最上義光歴史館

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奥羽永慶軍記の「最上義光、騎馬揃の事」の地、天童の野はどこか【5】

5.天童原について前掲4の歴史的背景を探ってみる。

(1) 前掲4の(1)出羽一國之絵図…図-1について 

《図-1》 「出羽一國之絵図」致道博物館所蔵
 若木御林の歴史として「神町のむかし」に横尾家文書「諸事留帳」によると次のとおりである。正平年中(1346-1370)より若木原は東根村にて支配していた。とあり、延宝年中(1673-1681)御立林にしたという。「立林」とは、林を藩有として狩猟・伐採を禁止していたが、枯枝、落葉取り、下草刈などを東根、乱川、万善寺、野田、新町新田(=神町)、原方、沢渡、天童、後沢、川原子、小関、道満12ヶ村の入会は許されていた。御林内脇には、秋田・庄内・津軽などの旅人の通行があり、野火入があり、元新町新田、天童両村の取締などの負担は大きなものであった。
 天童、元新町新田両村より若木御林を天童原と云っていたと述べられている。
  
(2) 前掲4の(2) 出羽一國之絵図…図-2について

《図-2》 「出羽一國之絵図」致道博物館所蔵
 4の(2) 出羽一國之絵図…図-2の寺原は、元和8(1622)年最上家が改易になり、鳥居忠政が山形城主として入部し、城を改築した時の様子が「山形風流松木枕」に次のように記している。「…山形御城築之節、山形立石寺の持分の寺原と云有、清和天皇この方、此松林大木ニして真直クにて、三里の道法門前と成て有しを、難渋を云掛、立石寺ゟうばい取、我領内として伐取、城を普請す…」とある。
 宝暦11(1761)年の荒谷村指出明細帳には荒谷原御林として239町歩余、本数282,233本と記録され、1本に占める面積は約8.5㎡と樹林の密度は高いことがわかる。
 このことからも3,720余騎が一同に集まる空間を見出すのは困難と思われる。

(3) 前掲4の(3)堀田藩時代の山形藩絵図…図-3、(4) 大日本帝國陸地測量部発行「仙台」…図-4の天童原は出羽一國之図から踏襲されたものと考えられる。

《図-3》

《図-4》

(4) 全景4の(5) 大日本帝國陸地測量部発行「天童」…図-5、明治37年発行2万分の1地形図から慶長期の「天童原」を考えてみる。

《図-5》
 天童付近の羽州街道の開削は、慶長8・9(1603・4)年頃と推定されている。従って、関山街道の開削はそれ以降であろう。それ以前に舞鶴山の西麓の侍屋敷(現天童市小路)から糠塚の西を通り、天童原を経て旧山口村原崎に至る道があり、これが現在の関山街道開削以前から利用された道で陸奥国へと連絡するものであったと思われる。
 この道の沿線に、昭和34年耕地交換整備工事中に古代住居跡が発見され、「県下の土師住居跡群―天童光戒壇―」として山形大学柏倉亮吉氏らによって発表された。「発掘などまだ行っていないので正確な事は不明としながら、かなりの数の住居跡が密集していると思われる」と論じている。その後、この集落は新たに開削された関山街道へと移転したのだろうと思われる。

(5) 前掲4の(6)国土地理院発行「天童」…図-6、国土地理院発行2万5千分の1地形図には天童原と記されているが、その範囲は国道13号線から東側で天童市立第二中学校(文)、山形県立天童高等学校(文)などが含まれ、第二中学校の北東の角から破線写真-4、5、6参照と実線写真-7参照で図示され原崎に至る道が上記(4)でいう古道である。

《図-6》

《写真-4》 天童市立第二中学校 W=2,5m 

《写真-5》 天童小路~原崎 天童原 W=2,5m 天童市立第二中学校東側

《写真-6》 天童小路~原崎 天童原 W=2,5m 天童市立第二中学校東側

《写真-7》 天童小路~原崎 天童原 W=2,5m 渡辺宅前十字路
  
(6) 前掲4の(7)ゼンリン住宅地図も上記(5)と同様となっているが、天童第二中学校から原崎へ至る古道は実線で記されている。幅は2.5m、軽自動車の通行が可能で現在農道として利用されている。
■執筆:矢野光夫 

