最上義光歴史館
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■「おくの細道」出羽三山の話
以下、「おくの細道」の月山の鍛冶小屋の記述部分です。山形県には旧暦5月17日(新暦7月3日)に尾花沢に入り、6月27日(新暦8月12日)に温海を出ます。なので、文頭の「八日」は6月8日(新暦7月24日)のことです。また文中に「彼竜泉に剣を淬(にら)ぐとかや。干将・莫耶の昔をしたふ。」とありますがこれは、「かの中国の龍泉では(その霊水で)剣を鍛えた。(刀工夫婦の)干将・莫耶の苦労をしのぶ」というものです。 ------------------------------------------------------------------------- 八日、月山にのぼる。木綿しめ身に引かけ、宝冠に頭を包、強力と云ものに道びかれて、雲霧山気の中に、氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入かとあやしまれ、息絶身こごえて頂上に臻れば、日没て月顕る。笹を鋪、篠を枕として、臥て明るを待。日出て雲消れば、湯殿に下る。 谷の傍に鍛冶小屋と云有。此国の鍛冶、霊水を撰て、爰に潔斎して剣を打、終「月山」と銘を切て世に賞せらる。彼竜泉に剣を淬とかや。干将・莫耶の昔をしたふ。道に堪能の執あさからぬ事しられたり。 岩に腰かけてしばしやすらふほど、三尺ばかりなる桜のつぼみ半ばひらけるあり。ふり積雪の下に埋て、春を忘れぬ遅ざくらの花の心わりなし。炎天の梅花爰にかほるがごとし。 行尊僧正の歌の哀も爰に思ひ出て、猶まさりて覚ゆ。惣て、此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとヾめて記さず。坊に帰れば、阿闍梨の需に依て、三山順礼の句々短冊に書。 涼しさや ほの三か月の 羽黒山 雲の峰 いくつ崩れて 月の山 語られぬ 湯殿にぬらす 袂かな ------------------------------------------------------------------------- 芭蕉は出羽三山(羽黒山、月山、湯殿山) の三山を巡礼した後、その順に句を書き留めています。それら句の芭蕉の真筆の短冊は山形美術館に所蔵されていますが、山寺芭蕉記念館ではその複製を展示しています。 羽黒山は現世の幸せを祈る山(現在)、月山は死後の安楽と往生を祈る山(過去)、湯殿山は生まれかわりを祈る山(未来)とされ、出羽三山への参拝は、江戸時代に現在・過去・未来を巡る「生まれかわりの旅」として広がりました。 この三山を合祀する出羽三山神社の御朱印は、見開き2頁にいただく迫力あるもので、神社まで2,446段の石段を上るだけのありがたみがあります。とは言うものの、実は神社まで直接、路線バスで行けます。逆に神社からスタートして石段を下ることもできますが、体力的には楽でも、膝にきます。 ■湯殿山の話 この芭蕉の詠んだ出羽三山の句に続き、弟子の曾良も並べてられています。 「湯殿山 銭ふむ道の 泪かな」〜湯殿山の山道には、賽銭がいっぱい落ちていて、それを踏んで参拝することに涙が流れるほど感銘を受けた〜というもので、湯殿山では、地に落ちたものは拾うことを法で禁じていることによるものです。 また、中腹にある湯殿山神社は「語るなかれ」「聞くなかれ」といわれ、今も本宮は撮影禁止です。「おくの細道」にも「惣て、此山中の微細、行者の法式として他言する事を禁ず。仍て筆をとヾめて記さず。」とあります。しかしながら、今やもうネット上には、御神体の写真までアップされています。 湯殿山という名のとおり、お湯があふれ出る山が御神体で、参拝場内はそのあふれるお湯の「源泉かけ流し」状態で、夏はお湯が熱いくらいのところを、御神体まで裸足で歩きです。参拝場の出口には立派な足湯施設があるのですが、温泉マニアの方には、手前の大鳥居近くにある湯殿山参籠所の「御神湯」というものが知られています。6畳ほどの部屋に青森ヒバの浴槽があり、正面の壁に神棚があります。天照大神の妹神と言われる丹生都日女神(にぶつひめのかみ) が祀られ、神棚に手を合わせ一礼してから入湯します。 余談ですが、お湯の神様と言えば、月山の登拝道に「今神(いまがみ)温泉」という湯治場があります。1000年以上前から難病で苦しむ人々が湯治のため長期間滞在した温泉ですが、現在は休業中です。山形県戸沢村の山奥の秘湯で、生活道から4キロほど山道を進んだ場所にあり、6月から9月末までの営業に合わせて仮設の橋を架け、かつては片道3時間近くかけて歩いてきたそうです。それでも効能、いや効験あらたかで、訪れる人の後が断たなかったようです。 浴場には祭壇が備えられており、混浴で各自が白装束をまとい、念仏を唱え祝詞をあげながら入浴します。浴室の壁面にはびっしりと祈願の書付が懸垂してあり、ビジュアルだけでも圧倒されます。ぬる湯で、1回の入浴は3時間ほど、最初は1日5時間ほど入浴。3度の食事や休憩をはさみながら入浴し、だんだんと8〜10時間も湯につかり、合わせて150時間ほどになるまで滞在するとのことで、日帰り入浴はおろか1週間でもお断りしたそうです。飲泉の効果もあり、特に胃腸病や皮膚病、リウマチなどに効くとされました。このまま「伝説の湯」とならないことを祈るばかりです。 ■アブラゼミの話 「蝉の声論争」、つまり、アブラゼミとする歌人斎藤茂吉とニイニイゼミとするドイツ文学者小宮豊隆との論争については、芭蕉が訪れた時期はアブラゼミでは早い、という理由でニイニイゼミに軍配があげられたようです。しかしながら学芸員Aさんは、この時期ヒグラシの声も聞こえた年があるとして、アブラゼミの可能性はあると指摘しています。一般的に蝉の鳴き始める順は、ニイニイゼミ→アブラゼミ→ミンミンゼミ→ヒグラシ→クマゼミ→ツクツクボウシ→エゾゼミらしいです。 蝉の声論争にあえて参戦するなら、「岩にしみ入る」のは個人的に、ビジュアル的には透明な羽をもつミンミンゼミ、サウンド的にはカナカナゼミことヒグラシであればいいなとは思っています。しかしながら、山形の皮膚感覚ではアブラゼミで、とにかく身近な蝉はアブラゼミで、茂吉の感性は地元ならではとも思います。 ところで、ミンミンとかツクツクボウシとか、他の蝉は音声(羽音)なのに、なぜこれは「アブラ」なのか。もしかしてそれを食べたら、なんか油ぽかったからなのでしょうか。なんとあの「クック・パッ〇」でも蝉料理が紹介されてはいるのですが、これがまたすごい料理バリエーションとなっています。 