最上義光歴史館

最上義光歴史館
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11月27日(日)にやまがた愛の武将隊様による演武が行われました。
晴天の下、お客人の方々も盛り上がっていらっしゃいました。
武将隊の皆様、美声であらせられますね〜!耳福です!


そしてお土産をいろいろ頂戴いたしました。
最上義光公のアクリルスタンド!直江兼続公のアクスタ&起上り小法師〜!
米沢といえばの時雨の松!(上杉鷹山公ご賞讃!)

やまがた愛の武将隊の皆様、ご来館いただいたお客人の皆様、
どうもありがとうございました!
《2022年11月の利用者アンケート集計結果》

 この集計結果は令和4年11月1日から同30日の間に入館した利用者を対象に行ったアンケートを集計したものです。

常設展示  (11/1 〜 11/30)
開館日数・・・・・・・・・・・・・26日間 
入館者数・・・・・・・・・・・・・2,282名
回答者数・・・・・・・・・・・・・14人


1.歴史館をどこで知りましたか??
(1)旅行雑誌・・・・・・・・・・・・・・・・7%
(2)歴史館のホームページ・・・・・・・・・・7%
(3)インターネット・・・・・・・・・・・・・29%
(4)新聞・テレビ・ラジオ等・・・・・・・・・0%
(5)広報やまがた・・・・・・・・・・・・・・7%
(6)知人から聞いた・・・・・・・・・・・・・0%
(7)以前から知っていた・・・・・・・・・・・0%
(8)観光案内所 (駅など)・・・・・・・・・・・7%
(9)通りがかり・・・・・・・・・・・・・・・36%
(10)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・7%

2.歴史館の入館は何回目ですか??
(1)はじめて・・・・・・・・・・・・・・・・77%
(2)2回目・・・・・・・・・・・・・・・・・15%
(3)その他・・・・・・・・・・・・・・・・・8%

3.ご覧になられた感想
(1)内容はいかがでしたか??
   ‖臺僂茲った・・・・・・・・・・・・・77%
   △茲った・・・・・・・・・・・・・・・23%
   ふつう・・・・・・・・・・・・・・・・0%
   い弔泙蕕覆った・・・・・・・・・・・・0%

(2)最上義光と最上家について??
   ,茲わかった・・・・・・・・・・・・・45%
   △錣った・・・・・・・・・・・・・・・55%
   わからなかった・・・・・・・・・・・・0%
   い匹舛蕕箸發い┐覆ぁΑΑΑΑΑΑΑΑΑΓ亜

〜利用者の声〜

千葉県柏市 男性/50代
最上家と隣藩との関わりなど、中世以降のこの地の歴史も知ることができ、勉強になりました。史料中心の展示で見ていて飽きずに楽しめました。

東京都葛飾区 男性/60代
自分は、日本100名城、続100名城を5年前に踏破、今は好きな所を廻っています。そこでは、御城印を購入していますが、ここにはない!とのことオドロキです。