【参考文献】
⑥「神町のむかし」 P.13~14 平成17.30 神町歴史の会発行
⑦「山形市史資料」 第64号 山形風流松木枕 P.39 昭和57.11.30 山形市発行
⑧「天童市史編集資料」 第2号 P.85 昭和55.12.1 天童市発行
⑨「天童市史」上巻 P.382 昭和56.3.31 天童市発行
⑩「羽陽文化」 第46号 P.1 県下の土師住居阯郡 ―天童光戒壇―柏倉亮吉、山崎順子執筆
昭和35.4.5 山形県文化財保護協会発行


       
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■散る桜の話
 最近、某知事が辞表の提出前に細川ガラシャの辞世の句「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」を読み上げたそうで、かっこいいんだか、わるいんだか、よくわかりませんが。
 さて、桜花の季節の刀剣展示にあたり「花は桜木、人は武士」との言葉を添えて案内したりするのですが、これは花では桜が最も優れているように、人では武士が最も優れているという意味です。散り際の見事な桜に、潔い武士の死に際を重ねた言葉といわれます。華々しく散る姿を、桜花に喩えた歌としては、「同期の桜」がありますが、「咲いた花なら 散るのは覚悟 みごと散りましょ 国のため」と、なんとなく微妙な感じになってきます。組織論としても、パァと散ってくれた方が面倒がないからかと。
 戦後もしばらくは軍歌も市民権があり、同窓会などではこれが歌われ、パチンコ屋の店頭では「軍艦マーチ」が流れ「ジャンジャン、バリバリ」などという客の呼び込みがなされていました。そう言えば「月月火水木金金」という軍歌もあって勤務礼賛の歌ではあるのですが、実はこれは歴史が古く、日露戦争勝利後も大日本帝国海軍は休日返上で猛訓練していたところ、ある海軍士官が「これでは、まるで月月火水木金金じゃないか」とふと同僚に漏らした言葉から広まったらしく、現場感覚は案外まともだったようです。これがバブルの時代には「24時間働けますか」となり、不適切にもほどがあると言うか。
 実は江戸時代まで桜は不吉なものとされていたそうです。ネットに「桜の一番の美しさは、その儚さにあります。 しかし、江戸時代まではその散りゆくさまが“死”や“物事の終わり”と結び付けられ、マイナスイメージを持たれていたようです。また、散った花びらは薄桃色からすぐに土気色に変わるため、“心変わり”を意味するとも考えられていました。」とありました。ということは、江戸時代の「同期の桜」というのは、「貴様や俺たちは心変わりしちゃうぞ」ということなのかしらん。

■桜の句の違いがわかる話
 親鸞は「明日ありと 思う心の仇桜(あだざくら) 夜半に嵐の 吹かぬものかは」と詠んでいます。桜は明日も咲いているだろう安心していると、夜半の嵐散ってしまうかもしれないという意味で、人生や世の中の無常を表しているそうです。「明日、自分があるかどうかわからない。今を精一杯生きよう」との思いを込めた親鸞19歳のころの作とのことです。この「あだざくら」と同じく読む言葉に「徒桜」というのがあります。「徒桜」は散りやすい桜の花のことで、はかないもののたとえにも使います。「仇桜」とは微妙に違います。
 これと同じくらい微妙なものに「世の中は三日見ぬ間に桜かな」という句があります。「桜が咲きそろうこと」を詠ったものなのですが、これが「三日見ぬ間の桜かな」となると、桜の花があっという間に散ってしまうように、世間の移り変わりは激しいものだということを表す言葉となるそうです。
 以上、ネットでウロウロしているうちに知った話です。勉強にはなりましたが、酒飲みのときの蘊蓄ぐらいにしか活かせそうもなく、そうそう、なんか身近に感じる言葉がありました。「酒なくて何の己が桜かな」。花見に酒はつきもので、酒を飲まない花見は面白くないということです。「花より団子」という言葉に似ていますが、花はなくてもいいのではなく、花とともに酒が飲みたいという違いがあります。ただしこちらも今時、不適切にもほどがある、といわれてしまいそうですが。

■桜を植えた庭の話 
 ネットには、家の庭には桜を植えてはいけない、との情報もありました。その理由は、花がすぐに散ることから、短命や離散を連想させ、桜を庭に植えるとその家が繁栄せずに廃れてしまうと考えられたからとのこと。また、桜の木は花や葉が散り手入れに苦労するからとも。さらに桜の葉っぱには「クマリン」という毒素が含まれていて、過剰摂取すると肝機能障害を引き起こすとのこと。少量であれば人体に影響はないとのことですが、なんか生物由来の健康被害が問題になってもいるようで。
 にもかかわらず、猫額ほどの自宅の庭には桜の木が育ち、また、庭に植えてはいけない木の代表の枇杷の木も何本か隣家との堺で自然の風や日光を遮るように立ち、老木ですが忌木とされる椿も2、3本もあり、それらがみんな一列に並んでます。枇杷にはその効能を求めたくさんの病人が集まるとか、椿は花ごとバッサリと落ちるところから「打ち首」を連想させるとかいう理由があるそうですが、なんとも不適切な庭ですみません。


