光らの活動は周知のことだが、それならお膝下山形ではどうだったか。
 さかのぼると一四〇〇年前後、最上二代直家の頃には室町幕府の将軍足利義満の直臣、武人にして連歌の達者朝山朝綱(梵燈庵)が出羽に滞在したといわれるから、山形にも連歌をたしなむ人々がいたと見てよいだろう。ただ、残念なことに確かな史料は今のところ見出せない。
 隣接地会津出身の猪苗代兼載(~一五一〇)が著した連歌作法書『若草記』は義光の愛読書だったし、彼自身の著述『連歌新式注』もあるほどだから、家臣のなかに連歌愛好者が少なからずいただろうと想像される。洛中外で催される連歌会に義光に随伴出座した最上家(関係者)をあげてみると次のようになる。



 *を付した人物は姓名字未詳。義光の座にのみ参加。それ以外はなし。弥阿は翌年五月、近江配流中の里村紹巴を訪問し、紹巴自筆の発句懐紙を入手している。
 もちろんこれ以外にもいたはずで、山形光明寺に一花堂乗阿が住職となっていた時期には、「義光公御一門方、毎度連歌之御会これあり」(光明寺由来記)といった有様だった。
 「山形歌壇」とでも言えそうな盛況だったのだろう。
 特に熱心だったのが、東根城主、里見薩摩のグループで、東根で催した連歌作品を京都の宗匠に届けて、通信指導まで受けていた。慶長十二年七月二十七日里見薩摩あて里村昌琢書状からは、その状況がおおかた読み取れる。一昨年は百韻一巻を見たとか、謝礼に紅花が贈られたとか、里村玄仍が急逝したとかの記事もある。惜しむらくは、東根衆の連歌作品が見つからないことだ。
 庄内では、わずかな文書の断簡から、志村光惟の二句を見つけることができた。

 千世や引きそへぬ子の日の野辺の松
 
 今日たつも世々にかはらぬ霞かな

 庄内以外でも、最上領内のどこかに、出羽人の作が埋もれているかも知れない。
 
 霧となり霞と消ゆる夕べかな

 これは、義光の黄泉の旅にお供をした寒河江肥前守の辞世として伝えられる一句である。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより№25/研究余滴17」より


◆◇◆ちょっと立ち止まって◆◇◆
  
 地域史研究の一環として、最上義光の周辺を探ってきたつもりだが、ふと、こんなことを考えるときがある。
 研究を進めるにはより多くの史料を捜して、史料批判を経て客観冷静に考察し、わかりやすい文章にすることが大事だろう。だが、ふるさと山形の歴史となると面倒な事態がかずかず出てくる。
 一つは史料不足。山形は特にひどい。まず、中世以前の文書の不足。村山地域では例の大きな石鳥居、いったい何物か。鳥居は何もしゃべらない。最上義光についてなら「言語で表現された史料」はたくさんあるが、これらは、書き手の主観による誤謬とか意図的な虚構が入りこんでいる可能性大で、「真実」を引き出すには慎重さが求められる。
 二つめは研究する者の心情的な問題がある。たとえば山形を「ふるさと」とする人間か否かというようなことが微妙に影響するのである。この土地に生まれ、育ち、幾世代にわたって祖先が築き上げた現実の山形。この地に自分は密着して生きている。こういう感覚や観念が愛郷心となり、時に逆に作用して嫌悪の情となったりもする。
 研究作業に当たっては、研究者相互の協力や競争意識もあろうし、先輩後輩のしがらみもあるだろう。封建時代の大名家が厳然と存在し、所蔵する史料を利用させてもらうような立場になると、ことは冷静客観とばかりはいかないこともありそうだ。
 視野の広狭も問題となる。
 以前、山形近辺で掘り出された「開元通宝」を、「八世紀の渡来品」と決めつけて疑わなかった例がある。『須川温泉神』は、現在の『蔵王温泉の神』と見てよいのか、秋田側の意見も聞かねばならないだろう。重要な古文書を無視して、想像を自在に繰り広げている研究もある。かと思えば、江戸時代の好事家が、思い付きで執筆した物語類を重要史料のごとく扱っている例もある。
 だが……と、考える。これらを一概に非とするわけにもいかないのじゃないか。そもそも、人間はまちがいを犯しやすいもので、これは逃れえぬ宿命だ。だが、幸いにこれを免れる方法がないわけでもない。そしてこれが大切なのだが、自分の研究を公表し他者の目で見てもらい、不足を補ってもらうことである。それによって誤りや不備を修正することができるのだ。論文類を読む、発表を聴く。相互に意見を交流しあって、より確かな歴史を構築していきたいものだ。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより№24/研究余滴[番外]」より

◆◇◆山形城の立地◆◇◆

 最後の山形藩主水野氏についてきた高名な学者塩谷宕陰が、「山形は江戸に似ているというより、京都に似ている」と言って、新封地に着任した主君に賀詩を献じた。たしかに、京都は中央に川、東西に山・・ということで、盆地の山形と似たところがある。
 ところで、山形が出羽国の中枢年として発展してきた背景には、十四世紀の斯波兼頼の入部、以降十七世紀初頭までの最上時代があった。十五世紀などは、史料不足の「暗黒の時代」だが、とりあえず最上氏の存在が山形を支えてきたのではあるだろう。
 それなら、山形城がなぜこの場所につくられたのか。
 高橋信敬先生の名著『最上時代山形城下絵図』では、斯波兼頼入部時代の近辺の地勢や歴史的な沿革には触れておられるが、「なにゆえに、この場が選ばれたか」についての所見は、残念ながらない。
 先頃、中川重先生、伊藤清郎先生とご一緒したとき、「風水」ということについておたずねしたことがあった。「山形城の風水(学)的立地はどうなんでしょう」という私の質問に、お二方は町づくりにおける「山あて」の事例を教えてくださったが、「風水」についてはお話しにならなかった。学術の網に掛かりそうもない(?)「風水」を取り上げるのはお避けなさるのが当然と、私は納得をもらったのだったが、その後も山形城の位置・立地は気にしていた。
 山形県の地図を広げて、眺めて、今のところ次のことは確かなようだ。



① 山形城の位置は、北西四二㎞に見える月山の頂上(一九八四m)と、南東一〇㎞にそびえる龍山(一三六二m)の頂を結ぶ直線上にある[直線A]。 この二つの山は、山形城から見て一番高くて目につく。

② 山形城の位置は、西(三五㎞)の大朝日岳の頂(一八七一m)と東(一四㎞)の神室岳の頂上(一三五六m)を結んだ線上にある[直線B]。この両山は、めだたぬながら、山形城の真東、真西にある最高の峰である。

③ つまり、直線AとBの交点が山形城の現場に当たるわけである。

 馬見ケ崎川扇状地の中央部分。標高一三〇m前後。水はけよく乾いた平地、地下水は豊冨。所々に泉が湧いている雑木林。積雪は山形盆地のなかで最も少ないところ。人が暮らし集落を形成するには具合がいい。このあたりの条件は、誰でも気がつきやすい。
 しかし、山形城が周辺の山岳(等)と関係づけて築かれたかとなると、私には何も言えない。もう一つ、山形の随所で遠望される雁戸山(一四八五m)は、無関係なのか。どうなのだろう。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより№23/研究余滴16」より