最上義光歴史館
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最上義光歴史館:[暦/] |
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最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門
【五 二つの襲撃事件】 増田と越中と異なる出身地を持つ土肥半左衛門の内、修理大夫義康と清水大蔵義親への襲撃事件に関わったのは、いずれの半左衛門なのか。大方の軍記類は「庄内大山の住人戸井半左衛門」としているが、これは明らかに越中出身の半左衛門であろう。軍記類の云う義親に味方して命を落とした半左衛門について、「是は先年丸岡にて罪なき修理大夫殿を鉄砲にて討奉りたる罰にても侍らんか」としているのは、二つの事件は共に一人の半左衛門の仕業だということになる。ここに、二人の最上の旧臣が庄内藩に提出した[覚書]がある。 [万年久左衛門覚書] 一、於添川之地高名仕候、藤田丹波可被存事、 一、最上之谷地と申所二籠城之時、はづを合せ申候、丹波可存候事、 [五十嵐甚五左衛門覚書] 一、最上修理正切腹之砌、てき一人うち申候、原美濃申候、 この[覚書]を見るように、二人は共に義康襲撃事件に関わっていたことが分かる。その証人として藤田丹波と原美濃を挙げているが、丹波の旧主は越中土肥の半左衛門の父政繁で、弓庄以来の旧臣である。また原美濃(頼秀、八左衛門)は、下次右衛門の養子の長門の伯母婿として、次右衛門と行動を共にしてきた人物である。そして谷地での戦いの後、最上の臣となり、改易の日を迎えるまで、庄内川南の代官として足跡を残している。 この[覚書]で解るように、この事件に越中土肥と深い関わりのある者達がいたことからも、こゝに登場するのは越中土肥の半左衛門であろう。 義康が義光の勘気に触れ山形を退散、高野山への道程を下次右衛門の勢力圏内にとった一行を、これを攻めた最高責任者は下次右衛門ではなかったのか。そして、その実行者として手を下したのが、半左衛門を主とする下一党の面々であった。 現今、この事件を取り上げ、興味深く描いている出版物が多く見られる。その内の一本を取り上げ、関連箇所を引用してみよう。 …この事件には義光は命を出してはおらず、里見民部や原・土肥による陰謀に下次右衛門も加わっていた。事件が発覚し義光が激怒した事を知ると、次右衛門は我が身に疑惑が降りかかることを恐れ、半左衛門を葬ろうとした。それを知った半左衛門は逃亡したが、南部盛岡城下で追手により討取られた。また原八左衛門も山形城で捕らえられ打ち首となった。 このように、半左衛門の他国への逃亡説などと、全く予想だにしなかった展開にまで発展している。原美濃にしても、先に少しは触れてはいるが、元和五年(1619)加茂村の「年貢皆済状」にも連署しており、また三年後の最上家改易後の九月、庄内の「万役(雑税)書上」にも署名している。 次の義親襲撃事件に際して、義親方に荷担し共に最期を遂げたというのは、いずれの半左衛門なのか。軍記類の多くは、家親の追及が迫った義親を清水へ逃し、最期は義親と共に殺されたとしている。そして、世間はこれが義康を攻め殺した罰であるとして、この二つの大事件は同一の土肥半左衛門の仕業と見ていることだ。 要するに多くの軍記類に登場する土肥半左衛門とは、それは同一の人間であり、越中土肥の半左衛門であると云っているのだ。そこからは、同じ時期の最上家中に複数の半左衛門がいたことは、全く見えてこない。ただ、明確に判断できるのは、慶長八年(1603)の義康襲撃事件に関わったのは、越中土肥の半左衛門だということだ。 ■執筆:小野未三 前をみる>>こちら 次をみる>>こちら |
