最上義光歴史館

○ 最上義光の手紙の話
 朝鮮出兵の理由について諸説あるのは、つまりはそれを裏付ける決定的な文書がないためです。文書には主に「日誌」、「書簡」、「公文書」、「史誌・伝記」、他に「証文」や「帳簿」など、あとは「物語」や「詩歌」などがありますが、歴史研究においてまず注目されるのは日誌や書簡です。日付や作者が明確であり、書けないことは当然あるにせよ、フィクションばかりということは稀でしょう。また、日誌や書簡は人間関係も読み取ることができます。一方、史誌は公式で作成されることもありますが、戦記物となると誇張や省略、筆者の主観や伝聞も入るため、歴史研究上は二次資料扱いとなることが多く、他の資料との読み合わせが必要です。
 さて、朝鮮出兵にあたっては、その出兵拠点として現在の佐賀県唐津市・玄海町に「名護屋城」という城を築きました。大坂城に次ぐという規模で、周囲には130以上に上る諸大名の陣屋が構築され、そこには全国から20万人以上が集ったそうです。諸国大名の兵の割当は、四国・九州は1万石に付き600人、中国・紀伊は500人、五畿内は400人、近江・尾張・美濃・伊勢の四ヶ国は350人、遠江・三河・駿河・伊豆までは300人でそれより東は200人、若狭以北・能登は300人、越後・出羽は200人と定められました。また、常陸以西、四国、九州、日本海の海沿い諸国大名は、10万石に付き大船2艘を準備するように命じられました。人夫(輸卒)や水夫(水主)などの非戦闘員を含むと、名護屋での滞在が10万人、朝鮮への出征が16万〜20万人となったそうです。
 主として西日本の大名が朝鮮へ出征し、東日本の大名は肥前名護屋に駐屯。最上義光は名護屋城の在陣衆として500人、他に徳川家15,000人、上杉景勝5,000人が駐屯。伊達政宗は1,500人のところを自主的に3,000人とし朝鮮に出陣しました。九州へむかう途中、京都を出発した伊達軍のいでたちは、見物していた町の人々を驚かす派手で奇抜なものでした。足軽までもが黒塗りに金で星を描いた具足をつけ、刀の鞘は銀や朱、頭には金のとがり笠。馬上の侍たちはさらに豪華な鎧を身につけ、馬にも豹や虎の毛皮で作った馬鎧を着せていたそうです。この頃には「伊達者」と言われるようになっていたといいます。
 戦地や領地外に在留すれば、当然、領地との書簡のやり取りがなされます。朝鮮出兵時の書簡については、義光も政宗も残されているものがあり、それはまた博物館における主要展示品のひとつともなっています。朝鮮出兵に際し、義光は楽観的であり(書状には「御心易かる可く候」とあります)、政宗は意気軒高ですらあったのですが、戦況が厳しくなるにつれ、義光は嫌気がさし、政宗は疲労が伺えるものとなってきます。
 まず、義光の手紙から。文禄二(1593)年五月十八日、最上義光が家臣伊良子信濃に宛てた書状があり、その写しが仙台市立博物館(伊達家文書)にあるのですが、その複製を当館で展示しています。その主な内容はつぎのようなものです。
 蒲生氏郷に対し義光が、朝鮮出兵について尋ねたところ、「我等が渡海することはないだろう。朝鮮では豊臣軍がーヵ所に集まっていて、飯米もない。」との返事であった。文禄の役はすでに泥沼化しており、劣勢は濃厚。このような状況のもと義光は、「いのちのうちニ、いま一ともかミのつちをふミ申度候、ミつを一はいのミたく候(命あるうちに今一度、最上の土を踏みたい。水を一杯飲みたい)」とまで記したが、義光は朝鮮へ渡海せずにすんだ。しかし、家康が朝鮮への渡海を命ぜられたと聞き、義光は家康に使者を送った。すると家康から「ふしきニ出羽も我等も此度の命をミつけ候。やかてやかて国へくだり、たかをつかい候ハん事、ゆめかうつつかとよろこひ候(不思議に義光も家康も命が助かった。やがて国へ下り、鷹狩りができることは、夢かうつつか)」と返事がきて、義光も「あわれあわれ、さやうに候へかし」と記したものです。
 この手紙からわかるように、「朝鮮出兵」は実は地方大名のグループ化のきっかけともなったようです。ところが次第に、加藤清正ら前線で戦ったグループ(武断派)と、石田三成ら後方で軍政を支えていたグループ(文治派)との軋轢が鮮明となり、豊臣家はその分裂を止められないまま「関ヶ原の戦い」に突入します。

○ 伊達政宗の手紙の話
 続いて、伊達政宗の手紙のお話を。政宗は筆まめで知られ、1000通以上もの自筆の手紙が現存しています。仙台市博物館の元館長であった佐藤憲一氏が著した「伊達政宗の手紙」という本があり、1995年に新潮選書として刊行され大変話題になり、今もその復刊が望まれています。政宗の手紙に関わるエピソードのネタ本的存在となっています。
 まず、朝鮮出兵は、ぎくしゃくしていた義光と政宗との溝をなくすものでもあったことがわかる手紙があります。天正二十(1592)年六月頃に、政宗が義姫の侍女小少将に宛てた書状で、実質的には義姫に宛てた手紙です。政宗は伯父である義光を「御あにさま」と呼び、「御あにさまにはさいさいあい申候、むかしあいのわるきときのさたをたかいニかたりあい申、いろさまの事を申、いらい申候」と記し、政宗は名護屋で義光と度々会い、昔相性が悪かった時の評判を互いに語り合い、色々様々な事を言い、わだかまりを払った、と書いています。
 また、政宗の朝鮮滞在中の手紙としてよく引用されるものに、母・義姫との「国際便」というのがあります。文禄二(1593)年七月二十四日付けの書簡で、日本から朝鮮に届けられた母からの手紙に対する政宗の返書です。朝鮮と日本、海を隔てて手紙をくれたお礼を述べ、朝鮮での出来事などを詳しく知らせています。加えて母からは、手紙に添えて金三両が届けられました。長い手紙ですが、手紙にはまずこう書かれています。
 「筑紫までの便りでさえ着くかどうか心許ないというのに、高麗・唐と音にも聞こえた遠隔の地へお便りをくだされたお志、感謝申し上げます。天道も恐ろしく思われる程です。これ以前、こちらからも折にふれお手紙を差し上げましたが、遠路のことゆえ、三つに一つも届くのか心配です。」
 母が贈ってくれた金三両に応えるため、彼は母に贈る土産物を捜し回ります。しかし、「おどりたちはねあがりたづねまはり候へ共、御めづらなる物(珍しい品物)」は見つからず、いろいろ手に入れてはみたが、飛脚を使って遠路日本まで送れるような物がない。思案のあげく、朝鮮の木綿織を贈ることにしました。「日本の関東で織られる木綿織より美しいのではないかと思うのですが、比較できませんので、本当のところは判りませんが」。と書き添えています。
 そして、政宗の手紙の場合、実は追伸が注目点でもあるのですが、この手紙の追伸には朝鮮の戦況も書かれています。
「此国にては、水ちがい候ゆへ、人々しにうせ申し候事、中々申すがおろかにて候。われらはふもつづき申し候や,いまにはづらひ申さず候。あはれ此ぶんにていのちつづき、一たびおがみ申したき御事までに候。此ほか申し上げず候。かしく。(この国では、水が合わないため、多くの人々が死んでいます。私は内臓が丈夫なためか、これまで病気はしていません。どうかこのまま命永らえ、もう一度母上にお会いしたいと念願するばかりです。この他、申し上げることはございません。かしく。)」
 朝鮮出兵の兵站方法としては、海上輸送を予定していました。要所、要所で寄港し補給するもので、必要な物資は確保されていたものの、前線の進み方が早く、補給が追いつかなくなっていました。若き大将と統率困難な猛将で構成された前線は、制御が効かないままむやみに北上してしまい、兵糧が十分に調達できず餓死者が大量に出たのです。補給路も朝鮮水軍により阻まれ、明軍により食糧貯蔵庫が焼かれたりもしました。ストレスや寒さなどから伝染病が蔓延。飢餓や疾病による死亡が、戦闘よる死亡よりはるかに多くなってしまいました。それにしてもロジスティック(兵站)無視というのは日本の伝統なんでしょうか。食糧の現地調達を前提とした某軍のインパール作戦はさらにひどいものでしたが。