実はその鳴き声が、油を熱した時の「ジリジリ」という音に似ていることでアブラゼミと名づけられたとのこと。ならば「ジリジリゼミ」でもよかったのではと。でもジリジリゼミでないのはきっと、この蝉が鳴く時期の油を熱したような暑さと、このアブラゼミが重なってしまったのでしょう。ちなみに山形の夏は意外に暑く、暑すぎると蝉は鳴き止み、木から落ちることもあります。 もっとも、山寺はそれなりに涼しくもあり、よろしければこの夏、蝉の声を聴きに出かけられてみてはいかがでしょうか。山形駅から山寺駅まで、電車で20分程度です。山寺芭蕉記念館の「妖怪」展もあわせていかがでしょうか。もしかしたら、学芸員Aさんとも遭遇できるかもしれません。 ■ことわざ・名言の話 学芸員Aさんは、「月山刀」でも「キヨシロー」でも、どうも「食わず嫌い」というか、「馬を水辺につれていけても、水を飲ませることはできない」という感じというか。結構なペースで居酒屋などに出没するのに、日本酒は「山形政宗」という天童の酒しか飲まず、鶏肉以外の獣肉は食べないという、どこの宗教にもないようなルールで身を律しています。まあ、お互い還暦を過ぎているため無理強いはしないのですが、たまには「清濁併せ呑む」ようなことも期待したいわけで。 さて、「好きこそものの上手なれ」と言うことわざがあります。いまや山寺芭蕉記念館の看板企画となっている妖怪展などは、まさしくこれで成し遂げられたのですが、歴史でも文学でも刀剣でも妖怪でも、好きな人にはかないません。好きなことには熱心になり、自然に工夫し勉強するようになるので、上達も非常に早くなるわけで、これがさらに論語では、「子曰、知之者不如好之者、好之者不如楽之者」(子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず)とあります。「好き」の上には「楽しい」がくるんですね。やはり大谷さんとか藤井さんとか、そんな感じがします。確か、昨年の夏の高校野球大会で優勝した某高校野球部の合言葉も「Enjoy Baseball」でした。 |
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■山寺と延暦寺の話
伊達稙宗(伊達政宗の曽祖父)が永正17年(1520)に天童を攻めてきたときに、山寺の衆徒らが伊達方に加担したことを恨んで、大永元年(1521)天童頼長・成生十郎両氏が山寺に攻撃をして灰燼に帰してしまいます。この時不滅の法燈が焼失してしまったため、天文12年(1543)立石寺の一相坊圓海は、4月に比叡山に登拝し、6月に根本中堂の燈火を分火してもらい、海上を輸送した後に立石寺に納火しました。この燈火は天正13年(1585)、信長の焼き討ちにあって焼失した比叡山根本中堂の再建時に、今度は立石寺側が登拝し逆に分燈しました。ゆえに、山形から比叡山に詣でると丁重に扱われるそうですが、もしかしたら山寺の御朱印帳がプライオリティパスのようになるかもしれません。どんなプライオリティかはよくわかりませんが。ちなみに、山寺を麓から奥の院まで巡ると、実に12か所の御朱印を頂くことができます。 焼き討ちにより山寺は「寺中家無一十余年、其間堂社破」の状況にありましたが、天文3年(1544)の立石寺日枝神社の修造などに、最上宗家だけでなく一族の総力を挙げて再興していきます。最上義光は慶長4年(1599)に、立石寺納経堂を修造しています。義光の時代の分限帳によれば、寺領1,300石が与えられています。このように最上家が山寺を崇敬し、保護するという関係は、最上家が国替えされるまで続きました。 ■鬼門の起源の話 鬼門の起源は、古代中国の説話や歴史上の情勢など諸説あります。紀元前5世紀頃、古代中国では度重なる東北地方からの異民族による侵略や殺戮に苦しめられたため、異民族を「鬼」と呼び、それらが来る方向を「鬼門」と称したという説や、「東海の度索山という地に、大なる桃の三千里に渡って曲がりくねる樹があり、その低い枝が東北に向かうを鬼門という。」と「山海経」という博物書にあるとする説などです。 ただし、この鬼門に関する記述は現存する「山海経」には含まれておらず、後漢の王允「論衝」訂鬼篇の中で引用した「山海経」にのみ存在しているとのこと。この「山海経」は、古代中国の戦国時代(紀元前403年)頃から前漢時代(紀元前206年〜8年)に徐々に加筆されて完成したもので、中国を取り巻く全方位の山河大海に住む人々や生物、その風俗や生態、そしてその地に伝わる神威や妖怪などを記録した博物書です。現在、平凡社ライブラリー(解説は水木しげる)のものが手軽に入手でき、とにかく妖怪などの図版がやたら面白い本です。 ■一般住宅の鬼門対策の話 一般住宅の家相では「三所に三備を設けず」と言われます。三所とは「鬼門、裏鬼門、宅心(家の中心部)」のことで、三備とは「玄関、台所、トイレ」のことです。つまり「鬼門・裏鬼門・宅心には、玄関・台所・トイレを設けてはいけない」ということです。 あるネット情報によると、「鬼門・裏鬼門の方角は時間帯によっては気温が上がり、冷房のないトイレは不快な空間になるでしょう。 裏鬼門の方角に台所があると、日が差し込んで食べ物が傷みやすくなります。 また、冷え込みが厳しい冬場にはトイレ・浴室などは他の部屋との温度差が大きく、いわゆる「ヒートショック現象」が起きやすくなります。」とのことです。 また、別のネット情報によると、「一般的に鬼門には正方形の部屋があるのが理想と言われています。この方角に門や玄関、窓がある場合は、東北・南西の方角からは日差しや冷たい風にさらされないよう注意しましょう。特に換気をするとき以外はすぐ閉めるのがベストです。窓には遮光カーテンがあると日差しや冷風対策になるでしょう。」ともあります。 それでは鬼門・裏鬼門に玄関・台所・トイレがある場合はどうすればよいのかと言うと、これもネット情報によると、「神社の護符を貼る。お祓いをしてもらう。盛り塩をする。トゲのある植物を置く。掃除・整理整頓も効果的と言われている。」のだそうです。 ■怪力乱神を語る話 「務民乃義、敬鬼神而遠之」は「民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく」と読み下します。これは弟子からの「知とは何か」との問いに孔子が答えたものです。ここで「民の義」とは何かということも難題で、民の正義と読んだり、臣民と読んだり、実はいろんな意訳がありますが、まずは「暮らしを善くする」というものではないかと。ちなみに「敬してこれを遠ざく」は「敬遠」という言葉の語源になっています。