奥羽永慶軍記の「最上義光、騎馬揃の事」の地、天童の野はどこか【4】

4.現存する古絵図などを検討する

(1) 出羽一國之絵図…図-1
鶴岡市の致道博物館が所蔵する「出羽一國之絵図」は、大泉紀年によれば庄内藩では正保2(1645)年、幕府から下命を受け、同4(1647)年に納めたとある。
天童市の乱川と東根市の野川の間、陸上自衛隊駐屯地の東方に「天童原」と記されている地域がある。

《図-1》 「出羽一國之絵図」致道博物館所蔵

(2) 出羽一國之絵図…図-2
山形県総合運動公園の南、旧奈良沢村・旧荻野戸村・旧荒谷村・旧清池村・旧門伝村に囲まれた立谷沢右岸に広大な森林・原野と思われる図が描かれ「寺原」南北拾貮丁と記されている地域がある。

《図-2》 「出羽一國之絵図」致道博物館所蔵

(3) 堀田藩時代の山形藩絵図…図-3
元禄5(1700)から延享3(1746)年頃の絵図で上記(1)の絵図と同様の位置に「天童原」と記されている。

《図-3》

(4) 大日本帝國陸地測量部発行「仙台」…図-4
明治27(1894)年発行された縮尺20万分の1の地形図で上記(1)、(3)の絵図と同様の位置に「天童原」と記されている。

《図-4》

(5) 大日本帝國陸地測量部発行「天童」…図-5
明治37(1904)年6月30日発行された縮尺2万分の1の地形図に天童原の記載は見当たらないが、この図には舞鶴山の北西山麓に天童氏の家臣達の居住地(永和元年・天授元(1375)年~天正12(1584)年の間、現天童市小路)から糠塚の西を通り、若松街道を交差し原崎に至る古道跡(写真1、4、5、6、7参照)がある。

《図-5》


《写真-1》


《写真-4》 天童市立第二中学校 W=2,5m 


《写真-5》 天童小路~原崎 天童原 W=2,5m 天童市立第二中学校東側


《写真-6》 天童小路~原崎 天童原 W=2,5m 天童市立第二中学校東側


《写真-7》 天童小路~原崎 天童原 W=2,5m 渡辺宅前十字路

市街地は昭和38~50年の都市計画事業により失われたが、糠塚の西に立地したヨークベニマルなどの商業施設の西側に現存(写真-1参照)している。

(6) 国土地理院発行「天童」…図-6
平成12年7月1日発行、縮尺2万5千分の1地形図に国道13号線と国道48号線の十字路から東方に「天童原」と記されている。

《図-6》

(7) ゼンリン住宅地図‘96山形県天童市
上記(6)と同様の位置に「天童原」と記されている。地籍名にはない地名であるが、古来からこの地域を天童原と言い地域住民の集いの場、天童原公民館が設置されている。(写真-2参照)

《写真-2》

 以上、古絵図や地形図などに「天童原」と明記されている所は、東根市神町地域と天童市旧山口村の天童原という集落の2ヶ所に存在することが分った。上記以外に広がりのある原野・林地など古地図及び文献、伝承など見当らない。
 次に(6)国土地理院発行図-6を見ると、上記(5)でいう古道が天童原に位置する天童市立第二中学校(文)から、原崎まで残っている。原崎地区圃場整備事業により一部失われているが、工事着工前の昭和46年に測量した現形図により確認することができる。その個所はJAフルーツセンターの東隣に白壁の建物(㈱)フルーツ果乃蔵所で成生庄から来る道へ繋がる。(写真-3参照)

《写真-3》 ●印は仮称天童小路・原崎線と横道との交叉付近 

■執筆:矢野光夫

【参考文献】
⑤「現形図」天童市原崎地区圃場整備事業 昭和46.7.1測量終了



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奥羽永慶軍記の「最上義光、騎馬揃の事」の地、天童の野はどこか【3】

3.「最上の郡天童の野」について、自治体史などへの記述について

(1)「奥羽の驍将 最上義光」
著者誉田慶恩によると義光は当地方の向背を試みようと尾花沢の原野に馬ぞろいを行った。という記述はあるが何の史料によるものか明らかでない。

