最上義光歴史館

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最上家親を見直す−花押に注目して−
    
 山形藩第二代藩主最上家親(1582〜1617)に関しては、治世期間が三年と短いこともあって、その謎の死ばかりが注目されてきた。しかしながら、家親の人生を史料に即して見てみると、義光の跡を引き継ぐだけの器量を有していたことがわかってきた。ここでは、家親の花押(サイン)に注目しながら、家親の実像に迫ろう。花押は、同じものをずっと使うというよりも、その人物の立場の変化などと連動して変える場合も多く、家親の立場の変化を花押の変化から追うことができるからだ。
 家親は、天正十九(1591)年、大森(福島市)で九戸討伐に来た徳川家康に拝謁を遂げ、それ以後は家康の近習となった。慶長元(1596)年からは、秀忠の近習となって江戸で暮らしたが、慶長十九(1614)年二月には第二代山形藩主となる。もっとも、花押は、成人してから使えるので、花押に注目すると、文禄三(1594)年八月五日、十三歳で家親が徳川家康の前で元服式を行なって以後が対象となる。
 家親花押の研究といえば、武田喜八郎氏(『武田喜八郎著作集 巻一 山形県文化史の躙Φ罅戞幣松印刷所、2007)によって、明朝体の図(2)と図(4)の二つの花押が知られている。


図(2)況


図(4)祁殖

明朝体とは、江戸時代に流行した花押型で、徳川判ともいい、「中国の明の太祖が始めたところとも。名乗りの字を使わないで、上下に一画を置いて中間にいろいろな形を作る」(『日本国語大辞典』12、1972)。武田氏は、図(2)は慶長初年頃から、図(4)は慶長十五・六年から元和三(1617)年まで見られるとする。
 もっとも、武田氏は『山形市史史料編1 最上氏関係史料』(山形市、1973、『市史史料編1』)では、文禄四(1595)年八月十三日付最上義康・家親連署状(『市史史料編1』182頁)の家親花押も挙げておられるが、『武田喜八郎著作集』では挙げられていない。理由は書いておられないが、最上義康・家親連署状を後世の写しとされたからであろう。私見も、そうした内容の文書が出されたとは考えるが、写しと考え、花押分析では除いている。そうした武田説は大いに示唆にとみ、基礎的な研究と評価できるが、以下に見直してみる。
 家親文書については、黒田富善氏「最上氏時代の寒河江領主について」(竹井英文編著『シリーズ戦国大名の研究6最上義光』戎光捗佝如■横娃隠掘砲篶詭攘氏「最上(寒河江)家親文書に関する一考察」(初出は『西村山の歴史と文化』検■横娃娃押後、竹井編『最上義光』採録)の研究があるが、花押の分析などはなされていない。
 管見に及んだ家親発給文書としては、慶長七(1602)年四月二日付の菅井掃部左右衛門義満宛最上家親宛行状が初見である(黒田「最上氏時代の寒河江領主について」924頁の表10−1「最上家親発給文書一覧」参照)。

今度、当村在方扱に依って申出し候事者
右件の赤田千苅は、永代未来に、出し置き候ところは実正である、もし猶自今以後違乱の儀これあらば、彼状をもって糺明を致すべき者なり、仍って件のごとし
 慶長七年
 寅卯月二日 家親(花押)
     菅井掃部左右衛門とのへ
〈菅井文書、阿部酉喜夫氏所蔵写真〉

 内容は、家親が、赤田(寒河江市)千刈の土地を菅井掃部左右衛門義満に宛行なっている。宛名人の菅井氏は、溝延八幡宮(山形県西村山郡河北町)の神官で、菅井義満は寛永元(1624)年七月二十九日に死去している(『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』、2001、168頁など)。
 本史料から、家親が慶長七(1602)年四月二日には寒河江領主であったことは確実である(『寒河江市史 上巻』(寒河江市、1994、942頁)。ただし、本史料は、寒河江領主としての家親の活動を示すのみならず、家親の花押研究においてもきわめて重要である。
 本文書に書かれた花押は、従来、全く注目されてこなかったが、図(1)のようなもので、これまで知られている図(2)や図(4)の花押とは異なっている。