埼玉県 女性/30代
資料、カブトに刀剣が展示されているのを実際に見ることができて良かったです。

静岡市 男性/70代
ガイドの方に詳しく説明を受けて、最上氏の偉大さを垣間見る事ができました。

山形市 男性/60代
説明者の方が、わかりやすく、ていねいで非常に良く理解できました。ありがとうございました。職員の皆様、コロナ禍どうぞ御自愛ください。

山形市 女性/30代
ご親切に対応していただき、ありがとうございました。

東京都町田市 男性/50代
また来年も来ます。

※当館サポーターの個人名は「ボランティア」または「ボランティアさん」に変更しています。
最上義光連歌の世界

1 おる花のあとや月見る夏木立      義光
2  御簾のみとりに明(け)やすき山   紹巴 

  慶長三年(一五九八)四月十九日
   賦何墻連歌      初折の表

 前回での予告の通り、前回と同じ付け合いへの別角度からの考察である。
 前回においては、義光の発句を中心に、この連歌が興行された慶長三年四月ごろの世情を関わらせての考察を行った。本稿は後述する二つの観点に立ち、古典文学との関係を論じたい。
 再度、この付け合いの大意を示す。発句は、「桜を手折り春の風雅を尽した後、今ここに夏木立の中で月を楽しんでいる」となる。脇句は、「御簾ごしにこの光景を味わっていると、はやくも時は移り東の山の空が白み始めている」となる。この付け合いは、その場の連衆が目にした光景であることは、連歌の作法からも、そう判断して良かろう。ただしこの付け合いを鑑賞する時には、以下に示す二つの観点を必要とすると思われる。
 第一の観点は、古典和歌・連歌・俳諧を詠む時の基本的創作態度である。藤原定家は「京極中納言相語」で、「光景を詠む折には、それを『玉の砌(みおぎり)』と思って詠め、恋を詠む折には、我身を在原業平の振舞になぞらえて詠め」と語っている。光景を詠むに際しても近代のリアリズムとは異なった思考なのである。
 第二の観点は、「面影(おもかげ)を取る」詠法である。「本歌取り・物語取り」のように、明白に過去の作品・場面に基づいている訳ではないが、何とはなしに作者が意識したと想像される作品・場面を鑑賞者に想起させるという方法である。いずれも古典作品を尊重した詠法である。
 以上の観点に立った時、どのような作品・場面を想定すれば良いのであろうか。「初夏の若葉の木立の中、人々が月を愛で時の移ろいを楽しむ場面」は、種々の古典の中に求められよう。ここでは、その一例として「源氏物語・花散里」の一場面を示したい。

 朧月夜内待(兄・朱雀院の実質的后の一人)との密事が露見して、光源氏は東宮(後の冷泉帝・実は源氏の子)を守るためにも、政界から身を引き都を離れることを決意する。そんな折、彼は関わりのあった女性である花散里(夏の女として描かれる)の許を訪れる。途上、中川の辺りで、かつて縁のあった別の女性の家の前を通りすぎていることに気がつく。訪問の意を伝えるが、女はそれを拒む。その後、父・桐壷帝の女御の一人であった麗景殿女御(花散里の姉君・同居している)の邸に着く。(そこで、以下の記述がある)
 
 まづ女御の御方にて(桐壷帝治世の)昔の御物語など聞えたまふに、夜更けにけり。

 二十日の月さし出るほどに、いとど木高き影ども木暗く見えわたりて…
(下線筆者)

 「夏木立」の語そのものはないが(「源氏物語」全体や「八代集」にもない)、月日はほぼ同じ、光景の素材も共通している。義光が、発句を詠むにあたり、前述したように古典作品の「面影を取」ったとしたら、例えばこの場面を可能性のある箇所として挙げることができよう。 
 繰り返しになるが、古典和歌・連歌・俳諧(近代の俳句ではない)は、近代人の常識たるリアリズムを基盤とする文学観では、割り切れず、理解しがたいものである。このように考え、いささか恣意的な考えを記してみた。

■執筆:名子喜久雄(山形大学名誉教授)「歴史館だより29」より
◆◇◆義光のまなざし◆◇◆       


「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光」
(せいわてんのうまつようやまがたでわのかみうはつのそうよしあき)

 有名な鉄指揮棒の銘である。義光という人物を考えるとき、これはもっと吟味されていいと思う。清和天皇は仁慈の徳高く、釈教に思いを深めた天皇として知られ、その子孫は武門の名流「清和源氏」となった。この十六文字は、義光の高い誇りと、慈悲を旨とする仏法の実践者であるという決意を述べたものと考えられる。
 そもそも同時代の武人は、敵の城を攻め落として撫で斬りにした。苛政に耐えかねて一揆がおこると、首謀者を火あぶりにした。だが、こういう話は義光にはない。
 義光の戦いにしても凄惨さは避けられないが、それでも、逃がれようとする敵勢を見逃し、降伏者を受入れ、敵将の遺児を身内の者に養育させた、そういう話ならある。
 寒河江・谷地攻略のあと、民衆に向かって義光はこう語ったという。
 「近年は戦さがつづいてみな困っただろう。だが戦いは終わった。民百姓はみな安らかに暮らせ。心のどかに、妻や子をはぐくむがよい」そして、居住地を認め、老齢者や身体不自由の者をいたわって食料を給した。喜んだ人々は「義光公はまこと、民の父母ならん」と感謝したという。(『羽陽軍記』)
 「出羽守義光は、よく地下人をなつけ、家臣同様に大切しておられる。そのせいで最上の百姓共は図に乗って活気づき、進撃したわれわれ直江軍を困らせた」会津の考証史家はこう書いた。(『最上合戦記』)
 義光は晩年、重臣たちが山形城大改修を進言したのに対して、「無欲をもって民をあわれむは謀(はかりごと)の第一。城堀の普請は民の草臥になるだけ」と諭したと「羽源記」にあるが、状況から見て、これは実際にあったことと思われる。
 義光の連歌に、こんな句がある。