「知」を問うて、「敬遠」という故事成語が生まれるという、かなり斜め上な問答でもあります。 また、孔子は怪力乱神を語らなかったそうですが、これを商売にしている人もまた少なくありません。博物館業界もそうです。とりあえずは民俗学的な見地から取りあげるのですが、お客さんの大半は興味本位でやってきます。 山形県の北東(鬼門?)に位置する某県は、怪談奇談を含めた民話の宝庫で、河童だけでも商売が成り立つほどです。その県内にある某市立博物館では、昨年「呪術」をテーマとする企画展を開催し、その図録資料はたちまち売り切れ、あまりの人気に増刷までしました。また、同県の某歴史文化館の収蔵資料図録の第一号は、河童の絵巻「水虎之図」だけをまるごと収録した立派な冊子です。とにかく集客力があるのです。なんともうらやましい。 そして何を隠そう山寺にある某博物館でも、6月14日から「妖怪」展が開催されます。そもそもは修験道開祖の役行者(えんのぎょうじゃ)から辿る綱渡り的な企画展示から始まったものですが、回を重ね今や年間最大の来館者が見込める企画展となっています。 ちなみに、怪力乱神を語ると言えば稲川淳二さんですが、今年も元気に『怪談ナイト』で全国を巡るようです。予定では秋田、岩手、仙台(8月13日、怪談の日)、福島、新潟と山形県に近接するすべての県を訪れる予定ですが、なぜか山形だけが避けられています。山形も当然「怪力乱神を語らず」という孔子のような人ばかりではなく、むしろそれを飯のタネとしている人もそれなりにいるのですが。 ![]() 近日公開!! 企画展「妖怪 −“もののけ"の表現、江戸時代から現代まで−」 6月14日〜8月29日 山寺芭蕉記念館 |
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〇 アイヌ語由来の地名の話
真室川町も鮭川村も、実は明治の大合併(明治22年)以後に現れた町村名です。合併時にそこを流れる川の名称をそのまま町村名としたようです。そこで川の名称の由来ですが、鮭が遡上してくる川を「鮭川」と言うのはわかりやすいのですが、「真室川」となると見当がつきません。一説では付近の「神室(カムロ)山」がなまって「マムロ」になったとにことですが、カ行がマ行になるというのはどうかと。 もうひとつはアイヌ語源説です。特に東北の場合、由来がわからず当て字のような地名は、アイヌ語に因ってみよと。困った時のアイヌ語源説ということで、ちなみに「マムロ」というのはマ(泳ぐ→船着き場)とムロ(村)からなりたつとの説を見つけました。しかし、少々調べたのですが、ムロ(村)というアイヌ語は見当たらず、単語を見比べているうち、別の説が浮かびました。あくまでも素人考えなのですが、モム(流れる)という語とオロ(所)という語で、モムオロ(流れる所)ではないかと。ただ、川沿いの場所を「流れる所」と言うには、「鮭川」以上にそのままなので、どうしたものかなぁ、という感じではありますが。 ついでにもうひとつ。鮭川が流れ込む最上川ですが、「最上川舟歌」という民謡業界では有名な民謡があります。その冒頭は「ヨーイサノマガショ エンヤコラマカセ」と、作業歌としてごく当たり前の掛け声で始まるのですが、続く「エーエンヤーエー、ヤーエー、エーエンヤーエー、 エード」という部分(なんか区切り方がおかしいのですが)が、イスラエルの神聖なる神の名前「ヤーエー」が繰り返し連呼されているという「最上川舟歌=ヘブライ語説」がネットで流されています。「私と神、我が神、永久の神」という意味なのだとか。 ちなみにこの曲のカラオケは、結構な難易度です。このヘブライ語と言われる囃子詞(はやしことば)の後の歌い出し部分が、尺八だけとの絡みとなって、どう音をとっていいのかわからないのです。音が合せられないという点では、クィーンの「ウィ・ウィル・ロックユー」のカラオケに通じるものがあります。もちろん個人的な感想ですが。 実は「最上川舟唄」には、日本語以外にも英語版、韓国語版、中国語版の他、フランス語版があり、最上川船下りの「最上峡芭蕉ライン観光」の船内では、海外のお客さんなどからのリクエストにあわせ披露しているそうです。 フランス語版を作った時は、船頭全員が毎朝の発声練習の際に、フランス語で舟唄を歌っていたそうで、例えば歌詞中の「股(まっかん)大根の塩汁(しょっつる)煮」は、「ルポトフ、サレ、ドゥ、ラディ、デフォルメ」となっているそうです。そうか、二股大根はドゥ・ラディ・デフォルメと言うのかと。さて、パリ・オリンピックにお出かけされている皆様、現地でなにか一節という機会がありましたら、このフランス語版「最上川舟唄」でもいかがかしらん。それにしても、あの雨の中の開会式、本当にトレビアンだったけど、長かったですなぁ。 〇 鮭図の話 東京芸大美術館にある高橋由一の「鮭」は明治10年頃に作成されたもので、30年に芸大が買い入れ、所蔵したものです。山形美術館が所蔵する「鮭」は、昭和39年に秋田県湯沢市で発見され、由一が滞在していた山形県北村山郡楯岡町(現・村山市)の旅館「伊勢屋」の帳場に掲げられていたことから「伊勢屋の鮭」と呼ばれていました。笠間日動美術館が所蔵する「鮭」は、ヤンマーディーゼル創業者が所有しているとされるも幻となっていたものが、平成12年に日動美術財団へ寄贈されたものです。 製作年もこの順とみられているのですが、ちょっとミステリアス(?)なことに、年を経るごとに、鮭の身が削がれています。もし今後、新たな「鮭」が発見されることがあれば、裏側の身もなくなり骨が露わになっているかもしれません。なお、神奈川県立博物館には、頭ではなく尾から吊り下がる「鮭」図があります。 また、「鮭」の類型作品として、山形県酒田市の画家で写真師である池田亀太郎が描いた「川鱒図」というのがあります。これも3点の絵が残されていて、うち2点は酒田市美術館に収蔵されています。高橋由一は明治17年10月5日から14日までの間、酒田に滞在しました。この時、亀太郎は22歳。由一は「絵描きになりたいなら、先ず写真術を習いなさい」と助言したそうです。 亀太郎は東京に出て、写真術とクリーニングの技術を習得しました。洋画を学ぶために写真術を習得したのですが、それが本業となり、酒田港付近で池田写真館を開業しました。亀太郎は、撮影した写真を駆使して、主に酒田の名士の肖像画を描いたそうで、写真を商売敵とせず、むしろ相乗効果というか、うまく使いこなしていたようです。 〇 写実主義と印象派の話 芸美の「鮭図」が描かれたのは1877年前後ですが、あのモネの「印象・日の出」は1873年に作成されています。