○ 戦果品の話
 では、中学レベルを超えたオリジナルの問題を。
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 約七万人ともいわれる捕虜として連行された朝鮮陶工により日本の陶磁器文化が花開いたため、朝鮮出兵は別名(    )と言われている。朝鮮国の陶工たちによってもたらされた(    )や(    )によって、たくさんの焼き物が作られ、それらは伊万里港から全国そしてヨーロッパ諸国に売り出されていった。
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 解答と解説です。
 最初の答えは「やきもの戦争」。これはサービス問題ですね。次の答えは「蹴(け)ろくろ」と「連房式登り窯」、難問というか窯場の近くにでも住んでいないとわかなり専門的な問題です。手回しのろくろが蹴りになることで効率的に作れるようになり、連房式つまりいくつも窯が連なることで大量に安定した焼成ができるようになりました。当時の朝鮮の陶芸技術は、朝鮮と明の国だけが保有していた最先端技術でした。そのため「捕虜の中でも、陶工をまず先に送るように」という命令が出され、朝鮮の数多くの陶工が捕虜として日本に連行され、西国の大名たちの領内で陶磁器を生産しました。鍋島焼で有名な鍋島藩では、技術流出を防ぐために陶工の領地外への移動を厳しく制限したといわれます。
 捕虜のほとんどは農民で、日本ことに西国では、農民が陣夫役などで朝鮮に駆り出されていたため、連行された朝鮮農民は奴隷として農耕を強制されました。日本からの人買い商人が朝鮮人の首に縄をかけて引き立てていく光景も見られたそうです。朝鮮人の死者と捕虜の数は日本人とは比較にならない程多かったとのことです。
 なお、伊万里焼というのは、伊万里という窯場があるのではなく、陶磁器の積出港である「伊万里津」に由来するものです。
最後に、試験にはまず出ないであろうオリジナルの問題を。
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 戦国時代には戦闘地域の住人を拉致して売り飛ばす(   )という行為が一般的に行われていた。また、戦闘の手柄を示すものとして、敵軍の首のかわりに(   )切りや(   )切りが行なわれた。秀吉は「集めたものが枡一升分になった者から住人の生け捕りを認める。」とし、秀吉から派遣された軍目付(いくさめつけ)が諸大名からそれを受け取り、「( )状」を出した。
 朝鮮人に対し日本の武将たちは競ってこれを行なった。それは相手が戦闘員のみに限らず、非戦闘員の女性たちにも行われていた。切り取ったものは(  )にして樽に詰め、秀吉のもとに送られた。数千から万をこえる数が、海をわたって秀吉のもとに送り届けられた。
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 それでは解答と解説です。
 最初の答えは「人取り」です。そして切ったのは「耳」や「鼻」です。これを升いっぱいにすると人取りを公認しました。軍目付は「鼻請取状」を出し、切り取った耳鼻は「塩漬け」にして送られました。
 戦国時代において、恩賞の基準となったのが討ち取った首の数です。敵の大将クラスは首で検分しましたが、足軽など身分の低いものは鼻や耳でその数を確認していました。討った敵兵の首は腰に下げましたが、それが多いときには上唇の部分を切り取り運びました。上唇にある髭の剃り跡で、成人した男であることがわかります。
 戦果の首は塩漬けにされ、塩のかわりに酢や高級な武将の場合はアルコール漬けつまり酒に漬けることもあったそうです。朝鮮出兵では、軍目付が諸大名ごとに鼻の数を点検して請取状を出し、諸大名は鼻切りをした家臣に請取状を出して鼻切りを競わせました。加藤清正などは、家臣1人につき鼻3つを割り当てたそうです。
 秀吉は、朝鮮出兵で集められた耳や鼻を京都の方広寺大仏の西に埋め、塚を築き、「慈悲」を天下に示そうと五山の僧侶400人を集め供養しました。高さ約7mの塚の上に五輪塔が据えられています。当初、「鼻塚」とよばれていましたが,現在は「耳塚」とよばれており、京都国立博物館の北西に耳塚公園というのがあり、その西隣にこの耳塚があります。
 二度目の朝鮮出兵中、慶長三年八月一八日に秀吉は亡くなります。その死は秘匿され、日本側はこれを機に朝鮮半島から撤兵します。朝鮮出兵は日本にとって多くの戦費と兵力を費やし,大名や民衆の負担も大きく,豊臣政権が没落する原因のひとつとなりました。また、朝鮮も農民を失ったことで田畑が荒れ飢饉となり、明も国力がそがれ清となり、どの国も損害ばかりの戦でした。