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最上義光に仕えた二人の土肥半左衛門
【四 最上家への道程】 慶長五年(1600)九月、天下の形勢が定まり、長谷堂にて最上勢と対時していた上杉勢は、急遽、米沢へと撤退を開始する。しかし、未だ谷地にて交戦中の下次右衛門の一党が、最上側の説得を受け兵を収めたのは、しばらく後のことである。 そして、今度は下次右衛門は最上の將として、庄内に残存する上杉勢を攻めるために出陣していくことになる。この天下の趨勢が決まりつゝある時、半左衛門が越後を離れ、下氏の内に入ったのは何時の頃であったのか。[家記]は半左衛門の溝口秀勝の下での活躍振りを伝え、次いで下次右衛門を頼り越後を去っていった様子を伝えている。 …其後、下対馬(次右衛門)を頼ミて庄内へ行給ふ、是も土肥殿母方の叔父に小杉原勘斎と云あり、早く対馬に従ひ居れり、此人万ツ相談をなし半左衛門殿を招故也、其時土肥半左衛門殿并普代の家人、皆最上出羽守穀を頼行て主人とす、半左衛門殿ハ対馬居城大山の城三丸ニ居住、出羽守殿より唯今の知行五千石計のあてかひなりし也、土肥殿普代の家来相残る者供、栃屋半右衛門・上坂式部・有沢太左衛門・藤田丹波、扨ハ采女など跡先に皆羽州へ行奉公相勤るなり、其内采女にハ、越後・出羽の境目小国の城を預らる、([家記]) 越後での徳川方の掘・村上・溝口などの勢力により、上杉勢と一揆の平定を見たのは、八月の上旬のことである。とすれば、半左衛門が溝口秀勝の許を離れたのは、これ以降のことであろう。しかし、半左衛門が旧縁の下氏を頼るにしても、反上杉の立場の溝口氏に属していた半左衛門が、直ちに上杉方の下氏の許に走るとは思われず、谷地攻防戦が終り、下次右衛門が最上に降り、その将として翌年四月に始まる酒田攻めに参加する頃、半左衛門は下次右衛門の許に入ったのではなかろうか。 下氏については、上杉時代の[文禄三年定納員数目録]によると、「大山衆 千四百五拾八石」とあり、庄内三郡の代官として活躍していた。[家記]によれば、「半左衛門殿姉婿下対馬守事、本ハ越後の住人也、土肥御牢人にて御入候節、婿となし給ふ也」とあり、半左衛門が下氏との嫁が生まれたのは、土肥一党が弓庄を去り、越後の上杉氏の許に入ってからの事であろう。 上杉時代の半左衛門に関しては、上杉対最上の庄内争奪の戦いが始まる、天正十六年(1588)の十五里ケ原合戦の前後から、下氏や半左衛門とも関わりを持つ原八左衛門などと共に活躍している。この合戦が上杉方の勝利に終ると、下次右衛門は尾浦(大山)の代官として勢を振るう。半左衛門は与力組頭として丸岡在番となり、引き続き次右衛門に付随することになる。そして、慶長三年(1598)の上杉景勝の会津転封の際には、何故か景勝の許を離れて行くのである。 慶長六年(1601)四月、最上勢による上杉残存勢力の酒田攻めが始まると、先陣の下次右衛門の手勢の中に半左衛門の姿があった。[奥羽永慶軍記]には、「山北ヨリ来リシ土肥半左衛門一陣ニ進、我ヲ手本ニセヨトイフママニ……」とあるが、これを増田土肥の半左衛門とするのは無理だろう。併せて、酒田城下での戦い振りを拾ってみよう。 …其節出羽守殿ハ在江戸にて追合有之時、半左衛門殿一番に進ミ、上坂式部・下長門守・藤田丹波四人先渡にて鑓を合、大勢つつき敵餘多討取、次の日押入、二の丸まて焼払候二付、扱二成、城ヲ明渡し申候、その時、修理殿(義康)より四人に感状給候由、此咄藤田丹波覚書に有、([家記]) この[覚書]などに見るように、下次右衛門の一党となり旧主上杉の勢力と相争う、半左衛門を始めとする越後・越中出身の者達が多くいたのである。 ■執筆:小野未三 前をみる>>こちら 次をみる>>こちら |
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