日本では油彩による写実に傾倒している時に、かの地ではすでに印象派が勃興していたわけです。 もともと武士であった高橋由一は、剣術修行のかたわら、狩野派の絵師に学んでおり、後に「蕃書調所」という江戸幕府によって設立された、西洋の書籍を解読し海外事情を調査する組織で学びました。その画学部門では西洋の文物を記録する人材が求められ、蒸気機関や近代的建築、武器などを分析し、戦争時には陣地、地形などをリアルにスケッチし製図していたとのこと。絵の得意な若者を集め西洋の遠近法に基づいた描写法などを学ばせたそうです。殖産興業のための近代化技術の一つとして、西洋絵画が学ばれていたのでした。 一方、印象派は、フランスの王立絵画彫刻アカデミーが当時求めていた新古典主義的な技法やテーマ、出身や経歴というものに対抗したものです。印象派はまた、写実主義やバルビゾン派の延長でもあるのですが、由一の写実と決定的に違うのは、一瞬の色彩を描いていることです。時間の移り変り変りとともに色彩も変化するということを表現したわけです。モネに言わせると「すべては千変万化する、石でさえも」ということで、一方、由一は「画ハ物形ヲ写スノミナラズ併セテ物意ヲ写得スルガ故ニ、人ヲシテ感動セシメルニ足ル」と書き残していて、さて、ここで言う「物意」とは何か、という問題にはなりますが、これが「印象」と真逆のものなのか、はたまた同根のものなのか、難しいところです。 ではなぜ「印象」と称するのか。「印象・日の出」という画題からきているのは間違いないのですが、最初の印象、見たままの新鮮さを大切にして描こうとしたのがこの印象派です。一瞬の間にあれこれの詳細まで見ることはできない。詳細を覚知するためには、経験や想像などが必要となり、脳が追いついたころには、最初の印象は消えてしまう。細部を丁寧に描写するよりも、色彩や光の印象をそのまま伝えようとしたのです。その瞬時性こそが印象派のキモなのです。 そしてこの時代、画家は写真にも影響されました。写実派の画家は当時の写真技術では写しきれないものを描画し、印象派の画家は写真と競合しない表現を求めました。例えば当時、写真はモノクロのみで、色の表現ができませんでした。高橋由一は「油絵は写真に勝る」と言い切り、よりリアルな絵を描き、印象派の画家たちはこれまでにない色彩豊かな絵を描きました。まとめると印象派の画家たちは、アカデミーの伝統に対抗し、同時に写真にも対抗しながら、感性による絵を描こうとしたのです。 写真界にもその後、「写実性」を追求する写真家と「瞬時性」を尊重する写真家が現れます。そうです、土門拳(1909〜1990)とアンリ・カルティエ=ブレッソン(1908〜2004)です。まさしく同時代の写真家で、土門拳―は山形県酒田の出身、ブレッソンはフランスの写真家です。正確には「絶対非演出の絶対スナップ」と「決定的瞬間」との日仏対決ということですが、ブレッソンの「決定的瞬間」について土門は、「本質を写し取ったものではない」と批判的に論じています。しかし「決定的瞬間」はまた「絶対非演出」でもあるわけで、すると「本質」とはなにかという「そもそも論」になってしまいます。先ほどの「物意」とは何かというのも同じです。 そこで「そもそも」ですが、写真の場合は「写実性」も「瞬時性」も両方備えているわけで、つまりは写すまでは両方ともアリという、量子力学の重ね合わせの原理のような話になってしまうのではないかと。ついでに、返す刀で言及すれば、「写実性」と「瞬時性」、つまり「微細な観察」と「瞬間の印象」のどちらが「物意」を捉えることができるかというと、そうです、やはり量子力学で言う「位置」と「速度」の関係ではないかと。「位置」が決まれば「速度」が決まらず、「速度」が決まれば「位置」が決まらない、というあれです。まあ、わかるような、わからないような例え話ではありますが。 とにかくその、「写実性」と「瞬時性」の論争というのは、同じリングの戦いではあっても猪木とアリの戦いというか(昭和の話ですみません)、いやその、ブレッソンにも土門にもそら恐ろしいくらいの論客がいて、モネにも高橋由一にも想像を絶するような論が交わされている中、にわか仕込みの私見を述べたかったわけではなく、ただ、パリ・オリンピックということで、「山形とフランス」つながりの話がしたかっただけです。まして、量子力学に首をつっこみたかったわけでもありません。 〇 写実技法の話 さてさて、絵画の技法書の中で印象深いのが、松本キミ子著「三原色の絵の具箱」(ほるぷ出版)という3冊組の本です。絵が描けない子どもに接する中で考案した指導法で、三原色と白だけで色を作り、描きはじめの一点を決め、その部分からとなり、となりへと描きすすめていくものです。構図を決めてから輪郭を描き、色を塗るという描き方と、まったく逆で、画用紙が余れば切り、足りなければ貼り足して、最後に構図を決めます。例題も「もやし」とか「イカ」とか、かなり意表をつきます。 実は三原色で色をつくろうとしても濁った色ばかりになり、下描きをせず、直接、絵の具で描くというのもかなり勇気がいるのですが、ここで注目すべきは、絵の大きさに画用紙を合わせていくということ。初心者が戸惑うのは、画用紙の大きさに絵を納めることなのだそうです。確かに画用紙の大きさに合せようとして、対象物のバランスがおかしくなったりします。例えば「はいだ画伯」こと、はいだしょうこさん。多分、これに悩んでいたのではないかと。いや、もしかして、枠などは全く意識していないのかもしれませんが。その画力というか破壊力は、皆が認めるところです。もし画伯の絵が出品されるのなら、個人的に購入を希望します。 また、写実画であれば、実物大に描くことも有効です。写実の基本でもあるのではないかと。例えば鮭図は、実寸大に合せた縦長の140.0×46.5cm。モネにも「ラ・ジャポネーズ」という、ほぼ実物大で描いている人物画があります。モネの妻カミーユが日本の着物を着た姿を描いたもので、231.5x142cmの中に全身が描かれています。特に着物の柄などは、原寸大で描けば間違いないかと。 さて、絵の評価というと、印象派以前では、「絵なのに実物のようだ」というのがその評価、少なくても写実画への評価でしたが、今や、そこに費やした時間や手間に驚嘆し、表現の仕方に感嘆するものとなっているわけで、絵がどれだけリアルかというのとは別の評価がなされている感じです。現代においては、単に立体を平面に写し取るだけであるなら、描画技術のみに頼る必要はなく、リアルを追求するのであれば、それはすなわち、どれだけ「描かれた絵」でなくなるかを求めることにもなり・・・おっ、なんか小面倒くさい美術評論のようになってしまっているぞ。 とにかく、高橋由一の目指す写実は徹底していて、その絵にはサインも制作年もなく、それはすなわち、画面のサインなどは本物らしさを減殺してしまうからだそうです。写実画の究極型はやはり「描かれた絵」でなくすることのようですが、なんか絵画の存在価値と矛盾しているような。ちなみに、スーパーリアリズムで有名な上田薫さんの作品のサインは、ダイモテープに似せたもので、作品が世に知られた当時、かなりオシャレな表現でした。あのダイモテープには、一種の憧れ感すらあるのですが、これってやっぱり昭和の感覚なんですかね。 |