○おくて田は秋更くるまで守りけらし 
(晩生の稲田は、秋遅くまで手入れするのだな)

○かすかなる水もや末に分かつらん 
(炎暑。百姓たちはわずかな水も分け合うのだ)

○あぜ伝う深田の末の崩れ沿い 
(立派な水田も、豪雨で崩れてしまった。気の毒に…)

○深田をば作りもやらず荒らしおき 
(せっかくの美田を手入れもできず荒らしている。主人が病気なのか、それとも死んだのか)

 義光のまなざしは、人々の暮らしにあたたかに注がれているのだ。

■執筆:片桐繁雄「歴史館だより29/研究余滴21」より

片桐繁雄先生(長谷勘三郎/元最上義光歴史館事務局長)は令和四年二月十五日に逝去されました。先生の最上義光研究の偉大なご功績を讃えるとともに、謹んでご冥福お祈りいたします。なお、本稿は生前ご入稿いただいたものです。
「「新発見の最上義光文書について」 鈴木 勲」の画像
新発見の最上義光文書について 

 令和三年一月二十七日のこと、五十嵐義一氏が川野博資氏と共に、文書本体とその写が入った蒔絵の箱を持参して、来訪された。
 早速文書を開くと、所々に破損が見られるものの正しく義光の判物で、懇意の美術商から入手したとのことであった。
 今後の取扱いについては一任するとの五十嵐氏の意を受けて、文書について研究すると共に、取り敢えず裏打ちを施して文書の修復・保護を図ることにした。
 ちなみに、五十嵐氏は現在、西村山地域史研究会理事、朝日町文化財保護審議会長、同町教育委員として活躍され、歴史文化資史料については、極めて造詣の深い収集研究者である。川野氏はこの五十嵐氏や筆者との調査研究同人であり、頼りがいのある仲間である。
 文書についての考察の結果、義光に関する貴重な新史料であることが判明し、裏打ちも一応の見通しが立った二月二十六日(金)、山形新聞に『最古の義光「宛行状」、貴重な史料「研究に期待」、一五七二年に家臣へ、五十嵐さん(朝日)入手』との見出しで掲載されることになった。
 私たちは、この新史料を「五十嵐義一氏(朝日町玉ノ井)収集・所蔵史料、最上義光宛行状」と呼ぶことにした。
 その写真と一応の読みを示せば、下記の如くになる。



 以下、若干の考察を加えてみよう。

・紛れもない最上義光の本物で最初の宛行状であること。

・永禄十三年(一五七〇)立石寺宛最上義光願文(言上状)に続く、二通目のA型花押(武田喜八郎氏の分類『山形市史・最上氏関係史料』による)であり、A型花押を据えた義光文書は極めて少ないこと(松尾剛次氏は一一例、安部俊治氏は一二例とする)。

・元亀三年(一五七二)最上義光宛行状はこれまで一点、秋田藩家蔵文書の影写本が知られている。写としてもそれは極めて重要で、義光の家督相続段階の領国支配や家臣団形成を知るうえで欠くことのできない史料として活用されてきた。しかし現在、この写しの実物は失われたとされていること。