〇 虎と馬と梅の話
 さて、加藤清正は「虎退治」で有名ですが、朝鮮で仕留めた虎の肉を塩漬けにして秀吉に送りました。虎の肉は補薬(ほやく:精力増強の薬)として珍重され、秀吉は健康になる薬として、見ることよりも食べることを重視していました。また、「虎の脳みそ」が長寿には一番効くとして、歳をとってからの息子・秀頼のため、秀吉が長生きするようにと送ったそうです。しかも秀吉は、武将たちに虎を狩るよう命令したため、武将たちはこぞって虎を狩り、肉や頭を送りました。しかし、あまりの量にさすがの秀吉も「しばらく虎は不要」とお達しを出したと言います。
 また、加藤清正は肥後熊本の藩主ですが、熊本に馬肉の食文化が根付いたのは、この朝鮮出兵の頃と言われています。当時、朝鮮に渡った日本軍は、食糧不足に陥りました。とりわけ蔚山城(いさんじょう: ウルサンソン)など現地の築城とそこでの戦いをめぐっては、兵糧と水不足になやまされ、資材を運んで不要になった牛馬は皮をはがれて食用となりました。加藤清正は帰国後、馬刺しを好んで食べ、また、熊本では馬は古くから農耕や輸送に使われ、余剰の馬は食用にしていたことから、馬肉を食べる習慣が生まれたといわれます。
 つまりは、秀吉が虎肉を食べていた時、現地では馬肉を食べていたということで、トラとウマでトラウマというか、とにかく、朝鮮出兵でもたらされたものは、陶工と耳鼻や虎肉の塩漬けそして馬食文化だったわけです。
 さて、そんな朝鮮出兵において伊達政宗は、母には朝鮮木綿を送り、領地には梅ノ木を持ち帰ります。地面に伸びる幹が、まるで龍が這っているような様から臥龍梅(がりゅうばい)と呼ばれます。臥龍梅は政宗の隠居城(若林城)の庭に植えられますが、現在は宮城刑務所になっているため一般には非公開です。また、政宗の菩提寺である松島の瑞巌寺にも、持ち帰った臥龍梅が植えられています。やはり政宗は伊達です。
〇 国宝茶碗の話
 楽茶碗には一般的に黒楽と赤楽がありますが、白楽というのもあります。白楽は楽家代々の茶碗にもあるのですが、白楽で最も有名なのが、「楽焼白片身変茶碗」、銘「不二山」という本阿弥光悦作の国宝です。現在、国宝指定の茶碗は8点しかなく、うち和物は2点のみ。そのもう1点は銘「卯花墻(うのはながき)」という作者不詳の志野茶碗です。
 三井記念美術館が所蔵する「卯花墻」は案外目にする機会が多く、フルーツパフェなどを食べたついでに観れたりするのですが、諏訪湖畔にあるサンリツ服部美術館所蔵の「不二山」は門外不出で、国宝ゆえ展示期間も限られるため(これは「卯花墻」も同じですが)、機会を合わせるのが大変です。ただ、美術館へのアクセスは容易であり、平日であれば結構空いていて、じっくり鑑賞することができます。
 この茶碗のすごいところは、茶碗本体のみならず、共箱の「蓋」と茶碗を包む「裂(きれ)」も国宝(附指定)であることです。美術館で展示される場合はこれらも一緒に展示されます。蓋には光悦自筆の「不二山大虚庵」の銘と印があり、裂(紫羽二重地松竹瀧人物金糸刺繡)には、光悦の娘が嫁ぐ際に本茶碗を振袖に包んで持参した、との逸話があります。この茶碗は二重にも三重にも箱に収められており、かつてサンリツ服部美術館で「箱は語る」と題し茶道具の箱を中心とした展覧会を開催した折、それらの箱も見ることができました。
 この「不二山」は、白楽とは言え下半分は黒く、意図してこうしたのか、全てを白くするつもりがこうなってしまったのか、議論が分かれるところではありますが、とにかく和物の国宝はこれを含め2点のみです。刀剣の国宝指定は122件もあるのに、とは思いますが、なぜ少ないのかは、やはり謎のようです。

〇 練上手の話
 さて、楽焼とは対照的な日本特有の技法に「練上」というのがあります。海外では「Neriage」と表記します。色の違う粘土、これは元から違う色の粘土だったり顔料を混ぜ込んだ粘土だったりしますが、それを複数組み合わせて模様とするもので、色違いの粘土の薄板をミルフィーユのように重ねて切ったものや、金太郎飴のように絵柄が出るように丸めたものを切って並べ板状にしたものなど、それらの断面模様を活かし、作品を作ります。粘土を組み合わせる際には隙間をつくらないようにするとか、切り出した板の模様が崩れないように成型するとか、特有の技術が求められます。また、色違いの粘土を混ぜてマーブル状の柄にすることもあり、轆轤成型などでよくみかけます。これも粘土が混ざりすぎて柄が消えないような技術力を要します。
 「練上(ねりあげ)」のほかに「練込(ねりこみ)」と言うことがありますが、某「やきもの事典」によると同じとのことです。「揉込(もみこみ)」とも言うそうです。
 練上は、ただ切って形を揃えるだけの銘々皿であれば大量生産できるのですが、マグカップなどはつなぎ目が崩れないように貼り合わせるのが難しく、大きめの花瓶などは型を作ってその上に貼り付けるように成型する型作りの技法を用いたりします。面が凸凹にならないようにすることが肝心で、板が薄ければ薄いほど高度な細工となります。
 山形ゆかりの練上手の作家に、東北芸術工科大学の学長ともなられた會田雄亮さんがいます。かつて「違いがわかる男」として某インスタントコーヒーのCMに出ていた人です。公共施設の大モニュメントや陶壁から日常使いできる花器やカップまで製作されていましたが、市販されていたコーヒーカップセットなどは、薄造りの細工でしたが値段的には手頃で、山形市内では容易に購入できました。なので、いつでも買えるかもと思っていたところ、今となっては入手困難であり、もとより作家物のコーヒーカップなどを買うこともない自分は、やはり違いがわかる男ではなく、すみません。