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〇 狩野派四代の話
狩野元信(1477?-1559)については、実は2017年にサントリー美術館六本木開館10周年記念展として大規模な展覧会が開催されており、以下、主にその図録からの受け売りなのですが、とにかくこの人のビジネスセンスというのがすごいのです。 狩野派というのは、足利将軍家の御用絵師となった狩野正信(1434-1530)を始祖とし、親子血縁関係で代々続く絵師の集団で、幕府の仕事を受けてきた人たちです。この「家系で画業を継いでいく」ということと「幕府の仕事中心」ということが、同時代の琳派と異なる点です。 狩野家始祖の正信は「筆様制作」という、中国の名家の絵画から図様を借用し組み合わせるなどの方法で描いていました。正信は馬遠、夏蛙、牧谿、玉潤などの中国画を模倣し、画題の前には「(中国画家名)様」とその「筆様」に拠ったことも入れていました。ただし、その原画に忠実であるがため、様式的には統一感のないものとなりました。 二代目の狩野元信はこれを、真(馬遠、夏蛙)、行(牧谿)、草(玉潤)の「画体」として受注生産する仕組みを構築しました注文内容をカタログ化し、モチーフなどの図柄をパターン化、多くの絵師を抱え工房を構えて作成しました。作画をフォーマット化し、絵師も代替できる仕組みを整えたのです。主となるモチーフを大画様式で描き、それ以外は金箔や金雲で埋めることで、効率的な作成を狩野、いや、可能としました。 また、正信は中国の名家の画を倣う「漢画」の人であったのに対し、元信は土佐派が主流を担っていた「やまと絵」も取り入れ、和漢両方を使いこなすようになりました。「漢画」系の明快で力強い構図や線描と「やまと絵」系の金泥や濃彩色の和漢融合がなされ、「狩野家は是れ漢にして倭を兼ねる者なり」とも評されました。しかも、元信は土佐光信の娘を妻としており、まるで戦国武将です。当然、土佐派との交流もあったそうです。 戦国時代の武将が「切り取り勝手次第」で領土を広げ、築城していくのに伴い、障壁画や屏風画などの大画面の図画の需要も増加しました。これに狩野派は、シスマティックな態勢で臨み、四代目の永徳(1543-1590)のときに最盛期を迎えます。あの国宝「上杉本洛中洛外図屏風」のあの狩野永徳です。永徳は織田信長や豊臣秀吉に重用されましたが、47歳で亡くなります。過労死であったようです。当館学芸員はふと、「信長や秀吉の注文を断れば、首が飛ぶだろうし…」と漏らしていましたが、いずれにせよ命がけの状況ではなかったかと。 さて、初代正信、二代元信、四代永徳ときて三代目は?という話になりますが、元信には3人の男子がいて、ただ、家督を継いだのが三男の松永(1519-1593)でして、父とともに活躍したとのことです。川柳に「売り家と唐様で書く三代目」というのがありますが、父の元信は唐様に加え倭様も取り込んでおり、すると松永も「唐様」だけでもなく、もちろん家を売ることもなく、三代目も家業を継ぎ続けた、それだけでも立派ではないかと。息子はあの狩野永徳ですし。ただ、息子の方が先に亡くなっています。 ところで、ネットを見ていると、三代目は松永でなくその兄の宗信が三代目であり、四代松永、五代永徳としている例もありましたが、狩野家菩提寺の池上本門寺(東京)では、三代松永、四代永徳としてあり、それに従うのですが、驚くのがこのお寺のHPにある3Dでして、歴代の墓の配置がわかるよう墓苑が3DのCGで表され、また、墓のひとつひとつも3Dで観るためのQRコードが付いています。それにしても、墓の3Dマッピングって、なんという発想でしょうか。ちなみに京都にも、狩野派の菩提寺という妙覚寺があり、ちょっとややこしいです。 〇 唯一無比(オンリーワン)の話 薄(すすき)の屏風で触れたのですが、唯一無比というかオンリーワンというか、とにかく他に類を見ないというものについての評価は、やはり悩ましいものがあります。出所も時代も不明となればなおさらです。専門家に鑑定を依頼するという方法もあるのですが、それはタダでもないわけで、鑑定費用を要求できる材料がないと、「これ、なんかいい感じなんだけど」ぐらいでは、やはり予算措置は無理です。 実は、当館にもうひとつ、そういう物があって、それは以前、この館長日誌でも取り上げた黒織部の茶碗です。山形城跡の発掘調査で出土したもので、そういう意味では、出所も時代も特定できるのですが、箱もまして箱書きなどもなく、いつ、どこで作られ、だれが所有していたものなのか、全くわからない物なのです。 この茶碗の見所として、シンプルモダンな市松模様柄というのを掲げているのですが、織部関係の展覧会図録やらネットの画像などをざっと見渡すと、この茶碗のような市松模様だけが描かれているものは見当たらず、通常は市松模様の白地部分になんらかの絵柄や模様が入っています。つまり、この図柄の類似例がないのです。また、織部焼は登り窯で焼くのですが、普通、登り窯は複数の作者が使う共同窯で、作者や注文主を区別するために、品物には彫りつけたり押捺したりする「窯印」(かまじるし)を付けます。必ず付けるとは限らないかもしれませんが、この茶碗には見当たらない。ついでに言えば、高台がルーズな印象で、地肌の色も微妙に違う感じ(クールグレイです)。これらの違いを全て「特別なオンリーワン」である、と評価してよいのやら、悩ましい所ではあります。形とか柄とか、なんかいい感じなんですけどねぇ。 〇 奥行きがない話 狩野派にしろ、琳派にしろ、屏風画に奥行きがないというのは、どういうことで、それはなぜなのか、ということについて少々。 まず、奥行きがない、とされるのは単に、西洋画でいう「遠近法」や「明暗法」が用いられていないことによるものです。