・これまで立石寺願文(言上状と言う人もいる)に続いてこの影写本の花押が、A型花押の典型であり自筆として扱われて、花押の変遷が論ぜられてきた。しかし、この義光宛行状が発見されたことにより、自筆か版刻か、その変化の年代、したがって支配体制の形成段階に再考を促すことになったこと。

・元亀三年に最上義光が、こうした宛行状を多数発給したに違いないことは、これまでも予想されていたが、それが実証されたこと。しかも三月十七日と同月日であり、その日に特別な意味があることも予想されるに至ったこと。

・内容は、六槲之内の、槲はかしわ又はくぬぎのことであり、現在の六椹八幡宮並びに六椹観音堂界隈にその名残を留めていること。同宮は従来旧吹張(現幸町)にあったが、山形城三の丸の拡張整備に伴い現在地(八日町二丁目)に移築されたとされている。東原は現在の東原近辺と考えられるが、東原の地名も室町以前に遡ることになった。
 このことから、戦国期の山形城は如何なるものであったか、六椹や吹張・東原の辺りは如何なる様子であったか、明らかにする必要が一層高まってきたこと。
 ただ、六椹八幡の神主八郎(神保氏)については、天正九(一五八一)義光が二五〇刈を宛行っていたことが知られている(専称寺文書)。この場合、八束で一刈とされていたが、なぜ「山辺南分之内」なのか、もう一つ明確ではない。

・六槲之内(田)一、五五〇刈に、東原畠地二〇〇(文)地を相添える。成敗致す可く候者也、とあることから、宛行われた田は約一町五反五畝、畠は約二反と一応しておく。(上杉氏は田一〇〇刈を一反、北条氏は畑一反を一五〇〜二〇〇文としていた)、問題は「相添候」である。これまでの研究では「加増」と解釈されており、家督相続以前からの家臣に、相続するに当たり加増したとされてきた。しかし、本貫の田一、五五〇刈に東原の畠地二〇〇文を添えてとも読める。そうすると加増では無く新たに家臣を召し抱えたともとれる。最上氏は、加増の場合は加増・加恩としている。

・宛所の安達藤三郎は如何なる人物か興味深い。「分限帳」に載る安達氏が、安達藤三郎につながる人物かどうかは判明しない。

■執筆:鈴木 勲(西村山地域史研究会 会長)「歴史館だより29」より

「特設展示/第三部「最上家ゆかりの古文書」」の画像
■名称
特設展示/第三部
「最上家ゆかりの古文書」
〜山形市指定有形文化財指定記念〜

■会期
令和4年10月19日(水)〜令和5年1月9日(月/祝)

■内 容
当館所蔵の義光文書を中心に、新出の義光文書と新たに文化財に指定された新収蔵資料を含む最上家ゆかりの古文書を紹介します。


■展示資料
 1.最上義光宛行状/安達籐三郎宛/元亀三年年三月十七日
◇2.最上義光公知行宛行状/卯鶴宛/天正九辛巳年九月十二日
◇附 資清書状/(高橋市兵衛宛)/享保九年三月廿九日
◇3.伊達政宗書状/山形殿宛/天正十三年閏八月二十七日
◇4.最上義光知行宛行状/鈴木九郎二郎宛/天正十三年八月廿六日
◇5.最上義光書状/伊泉大膳亮宛/天正十四年七月三日
◇6.最上義光書状/関田能登守宛/年未詳卯月(四月)廿九日
◇7.最上義光書状/新関いなは宛/年未詳五月五日
◇8.最上義光書状/宝(宝幢寺)宛/年未詳二月十四日
◇9.最上家親一字状/矢口作之丞宛/慶長十七年正月十一日
◇10.最上家親書状/本城豊前守宛/慶長十九年十二月八日
◇11.最上家親書状/護摩堂宛/年未詳五月十七日
◇12.最上家親書状/矢口作之丞宛/年未詳正月一日
◇13.最上家信書状/護摩堂宛 /年未詳八月十二日
 14.里村昌叱書状/宗澗宛/年未詳玖(九)月十日
 15.徳川家光御内書/最上源五郎宛/年未詳五月二日

◇印は山形市指定有形文化財
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