〇 守破離の話
 15代楽吉左エ門の作品図録に本人の「守破離の彼方へ」と題した文章があります。ここには、千利休の教えを和歌の形式にまとめた「利休道歌」の最後にある、「規矩作法 守り尽くして破るとも 離るるとても本を忘るな」という句を引き合いに、つぎのように綴っています。
 「私は世に言う『伝統』にも『現代』にも与するつもりはない。それらの決めつけを強い意志で拒否したい。『守』はまさに私自身を形作っている膨大な過去からの時間と認識の総体、歴史の集積ともいえる。それを認めながら同時にそれに抗している自分がいる。規定され、規定する自分とそれに抗している自分がいる。規定され、規定する私とそれを超えようと逸脱する私。永遠に繰り返される葛藤と自己矛盾。」15代の作品は、まさにそれを体現している感じです。
 そして、「長次郎が400年前、ただ黒々とした一椀の楽茶碗をもってすべてを裁断、深々と沼淵に我々を落とし込んだ、あの研ぎ澄ませた刃の一撃のように、あの静かな、あまりにも静かな世界の底に激しく負わせたもの。言語を超えてゆくこと。『本』はそのことを意味する。」とあります。
 蛇足ながら「規矩作法 守り尽くして破るとも 離るるとても本を忘るな」という句を説明しますと、規矩(きく)とは規範のことで、その伝統の型をまずは徹底的に「守」り、それを自ら「破」り、型や師から「離」れて自分の型を確立しても、「本」つまり本質的なことを忘れるなという意味です。
 これについて15代は、「守りたくもあり同時に離れたくもあるのが、人の心の常」「『保守』と『革新』はあらゆる諸相において常に生じている。『守・破』の二項から立ち上がる『離』はそれを超越しようとする境地である」が、しかし「『離』は揺れ動く私自身の意思、だんじて超越の境地ではない」と語っています。「私は時に右にまた左に、振り子のように大きく振れながら波形を描き歩いている。それが命というものの状態である」前後どちらに進んでいるか知りようもない、とも。
 「守・破・離」は、そのままでは一方向への進化となってしまいますが、15代はいわゆる「正・反・合」のアウフヘーベン的な捉え方をしており、それは単なる昇華でもないようで、15代は、「守」は時軸の流れであり、「破」は時の裁断ともいえる。「離」は規定や認識という言語を超えようとすることであり、超えていくことが「本」である、とも言っています。なんか私では手に余る次元の話となってしまいましたが、東京芸術大学彫刻科卒業直後、イタリア・ローマに2年間留学しており、若い時から常に思索し、何かと闘ってきたのであろうことは想像できます。
 ネットで調べたところ、この7月にロンドンで個展を開催していました。音楽とのコラボレーションということで、「Homage to Alban Berg and Toru Takemitsu(アルバン・ベルグと武満徹を讃えて)」というタイトルがついています。彼らの音楽に影響を受け制作したもので、ベルグはBlack Rock、武満はWhite Rock、と呼ばれる茶碗で表現したそうです。特に武満を表現した白地にカラフルな色彩をまとった作品は、まるでミロの版画を思わせるような茶碗で、人気沸騰間違いなしかと。個人的にも買えるものなら買いたいところです。
 さてここで、ベルグや武満徹について、その蘊蓄やら個人的な思い出やらも語りたいところではありますが、そんな紙面もなく、第一こんな話題に誰もつきあってくれそうにもないので、ここは「Homage to Raku Kichizaemon XV Jikinyu (15代楽吉左エ門直入讃)」ということでとどめましょう。

〇 利休道歌(利休百首)のお話
 せっかく「利休道歌」がでてきたので、ここで簡単にその内容でも。これは千利休の教えとして、茶道の精神、点前作法の心得などを、初心者にもわかりやすく憶えやすいよう歌にして百首にまとめたもので「利休百首」とも言われます。全てが必ずしも利休の作とは限らず、一般的には、裏千家11代玄々斎がまとめた「利休居士教諭百首詠」に、利休の作と推測されるものの2首が加わったものとのこと。茶道をされる方は、必ず目にしたものではないかと思いますが、その中からいくつか。
 まずは、心構えに関する歌から。
▽ その道に入らんと思ふ心こそ 我身ながらの師匠なりけれ
(それをやろうという自分の気持ちこそが自分の師匠である)
▽ 上手にはすきと器用と功積むと 此の三つそろふ人ぞ能(よ)く知る
(上達するには、好きで、器用で、コツコツと努力する、この3つが大事)
▽ 点前には強みばかりを思ふなよ 強きは弱く軽く重かれ
(点前では、力を入れ過ぎず、強いものは弱く、軽いものは重く扱って)
▽ 習ひをばちりあくたぞと思へかし 書物は反古(ほご)腰張にせよ
(教えてもらったことはゴミだと思い 稽古帳は修繕などへのリサイクルに)
▽ 稽古とは一より習ひ十を知り 十よりかへるもとのその一
(稽古とは、全てを知って、そこからまた最初に立ち返りましょう)
▽ 名物の茶碗出でたる茶の湯には 少し心得かはるとぞ知れ
(名物の茶碗が使われた茶会は ちょっと特別な作法が必要)
▽ 余所などへ花をおくらば その花は開きすぎしはやらぬものなり
(自宅などに咲く花を贈るときは 咲ききっているものをやってはいけません)
手前作法の技術としては、
▽ 何にても置付けかへる手離れは 恋しき人に別るゝと知れ
(なんでも物を置く時は 恋しき人との別れ際のように名残惜しそうにしましょう)
▽ 茶入また茶筅のかねをよくも知れ 跡に残せる道具目当に
(お点前中の道具の位置は 動いていない他の道具を目印にしましょう)
▽ 茶入れより茶掬(すく)ふには 心得て初中後(しょちゅうご)すくへそれが秘事なり(茶入から茶を掬う時は 序・破・急を意識するのがコツ)
▽ 茶を振るは手先をふると思ふなよ 臂(ひじ)よりふれよそれが秘事なり
(茶筅は手先で振ろうとせず 肘から振るのがコツ)
▽ 右の手を扱ふ時はわが心 左の方にありと知るべし
(右の手を動かしている時は、左手を意識しましょう)
次に、道具の扱いとしては、
▽ 筒茶碗深き底よりひき上り 重ねて内へ手をやらぬもの
(筒茶碗を拭く時は、拭いた部分を手で触れないよう、まず底を拭き 後で口縁を拭きましょう)
▽ 水と湯と茶巾茶筅に箸楊枝 柄杓と心あたらしきよし
(客を迎える前に 消耗品は新しく、心も新しくしましょう)
寸法については、こんなことを歌に。
▽ 茶巾をば 長み布幅一尺に 横は五寸のかね尺としれ
(茶巾の寸法は 長さ約30cm 幅約15cm の曲尺と知っておきましょう)
▽ 掛物の釘打つならば 大輪(おおわ)より九分下げて打て釘も九分なり
(軸竹釘を打つ場所は 天井の回り縁より約27mm下に 出る釘の長さも約27mmで)
▽  花入の折釘打つは 地敷居より三尺三寸五分余もあり
(床の壁に打つ無双釘(中釘)は 地敷居より約1mくらいの高さに打ちましょう)
▽ 掛物をかけて置くには 壁付を三四分すかしおくことゝきく
(壁や掛物を傷めないように 掛物は壁から1cmほど離すように掛けましょう)
その他、茶入れには7句、炭の扱いには9句もあてています。
▽ 炭置くはたとひ習ひに背くとも 湯のよくたぎる炭は炭なり
(炭手前で悪いとされる炭の置き方でも よく湯が湧く置き方こそがよい置き方) 
▽ 炭置くも習ひばかりにかかはりて 湯のたぎらざる炭は消え炭
(習ったことばかりに固執して 湯が沸かないのは本末転倒で炭が無いのと同じこと)
また、道具より気持ちが大事とも言っています。




