最上義光歴史館
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見学の裏ワザ
最上義光歴史館
〒990-0046
山形県山形市大手町1-53
tel 023-625-7101
fax 023-625-7102
(
山形市文化振興事業団
)
メモ
【紅~くれない日記】 54 義光公命日
1614年1月18日…
最上義光公が69歳にて激動の人生を終えた日です。
それから406年たち、2020年1月18日。
記念イベントとして
開館30周年を記念して復元した指揮棒を来館者に持っていただきました。
金の文字が光り輝く指揮棒。
その重さを体感していただきました。
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開館30周年記念 「復元!!最上義光所用鉄製指揮棒」
最上義光所用の鉄製指揮棒(鍛鉄造金象嵌指揮棒)ができるまで
制作/上林恒平氏(刀鍛冶/山形県指定無形文化財保持者)
(1)復元準備#1 指揮棒の寸法測定
(2)復元準備#2 陰刻文字の拓本を採る
(3)材料になる玉鋼。日本刀と同じ材料を用いる
(4)材料の玉鋼を熱して鍛錬の準備
(5)熱した玉鋼を鍛錬し、指揮棒の形に整える
(6)指揮棒の形に形成したものの表面に文字を彫り、金を埋め込む(金象嵌)作業
(7)錆びつけ用の溶液を塗布して黒錆を発生させる作業
(8)表面を磨いて整え、金象嵌を研ぎ出して完成
完成した指揮棒は現在公開中です。
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【紅~くれない日記】 53 盛りだくさんな一日
1月10日は楽しいことが盛りだくさんとなりました。
まずはイタリアのボローニャ大学からのお客様。
山形大学との交流事業で来日中です。
甲冑が良くお似合いでした。
そして七日町では、初市が開催!
大勢の人で大賑わいです。
初飴をGET!
バナナ味とイチゴミルク味、いろんな味があるんですね~。
そしてそして、夜には霞城公園で花火が討ちあがりました。
ライトアップされた東大手門の上空に華麗な花が咲いていましたよ。
撮影技術の問題で、写真はイマイチですが…。
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【紅~くれない日記】 52 2020!!
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。
やっとのことで雪景色となりました。
義光様も雪姿に!☆
皆様にとって良い一年となりますよう、
義光公共々願っております。
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「土井利勝家臣時代の鮭延越前と新関因幡」 早川和見
土井利勝家臣時代の鮭延越前と新関因幡
【はじめに】
元和八年(一六二二)最上家のお家騒動後、同家重臣鮭延越前秀綱と新関因幡久正両名は、当時の老中土井利勝に身柄を預けられたが、翌同九年には晴れてご赦免となっている。その際鮭延秀綱には、二代将軍秀忠から次男忠長の附家老への招聘を打診されたというが、当の秀綱はこれを固辞したと伝えられる。この秀綱の固辞理由は不詳のままである(拙論 最上家改易事件に関する一考察 野木神社秘蔵史料を中心として 古河郷土史研究会 第三一号 一九九三年)。その後鮭延、新関両氏は老中土井利勝に預けられた所縁で、元和九年にそのまま家臣として召し抱えている。今回は土井利勝家臣時代の鮭延越前と新関因幡について若干考察を試みたいと思う。
元和九年当時土井利勝は佐倉藩主知行高六五二〇〇石で、当時の家臣団分限帳は伝存していない。しかし主要家臣団の顔ぶれや知行高などは、近年ほぼ明らかとなってきている。主要家臣について知行高一〇〇石以上は一三〇名前後、大身者では御城代土井内蔵允元政三〇〇〇石(藩主利勝の同母弟)、筆頭家老寺田與左衛門時岡二〇〇〇石の二氏のみで、他は三〇〇石未満の小身者達であった(拙論 土井利勝研究ノート(7) 老臣寺田與左衛門について 古河郷土史研究会 第44号 二〇〇六年)。
【土井利勝家臣時代の鮭延越前と新関因幡】
