最上義光歴史館

山形藩主・最上源五郎義俊の生涯

【はじめに】

 羽州の地に五十有余万石の領国を築きあげた最上義光が、栄光に満ちたその生涯を終えたのは慶長十九年(1614)一月のことだった。それから八年後の仲秋の頃、孫の源五郎が何故に領国崩壊への道をえらばねばならなかったのか。
 徳川恩顧の父家親早なる死の後は、家中の源五郎の排斥の気配も、さして感ずることなく幼年の源五郎に家督が許されたことは、それが家中の総意に適うものとは限らないにせよ、本領安堵に落ち着いた現状を見るとき、家中一同も一時の安堵の思いに身を馳せたことであろう。しかし、それも束の間のことであって、次第に高まる一族の重臣達を筆頭にしての抗争が、藩主義俊の家中統率の無能さを、表面に出しての論争に発展するところとなっていった。
 義俊の五年余の山形藩主時代は、一片の自己主張すら藩政に反映させることは困難であったろう。それは若年の身に加えて、身辺に漂う悪しき風評の全てが、必ずしも自己の為せる業とは言えないまでも、己の意思の欠如を如実に物語ったものといえよう。祖父義光が営々として築き上げた大藩を守りきるには、若き藩主とそれを支える側の体制では、どうすることもできなかったのである。
 元和三年(1617)五月の襲封から、三年後に起きた幕府監察の導入は、それは最上家内での醜聞を白日のもとにさらけだす結果となった。そして改易を迎えるまで、幕府の表向きの政治的な関与は無かったにせよ、絶えず監視下のもとに置かれていたのであった。そして藩内を二分しての対立の構図がやがては幕閣要人達の利害に絡む論争の場へと、発展して行ったという。
 遠く中世の代に端を発した最上の家を、破滅の道に追い込んだ原因、そしてその責任は誰が取らねばならぬのか。若き源五郎義俊にその全責任を負わせるのは酷であろう。むしろ己の権力保持に汲々としていた重臣達に、義俊を満足に支え切れなかった責任を問うべきである。
 ここでは、最上家側での義俊に関わる記録の希薄さから、その生きざまを満足に語る程に、充実したものを探しだすことは難しい。それでも、何とか義俊の痕跡を捜し求めながら、その生涯をたどって行ってみたい。なお源五郎が家信から義俊に改名したのは、改易後のことであるが、本稿では義俊に統一している。
■執筆:小野末三

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「武士[mononfu]の晴れ姿を体験しよう!!」

○とき  
11月1日(土)、2日(日)、3日(祝)
午前の部10時〜12時/午後の部13時〜15時

○内容  
甲冑を着て馬に乗り、戦場におもむく武士の晴れ姿を体験します。

(1)甲冑の着用と乗馬コース 
各日16名 (午前の部8名/午後の部午後8名)
参加費1500円(保険料込)
※小学生の場合は高学年以上です
   
(2)甲冑のみ着用コース  
各日8名 (午前の部4名/午後の部午後4名)
参加費500円

○会場  
最上義光歴史館 前庭と研修室

○申込み 
10月18日(土)から最上義光歴史館へ電話(625-7101)で申込み、先着順で定員になり次第、締切ます。日時は完全予約制です。当日甲冑は選べません。
【最上駿河守家親/もがみするがのかみいえちか】 〜名門最上家の御曹司〜
 