南蛮貿易によってそのような技法の絵画や版画が持ち込まれるまで、日本にはそのような技法がなく(特殊な遠近法らしきものはあったそうですが)、写生を求めた円山応挙(1733-1795)あたりから遠近法がとりいれられることになったそうです。また、「明暗法」とは、簡単に言うとハイライトや影を入れる手法で、漫画でいう「劇画タッチ」のような感じでしょうか。 また、なぜ立体的に描かれないのかということについて、とあるブログに、「芸術家が自分の主観のおもむくままに描く “アート” ではなく、建築物の一部を飾る “装飾” だったのである。(中略)要するに “家具” である。彼らは、その “家具” を造形するための「職人」としての自覚をもって制作に励んだ。」とありました。 確かに屏風は家具でありまして、もともとは風避けよけだったり、間仕切りだったりするわけですが、狩野派の絵師に屏風を頼むのに、よもや風避けだの間仕切りだのに用いる人はおらず、求める役割としてはやはり、部屋を飾り、空間を変えることであろうことは言わずもがなです。 その際、あまり立体的でリアルだと、関心が寄りすぎたり、画中に入りすぎたりしてしまい、また、作家性が強すぎると、好みが分かれたり、そのものの存在感がありすぎたりしてしまいます。家具は家具らしく、存在をアピールすることなく、しかし、空間を変える機能をもたせつつ、また、何かの自然風景をそのまま切り取ったようなものでもなく、ということに対しての家具職人としての答えが、あのグラフィカルな図柄だったのではないかと。漫画の例で言えば、「劇画タッチの図柄では、どうもなぁ」ということで、「アニメタッチのような、平たい感じがいいかも」ということでしょうか。 さて、フランスの作曲家エリック・サティの作品に「家具の音楽」というのがあります。そこにあっても日常生活をじゃませず、意識的に聴かれないようにと作られた室内楽曲です。これが初めて演奏されたのは、1920年のとある演劇の幕間の休憩時間でした。ところが演奏が鳴り始めると、観客は自分の席に戻って聞き入ろうとし、結局、大失敗に終わってしまったそうです。BGMそしてアンビエントミュージックの先駆的な作品ではありますが、実際にこの曲を聞いてみると、聞き流すにはいろいろ引っかかりもある曲です。 では、屏風をアンビエント的なものと捉えてもよいかというと、それもちょっと違うかと。「アンビエント」について調べると、「作曲家や演奏者の意図を主張したり、聴くことを強制したりせず、空気のように存在し、それを耳にした人の気持ちを開放的にすることを目的にした曲」とあり、これを「作家の意図を主張したり、観ることを強制したりせず、空気のように存在し、それを目にした人の気持ちを開放的にすることを目的にした作品」と読み替えると、意味は通じるのですが、そんな目的の屏風はやはり稀かと。そもそも、狩野派やら琳派やらの屏風を論ずるのに、アンビエントを持ち出すことに無理があるのではと。以上、奥行きがない話でした。すみません。 ところで、まったくの余談ですが、最近のゲームセンターのクレーンゲームエリアに流れているあの、ビート抜きのトランス系BGMは、なんと言うのでしょうか。メロディーらしきものが特になく、ただただ周りの騒音が消えてしまい、ゲーム機だけに意識が向いてしまう、恐ろしいBGMです。ゲーセンに最適化したサウンドスケープとでも言うべきなのか、サティもシェーファーもびっくりです。 |
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〇 ドクダミの話
猫額のようなわが家の庭にも実は、アジサイとキョウチクトウがあり、セイヨウヤマゴボウもあちこちに生えています。図らずも、そこここに毒が仕掛けられている庭になっています。 そんな庭で大量に生えてくるのがドクダミです。ドクダミという名には毒矯め (どくため) という意味があり,この「矯め」というのは「角を矯めて牛を殺す」の「矯」、矯正の「矯」ですが、毒庭にはちょうどいいかもしれません。ドクダミはとにかく繁殖力があり、初夏には白い花(正しくは花ではなく葉が変化したもの)もつき、グランドカバーとしてもなかなかなものです。雑草扱いとせず生えさせたままのほうがいいくらいのものだそうですが、独特の香りを気にする人も。しかし、ベトナムではハーブや野菜としても利用されるそうです。 ドクダミの生薬名はジュウヤク (十薬) といい,利尿薬や消炎薬となります。十薬という生薬名の由来は,馬がかかる十種の病に効果があるという言い伝えによるそうです。またこれを煎じた「どくだみ茶」には、尿作用や老廃物を体外に排出する働きがあるとされ、そのデトックス作用により体内の代謝が高まり、体のすみずみまで栄養成分が届くのだそう。体のだるさやむくみ解消が期待できるのだそうです。 自家利用のドクダミ茶ぐらいはいくらでも作れるぐらい生えてはいるのですが、何かの拍子に、アジサイの葉とかキョウチクトウとかセイヨウヤマゴボウなどが混ざる危険性もあり、慎重さに欠ける性格ゆえ遠慮しています。 〇 ジャガイモの毒の話 「自然毒のリスクプロファイル」のリストにはジャガイモ(じゃが芋)も載っています。ジャガイモの芽には毒があるため取り除く、というのは皆様ご存じとは思いますが、小学校で実習用に校内で栽培したジャガイモを食べて中毒になった、という事件が何年かおきに報道されます。 これはジャガイモの芽だけが原因ではなく、光に当たって皮がうすい黄緑や緑色になったイモの表面の部分にも有毒成分が含まれていることがあるからです。親芋で発芽しなかったイモにも有毒成分が含まれていることもあるそうで、これをもったいないからと食べてしまうと危ない。実際、家庭科の授業で、自分たちで炒めるなどし、皮付きのまま食べて中毒になった事例があります。 掘り出した新鮮なイモでも、小さいものや地中の浅い所にあったイモには有毒成分が入っていることがあり、ある事例では、市販品の数倍〜 10 倍程度の有毒成分が含まれていたそうです。この有毒成分は水に溶けやすいので、蒸す料理ではなく、ゆでる、二度ゆでするなどの調理方法をとると、中毒する確率が減るそうですが、熱によって分離はされないとのこと。中毒症状としては、嘔吐、下痢、腹痛、目眩、動悸、耳鳴、意識障害,痙攣、呼吸困難となり、ひどい時は死に至るそうで、食後おおよそ30分から半日で症状が現れるそうです。 そう言えば、かつて学校では校庭以外の敷地の片隅などに職員用の農作物を栽培していたこともありました。サツマイモや枝豆やとうもろこしなどですが、私が小学生の頃は、施設管理のための住み込みの職員がいて、またはそこに寝泊まりする当直の先生がいて、敷地を管理する傍らそういうものも作っていたようです。