このような現状を背景として土井利勝は鮭延越前と新関因幡の両氏を、何石で召し抱えようとしたのであろうか。これについては、鮭延越前へ三〇〇〇石、新関因幡へは一〇〇〇石であったと思われる。これが当時の利勝の知行高からみても目一杯の知行高であることはほぼ確実である。そして利勝は、この禄高を鮭延、新関両氏に公式に提示前に、将軍秀忠に打診したのである。これについて将軍秀忠は新関因幡への一〇〇〇石はすぐに了承したが、鮭延越前への三〇〇〇石については難色を示し、当初から五〇〇〇石を給するように、さらに召し抱えるに伴い五〇〇〇石加増を利勝へ指示している。恐らく秀忠は利勝に対し、現知行高では五〇〇〇石の捻出が困難であることを考慮しつつ、将軍家としても近い将来に一四、五万の大身の大名へ取り立てる意向を内密に伝えていたものとみられる。鮭延越前への五〇〇〇石は、事実上将軍秀忠が給したものである。これにより鮭延氏は、俄かに利勝家中における禄高最高位となったのであった (寛政重修諸家譜 土井家部分 土井系図乾 国立公文書館内閣文庫) 。つまり二代将軍秀忠、幕閣の土井利勝等が、最上家浪人鮭延越前と新関因幡の両氏について極めて高い評価をしていたことが古河藩土井家史料により明らかなものとなっている。
実はこれと同様に、戦国武将鮭延越前が当時の将軍家や幕閣が高く評価して描いた軍記物に『奥羽永慶軍記』がある。このことで筆者は、出羽の軍記物に造詣の深い鶴岡市の歴史家佐久間昇氏に直接尋ねたところ『作者の戸部正直は、在野の歴史家であるものの水戸徳川家二代藩主光圀とも親交があり、大日本史編纂中であった同藩彰考館にも出入りを許されており、鮭延越前と将軍家との情報も水戸徳川家から入手した可能性が高い』とのことであった(佐久間昇 出羽戦国期に関する軍記物(語)の系譜の研究2‐『奥羽永慶軍記』を中心としてー山形県民俗・歴史論集2)。
さて次に土井利勝が元和九年に鮭延越前に五〇〇〇石、新関因幡へ一〇〇〇石の高禄にて召し抱える際、どのような条件を申し渡したのか、この辺の経緯についても徐々に明確となりつつある。利勝は『このような高禄で遇するのはあくまでも当人のみで、その期間も藩主利勝代に限る』という条件で、世臣とする考えはないというものであった。
この利勝の条件をあっさり受け入れたのは新関因幡であったようである。彼は最上時代鶴ヶ岡城代(現山形県鶴岡市)にあって最上家の蔵入地八万石を預かっており、また自身も藤島において知行六五〇〇石を領し、有能な農務官僚として知られ、特に灌漑事業に功績があり『因幡堰』の名を遺している。新関氏は主家最上氏に代々仕えた世臣の家柄で、久正自身の才覚に加えて一途な奉公実績が認められ要職までに登用されたものと見られる。この新関氏とある面で対照的なのが鮭延氏である。鮭延氏は利勝から当人のみとの申し出に対しては『わが鮭延家は当代までと致す所存』と返答したが、加えて某の生ある間は利勝様御代のみでなく次の御代においても扶持して欲しい。さらに現在随従している家来達(出羽時代からの旧臣)については某(秀綱自身)の亡き後、みな土井家で直参に召し抱え世臣として遇してほしい。この秀綱からの申し出について土井利勝は基本的に了承している。利勝は柔軟な一面も持っていたことが今日理解されつつある。
【新関因幡古河城下に没す】
なお久正は寛永一六年~同一九年の間に古河城下で没したことは分かっているが、没年不明で組頭役二三〇〇石であった。その後は嫡男彦六が家督したが家禄は三〇〇石に留まり、藩主利勝.が正保元年死去すると、二代藩主利隆には仕えずに土井家を退藩している。これは久正が利勝に仕官する際には、利勝が藩主時代のみという事前に約束があったものと見られている。
【鮭延越前古河城下大堤に没す】
一方鮭延秀綱は当時既に高齢であったことも関係していると思われるが、身分は客人のまま知行五〇〇〇石も没するまで、そのまま据え置かれた状況で一切変更はなかった。これは土井家内での鮭延秀綱の処遇については、先に藩主利勝の意向のみならず二代将軍秀忠の意向も深く関係するところであり、このため後年なかなか変更が困難であったろうと想像している。鮭延秀綱は正保三年(一六四六)六月二一日古河城下大堤にて没す、行年八五歳。秀綱が死去してもなお、その家来一三名が現存しており、彼らは同年七月一五日土井家へ直参に召し出されている。彼らの待遇は知行高一五〇~三〇〇石の古河藩の中級藩士であった。また家来達は秀綱没後、屋敷址に菩提寺『鮭延寺』を創建し現存している。
【最近の土井利勝時代家臣団分限帳と城絵図の調査について】