 第12代山形城主。天正10年(1582)の生まれであるから、清水城主となった光氏(義親)とは同年齢の異母兄弟である。幼名を太郎四郎、左馬助といった。
 天正19年に、徳川家康が奥州九戸の乱を平定するために福島在の大森に着陣しているとき、義光が10歳になった太郎四郎をつれて行き、「この倅をさしあげます。自分の代わりに召し使ってくだされ」と申し出た。家康は「国持ち大名の子息を家来にするとは、初めてのこと」と非常によろこんだという。
 文禄3年(1549)8月5日、家康の前で、徳川四天王の1人井伊直政の理髪で元服をした。名乗りは「家康」の一字を拝領して「家親」。駿河守となる。「康」をもらったのは何人かいるようだが、「家」をもらったのは、最上家親と島津家久の2人だけらしい。それだけ、彼に寄せる期待も、最上家を大切に思う気持ちも、家康にはあったのだろう。
 15歳(慶長元年)から江戸詰め。家康のそばから移って、秀忠に仕えることになった。
 19歳のとき、関ケ原の戦いの直前、徳川軍が会津征伐に出たときは、秀忠にしたがって宇都宮にいたり、ついで信州真田攻めに従軍する。
 いわゆる「武功」の話は聞かれない。名門大名最上家の御曹司ということで、前線に出て戦うよりも、主君秀忠の側にあって、戦陣の心得などを学び取っていたのかもしれない。
 世の中がしずまった慶長10年4月には従四位下侍従に叙され、同月9日には細川忠利とともに宮中において天皇から盃を賜った。その夜、家親は京都の家康邸を訪問しているが、これはおそらくお礼言上のためであろう。
 同じ時期に、父親義光も京都にいた。3月29日には義光は秀忠に随行して参内。天盃を下賜された。4月26日にも、秀忠の将軍宣下に扈従して、殿上に昇った。
 出羽山形57万石、最上家は花盛りだった。
 翌年、家親の嫡男が生まれる。源五郎、後の家信、あらため義俊である。母は不詳。最上家のような名家の妻がどこの出か知れないとは、まったく不思議なことで、世間には「西三条家」の娘だとする説もあるが、根拠となる史料は見あたらない。
 その後の家親は、江戸城内で開かれる正月恒例の御謡初めには着座を許され、琉球国王の訪問では奏者役となり、摂関家から使者が訪問すれば披露役を務めるという具合で、幕府の重要式典に参画しているのが目立つ。詳細を書く余裕はないが、文化的芸術的なたしなみが豊かだったことがうかがわれ、有職故実などにも詳しかったのであろうか。
家親は江戸暮らしが常態だったらしく、その邸には京都から来た公家も訪れた。
 慶長16年(1611)10月21日には、江戸城内で催された申楽に、家親も参席した。
 その4日後、船橋秀賢と山科言経(いずれも京都の公家)の宿所を訪問して、それぞれに紅花50袋をプレゼントしたことが、両人の日記からわかる。
 慶長19年(1614)1月18日、義光逝去。その報せが小田原にいた家康にとどくと、家親はただちに帰国を許され、2月6日、山形城下の慶長寺(光禅寺)において葬儀をすます。そのあと半年ほど山形にいたと推測される。新藩主として、さまざまな政務を処理したと思われるのだが、そのころの最上領内のムードは必ずしも平穏無事ではなかった。
 6月には庄内鶴ケ岡城下で一栗兵部の反乱が勃発、酒田城主の志村光惟と大山城主の下秀実が襲殺されてしまう。最上重臣クラスのなかには、徳川につくか豊臣につくかということで互いに疑心暗鬼の状態だったらしく、家親に親しみ薄いグループの中には大坂方を支持する者があったことも否めないだろう。
 家親は、家督承認の御礼をするために9月に山形を発った。そのとき、これは果たして史実としてよいかどうかだが、野辺沢遠江、日野将監らに、清水城、清水義親討伐の命令を下していたといわれる。家親が駿河で家康に謁していたちょうどそのころ、清水は最上宗家の大軍の攻撃を受けて滅び去る。10月13日とされている。
 同年11月、家康、秀忠は、20万といわれる大軍をもって大坂攻撃を決行する。いわゆる「大坂冬の陣」であるが、このとき家親は徳川の本拠江戸城の留守居役を割り当てられた。翌年4、5月の「夏の陣」でも、家親は江戸城留守居を命じられた。
 「冬の陣」のとき、家親は1日も自分の邸に帰らずに、江戸城本丸に詰めたと『最上家譜』には記されている。
 冬・夏ともに、伊達、上杉、佐竹など東北外様諸大名は軒並み危険な戦場に駆り出されたのに対して、最上家だけは別格の役割だった。これは、家親に対する徳川家の厚い信頼を物語るものであろう。もっとも、多少の軍勢は大坂に派遣したようで、上級家臣武久庄兵衛が大坂で功績があったので賞された旨、分限帳の書き込みが見られる。
 江戸にあって、家親が高名な文人僧、足利学校の庠主(しょうしゅ/校長)寒松和尚と親交を結んでいたことが、近年小野末三氏によって明らかにされている。幾編かの漢詩を贈られたことも、新しい発見であった。
 冬の陣の直後、慶長20年正月16日、寒松が最上邸に参上した時の日記と漢詩を、読み下しで掲げてみよう。
 