公民館などでも昔、敷地の片隅に枝豆などを栽培し、地元の暑気払いなどで供していたところもありました。 思い出してみると、施設の保安管理を委託することは珍しく、というか委託先がなく、住み込みも普通でした。職住近接というか、職住一体というか、昔はそこで生活もしていたのです。 学校以外でも例えば、霞城公園(山形城)の中に、かつて児童文化を担う社会教育施設があり、私が小学生の頃、そこには同級生とその家族が住んでいて、時々そこに遊びに行っていました。中庭には噴水があり、図書室、工作室、ホールがあり、ホールではピアノや卓球台がいつでも使えるようになっていて、工作室にはアマチュア無線機があり、屋外にはバトミントンができるコートもあって、その同級生はそれが身近にあり、また上手だったわけで、当時はうらやましい限りでした。そこでご飯などをごちそうになったこともあります。今、考えると、その施設に住むとなれば、また、色々と大変なこともあったとは思いますが、今や市の施設においては、住み込みどころか当直もありません。 私の父の職場も民間企業ではありましたが当直勤務があり、子どもの頃、休日にそこに連れていかれることがあったのですが、その宿直室はそのまま麻雀部屋と化してしまうわけで、煙草の煙や点棒などが行きかう中、漫画本などを見ながら過ごしたこともありました。残念ながらそういう社会勉強の機会は、今は少ないわけで、もっとも、そんな機会が必要かという話にもなりますが、まあ、セキュリティとかコンプライアンスとかそんな言葉もない時代の話ではあります。 〇 農林水産省からの注意喚起のお話 農林水産省のHPでは「知らない野草、山菜は採らない、食べない!」という注意喚起がなされています。以下、その文面です。 --------------------------------------------------------------------------- 「有毒な成分を含む植物による食中毒の危険は、山菜採りや野草摘みの際だけではありません。家庭菜園で、有毒な成分を含む観賞用植物を野菜と間違って採って食べてしまったことによる食中毒も起きています。 過去の事例として、スイセンの葉をニラやネギと、球根をニンニクと間違って食べたことによる食中毒、ヒガンバナの葉をニラと間違って食べたことによる食中毒が起きています。 ・「ニラ」と間違えやすい有毒植物 スイセン、スノーフレーク(スズランスイセン)、キツネノカミソリ、ゼフィランサス(タマスダレ)など ・「ギョウジャニンニク」と間違えやすい有毒植物 コルチカム(イヌサフラン)、スズラン、バイケイソウなど ・「ふきのとう」と間違えやすい有毒植物 ハシリドコロ、フクジュソウ(福寿草)など -------------------------------------------------------------------------- 我が家の庭に生える植物で食べられるものは、シソとミントぐらいなので、なにかと間違えて中毒になることはないとは思いますが、特にシソは一時期、これでもかというくらいに勝手に生えてきました。しかし今年はなぜかめっきり少なく、かわりにというわけでもないのですが、プランター栽培で「空心菜」を育てています。種から育てたのですが、これが短期間でどんどん育つ。ちなみにその種は、「空心菜」の名で売られていることはあまりなく「エンサイ」などの名で売られています。某中華街で食べれば、これの油炒めが一皿千円しますが、これに換算すれば、このプランターの分だけで優に1万円分以上の量が育ちました。ただこれを、元が取れたと言うべきかは、なんとも難しいところですが。 〇 「新庄の花あじさい」の話 山形新幹線の終着駅がある新庄、とりもつラーメン、くじら餅、馬刺し、かど焼のまち新庄ではありますが、「あじさいせんべい」という銘菓もあります。それは南仏プロヴァンスを彷彿とさせるチュイール風のお菓子です。チュイールとはフランス語で「瓦」や「タイル」を意味し、小麦粉や砂糖、バター、アーモンドなどをオーブンで薄く焼き上げた瓦の形をしています。「あじさいせんべい」という名前からすれば、瓦煎餅をイメージさせますが、それとは全くの別物で、新庄市の花「あじさい」をモチーフに、あじさいの花のように焼き上げた「チュイール」です。 とりわけ菓匠たかはしの元祖あじさいせんべい「新庄の花あじさい」は、甘く香ばしいパリパリのアーモンドスライスがたっぷり乗っている全国菓子博栄誉賞も受賞した菓子です。しかし、菓匠たかはしは2021年2月末に閉店。後継者を探していたのですが製法が難しく、また新型コロナの感染拡大による観光客激減も影響したとのこと。閉店時にはこれを求めるお客さんが殺到したそうです。往時は新庄みやげの定番として新庄駅にも山積みされていて、新庄駅に寄るたびに自分への土産として買っていましたが、今の駅売店には、さまざまな地元菓子店の「あじさいせんべい」が並んでいます。中には「あじさいの葉」というリーフパイもあります。 その「新庄の花あじさい」は、山形県内の銘菓としては五本の指に入るものではなかったかと思います。では、あとの四本は何か、と言うことですが、これがなかなか難しく、山形市内ならあそこのふうき豆とか、あそこのどら焼きとか、あそこのゆべしとか。一方、50年以上続く「ゴールドシャ〇ー」や「チル〇ー」もあげておきたいし、同じく50年以上続くお菓子としては「〇ップルパイ」というのが上山市にあって、上山市と言えば、江戸時代から続くあそこのまんじゅうとか、あそこのぬれやき煎とか黒こしょう煎とか、あと、もっぱらお土産用なのですが「○○ロマン」もたまに自分で食べるとおいしい。鶴岡にも「〇〇屋」とか、酒田にも「○○米菓」とか、米沢にも「〇〇菓子店」とか、銘菓の有名どころは数々あり、まあ、これはこれで別の機会にでも。 ちなみに当館でしばしば手土産に用いるのが、山形市内で江戸時代から続くお菓子屋さんの「五十七万石」という最中です。差し上げる相手が六十二万石でも百二十万石でも「五十七万石」を持参しています。 |
(C) Mogami Yoshiaki Historical Museum