土井利勝時代の各家臣団分限帳と佐倉・古河各城絵図について筆者が調査した結果、佐倉城絵図(古河歴史博物館蔵 七万石 時代は元和九年頃)には、当時の佐倉藩士名が記されており分限帳と比肩できる正確さを備えている。これには鮭延越前と新関因幡両氏の屋敷と、その家来達(土井家の陪臣)の屋敷が確認できる。また庭月理右衛門屋敷もあり、彼は本来鮭延越前の家来であるものの、最上家出仕時代鮭延家中に唯一最上家旗本格であったことから、利勝側もその家格を尊重して直参として召し抱えている。さらに新関因幡の嫡男新関彦六の屋敷も見えている。
これが時を経て古河城絵図(現茨城県立歴史館蔵 一六万石時代 利勝が正保元年七月没時点のもの これと同時期の正保分限帳も伝存する)になると、先述した佐倉城絵図とは様相が異なっている。古河城絵図には当時の鮭延越前屋敷は古河城下大堤にあり、同絵図にはこの地域は記されていない。また新関因幡、同彦六各屋敷も既に存していない。しかし特質すべきことは古河城絵図には鮭延氏の家来達が陪臣ではなく、古河藩より直参の家臣団の中に中級藩士として個別に屋敷を与えられて、既に直参に編入されている状況が確認されている。
このことについて『土井系譜・乾』(国立公文書館内閣文庫蔵)や古河藩系譜略(古河市旧渡辺家文書)によれば、鮭延越前の家来達は土井家に直参に召し出された時期は、あくまでも越前死去後の正保三年七月一五日と記している。しかしながら近年の古河城絵図、正保分限帳(利勝が没した正保元年当時のもの)によれば、実質的には、鮭延越前の最晩年頃には土井家に直参に列したことが史実として確認されている。
■執筆:早川和見(古河郷土史研究会会員)「歴史館だより№26」より
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最上義光連歌の世界③ 名子喜久雄
最上義光連歌の世界③
83 さき立つをみちのしるべの雪のくれ 景敏
84 すみかの方は駒いばふなり 玄仍
85 程もなく賀茂のまつりや過ぬらん 義光
86 いまもみそぎにおもふそのかみ 昌叱
慶長三年(一五九八)四月十九日
賦何墻連歌 名残ノ折表
打越(義光の句の前句のさらに前句) の83の句は、「夕暮の雪中で道を失いつつある旅人が、すでにその道を歩んだ人の足跡を便りに、前に進もうとする」ほどの意。冬の旅の辛苦を描いている。
新古今・冬 藤原定家
671 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮
の影響を受けていよう。
84の句が「駒いばふ」としているのは、この和歌を念頭に置いたがゆえのことであろう。ただし、この句の典拠として
胡馬は北風にいななき 越鳥は南枝に巣くふ (「古詩十九首」)
を加えることができる。馬が自分の故郷から吹く北風を慕っていななく風情である。
羇旅の流れが、85で王朝の夏の有様に転ずる。卯月の中の酉の日に賀茂祭(現在の葵祭)が行われた。その前の午の日または未の日に、賀茂社に奉仕する斎院(未婚の内親王または女王より卜定される)は、賀茂川で禊ぎを行うため、北野の斎館から、一条大路をパレードする。その折、勅使も行列に加わる。華やかなもので、貴顕も男女を問わず争って見物した。源氏物語・葵巻などを参照されたい。
勅使の男性貴族は、当然乗馬である。義光は「住まいの辺りに馬のいななきが聞える。賀茂祭の御禊の行列ももうすぐ終わろうとしている」ほどの付け合いを創造したのである。
ところで、この付け合いで、上記のような思いをめぐらしている作中の人物をどのように想定できるであろうか。
そのヒントとなるのが、86の「みそぎ・そのかみ」の表現である。昌叱は義光の創造した世界を引き継いで、(「みそぎ」は「賀茂祭」に依ること明白)その人物が御禊をかつてのこととして感慨にふける姿を描く。
御禊に最も深く関わる人物は、言うまでもなく賀茂社に奉仕した斎院となろう。昌叱の句により、85・86の付け合いの大意は、「もうすぐ終わってしまうであろう御禊のパレードを耳にしながら、かつて斎院であったころの自分を回想している。」ほどである。(斎院以外の人物との理解も可能である)
王朝文学に、ふさわしい人物を求めれば、光源氏の求愛を拒み通した朝顔斎院(桃園式部卿女)に行きつく。歴史上では、例外的に五代五十七年斎院を勤めた村上天皇皇女選子内親王などが比定される。いずれにしても、義光は、往時を念頭において作句し、昌叱がそれを受け止めたのである。
■執筆:名子喜久雄(山形大学名誉教授)「歴史館だより№26」より
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