 「最上家のお屋敷では、珍しいご馳走があった。如白(寒松の弟子か)もお相伴した。その席で「春の雪」の詩を差し上げ、楽しい語らいに時を過ごし、すっかり酔って帰った。

   夜雪空に連なって、月色ゆたかなり、
   壁門金殿、瓦溝めぐる、
   江天暁に到りて、尺をみたし難し、
   ことごとく是れ軍営、喜気消えんか」

 学僧で文人、幕府要人との付き合いの多かった寒松との交際は没年まで続く。元和二2(1616)2月26日、家親は山形六椹八幡宮に鷹の絵を寄進した。「源家親」の記名がある。彼自身の作であろうか。
 ところで、家親については、山形ではとかく好ましからぬ風評が語られている。
 最上家を乗っ取ろうとするグループによる毒殺とか、女に刺し殺された、などという話である。だが、これらは作り話に過ぎない。
 亡くなったのは、元和3年3月6日。36歳。『徳川実記』では「在府して猿楽(能狂言)を見ながら頓死す、人みなこれをあやしむ」とある。「在府」は「江戸府にあって」ということ。「頓死」は「急死」である。
 大大名の若い当主の急死は、うわさ話にはもってこいである。「人みなあやしむ」というのも無理はない。
 確かな史料で見ると、秋田藩重臣、梅津政景の日記によると「四日の晩から苦しみだし、
6日の四つ時(午前10時ごろか)死去した」とされている。
 いっぽう、将軍秀忠からは、病気見舞いの手紙が寄せられている。
 この年の3月4日は、太陽暦では4月9日。江戸は春の花盛りである(鈴木靜兒氏の御教示による。)花見がてらの能狂言、酒に肴に音曲に…。
 このような状況から推測して、これはまったくの想像にすぎないが、家親はにわかな食中毒にかかったのではなかったか。二晩を病に苦しんで亡くなったのであろう。
 後日、一族の松根備前守光広が「毒殺の疑いあり」と訴え出たけれども、幕府は調査のうえこれを却下、光広は偽りの訴えをしたとして築後柳川に流罪となった。幕府の判定も、
変死とはしなかったのだから、やはり病死だったとするのが正しいだろう。
 彼の領内政治がどんなものであったか。今のところ、ほとんど知ることはできないが、小野末三氏の研究によって、その人物像は少しずつわかりかけていると言ってよいだろう。
■■片桐繁雄著
「武士[mononfu]の晴れ姿を体験しよう!!」

○とき  
11月1日(土)、2日(日)、3日(祝)
午前の部10時〜12時/午後の部13時〜15時

○内容  
甲冑を着て馬に乗り、戦場におもむく武士の晴れ姿を体験します。

(1)甲冑の着用と乗馬コース 
各日16名 (午前の部8名/午後の部午後8名)
参加費1500円(保険料込)
※小学生の場合は高学年以上です
   
(2)甲冑のみ着用コース  
各日8名 (午前の部4名/午後の部午後4名)
参加費500円

○会場  
最上義光歴史館 前庭と研修室

○申込み 
10月18日(土)から最上義光歴史館へ電話(625-7101)で申込み、先着順で定員になり次第、締切ます。日時は完全予約制です。当日甲冑は選べません。