▽ 品じなの釜によりての名は多し 釜の総名鑵子(かんす)とぞ言ふ
(いろんな名のある釜ですが つまるところただの鑵子=釜です)
▽ 茶はさびて心はあつくもてなせよ 道具はいつも有合(ありあひ)にせよ
(質素でも気持ちをこめたもてなしを 道具はいつも有り合わせのもので)
▽ 釜一つあれば茶の湯はなるものを 数の道具を持つは愚な
(釜一つで茶の湯はできるのに、いろんな道具をもつのは愚ですよ)
▽ 数多くある道具を押しかくし 無きがまねする人も愚な
(いろんな道具を待っていることを隠して 活用しないのも愚かですよ)
▽ 茶の湯とはただ湯をわかし茶をたてて のむばかりなる事と知るべし
(茶の湯とは、ただ湯をわかして茶をたてて、飲むだけのことと知りましょう)
 とは言え、茶会となれば、茶碗ひとつ、掛軸、着物、庭木の一本一本までにツッコミが入るわけで、立ち寄りがたい際限なき世界ではあります。
〇 クリスマスカードの話
 今年の暮れはクリスマス大寒波で、山形市内にもそこそこの雪が降り、当館前の公園には、雪の重みで折れた桜の小枝などが地面のあちこちに転がっていました。文字通りホワイトクリスマスだったわけですが、戦国時代を取り入れたクリスマスカードを作るとしたら、どんなメッセージがいいかという話になり、当館学芸員からでてきたのが「厭離穢土欣求浄土」という文言です。
 国際情勢からすれば、まさしくこのとおりではありまして、ネット上でも第三次世界大戦はすでに始まっているという記事が、Fという経済誌(毎年の世界長者番付の記事で有名な某誌)にでていました。その寄稿者のBryce Hoffmanさんは、
 「今起きている一連の紛争は、一見するとそれぞれ別個の紛争に見えるかもしれないが、単一の包括的な世界規模の紛争の構成要素と認めるべき性質をいくつか共有している。具体的には、大国が直接または代理勢力を通じて関与していること、政治的・経済的・イデオロギー的な目的が複雑に絡み合っていること、ひとつの紛争が他の紛争に芋づる式に影響を及ぼし、不安定化の連鎖を引き起こしていることなどである。
 こうした相互に関連した危機は、第一次・第二次世界大戦の初期とよく似ており、局地的な紛争と世界規模の紛争の境界を侵食して、支配と生存をかけたより広範な闘争へと国家や同盟国を引きずり込んでいく。これこそ、個々の戦い以上に世界大戦を定義づけるものだ。」と、指摘していて、
 「紛争の性質と規模がますますグローバル化しているとはいえ、この第三次世界大戦は、前世紀の2つの世界大戦とは大きく異なるものになるだろう。かつてカール・フォン・クラウゼヴィッツが『戦争論』に記したように「どの時代にも、その時代特有の戦争、特有の制約条件、特有の奇妙な先入観がある」のである。」と言っています。
 この特有のものとは今日の場合、皆様お気付きのとおり、情報戦のことかと思います。前線では塹壕を掘って火器でドンパチという状況は変わらないものの、衛星回線(そう、あのマスクさんが関わる衛星)やドローン映像・操作などの情報通信が戦を決する状況となっています。北の国の兵士がいくら体を鍛え痛みに耐えられるとしても、その時代特有の戦争に応じたものでなければ、かつての某国の、史上最大の戦艦が戦闘機に沈められ、竹鎗三百萬本で大型爆撃機に立ち向かおうとしたようなものです。そして、「特有の奇妙な先入観」をつくるのはきっとSNSなどではないかと。ただ、F誌は経済誌だけあって、第三次世界大戦なので経営者は心せよ、という論説にはなっています。
 なんかあらぬ方向に話がとんでしまいましたが、その、クリスマスカードのメッセージをどうするのかという話でして、そもそもは「世界人類が平和でありますように」という文言から、戦国時代ならばそれは「厭離穢土欣求浄土」ではないか、という話になったものです。それにしても、キリスト教の行事に仏教の教えを持ち込むという、平和と言っちゃ平和な話ではあります。