(2)「尾花沢市史」
最上義光は村山郡北部の武将たちの向背をみるため、尾花沢の原野に馬揃えを行ったと記している。

(3)「新庄市史」
尾花沢の原野で行った馬揃の儀は「奥羽の驍将 最上義光」から引用したと執筆者は述べている。

(4)「最上町史」
内陸地方諸氏の向背を試そうとして尾花沢で馬揃えの儀を行ったと記している。執筆者は「新庄市史」と同じである。

(5)「山形市・天童市・東根市史」や「延沢軍記」「新庄古老覺書」などには軍記でいう馬揃えの記述は見当たらない。

 尾花沢市史の出典は明らかではないが、上記(3)・(4)と同様「奥羽の驍将 最上義光」を参考にしたと思われる。
■執筆:矢野光夫

【参考文献】
②「奥羽の驍将 最上義光」 P.39 誉田慶恩著 昭42.6.15 (株)人物往来社発行
③「尾花沢市史」上巻 P.274 平成17.10.15 尾花沢市発行 
④「新庄市史」上巻 P.588 平成元.10.31 新庄市発行


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奥羽永慶軍記の「最上義光、騎馬揃の事」の地、天童の野はどこか【2】

2.奥羽永慶軍記に見る騎馬揃の状況について

奥羽永慶軍記(以下「軍記」という。)巻37に最上義光、騎馬揃の事が記されている。

 最上義光、同年(慶長十年のこと)江戸在勤に言上して、駿河守に国を譲り、庄内鶴ヶ岡に隠居の身とぞ成られける。同十一年冬、義光一門・郎等を鶴ヶ岡に召れ、「扨も近年は諸国静謐にて、諸人遊山栄輝(えいよう)のみに誇ぬれば、家中の武道取失ふ事も有べし。来正月は最上郡天童の野に於て騎馬を揃へて見物せん。其用意せよ。」といはれければ、「相心得候。」と一々相触けり。是を聞て、山形・鶴ヶ岡の旗本はいふに及ばず、温泉・藤島・櫛川(引)・亀崎・由利・赤尾津・上の山・長谷堂・白岩・谷地・寒河江・鮭登・小国・清水・延沢・楯岡・東根等の与力・陪臣に至るまで、馬・武具・母衣・旗指物・馬印などとて爰(ここ)を晴と出立(いでたち)ぬ。同十二年正月十一日義光申されけるは、「秋田の境赤尾津の与力二百十一騎、鶴ヶ岡百五十騎・亀崎百騎・寒河江三十騎は諸境の押なれば、今度の騎馬揃に出(いず)べからず重て一見すべし。」と、境毎に相触れ、用心稠しくせらる。
 馬揃は正月十五日と定めらるゝに、此事・越後・米沢・仙台・山北の境を隔し所へ聞えければ、最上騎馬揃をするよし委しく見て参れと、目付の者を遺すに、皆物に紛れて在々所々にぞ充満(みちみち)ける。其外隣郡より来り見る者も貴賤群集せり。既に今日出んと触を待つ所に、義光昨日山形に来り給ひて、今度の役人安食大和守を召れ、騎馬帳を見給へば、都合三千七百廿騎ぞ有ける。義光、「此騎馬は皆々山形に相詰けるか。」と問ひ給ふ。安食承(うけたまわる)に「一騎も残らず相詰候。」と申す。義光聞給ひて、「よしよし天童に出て汰(揃)ゆるに及ばす、騎馬帳を見ても同前なり。皆々帰すべし。」といはれければ、爰を晴と出立(いでたち)し、者ども、己々が宿所にぞ帰りける。所々より来る見物衆も皆々帰りけり。義光父子三人、其外一門も仮屋夥しく、帳幕を打せけるが、空くぞやみにける。其心底奥深しと感じける者も多かりけり。
■執筆:矢野光夫

【参考文献】
①「奥羽永慶軍記」 P.943~944復刻 今村義孝 校注 2005.2.20(有)無明舎出版発行


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最上義光、騎馬揃の事」の地、天童の野はどこか【1】

1.はじめに

 慶長5(1600)年9月最上義光公は長谷堂合戦で直江兼続の率いる二万余の上杉軍との攻防戦で勝利し、翌年、庄内酒田東禅寺城落城をもって出羽の戦が終結した。その論功により徳川家康公から庄内を与えられた。同7(1602)年には江戸幕府が開かれ、世も安定したため、同12(1607)年に天童の野において騎馬揃を命じたのである。最上郡天童の野とは果してどこなのか、古絵図や文献などで検討してみたい。
■執筆:矢野光夫 

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