一遍上人の有名な言葉に「花のことは花に問え、紫雲のことは紫雲に問え」というものがあります。弘安5年(1282年)3月、一遍と時衆の一行は鎌倉に入ろうとしたのですが武士団に制止され、「鎌倉の外ならおとがめはない」と言われ、やってきたのが片瀬の地蔵堂です。武士、庶民、高僧らが続々と片瀬に集まり、多くの人々が歌い踊ったとき、周囲に紫の雲がたなびき、天から花が舞い落ちてきました。一人が不思議に思い一遍上人に尋ねたところ、「花のことは花に問え、紫雲のことは紫雲に問え、一遍知らず」と応えます。花も紫雲も自分が何かしたものではないと。続けて「花がいろ月がひかりとながむれば こころはものをおもわざりけり」と詠んだそうです。ただただ、目の前の事象を受け止めればよいと。
地蔵堂には4カ月も滞在し、踊り念仏をしています。この時一遍は44歳。「南無阿弥陀佛」と踊りまくったのです。一遍は平安時代の高僧「空也上人」に倣い、人々が集まる場所に簡易の舞台を設け、同行者とともに輪になって歌い踊りました。踊念仏に参加すれば極楽往生できると説いたため、周囲の人々が大挙して熱狂的に踊り、舞台の床板が抜けたという記録もあるといいます。
弘安7年(1284)に京都に入ります。「紙本著色遊行上人絵」巻第三には、四条大橋を渡り念仏札を配り、市場京極の釈迦堂に入り説法をする場面が描かれています。一遍の行くところでは必ず「御賦算」、つまりお札くばりをしました。お札には「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」と刷り込まれ、一枚ずつ手ずから配ったそうです。60万人にお札を配ることを願ったものですが、25万1千余人配られました。
京都では「勢至菩薩」の生まれ変わりと噂され、藤原基長は夢に一遍が現れたことを喜び手紙を送ります。しかし一遍は、「それで仏を信じる心が生まれれば良いことだ」と言っただけでした。踊りは熱いのに、応対はクールです。
正応2年(1289)8月に兵庫観音堂で遊行を終えます。死を覚悟した一遍は、「我が化導は一期ばかり(私が指導を行うのは私が生きている間だけ)」と言い、持っていた少しの経を書写山圓教寺の僧に送った以外は焼き捨て、亡くなりました。最後に「我門弟におきては葬礼の儀式をとゝのふべからず。野に捨ててけだものにほどこすべし」と言い残したそうです。終活の手本のようでもあります。
■狩野派について
狩野派とは、室町から江戸にかけて続いた流派です。血縁関係でつながった絵師の集団で、幕府の仕事を担ってきました。足利将軍家の御用絵師となった狩野正信を始祖とし、その嫡男・狩野元信、元信の孫・狩野永徳、さらにその孫の狩野探幽らが有名です。特に桃山から江戸初期の時代に建築ブームが始まると、集団による分業制によって障壁画など大きな作品を手掛けました。襖障子や屏風など大きく貴重なものも多く、博物館スタッフの間では、狩野派ものの展示となると「ここに狩野は、可能かのぅ」といった駄洒落が飛び交うらしいです。
狩野永徳は、織田信長、豊臣秀吉といった権力者の画用を務め、安土城や大坂城の障壁画を多く描きましたが、これらは建物とともに消滅しています。現存するものとしては、国宝「唐獅子図屏風」(宮内庁) 、国宝「檜図屏風」(東京国立博物館)、国宝「洛中洛外図屏風」(上杉博物館)などがあります。信長や秀吉の生前には、他の戦国武将が狩野永徳やその後継者・長男の光信に製作を依頼することができなかったため、最上義光は永徳の弟である狩野宗秀に「紙本著色遊行上人絵」の模写を依頼したと思われます。
狩野宗秀の現存する作品は少なく、国宝もありませんが、教科書やテレビでおなじみのあの「織田信長像」(重要文化財、長興寺)があります。また、「柳図屏風」(相国寺)という六曲一隻の屏風があります。これが兄・永徳の堂々とした四曲一双の「檜図屏風」とあまりにも対照的で、柳の枝は風に流される一方、その幹は風上に向かっていくような、まるでディズニーアニメにでてきそうな感じの、そして琳派をも思わせるようなシンプルな絵柄です。織田信長像もそうですが、宗秀の絵図はなんか動かしてみたくなる、そんな作風です。
■源五郎の話
源五郎とは、最上義光の孫で第三代山形藩主である「最上家信」こと「最上源五郎義俊」のことです。
元和3年(1617)3月6日、初代山形藩主の最上義光の跡を継いだ最上家親が急逝(享年35歳)しました。義光没後わずか3年、このとき源五郎は12歳でした。その2日後の3月8日、山形城下が大火に見舞われました。光明寺の記録には「山形寺社多く焼失、当山も残らず類焼」とあります。重なる凶事に最上領内は不安に覆われ、12歳の源五郎でよいかどうか、幕府内部でも検討されましたが、家督相続は源五郎がすることを5月3日に承認しました。源五郎が、父が家康からもらい引き継いだ「家」字による「家信」を名乗るようになったのはこの頃です。
家信は程なく江戸に出て、江戸城和田倉門付近の最上邸に滞在したようです。広島藩主福島正則の改易において、福島邸を接収するなど成果をあげる一方、元和6年9月12日の「徳川実記」には、「十二日、最上源五郎義俊(=家信)は、少年放逸にて、常に淫行をほしいままにし、家臣の諫めを用いず、今日浅草川に船遊して妓女あまたのせ、みずから艪をとりて漕ぎめぐらすとて、船手方の水主(かこ/船頭)と争論し、かろうじて逃げ帰る、水主等追いかけてその邸宅に至り、ありしさまを告げて帰りしかば、この事都下紛々の説おだやかならず」とあります。
このような主君ということで家臣は離反しはじめます。重臣たちは相互に不信感をつのらせ仲間割れします。家来の多くは、義俊を藩主の座から退かせ、叔父にあたる山野辺右衛門義忠を藩主とし最上家を継がせようとしました。
ところが、家老の一人、松根備前守光広は承知しませんでした。のみならず、彼は家親の死について「毒殺の疑いあり」と幕府に訴え出ました。家親が鷹狩りの帰途の宴席でにわかに病を発し絶命したことについて、「山野辺を主にしようと考えて家親を毒殺し、また若年の義俊をすすめて酒色にふけり、国政を乱すように仕向けたのだ」と。しかし、幕府が取り調べをしたところ、松根の言い分には根拠がないことが判明。
義俊は若年無力、家老は不仲、そのような最上家に一国を預けることはできぬ。幕府は、元和8年(1622)8月18日、ついに断を下しました。「最上領、25城、57万石は収公する。代わって、近江・三河に合わせて1万石を与える。」
こうして義光が築き上げた藩体制は崩壊しました。これほど大きな大名が改易処分となった例はほかになく、全国諸大名にとって衝撃的な事件でした。しかも最上家は、徳川家康、秀忠の二代にわたって親密な関係にあったにもかかわらずです。
この年、家信は17歳。江戸の最上邸は返還させられ、元和9年8月以後「家信」の名も返し、「源五郎義俊」が呼び名となります。その栄枯盛衰について詳しくは、当館ホームページ「源五郎」で検索を。