↑今年のクリスマス前後の歴史館界隈(←流行語のようですが)の写真です。



〇 某GTPの話
 某館の学芸員が愛読する「〇―」の1月号は、さすが新年号だけあって昨今のネタ総ざらいといった感じで、私も実は思わず買ってしまったのですが、そこに「アンパンマンはイエスキリストだった」という記事がありました。あ〜、ついにこんなことまで、と思いつつ読み進めると、意外にも辻褄が合っていて、納得させられるものがありました。
 聖書では、イエスが食卓でパンを取り,それを裂き,これは私の体であると言って弟子たちに分け与える話があります(マタイ26)。アンパンマンも「さあ僕の顔をお食べ」と言って自分の体の一部であるパンを分け与えることから、そのような記事となったようです。この話、実はこの雑誌が唐突にぶちあげた話でもなく、作者のやなせたかしさんはクリスチャンであり、特に全国のミッション系学校の礼拝では、アンパンマンのモデルはイエス・キリストである、という説話がなされているようです。
 これから、それでは三位一体、つまり父や聖霊は、どのキャラクターになるのだという話になり、父は「ジャムおじさん」が、聖霊は「めいけんチーズ」があてはまるのでは、ということになりました。ちなみにアンパンマンワールドでは、ジャムおじさんもめいけんチーズも「妖精」となっています。無理を承知であてはめれば、バタコさんはマグダラのマリアか。一方、ネット情報では、めいけんチーズはバイキンマンの手先である、という説もありました。それでは、裏切者のユダはどうなのだと、「アンパンマン 裏切者」で検索したところ、カバオくんという説が出てきました。あっ、そうなのかと。いやいや、こんな論陣を張ったところで、世の中の役に立つわけでもないのですが。
 ちなみに某GTPを利用し、「アンパンマンはイエスキリストだった」というイラストを求めたところ、「宗教的な人物の描写には宗教的な感受性が伴います。このテーマを元にしたイラストを生成することは、慎重に考慮するべきです。」という、神の声のような答えが返ってきました。
 さらに話題は、「ドラえもんは弥勒菩薩である」という説にまで発展しました。弥勒菩薩は、釈迦仏が入滅した後、約56億7千万年後に地上に現れれる「未来仏」です。一方、ドラえもんの誕生日は2112年9月3日ということで、まあまあの未来からの使者です。どちらも衆生を救うことで一致しているわけで、調べてみるとネットにこの説が既にあがっており、そこでまたもや某GTPに「ドラえもんは弥勒菩薩である」というイラストを求めたところ、「画像の生成に問題があったようです。もう一度試すか、説明を調整してください。」と、しかも英語で返ってきました。やはり罰当たりなリクエストだったようです。
 いずれも無料で試した結果なので、某GTPによる画像生成はできないのですが、画像生成をリクエストするのには月額3千円 が必要で、さらに何でも答えてくれる(?)pro仕様は月額3万円とのことですが、当館においては当然そんな予算もなく、無料お試しで画像生成を求めた場合は、文書でそのイメージを返してくれます。
 それで、「最上義光と義姫のイラスト」というのをリクエストしたところ、文書のみですがかなり丁寧な描写が返ってきました。ただ、ちょっと見過ごすことができない記述がありました。まず、義光を「よしみつ」と、その読みをわざわざ表示していました。これはまあ、アルアルではありますが、もう一つ、何の情報から得られたのか不明なのが、「義姫は義光の妻」であるとの説明。義姫は義光の妹で伊達政宗の母なのですが、恐らくは義光と同じ義の字からの連想で、義光姫=義姫とでもなったのでしょうか。AIの限界と言うべきか、当方の知名度の問題と言うべきか、まあ、そんな状況ではあります。
 AIが仕事を奪う、ということがしきりに言われていますが、一方ではAIをチェックするのはやはり人が行うべきで、それには高度な知識経験が求められる、という説もあります。別に「義光はよしあきと読む」とか「義姫は最上義光の妹」とかは、高度でもなんでもないのですが、それでも誰でも知っていることでもないため、あえなくスルーしてしまうレベルなのかもしれません。義光を「よしみつ」と読むのはごく常識的ではありますが、最上義光とした場合は「よしあき」と読む、AIにそれができるようになるまでは、今のこの仕事はまだ安泰かもしれない、ということではあります。
 そしてまた、「世界人類が平和でありますように」から「厭離穢土欣求浄土」を発想するということも、AIにはなかなか難儀なことかと。こうしたところに人が入りこむ隙間はまだまだあるようです。

〇 ファクトチェックの話
 このSNS隆盛の社会で、なによりもまず求められるのがファクトチェック(事実確認)です。例えば「アンパンマンはイエス・キリストだった」という話は、本当にやなせたかしさんがこれを意識してキャラクターを設定したかもしれず、また、少なからぬミッションスクールで語られる話となれば、ファクトチェックが求められるところですが、先ほどの「カバオくんはユダ」という話は、さすがにファクトチェック以前のことでしょう。一方、これが「イエス・キリストはアンパンマンだった」という話になってしまうと、もうこれはAIの言うとおり、慎重に考慮すべき問題として扱わなければなくなるかもしれません。
 ファクトチェックのためのAIというのも恐らくあるとは思いますが、ディープラーニングに用いた資料が同類であれば、そのチェックにも限界がありそうで、そこで重要になるのは人の多様性であったりします。まあ、平たく言えば、金子みすゞさんの「みんなちがってみんないい」というか、相田みつをさんの「他人のものさし 自分のものさし それぞれ寸法がちがうんだな」というか、そういうものが大事になるようでして。
 そこで思い出したのが、映画「ブレードランナー」に出てくるレプリカント(アンドロイド)を見分けるシーンです。いろいろな質問をして感情反応があるかどうかで見分ける、フォークト=カンプフ検査というのだそうですが、その質問には動物に関係するものが多いと、原作の「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」にあります。
 例えば、それが食べられるかどうかを質問するわけで、牡蠣の生食はいいとして、ホヤやナマコはどうかとか、ウサギやハトは食べてもイヌやヘビはどうかとか。イナゴは食べても鈴虫は食べないとか。ご承知のとおり、特に食文化というのは多様でして、理屈では食べられても、感情的には人それぞれで、このあたりがAIの課題になろうかと。つまり文化的な背景とか常識とかをどうするかという、ここに人が介在する必要性がでてくるわけです。
 もうひとつ、なりすましとかディープフェイクとかの問題があります。それらについては、既に多くのメディアなどで問題が指摘されていて、なにもここで素人の私が云々する必要もないのですが、最近こんなことがありました。
 当館の企画展「シン・市民の宝モノ2025」にむけ出品を受け付けている最中の話ですが、陶磁器製の最上義光像があるとして持ち込んだ方がいて、荷ほどきをすると、正に「山形県史談」にある最上義光の図とそっくりの像が現れ、おおっ、どこでこんなものを作っているのだ、と皆で眺めていたのですが、当館学芸員が、「あ〜これ、加藤清正だ」と指摘。その理由は、「虎の敷物に乗っている」とのことで、多分、武者人形のようなものではないのか、ということで落ち着きました。なんか、武将ものは、髭を付けるとみんな同じ感じになるようで、ただ、虎の毛皮ならば加藤清正の持物という、宗教画のような判別ができるわけです。別にこれはなりすましとかディープフェイクとかではないのですが、ファクトチェックの一例のようなものかと。


「山形県史談」最上義光像 
来年もよろしくお願いします。





■ 博物館への寄附の話
 とにかくこうしたイベントの予算の話となると、最近はクラウドファンデングが当たり前になっていて、イベントどころか維持補修までクラウドファンデングでという恐ろしいことになっています。なんでもかんでもクラウドファンデングでというのもいかがなものかとは思いますが。
 とは言うものの、これまでも当館でも様々な寄附・寄贈をいただいており、実際、新たな収蔵品やイベントは寄贈・寄附に頼らざるを得ない状況です。昔から欧米では、博物館運営は寄附文化により支えられていて、しかしながらそれだけでは館の維持費もままならず、特に空調関係は常に工事中(というか故障中)の館も少なくなかったような気がします。かつて大英博物館は入場料無料で、かわりに入口に大きな透明の募金箱が据え付けられ、ポンド以外の貨幣なども混ざったりしていました。米国の美術館では寄附を募る専任の職員をおき、某セントラルパーク脇にある美術館では館内貸切りのパーティーを催したりしてスポンサーを獲得しているそうです。寄附する側も自分の名が博物館に刻まれることを誇りとし、コレクションばかりか、自分の名を冠した展示室一棟をまるっと寄付していたりもします。日本でも建物の一室に寄附者の表札を飾ったりしていますが、ちょっとスケールが違う感じです。
 スケールが違うと言えば、やはり某セントラルパーク脇にある自然史博物館では、通常その手の博物館の目玉展示は恐竜で、ここにも立派な恐竜骨格の展示はあるのですが、実はもうひとつ目玉展示品があり、それは鉱物というか宝石やその原石で、半端でない大きさのものがゴロゴロと並び、少なからぬ数の寄附品がありました。山形県立博物館にも入口付近にかなり大きい紫水晶の原石がゴロっと展示してあり、山形にお住まいだった方からの寄附なのですが、やはり長らく米国の有名大学の教授をされていた方のものでした。