図(1)儀

それゆえ、図(1)の花押を花押機⊃沺複押砲硫峅,魏峅´供⊃沺複魁法図(4)の花押を花押掘複舛硲臓砲閥菠未垢襦
 それらの三類型の花押は、基本的に図(5)のような、慶長五(1600)年七月七日付村上義明宛徳川秀忠書状に見える徳川秀忠花押(藤井譲治『近世史小論集』思文閣出版、2012、163頁)と似ている。


図(5)
慶長五年七月七日付村上義明宛
徳川家康書状に見える花押

家親は、主人の秀忠の花押に似せた花押を使っていたのである。
 ところで、翌年慶長八(1603)年二月晦日付宛名不詳最上家親知行宛行状(白田佐著『新病院の落成を記念し「白田病院の歴史」を考える』白田病院、1982、15頁)では、家親の花押は図(2)のような況寝峅,吠儔修靴討い襦すなわち、慶長七年四月二日から慶長八年二月晦日までの間に花押が変わったと考えられる。その花押変化の背景は明確ではないが、慶長七年七月以降に義康が没落し、家親が家督継承者となったことによるのではと考えている(この点は別稿『最上三代』ミネルバ書房刊行予定で述べる)。なお、慶長八年二月晦日付文書も先の慶長七年四月二日付の文書も、いずれも原史料は所在不明であり、『山形県史』などで紹介されてこなかった文書である。
 ところが、慶長十五(1610)年になると、図(3)のような花押沓舛砲覆蝓以後、花押祁燭鮖箸ぢ海韻襦


図(3)祁殖

管見に及んだ花押沓舛僚颪れた初見文書は、以下の慶長十五(1610)年九月十二日付島津家久宛最上家親書状である。

(端裏捻封上書)
「 嶋津陸奥守様    山形駿河守
       人々御中     家親 」
  以上
先刻者、於御城卒度得御意、御残多存候、然者琉球王御奏者申候条、今晩御門へ御礼申度候間、御内儀被仰入可被下候、何様以参可得御意候、恐惶謹言
(慶長十五年)
  九月十二日     家親(花押)
(島津文書、『市史史料編1』291頁、東大史料編纂所架蔵マイクロフィルムにより訂正)

 島津家久は、慶長十五年八月に琉球王尚寧を率いて江戸城に徳川秀忠に拝謁した(『大日本史料』12の7、638頁)。前年慶長十四(1609)年に、琉球王国は嶋津領となったので、島津家久は、その挨拶のために江戸へ参った。家親は、その際、琉球王尚寧を秀忠に取り次ぐ奏者の役を命じられた。本文書の伝えるように、家親は、無事に奏者の役を果たし、そのお礼の挨拶をしたい旨を島津家久に伝えている。
 本文書には、図(3)の花押沓膳燭書かれている。図(4)のような花押祁燭箸呂い┐襪、右に少し傾いているという相違がある。
 家親はなぜ、況燭ら祁燭慂僂┐燭里任△蹐Δ。家親は、この尚寧以後も摂家クラスが秀忠との対面に際しては、奏者(取り次ぎ役)を勤めるように命じられた(『徳川実紀』慶長十五年八月二十八日条)。いわば、家親は秀忠の近習から幕閣の一員となったのである。
 とすれば、況燭ら祁燭悗硫峅(儔修蓮家親が奏者(秀忠のスポークマン)となるなど、幕閣の一員として江戸で活躍するようになったことによると考えられる。そうした立場の変化に応じて、花押を変えたのであろう。
 ところが、慶長十六(1611)年正月十一日付け城志摩宛て最上家親一字状(『山形県史資料編上』378頁)では図(4)のような、傾きのとれた花押となる。また、その花押は、最大縱幅4.0cm、同横幅横7.0cmと大きい花押である。山形藩主継承(予定)者としていわば自信に満ちた花押となってゆく。
 以上、(1)家親の花押は花押機銑靴了絢鑪爐あったこと、(2)花押気老陳梗掲四月二日には使用されたこと、(3)花押兇老陳紅年から十五年まで、花押靴老陳構集淒九月十二日には見られ死去するまで使われたこと、(4)花押気牢┣蝋称亮腓箸靴董花押兇狼糎の家督継承者として、花押沓舛亘詆椶遼覲佞琉谿、花押沓造六碍組夕隋瞥縦蠎圈砲箸靴討硫反討鮠歡Г垢襪海函△覆匹鮟劼戮拭
 本稿作成に際し、北畠教爾氏、鈴木勲氏のご教示を得た。