■戦時中の標語の話
 「足らぬ 足らぬは 工夫が足らぬ」というのは、太平洋戦争の開戦翌年の1942年に、国が大手新聞社とともに標語の募集を行い、「10の国民決意の標語」として選ばれたもののひとつだそうです。
わずか4日間で約32万の応募があったそうで。ちなみに「10の国民決意の標語」はつぎのとおりです。
 【10の国民決意の標語】
 ・欲しがりません勝つまでは
 ・「足らぬ足らぬ」は工夫が足らぬ
 ・さあ二年目も勝ち抜くぞ
 ・たつた今!笑つて散つた友もある
 ・ここも戦場だ
 ・頑張れ!敵も必死だ
 ・すべてを戦争へ
 ・その手ゆるめば戦力にぶる
 ・今日も決戦 明日も決戦
 ・理窟言ふ間に一仕事
 なんか最後の「理窟言ふ間に一仕事」は、戦時中でなくても通じる感じで、「そのエビデンスは」とか、「そのタイパは」とか言っている間に仕事が終わることもあるような気がしますが。
 この後は、「欲しがりません 勝つまでは」、「聖戦だ 己れ殺して 国生かせ」、「石油の一滴、血の一滴」と、だんだん誰のための戦争かわからず、悲壮な感じになっていくのですが、「進め一億火の玉だ」ともなると、もうヤケクソ(そのままですみません)になっているような気もします。
 好きなのは「贅沢は敵だ」に「素」をいれて「贅沢は素敵だ」と落書きしたという話ですが、「足らぬ、足らぬは、工夫が足らぬ」から「工」をとって「夫が足らぬ」としたものもあるそうで、戦争で夫がとられ、男子がとられ、こちらはなんか切実な感じです。

■メモリアルイヤーの話
 このメモリアルイヤーというのは、特に文化イベントでは重宝するのですが、例えば芸能活動何十周年とか、生誕何十周年とか、クラッシック音楽だとほぼ毎年のように、生誕何十周年とか没後何十周年とかでコンサートプログラムが組まれたり、CDセットが発売されたりします。古い物でもそれを集めていけば形となり企画となるわけです。
 何年か前に、ストラヴィンスキー「春の祭典」初演100年記念ボックスというのが発売されましたが、「春の祭典」だけ38種類が20枚組のCDになっていて、なかなかの満腹感です。これとは違う10枚組の「春の祭典」初演100年記念ボックスもあり、こちらには1926年録音の盤も入っていて、これはこれでコレクターにはありがたいもので、これも思わず買ってしまいました。同時期にストラヴィンスキー本人が指揮する「春の祭典」のアナログ盤というのも再販されていて、こちらも入手しました。あの、つまりこれは、いわゆる自分への投資というもので、ただ投資効率が未知数なだけです。家人は「買物病だ、治らぬ病気だ。」と言いますが、けっして病気なんかではありません。金欠病ではありますが。

■キャスティングの話
 最上義光ドラマのキャスティングですが、義姫役を決めてから兄(義光)と息子(政宗)を決めていくことになるかとはいえ、やはりなかなか難しい。
 まずここで、あたりをつけやすい上杉家の配役でも。これは「天地人」そのままでいいのでは、謙信=阿部、景勝=北村、兼続=妻夫木、あとは信長役だった吉川晃司さんは前田慶次役でどうでしょう。んっ、ということは、最上義光役も長身のロックミュージシャンで、布袋寅泰さんとか。ならば、信長、秀吉、家康もこの路線で、甲本ヒロトさん(THE BLUE HEARTS)、ダイヤモドユカイ(RED WARRIORS)さん、吉井和哉さん(THE YELLOW MONKEY)、なんと青、赤、黄の「天下取りの三原色」ということで。そして義光の家臣には、山形出身の峯田和伸さん(銀杏BOYZ)とウド鈴木さん(キャイ〜ン)を。いやその、ウドさんはその存在がロックということで。そして連歌師の里村紹巴役は、やはり奥田民生さんでしょうか。おぉ〜、ロックオペラならぬロック大河ドラマ。このメンバーで霞城公園を貸し切ってフェスをやれば10万人はいくぞ。こっちも「ヨシアキ手ぬぐい」でも作ろうかしらん、1万本ぐらい。そうそう、「ヨシアキうちわ」もね。
■水のことわざのお話
 水に関係する言葉に「上善水の如し」というのがあります。老子にある言葉で「上善は水のごとし、水はよく万物を利して争わず、衆人の恵む所に処る。」 つまり「最高の善は水のようなもの。水は万物に利益をあたえながらも他と争わず、自らは低い位置におさまる」との意味です。
 これに孟子は「水は低きに流れ、人は易きに流れる。」と続けました。まあ、そのとおりなのですが、とあるホームページでは、さらにこれに続けて「人の体は約60%が水です。そのため、水に近い性質を持っていると思います。」とありました。話の展開が直角方向というか、うーむ。
 また、「水は方円の器に従う」ということわざがあります。白居易の詩句で、水は容器の形によって、どんな形にでも順応することをいっています。人も交友関係や環境によって善にも悪にも染まりやすいことのたとえで、「上善水の如し」の水とは全く違います。

■水とお酒の話
 「上善如水」という有名な日本酒がありますが、それはもう水のようにさらさらと入ってくる危険な酒です。そう言えば最近、日本酒を揃える店では、チェイサーつまり水を出してくれるところも多くなりました。日本酒のオン・ザ・ロックもありらしいのですが、水割りというのはさすがになしかと。昔、宴会などで熱燗にお湯を足して出しているなんていう話はよくききました。これは客にバレない程度に水増しするのがミソらしいです。
 ところで、山形には「十水(とみず)」という銘柄のとてもバランスのいいお酒があり、個人的におススメのひとつです。酒造元のホームページによると「江戸後期、水に恵まれて成長する主産地は良酒を求めて米を磨き、白米1石(こく・約180L)に対し1石の水加える『十水仕込み』(とみずしこみ)と称される製法を編み出しました。」とのことで、「香りは吟醸を思わせるような香りもあり、そして旨味がたっぷりある飲みごたえのあるふくよかな味わいが特徴。相性の良い料理は豚の角煮、魚の煮付け、牛肉のステーキなど。」との説明があり、「旨味があるのに飲みやすい非常に面白いお酒です。」と自ら面白がっているお酒でもあります。

■AI動画の話
 最近、AI拠点を日本国内に整備するという会社が次々と現れているようですが、AIと言えば先日、テキストから最長1分の動画を生成できる「Sora」が発表され話題になりました。現時点では、システムのさらなる改善と、誤情報や悪意のあるコンテンツの拡散を防ぐための「重要な安全措置」を講じる必要があるとして、一般公開を見送っているそうです。
 それにしても、これが自由に使えるようになれば、博物館としてもかなり画期的で、キャプションなどを補完する映像が作れたりできそうです。例えば各戦国武将のビジュアルなどが生成できれば面白いかと。あるいは手紙など古文書からの生成映像も面白いかと。当館であれば「北の関ケ原」と言われる「長谷堂合戦」の様子が描ければもう万々歳です。一方、豊臣秀次妻子の三条河原での処刑の場面とかは「重要な安全措置」が働いてしまうかもしれませんが。
 当館と運営団体が同じ「山寺芭蕉記念館」でも、かなり興味深い使い方が想定できます。ずばり芭蕉の句の動画生成です。例えば一番易しそうなのは「古池や蛙飛びこむ水の音」でしょうか。古池はどこかはわかっているそうで、背景情報には困らないのですが、映像的には検討すべきことが多々あります。視点は上下右左のどこからか、アップなのかロングなのか、一瞬なのか間をためるのか。また、蛙は一匹でもないとの指摘もあり、結果、様々な映像がでてきます。これが「閑さや岩にしみ入る蝉の声」となるとさらに難しくなります。「蝉」の種類はどうなのか。何より「閑さ」をどう表現するか。その生成音声はどうなのか、興味は尽きません。
■散る桜の話
 最近、某知事が辞表の提出前に細川ガラシャの辞世の句「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」を読み上げたそうで、かっこいいんだか、わるいんだか、よくわかりませんが。
 さて、桜花の季節の刀剣展示にあたり「花は桜木、人は武士」との言葉を添えて案内したりするのですが、これは花では桜が最も優れているように、人では武士が最も優れているという意味です。散り際の見事な桜に、潔い武士の死に際を重ねた言葉といわれます。華々しく散る姿を、桜花に喩えた歌としては、「同期の桜」がありますが、「咲いた花なら 散るのは覚悟 みごと散りましょ 国のため」と、なんとなく微妙な感じになってきます。組織論としても、パァと散ってくれた方が面倒がないからかと。
 戦後もしばらくは軍歌も市民権があり、同窓会などではこれが歌われ、パチンコ屋の店頭では「軍艦マーチ」が流れ「ジャンジャン、バリバリ」などという客の呼び込みがなされていました。そう言えば「月月火水木金金」という軍歌もあって勤務礼賛の歌ではあるのですが、実はこれは歴史が古く、日露戦争勝利後も大日本帝国海軍は休日返上で猛訓練していたところ、ある海軍士官が「これでは、まるで月月火水木金金じゃないか」とふと同僚に漏らした言葉から広まったらしく、現場感覚は案外まともだったようです。これがバブルの時代には「24時間働けますか」となり、不適切にもほどがあると言うか。
 実は江戸時代まで桜は不吉なものとされていたそうです。ネットに「桜の一番の美しさは、その儚さにあります。 しかし、江戸時代まではその散りゆくさまが“死”や“物事の終わり”と結び付けられ、マイナスイメージを持たれていたようです。また、散った花びらは薄桃色からすぐに土気色に変わるため、“心変わり”を意味するとも考えられていました。」とありました。ということは、江戸時代の「同期の桜」というのは、「貴様や俺たちは心変わりしちゃうぞ」ということなのかしらん。

■桜の句の違いがわかる話
 親鸞は「明日ありと 思う心の仇桜(あだざくら) 夜半に嵐の 吹かぬものかは」と詠んでいます。桜は明日も咲いているだろう安心していると、夜半の嵐散ってしまうかもしれないという意味で、人生や世の中の無常を表しているそうです。「明日、自分があるかどうかわからない。今を精一杯生きよう」との思いを込めた親鸞19歳のころの作とのことです。この「あだざくら」と同じく読む言葉に「徒桜」というのがあります。「徒桜」は散りやすい桜の花のことで、はかないもののたとえにも使います。「仇桜」とは微妙に違います。
 これと同じくらい微妙なものに「世の中は三日見ぬ間に桜かな」という句があります。「桜が咲きそろうこと」を詠ったものなのですが、これが「三日見ぬ間の桜かな」となると、桜の花があっという間に散ってしまうように、世間の移り変わりは激しいものだということを表す言葉となるそうです。
 以上、ネットでウロウロしているうちに知った話です。勉強にはなりましたが、酒飲みのときの蘊蓄ぐらいにしか活かせそうもなく、そうそう、なんか身近に感じる言葉がありました。「酒なくて何の己が桜かな」。花見に酒はつきもので、酒を飲まない花見は面白くないということです。「花より団子」という言葉に似ていますが、花はなくてもいいのではなく、花とともに酒が飲みたいという違いがあります。ただしこちらも今時、不適切にもほどがある、といわれてしまいそうですが。

■桜を植えた庭の話 
 ネットには、家の庭には桜を植えてはいけない、との情報もありました。その理由は、花がすぐに散ることから、短命や離散を連想させ、桜を庭に植えるとその家が繁栄せずに廃れてしまうと考えられたからとのこと。また、桜の木は花や葉が散り手入れに苦労するからとも。さらに桜の葉っぱには「クマリン」という毒素が含まれていて、過剰摂取すると肝機能障害を引き起こすとのこと。少量であれば人体に影響はないとのことですが、なんか生物由来の健康被害が問題になってもいるようで。
 にもかかわらず、猫額ほどの自宅の庭には桜の木が育ち、また、庭に植えてはいけない木の代表の枇杷の木も何本か隣家との堺で自然の風や日光を遮るように立ち、老木ですが忌木とされる椿も2、3本もあり、それらがみんな一列に並んでます。枇杷にはその効能を求めたくさんの病人が集まるとか、椿は花ごとバッサリと落ちるところから「打ち首」を連想させるとかいう理由があるそうですが、なんとも不適切な庭ですみません。