■執筆:松尾剛次(山形大学名誉教授)「歴史館だより27」より
「時は今 天が下しる 五月哉」について雑感

 連歌の冒頭の句を発句と言う。その詠み様に作法があったことは、周知のことである。ただし、十五世紀後半より、発句を独立させて鑑賞する風潮が現れる。今日の俳句につながることは、言うまでもない。

 さて、戦国の武人たちは連歌をたしなみ、風流を心がけていたことは、常識化しつつあるが、それらの人々の発句の中で、著名なものの一つに、明智光秀のそれがある。
 以下にそれを示す。(論述の都合上、第三の紹巴句まで示す。本文は「連歌集」新潮日本古典集成 昭和五十四年 島津忠夫氏校注に依る。)

  賦何人連歌 天正十年五月廿四日
1 ときは今天が下しる五月哉     光秀
2  水上まさる庭の池水       行祐
3 花落つる池の流れをせきとめて   紹巴

 島津氏は光秀句の解釈を、こうとらえている。
 時は今、土岐の一族である自分が天下を治めるべき季節の五月となった。

 信長を討つ決意を秘めたとする解釈は、人々に疑われることもなかった。(あくまで俗説であるが、それを察知した紹巴は「せきとめて」と、中止させようとの意を含ませた句を詠じたとされることもある)江戸期の人々も浄瑠璃や歌舞伎の中などで、そのような解釈を常識として来た。四世鶴屋南北の「時今也桔梗旗挙(ときはいまなりききょうのはたあげ)」一八四八年作は外題でこの発句を活している。これ以前に近松半二等の「三日太平記(みっかたいへいき)」一七六七年作の中で光秀の口にするせりふにこの句が採り上げられている。その場面は、以下の通りである。

 尾田春永(「小田」とも、以下役名)は天下平定を目指し、各方面へ武将を遣し、当人は中国の真柴久吉を助けようと、本能寺に宿泊していた。そこに勘気を蒙って遠ざけられていた武智光秀が、あえて目通りを願い出る。
 光秀は、春永に武人の鑑となってほしいとして、劉備玄徳を例に挙げ直諌する。怒った春永の命で、森蘭丸が、鉄扇で光秀を打ち、要で額を割る。(眉間割り)
 屈辱に耐えていた光秀は「最早これまで」と、謀反を決意しこの発句を呟く。時ならぬ陣太鼓等が打ち鳴らされ人々は狼唄する。小柄を抜いた光秀は「忠孝」と書かれた額を、それで打ち落し、春永に張本が自分であることを告げる。
 
 近世までの人々は、この発句の重要性・意図を、例えば以上のように理解していた。すなわち、謀反の意を読みとっていた。
 近代に至り、この理解に疑義が、桑田忠親氏を中心として、さしはさまれる。論点は二つある。その一は、本文の問題である。底本等は「連歌集」島津氏校注の解題にあるので参照してほしいが、この懐紙の原本はなく、写本の中で「天が下しる」を「天が下なる」とするものもある。後者ならば「世の中すべて五月雨の今にふさわしい光景」との従来の作法通りの自然詠となる。先述した紹巴に関する物語の中には、後に秀吉の追求を怖れた紹巴が書き改めたとするものまである。
 その二は、仮に、光秀が決意を秘めたこの発句を詠じた時に、一座の者などの中に( 連衆は光秀を含め九名、五名は連歌師。光秀の縁者は行澄(ゆきずみ)・光慶(みつよし)の二名)、光秀の意図を察して、信長方に通報するような者がいなかったであろうか、光秀は安心して心情を吐露出来たかという点である。
 言われてみればその可能性もあって、通説を否定する考えの柱となっている。

 以上のことは、光秀という謎に満ちた人物の魅力もあってか、多くの研究書・文芸書に採り上げられている。興味のある方は、サイト等で、詳細を調べてほしい。
 
 今年でNHK大河ドラマは六十作目。この稿を記している時点で様々の困難に直面しているようである。筆者としては、第三作目「太閤記」の佐藤慶が良かったように、個人的には思っている。               

■執筆:名子喜久雄(山形大学名誉教授)「歴史館だより27」より
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常設展示  (12/1 〜 12/27)
開館日数・・・・・・・・・・・・・24日間
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